2020年8月 3日 (月)

第301回 目標と目的

最近はYouTubeの動画などを増やしています。伊藤塾も25周年で変わると宣言した以上は変わらないといけません。伝えたいこと自体は何も変わらないのですが、私たちの想いや考えを伝える方法は変えていこうという意思の表れです。塾を創設した当時の記憶や当時の理念を今の伊藤塾講師に引き継いでいくことは、本物の法教育を続けていく上で重要なことだと思っています。

伊藤塾立ち上げの半世紀前に日本の戦争が終わりました。75年前の8月は、6日と9日の原爆投下、14日のポツダム宣言受諾と激動の日々でした。もう一年早く敗戦を受け入れていれば失われずに済んだ数十万の命があるかと思うと残念でなりません。戦争遂行の目的と目標を見誤った為政者の愚行の代償は国民が負うことになったのです。さらに2週間も遅れていたら京都も被爆地となっていたかもしれません。京都が空襲を受けなかったのは、原爆の効果を正しく測るために温存しておいたからというのが真相のようです。

私が幼いころはまだ、東京の街中でも手足を損傷した傷痍軍人が道端に座り込んでハーモニカを吹いている姿がありました。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の舞台となった時代で、「もはや戦後ではない」というスローガンの下で高度成長が始まろうとしていた活気の中でしたが、戦争が忌むべきものだという感覚だけは感じることができました。

75年もたつと、戦争の記憶を伝えることができる人がほとんどいなくなります。記憶には悲しみや苦しさ、憂いや虚しさなどの感覚が伴いますが、そうした喜怒哀楽の感情や情動と共に記憶を伝承できる人が減っていくと、記憶として伝えるべきものが単なる事実の記録の伝承に過ぎなくなります。しかも、その事実は都合よく解釈されることが多いのもやっかいです。

戦争を怖いもの、嫌なもの、絶対に避けるべきものという感覚が記憶と共に伝えられなくなると、それと反比例するように、戦争も政治の手段だからやむを得ないという他人事のような声が聞こえてくるようになります。

「戦争を知らない子供たち」というフォークソングがあります。医学博士でもある北山修作詞、杉田二郎作曲、ベトナム戦争最中の1970年にヒットした反戦歌ともいえる作品です。戦争の記憶を伝えようとする若者がまだまだ元気だった時代の歌ともいえます。

「戦争を知らない子供たち」しかいなくなり、すでに戦争の記憶を伝えることが極めて困難になってきた75年目の夏だからこそ、改めて戦争のリアルを想像力で補う努力を忘れてはならないのだと思います。

そもそも本物の戦争とは何なのでしょうか。現在は、ドローン兵器やサイバー攻撃のみならず宇宙戦争なども現実のものとなりつつあります。目の前で人々が苦しみながら死んでいくような戦争はイメージできないのかもしれません。米兵が基地のモニターの中で、ミサイル攻撃の結果を冷静に確認している様子が目に浮かびます。ゲームの世界のような戦争です。リアルとバーチャル(仮想現実)との区別もつきにくくなっています。

最近は、インターネットを通じて様々な情報が入手できます。旅行もバーチャルなものが生まれてきているようです。あたかも自分がそこに行ったかのような気分を味わえるものだそうです。ステイホームを強いられる中で、少しでも旅行気分を味わえるとしたら、とても意味のある試みだと思います。バーチャルな世界での満足感も自分の実感ですから本物です。ですが、こうしたスクリーンの中の世界に慣れてしまい、すっかり旅行に行った気分になり、もう十分だと思ってしまうとそれは少し違うような気もします。

現在の技術によって3D映像や音は再現できても、まだ、匂いや振動、熱気、空気感のようなものは伝えることができません。ですが、これらも技術の進歩によって可能になるかもしれません。こうして人間の五感で感じるすべての情報を通信回線などを通じて伝えられるようになる日が来るのであれば、是非、戦争のリアルさも伝えられるようにしてほしいと思います。そして、人々の苦痛に満ちた戦争の記憶を感情と共に伝え残すことができるようになれば、多少は戦争回避に役立つかもしれません。

ですが、そのバーチャルな世界を創り上げる上で、人間の作為が入りいくらでも加工できることには注意が必要です。記憶の伝承に他人の作為が入り込むことになると、これはやっかいです。戦争を忌むべきものとして伝承するのではなく、美化したり、武勇伝として栄光とともに輝かしい記憶として伝えたりすることも可能になるからです。そうした記憶の方が引き継ぐ方も快適ですから、フェイクによって歴史も記憶も歪められていくことになります。だからこそ、文学、映画、演劇などの文化、芸術の役割は重大です。そしてそこに国家が介入することは絶対に避けなければなりません。

このように人工的に創り上げられた世界の中で生きていくということは、SFのようですが、考えてみれば、今でも、私たちは様々な情報に振り回されながら仮想ともいえる物語の中で毎日を過ごしています。フェイクニュースかどうかは別にしても、伝えられた事実をどう評価するかによって、見える世界が人によって全く違ってきます。

たとえば、毎日のようにコロナ感染者数が発表されて一喜一憂しますが、考えてみればPCR検査態勢によって補足される感染者の数などは全く異なってくるはずです。確かに日本の感染者や死者数も欧米に比較すると圧倒的に少ないことは事実ですが、他のアジア諸国と比べれば最悪の部類でありとても成功しているとはいえない状況です。

先ほど、「戦争を知らない子供たち」に触れましたが、当時も今もまさに「知らない」だけであり、日本は朝鮮戦争やベトナム戦争では米軍の事実上の兵站として加担していました。近年のアフガニスタン戦争、イラク戦争における米軍への協力も同様です。沖縄の米軍基地負担の現実を含めて、こうしたことを知らなければ平和な日本が維持されているという評価になるわけです。

コロナ対策における政治の無策は、自粛で収入激減に直面している職種に関わっている方々にとっては、本当に死活問題ですし、医療関係者の方々にとっては感染拡大の第二波到来は現実の危機です。ですが、この状況ですらGo Toトラベルを活用して夏を満喫しようとする多くの国民にとってはテレビの中の他人事と認識されているのかもしれません。収入に影響のない政治家や官邸の官僚は、まさに他人事としか思えないような愚策を次々と打ち出してきます。政治の目的が政権維持になってしまっているからでしょうか。政権維持は目標ではあっても、目的ではありません。

このように実は、今も私たちは自分が都合よく作った虚構の物語の中に生きているようです。ですから、そうした自分で創り上げた仮想の物語に振り回されない冷静さを保つことが大切です。世の中の出来事を見るときに何が本当かわからない、と一旦は引いて見ることです。自分を客観視する力がますます必要になっているのだと思います。このことを試験直前の受験生の気持ちにあてはめてみると、少しだけ不安から解放されるかもしれません。

私は「不安は自分の頭の中で作った想像の産物だから、そんなものに振り回される必要はない」と言い続けてきました。あるのは今、この瞬間だけで、過去も未来も存在しない。だから今を精一杯生きることしかできないということです。こんなことが起こってしまったらどうしようと憂慮してみたところで、それは自分の頭が創り出した空想の世界にすぎないのですから、それに振り回される必要は全くないのです。

ただし、他方で危機管理は不可欠です。最悪のことや想定外のことが起こることを予め想定して、万全の準備をしておくことは、今の時代を生き抜くためには不可欠ですし、試験でもどんな問題が出ても狼狽えないだけの心の準備は必要です。

常に最悪を想定して準備した上で最善を尽くす。悲観的に準備して楽観的に生きるということです。勉強にたとえて言うならば、どんな問題が出るかわからないので不安だと怯えて過ごすのではなく、どんな問題が出ても解ける、大丈夫だと思えるほどの準備を日頃からしておくということです。緊張は不安から生じますから、不安を解消するための最善の方法は事前準備を怠らないことです。

そんなことを今更言われても、十分な準備もできていないし、余計に不安になるという人もいることでしょう。そうした不安も当然のことだと思います。ですが、実は万全の準備で試験に臨める人などまずいないことを知るべきです。必要な準備の程度は、人によって違うのにもかかわらず、つい人と比べてしまいますし、自分の中の目標設定が高いとその高いハードルを意識してまだまだ不十分と思ってしまいがちだからです。

試験に備えて勉強している最中は、目標を安易に下げてしまうことは避けなければなりませんが、試験直前期にはこれまでの努力を肯定して、頑張ってきた自分を評価してあげることが重要です。ここまでやってきたのだから大丈夫だという自己評価はとても大切なことです。

もちろん、結果が思うように出せないこともあります。ですが、それはその経験を改善のために活用すればいいだけのことです。その意味では失敗ではありません。目先の目標だけがゴールだと考えてしまうと、その目標で一喜一憂してしまいます。ですが、自分の成長が目的であれば、何が起こっても自分の成長の糧にできるのですから、それは失敗ではなくなります。こうして自分に起こったすべての出来事に自分で意味付けを与えていく生き方こそが、「主体的に生きる」ということです。私はそれを憲法から学びました。

なぜ、何を目指すのか。「なぜ」が目的、「何を」が目標として理解するとわかりやすいです。万が一、試験直前期に不安になったら、なぜ、この試験の合格を目指しているのか。そこを再度確認しましょう。究極的には人の役に立って幸せな人生を送るためではないかと思います。そうだとしたら、幸せな人生を送る、そのための成長の糧を得られるのであれば、何が起こっても大丈夫だと思うことができます。そこでは成長の過程が重要なのであり、合格・不合格は等価値であることがわかります。そこを理解して困難を乗り越えていった人を何人も見てきました。例えば公務員試験において希望の官庁の内定が取れなかったとしても、実は別の役所の仕事が自分にとってより幸せであることが多々あります。大切なことはベストを尽くすこと、今、このときを精一杯生きることです。多少の修羅場をくぐってきた先輩としてそう思います。

裁判でも負けることがあります。勝訴という目標は達成できなかったわけですが、そこで終わりではありません。何のために裁判をしたのかという目的を再確認し、原告の幸せの実現という目的のためのさらなる挑戦が始まります。憲法訴訟のような公益的な裁判であれば、判決があってもその後の市民運動や政治への働きかけによって、憲法価値の実現につながる制度改革が行われることもあります。このように裁判でも目の前の目標と目的をしっかりと意識することが重要なのです。受験勉強を通じて、その訓練も行っているのだと思えば、不安への対処方法も変わってくることでしょう。

2度と経験できない皆さんそれぞれの夏です。何が起ころうとしっかりと受け止めて、堂々と乗り切ってください。私も頑張ります。

弁護士ドットコムのロングインタビュー記事がWebで見られるようになりました(https://www.bengo4.com/c_1017/guides/1734/)。昨年1月のものですが、ご覧になっていない方にはぜひ読んでいただければと思います。私や伊藤塾の歩みを理解していただく助けになると思います。