2021年4月 1日 (木)

第309回 桜と同性婚

伊藤塾東京校前の桜はコロナ禍などどこ吹く風とばかりに例年にも増して美しく咲き誇っています。お花見の是非などで世の中は喧しいのですが、司法試験受験生にとっては、この時期は直前の追い込みで、花見などと言っていられない点では例年どおりで何も変わりません。桜を見る人の事情や心持ちによって、桜花への評価もまちまちです。私は桜を見てもつい自然の多様性を感じてしまいます。

この時期の雑感では桜を話題にすることが多いのですが、同じように見える毎年の桜も、どの一本もどの一輪もみな違います。当然のことなのですが、色、形、質感、どれをとっても同じものは一つもありません。同じ桜であっても1つ1つ違う花や違う桜の木が集まることで、見事な姿を見せます。CGで作ったような同じ規格のものが何本集まってもこれだけ人を惹きつけることはできないでしょう。違いこそ美の本質なのです。

多様性という言葉が流行りのようです。ジェンダー平等を語るときにも性の多様性から論じる人が増えてきました。とてもよいことだと思います。子どもたちもその個性を尊重されるべきだ、髪型や髪色も多様であっていい、画一化を求める校則には反対だという意見もよく聞くようになりました。まだまだ憲法の個人の尊重と結びつけて論じる人は少ないですが、それでもよい傾向だと思っています。

ただ、この多様性という言葉の一人歩きには注意が必要です。子どもの個性や人との差別化といったときに、人と違わないといけないと思ってしまうと結構な負担になります。自分らしい何かがないと一人前でないような気がしてしまうからです。もともと、多様性とは、自分は他者と同じである必要はない、自分は自分でいいのだ、このままの自分として存在すること自体に価値があるということです。何か人と違った個性を求められると、それほどのものを持っていないと思って辛くなることもあるでしょう。ですが、そんな人と違う何かを自分の中に見つけようとすること自体が人と比べているのであって、それは本来の多様性の尊重、個人の尊重とは違います。

他者が自分と違ってもいい、それを受け止めて否定しないという多様性の尊重は、まず「自分はこのままの自分でいい」、「人と同じである必要などない」という自己肯定が前提となります。自分に自信がないと、自分と違う他者の意見によって自分の意見が否定されているように感じてしまい、相手を攻撃しようとしてしまうのです。他者と意見が違っても、自分の意見は自分の意見であり、他者の意見と併存してかまいません。友人と意見が違うことを怖れて自分の意見を述べない人がいるようですが、もったいないことです。自分の意見は自分の意見として述べればよく、仮に友人の意見と違っていたとしても「そういう考えもあるんだ」と一旦受け止めればいいだけで、何も同調する必要はありません。引き続き友人として仲良くやっていけばいいだけです。

私は、違うものが共存し合える社会が健全だと思っています。これも異論があるでしょうが私はそう思うというだけです。憲法の講義でも人権、平和の問題については結構持論を述べています。過去に「そんな意見など聴きたくない、もっと試験に出るところだけを話せ」というクレームを受けたこともありますが、多様な意見の一つとして言い続けているうちに、出過ぎた杭だからか、あまりそうした批判は聞かなくなりました。もちろん、未だに誹謗中傷はありますが、それは私の不徳の致すところであり、またその人の人格の発現なので、気にしても仕方がありません。

他者の多様性を認められるように寛容であるためには、自分の中に自分の考えを持ち、他者の意見を受け止めることができるだけの原理原則、すなわちマイ・プリンシプルが必要だと考えています。自分の価値観、生き様、ぶれない軸ということです。こうした自分の芯を持っていると、自分と違う意見や行動も受け止められるようになります。

私は法律を学ぶことの目的の一つは、こうした自分の中の価値観の育成だと考えています。法律を知識として知り、法的三段論法などの論理を学び、勉強方法などの技法(art)を学ぶことも重要ですが、何よりも自分のぶれない軸をつくっていくことが大切なのです。法律家、行政官として仕事をしていく上だけでなく、生きていけばいろいろな試練に遭遇します。それが人だったり、事件だったり、災害だったり様々ですが、そこで狼狽えずに自分らしく振る舞うためのぶれない軸がマイ・プリンシプルです。

結婚は子孫を残すための結合なのか、社会の持続や民族の反映にとっての手段なのか、愛という崇高な価値の現れか、単なる当事者の共同生活のための合意なのか、いろいろな考え方があります。同性婚の問題を考えるときにも、その人の結婚感が根底にあって、それが解釈にも影響してきます。多様な意見があって当然です。

ローマ教皇庁(バチカン)はカトリック教会が同性婚を祝福することはないとの見解を発表しています。1つの選択だが神の意図に則したものとはいえず、罪深いものと評価するそうです。こうした考えは、神ではなく人間である自分の意思を尊重したいと願う人には受け入れることができないかもしれません。ですが、こうした価値観は自分の中の自分の個性として大切にするべきものなのであり、その上で自分と違う考えを持つ人の意見として理解しようとすることが大切なのだと思います。

ですが、結婚や同性婚の評価と論理の話はあくまでも区別をしなければなりません。3月17日の札幌地裁同性婚訴訟違憲判決の評価をめぐって、この判決によって憲法改正が必要なことがはっきりしたと主張する意見が散見されました。受験生からも質問を受けて少し困惑したのですが、あの判決を読んでなぜ憲法改正が必須になるのか意味不明でした。判決を読めば容易に理解できることですが、この判決は、民法や戸籍法が同性婚を認めていないことを争い、これらの規定(本件規定)の違憲性を争っています。

裁判所は、憲法24条は「異性婚について定めたものであり、同性婚について定めるものではないと解するのが相当である」とした上で、婚姻をするについての自由も、異性婚について及ぶものと解するのが相当であるから、本件規定が同性婚を認めてないことが、憲法24条に違反するとはいえないと判断しています。つまり憲法24条は積極的に同性婚を保障した規定とはいえないから、同性婚を認めていないことが24条違反とはいえない。しかし、憲法14条違反であり本件規定は違憲だと言っているのです。

憲法24条が同性婚を保障していないことは、憲法24条が同性婚を禁止していることを意味しません。仮に憲法24条が同性婚を禁止しているのであれば、同性婚を法律で認めるためには憲法改正が必要です。ですが、憲法が同性婚を婚姻の自由として保障していないからといって、それを禁止しているわけでないのですから改憲は不要です。法律で同性婚を認めればいいだけのことです。

外国人地方参政権の判例(最高裁平成7.2.28)の学習をするときに、禁止説、要請説、許容説の区別を学ぶと思います。この判例も憲法15条1項、93条2項が外国人地方参政権を保障しているかを検討して、保障しているとはいえないと結論づけたあとに、住民自治の観点から一定の外国人に地方参政権を法律で認めることは憲法上禁止されていないとしています。

それと同じことです。札幌地裁判決も、憲法24条で保障されているとはいえないが、禁止されているとは言っていないのですから、これは許容説というべきもので、法律で同性婚を規定すればいいだけのことです。憲法改正は不要です。もちろん憲法で保障してくれた方がより確実でしょう。ですが、国会での総議員の3分の2による発議や国民投票という高いハードルを越える必要もなく、通常の法律改正手続で同性婚を認めることはできるということです。こうした改憲の要否という議論は、結婚感や同性婚についての価値観、憲法改正を求めたいという個人の願いとは区別された論理の話です。

自分の中でぶれない軸を持つことと、たとえば禁止説、要請説、許容説の違いといった論理、すなわち説得の技術を理解することとは別のことであり、共に重要なものです。伊藤塾で法律を学び、将来法律家、行政官として活躍しようとする皆さんには、勉強の過程でぜひこの2つを意識してほしいと思っています。