2021年3月 1日 (月)

第308回 官僚の矜持

オリンピック開催の是非や緊急事態宣言、ワクチン接種などのコロナ対策で大変なときに、政治部門では総務省幹部の接待問題でまたひと騒動起こっています。前回の雑感で、政治部門は民意の反映と透明性、説明責任を果たせず、その権威を失ってしまったと書きましたが、政治家のみならず、官僚までもが、まさかの時代遅れの接待疑惑で信頼を失いつつあります。

総務省幹部が菅義偉首相の長男正剛氏が役員を務める東北新社から接待を受けていたことで、官僚側の当事者には国家公務員倫理規程違反を理由とした 懲戒処分がなされましたが、内閣広報官は給与の自主返納を表明したものの結局辞職に追い込まれました。これに対し、民間側の正剛氏は更迭され、すぐに社長が辞任しています。この官民の対応の差にまず驚きます。東北新社のコンプライアンス違反やガバナンスの問題はそれ自体論点山積みだと思いますが、事後的な危機管理対応としては収束させる方向で専門家のアドバイスを受けているはずです。

それに対して、官僚側の対応のお粗末さが際立ちます。「記憶にございません」という国会答弁に至っては、三谷監督のパロディ映画でもあるまいし、勘弁して欲しいという気持ちでしたが、ロッキード事件で有名になったこの言葉が今の時代に繰り返されたことに、「情けない」を通り越して不覚にも懐かしさを感じてしまいました。菅総理の答弁では、「親子は別人格」という表現も都合よく使われています。

「官僚は関係業者の接待を受けたらアウト」という当たり前の常識が幹部の間には共有されていなかったということです。法令違反にならなくても職業倫理に反することは行ってはならない。社会的責任を自覚することがコンプライアンスの基本です。官僚としてこの程度の認識でよく企業にコンプライアンスを要求できるものです。役人としての道に反するとは考えなかったのでしょうか。

そういえば、政治家や官僚は自分たちが実行できないことをよく民間に押しつけます。男女共同参画、テレワーク、業務のデジタル化、働き方改革など挙げれば切りがありませんが、今回の問題で国会に呼ばれた官僚の皆さんがお行儀よく隣同士で密に座っている様子を見ると、コロナ対策でも夜のクラブ活動どころではなく三密を避けるという基本すら国会だけは例外なのだとつくづく思います。

日本の政治はどうしてここまで劣化してしまったのでしょうか。一つは首相官邸に人事権を握られた官僚たちが、保身を考えて忖度してしまったという見方もあるかと思いますが、理不尽な処遇を避けたいと考えることは誰しも同じですからこの点だけから強く非難することはできません。やはり現況は、こうした制度を作り官僚を意のままに動かそうとした安倍政権、それを引き継ぐ菅政権の国家統治の基本姿勢に問題があるのだと考えます。

業者との飲み食いを禁じる公務員倫理規程はなぜ必要なのかすらわかっていないかもしれません。正しい政策を実現するのだからいいのではないかと開き直られる可能性もあります。今回も放送免許更新にはなんら影響を与えておらず、何か見返りを要求されたわけでもないのだから問題ないと考えているのかもしれません。ですが、何度もここで述べているように判断の結果が正しいかどうかわからないからこそ、手続きの適正が必要となるのです。行政裁量の当不当の判断が難しいからこそ、その判断に至る手続き過程の適正さが重要な意味を持ちます。利害関係業者からの接待を受けることが国民からどう見えるかを想像できれば、これは避けなければならないと判断できたはずです。文春の取材力、国民の怒り、野党からの追及など様々なものを甘くみていたのかもしれませんが、一番の原因は「自分たちは正しいことをしているのだからこれくらいは許されるはずだ」という驕りであるように思います。

今回、不適切な行動を回避できなかったのは、自分たちの行動に違法性はないし、国民のために行った判断にも間違いはないはずなのだからかまわないという思い込みに原因があります。つまり結果が正しいことを前提にしてしまっているのです。自分たちの判断が間違っているかもしれないから手続きを適正にするべきだとか、事後的な検証のために正確な記録を文書として残しておかなければならないとか、判断過程を公開して手続的正義を確保しようという発想に欠けてしまっていたのです。それはまさに謙虚さに欠け、手続きを重視する法的思考ができなかった結果といえます。官僚、政治家にも法的思考が不可欠であることが改めてよくわかります。そしてこれは日本が法的思考が求められる世界標準から立ち遅れていることを意味します。時代遅れで周回遅れの日本という現実は単にジェンダー問題だけではなかったようです。

こうした不祥事の原因は、こうした法的思考力の欠如だけではなく、迷ったときの判断基準、自分の中での価値基準が明確でなかったことにあるのではないかと考えています。私はこれをマイ・プリンシプルと呼んでいますが、主義・信条、譲れない生き様、自分なりの美学、ぶれない軸とでもいうべきものです。判断に迷ったとき、問題が生じそうなとき、そして修羅場を乗り越えるときなどの自分自身の拠り所となる価値基準です。官僚であれば役人道とでもいうべきものかもしれません。そこにブレがあると判断を誤ります。

ここまで、公務員としての矜持に欠ける官僚幹部の不甲斐なさ、法的思考力の欠如について相当批判的に書いてきました。これを読んで公務員をめざすのは厳しいかなと考えた方もいるかもしれません。ですが、どうでしょうか。物事は常に二面性があります。こうした情けない事態が生じているときだからこそ、まともな行政官が必要とされ活躍する場があると考えることもできるはずです。そしてそもそも、報道されているような問題を起こす官僚はごく一部のはずです。ニュースで連日報道されるものですから、あたかも公務員全体の印象が悪くなってしまいますが、決してこのような役人道に反する公務員ばかりではありません。ほとんどの公務員は倫理規程を守り適正な公務を遂行しているはずです。ですから、こうした一部の官僚の不祥事をもって公務員全体を評価することは一面的にすぎます。

かつて、弁護士を急速に増やしたときに、「弁護士になっても仕事がない」と盛んに報道されたことがあります。もちろん忙しくてしょうがないという若手弁護士も多数いたのですが、そちらはまったく報道されませんでした。今回の接待問題報道のようにメディアが権力を批判することは極めて重要なことですが、批判されるような仕事をしている公務員ばかりではないことは当然の前提として踏まえておかなければなりません。

こうした時代だからこそ、法的思考力を身につけて憲法価値を実現できる行政官が必要なのです。公務員志望の塾生には、視野を広くもち、バランス感覚をしっかり身に着け、官僚としてのスキルに磨きをかけて、矜持を持った官僚を目指し、志を高く持ち続けて頑張ってほしいと強く思います。これは過剰な期待なのでしょうか。いやそうは思いません。伊藤塾で学んでいる塾生は皆、そうした期待に応えてくれるものと信じています。

また現在、司法試験をめざしている塾生の皆さんであっても、一歩先を意識しているのであれば、公務員試験、特に国家公務員総合職教養区分も視野に入れてほしいと思っています。これをめざして幅広い勉強をすることで、単に法律知識だけでなく、将来にわたって使える本物の知性に磨きをかけることができます。伊藤塾の教養区分合格実績、内定実績は群を抜いていますが、それは単に試験の合格をめざすだけでなく、合格後を考えて真のエリートとして活躍するに足るだけの知力と感性を備えるべく、ゼミなどを通じて知的鍛錬を繰り返しているからに他なりません。資料を集め、分析し、政策を立案し、発表し、討論する一連の過程の中で総合的な知の力を育成していくことができるのです。

実はこの教養区分合格をめざしたゼミは、将来、法曹として活躍したいと考えている塾生にとっても極めて有意義なカリキュラムとなっています。在学中に予備試験、司法試験合格をめざすだけでなく、その先の活躍を見据えるのであれば、司法試験後のこうした世界を視野に入れた幅広い学習を伊藤塾で進めることは、他者との差別化をはかりたいと考えている皆さんのキャリア形成にとって大きな意味があります。塾生の中には、大手の法律事務所に就職することを目指している方は多いと思いますが、それだけがゴールではないはずです。もちろん、このゼミは、裁判官、検察官という法務官僚として活躍する場合にも大いに役立ちます。

こうして一歩先を考えて下さい。一歩先を常に考えることができるのが伊藤塾です。明日の法律家講座だけでなく、こうした公務員試験ゼミなども大いに活用して自分の可能性の幅をさらに広げてください。その中で誰のものでもない皆さん自身のマイ・プリンシプルを創り上げていってください。伊藤塾は単に短期合格、1年合格をめざすだけの塾ではありません。予備試験1年合格、司法試験1回合格で満足して終わってしまうような人間に成り下がることなく、その1歩先での活躍を考え続ける皆さんのための塾なのです。