真の法律家・行政官を育成する 「伊藤塾」 株式会社 法学館

2018年11月 1日 (木)

第279回 裁判官の独立

憲法では司法権の独立に関して、外部からの独立だけでなく、司法内部における個々の裁判官の独立も重要なことを学びます。「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定する憲法76条3項が実効性を持つためには、裁判官が司法行政の統制からも自由であることが必要となります。報酬、任地、昇進などにより統制されるようでは、裁判官が自らの良心に従って独立して裁判などできないからです。もちろん、ここの統制には懲戒処分も含まれます。不当な処分を恐れて裁判官が萎縮するようでは、裁判官の独立、司法権の独立そして司法への国民の信頼は失われてしまうからです。司法権という権力の正統性の根拠は国民の信頼にあります。裁判結果が正しいかどうか誰にもわからないからこそ、公正な裁判がなされるはずだという信頼が裁判所の存立基盤なのです。

2018年10月17日、最高裁大法廷は東京高裁判事岡口基一裁判官に対する分限裁判において全員一致で驚くべき決定をしました。1つのツイッターでのつぶやきを根拠に戒告という懲戒処分を言い渡しました。しかも、非公開で、適切な事前告知もなく、不服申し立て機会も保障されない、適正とは到底いえない手続きでの制裁処分でした。企業内の不当な処分であれば裁判所での救済の可能性がありますが、裁判所による不当な処分ではどうしようもありません。以下が東京高裁長官による懲戒申立て理由です。

被申立人(岡口裁判官)は、裁判官であることを他者から認識できる状態で、ツイッターのアカウントを利用し、平成30年5月17日頃、東京高等裁判所で控訴審判決がされた犬の返還請求に関する民事訴訟についてのインターネット記事及びそのURLを引用しながら、「公園に放置されていた犬を保護し育てていたら、3か月くらい経って、もとの飼い主が名乗り出てきて、「返して下さい」」。「え? あなた?この犬を捨てたんでしょ? 3か月も放置しておきながら・・」、「裁判の結果は・・」との投稿をインターネット上に公開して、上記訴訟において犬の所有権が認められた当事者(もとの飼い主)の感情を傷付けたものである。 被申立人の上記行為は、裁判所法49条所定の懲戒事由に該当し、懲戒に付するのが相当であるので、本申立てをする。

「公園…返して下さい」までが事実経過と原告の主張、「え?…放置しておきながら・・」が被告の反論、改行して「裁判の結果は・・」とツイッターでつぶやいたものです。これを裁判官の「品位を辱める行状」と断じて戒告という制裁をしました。ここには表現の自由、裁判官の市民的自由、適正手続き、司法権の独立など指摘し批判するべき憲法論点が満載です。その中でも特に、この懲戒申し立ての真の理由が、ツイッターをやめるように東京高裁長官から言われた岡口裁判官がそれを拒否したことにあると思われる点に問題の深刻さを感じます。

最高裁に提出された東京高裁事務局長の報告書があります。そこには、東京高裁の長官と事務局長が岡口裁判官を呼び出し、2人からツイートを続けるということであれば、それを前提にして分限裁判を検討せざるを得ない趣旨のことを繰り返し迫られた様子が記載されています。つまりツイートをやめるように言われたのにやめなかったから懲戒申し立てがなされたことがよくわかります。裁判所幹部が権力を笠に着て表現行為の事前抑制をしているのです。表現の自由の侵害であると同時に、こうした強制を世間ではパワハラといいます。職務上の優位性を利用して義務のないことを強制しているからです。これだけ世間ではパワハラが問題になっているのに、エリート裁判官が強要罪まがいのことをしてしまうとは、裁判所がいかに世の中の感覚とずれているかを露呈してしまったようです。

裁判官を官僚的に統制しようとしたけれど、それに屈することなくツイッターで発信を続ける岡口裁判官のような存在を許したくないということなのでしょう。どうも最高裁の守ろうとしているものは、司法に対する信頼ではなく、司法官僚制度そのもの、官僚的統制のように思えます。裁判官全体に、「余計な発言をするな」と恫喝し、その萎縮効果を狙ったのだと思われます。しかし、うるさくて目障りな裁判官を排除することによって司法への信頼を獲得できるとは到底思えません。

裁判官にも市民的自由があります。もちろん、職業柄それが制限されることはあるとしても、表現の自由に関しては特に必要最小限の規制でなければなりません。懲戒処分決定の中で、最高裁は「裁判を受ける権利を保障された私人である上記原告の訴訟提起行為を一方的に不当とする認識ないし評価を示すことで、当該原告の感情を傷つけるものであり、裁判官に対する国民の信頼を損ね、また裁判の公正を疑わせるものであるといわざるを得ない。」としています。前記のツイートがどうしてこのような評価になるのか、明確な根拠も書かれておらずさっぱりわからないのですが、説得力がないことだけは確かです。

懲戒申立て理由にもとの飼い主の感情を傷付けたことも挙がっていました。公開されている判例を紹介された当事者が感情を害することはあることですが、それが懲戒の理由になるというのは解せません。表現行為はときに誰かに不快感を与えてしまうことがあります。私のこれまでの雑感でも読んで不快と感じた人がこれまで何人もいるはずです。裁判官だから他者の感情をいささかも逆なでするような発言は、仕事を離れてもしてはならないとしたら事実上、一切の対外的な発言はできなくなります。もともと表現の自由はある程度の寛容を必要とします。今回の懲戒とは無関係ですが、岡口裁判官のこれまでのツイッターでの表現が不快だという人もいます。自分の好まない表現行為であってもある程度認め合う寛容性のない社会においては表現の自由は死滅します。裁判官は一切の対外的発言を控えて息をひそめて暮らし、とにかく裁判だけに専念しろということでしょうか。

裁判では人間の営みを問題にします。人間生活の多様性を理解できない人に裁判官は務まりません。裁判官も直接、間接の多様な経験を経て、人間について学びを深めていくのです。裁判所外の事象にも積極的な関心を持ち、広い視野と洞察力で理解し、高い見識を備える努力を続け、一市民として社会で生活する中で苦労し、悩みながら生きることによって、人間力を高め、当事者、国民の納得する裁判が可能となるのだと思います。裁判官は判決内容の説得力で評価されるべきだし、多様な裁判官がいていいと思っています。私生活など人それぞれですし、ものの見方も多様でいいはずです。裁判官の私生活上のあるべき姿など最高裁の官僚裁判官に決められるはずもありません。

「裁判官はみなこういうものだと思われてしまうことは非常に問題だ、という判断を最高裁がしたということだと思うし、判断は正しいと思う」という指摘をWeb記事で見ました。仮に多数とは異なる印象を与える裁判官がいたとしても、「裁判官は皆こうだ」とは考えないでしょう。もし市民がそう考えるとしたら、それは市民の側が人間の多様性を理解できていないからにほかなりません。裁判官に対して持つ一定の枠に縛られてしまい、多様な裁判官がいるはずだということを認識できていないか、そこに価値を見出さないということです。

裁判官は裁判外では学術的な発言以外は一切表現行為をするなということであれば、SNSを駆使して表現するべきものを持っている人間にとってはとてつもない苦痛を伴います。よって、その苦痛から解放されるためには表現するべきものを心に持たないという自衛本能が働くことでしょう。つまり、政治を含めて世間の出来事に関心を持たなくなるのです。思想的な内省も、自らの哲学に基づく価値基準も持たない裁判官が育成されていきます。これが裁判所の求める裁判官の中立性ということでしょうか。最高裁が統制しやすくなるのは確かでしょうが、こうして裁判官から市民的自由を奪うことは国際水準から大幅に後退し、民主主義国家として世界から認知されない恐れがあります。そして裁判官自身の市民的自由すら保障されないのですから、裁判の当事者の自由が保障されるという信頼は遠のくと考えるのが合理的だと思います。そして裁判所が政治部門から独立して権力監視機能を発揮し、憲法保障機能を果たせるのか疑問に思えます。

最高裁は、国民の信頼を得ようと岡口裁判官を懲戒したのでしょうが、逆に国民の信頼を失っているように思います。また、こんな理不尽な強制があり、私生活まで統制されるような息苦しい職場はまっぴらごめんだと敬遠する若者も増えてくる気がします。今後、裁判官に任官を希望する修習生は、自らの出世だけを考えて最高裁にひたすら従うヒラメ候補か、こうした司法を放置しておくわけにはいかない、中から変えていこうという高い志を持つ者かいずれかでしょう。もちろん、後者の裁判官を精一杯応援します。岡口裁判官にも理不尽に屈することなく裁判官としてさらに発信し続けてほしいと心から願っています。

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