真の法律家・行政官を育成する 「伊藤塾」 株式会社 法学館

2018年8月 1日 (水)

第276回 存在価値

自民党の杉田水脈議員が月刊誌に寄稿した内容が話題になりました。「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。」という部分が主に批判されたようです。この発言に対して、自民党の二階俊博幹事長は記者会見で「人それぞれ政治的立場、いろんな人生観、考えがある」と述べ、問題視しない考えを示したそうです。本人も党のこうした考えを自民党の懐の深さとツイッターで評価しています。

杉田氏の発言の是非については、憲法を学んでいる塾生の皆さんにはあえて言うまでもないことでしょう。憲法14条の法の下の平等も問題になりますが、それ以上に13条の個人の尊重、多様性の承認の観点から問題がある発言です。ちなみに、多様性について、杉田氏は「多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません」と述べています。一瞬なるほどと思ってしまう人もいるかもしれませんが、これに対しては、同性婚との共通点と相違点を指摘すればすぐに批判することができます。法的思考の基本ですね。

ですが、二階幹事長の発言はどうでしょうか。多様性を否定する発言を許容することが政党の懐の深さなのでしょうか。多様性を否定する発言を、多様性を根拠に肯定することができるのか。この疑問はいろいろなところで同様の疑問を生みます。文化多元主義を否定するような文化も1つの文化として尊重するのか、価値相対主義を否定する考えも相対主義の観点から許すのか、絶対的な正義などなく正義は多様であるから、ナチスの正義も肯定するのかなど、同じような問題です。

ニヒリストではない相対主義者にとって相対主義は絶対的なものです。したがって、相対主義を否定する言動に対しては批判的になります。それは自分が正しいと主張するのではなく、絶対的な価値を他者に強制することがおかしいと批判しているのです。法律は「べき論」(sollen)、主張の世界です。日本国憲法の下の政党は、憲法価値を実現するために政策を実現するべきです。国会議員は憲法99条で憲法尊重擁護義務を負っているからです。よって、自民党も憲法13条が保障する多様性を確保する方向で政策を実現していかなければなりません。今回は「いろんな人生観がある」といって逃げるのではなく、党としての立場を明確にするべきでした。

そういえば、2007年第一次安倍内閣の柳澤伯夫厚生労働大臣が「女性は子どもを産む機械」という趣旨の発言をしたことを思い出します。男女平等ランキング世界114位の国の政権与党の体質が現れているようです。いくら女性の活躍を謳ってもこれでは説得力がありません。LGBTの皆さんを生産性で見たり、女性を子供を産む機械に例えたりする発想はどこからくるのでしょうか。この問題を差別や多様性とは別の「存在価値」という視点で見ると問題のもう一つの本質が理解できます。

世の中には経済的な価値、つまり貨幣価値と交換するときにどれほどの価値があるかという物差しがあります。資本主義経済の中で生きる私たちにとってこうした交換価値はとても重要な意味を持ちます。どれだけ役に立つかという視点と考えることもできます。

しかし、世の中には交換価値では測れない「存在自体の価値」もあるのではないでしょうか。たとえば、命はそこに存在するだけで価値があるというようなことです。人の命は何かの役に立つから価値があるのではなく、代替性のない一回性のものとして存在するだけで価値があるのです。自分の命、他者の命がそこに存在すること自体に価値があることを認めようという考えが憲法の基本だと理解しています。

豊かな人も貧しい人も、健康な人もハンディキャップのある人も、人種も宗教も年齢も性別も一切関係なく、そこに個性を持った一人の個人として存在する限り、かけがえのない価値があるのです。凶悪犯も問題行動を起こす子どもも含めて、誰をも個として尊重する。これが憲法13条の個人の尊重です。

法律家や行政官としていい仕事をして、相応の対価を得ることは重要なことです。ですが、それと同時に私たちの世界には、存在するだけで価値があるものもあるのです。そこでは生産性とか効率性という評価基準が妥当しません。その存在価値は経済的価値に交換できません。こうした価値についてもっと私たちは意識をするべきではないのかと思うのです。

ところで、皆さんには「ふるさと」はありますか。8月には故郷に帰省する方もいることでしょう。沖縄慰霊の日(6月23日)に中学3年生の相良倫子さんが「生きる」という詩を朗読し感動を呼びました。「私はこの瞬間を生きている」と自分の言葉で命と時間への想いを込めて語りかけるだけで、どれだけ心に響くものかを実証してくれたような気がします。沖縄の皆さんたち、とくに戦争を経験してきたおじい、おばあにとっては、こうした若い命の存在、そして沖縄というふるさとの存在自体が尊い意味を持っているようです。

きれいな空気、陽光、大地、湧水、降雨、その地域固有の自然環境、地域を支える歴史、文化、人間同士のつながりの総体を「ふるさと」と呼ぶとすると、これらは代替できないものであり、経済的な交換価値はないけれど、その地域に住む人々にとって高い存在価値を持つものといえます。その地域に長年住み慣れた人にとっては、自分という存在自体を支えているものであり、自分自身の一部となっている。自分と切り離されがたく、固く結びついていて、その人固有の人格と一体的なものとなっているのです。ふるさとを愛する人にとっては、自分自身を支えて自分の人格の核心を作り上げているものであり、「ふるさと」を奪われることは自分自身の一部を奪われるほどの喪失感を覚えることになるのです。

人間は環境の外に環境と対峙して存在しているのではなく、自然、社会、歴史、人間関係の網の目の中で相互に密接に作用しながら生きている。環境は私達の外にあるものではなく、私達と環境は不可分一体です。つまり、その地域固有の自然、歴史、文化、人々のつながりは、そこに生きる人たちの人格と密接に結びついていて、自分のアイデンティティー(自己同一性)そのものといえます。「ふるさと」という自然、歴史、文化、人々のつながりを含む環境は、決して奪われてはならない人格的権利であり、法的保護利益です。憲法13条が国に要請しているのは、こうした代替不可能な「ふるさと」を持つ個人としての尊重だと考えます。

こうした「ふるさと」を汚染し、人々からかけがえのない固有の環境を奪う原発は、「ふるさと」を回復できる技術(除染技術等)が開発されない限り、稼働することは許されません。どんなに金銭賠償・補償をしても回復できないものを奪う危険が残る以上は、原発の存在、稼働を認めるべきでないと考えます。「ふるさと」のように、失って再び取り戻すことができないものを失ってしまうようなリスクは極力避けるべきです。

愛国心とか郷土を愛せという人たちが、差別発言を容認したり、原発を推進したりすることは矛盾している気がしてなりません。よほど交換価値が重要なのでしょう。天皇制も何かの役に立つから必要だと考えているのではないかと心配になります。

一度失ったら取り戻すことができないという点では「ふるさと」も憲法9条も同じです。最近は、憲法9条が存在すること自体に価値があるように思えてきました。夏は戦争を振り返ることが多い季節です。様々なことの存在自体の価値についても思いを巡らせてみてください。

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