第274回 手続的正義

国家公務員試験、司法試験は終わり、これから司法書士試験、予備試験論文、行政書士試験が行われていきます。各種試験において実力者が合格するのであれば、試験の公正な手続きなどどうでもいいと思う人はいないでしょう。誰が合格すべき実力者かわからないからこそ試験という適正な手続きが必要となるからです。

最近、いつまで「モリカケ」(森友・加計学園)問題で騒いでいるんだ、という意見を聞くことがあります。確かに1年以上前から、取り上げられてきましたから、いらつく気持ちも分からないではありません。しかし、この問題は国民主権や民主主義とは何か、さらに言えば「デュー・プロセス」(適正手続き)の理解と深くかかわり、極めて重要だと考えます。

公文書の扱い方は国家のあり方そのものです。公文書の扱い方が、民主国家、文明国家と言えるのかどうか、ということの重要な試金石となります。国家のありようそのものの問題であって、どんな政策を実現するのか、という以前の問題です。国家のあり方、意思決定の仕方の枠組みがきちんとできて初めて、その中でどういう政策を実現するのかを問題にすることができるからです。

 物事を意思決定するための手続きは、そこで何を決めるのか、という問題よりも先に確立しておかなければならない問題です。なぜなら、そこで決めること、例えば政策などは、それが正しいか誤っているかはその時点で判断できないからです。何が正しいのかは歴史が後で評価すべきことなのであり、もし、その時点で絶対的、客観的に正しいということが分かるのであれば、民主主義などの面倒な手続きはいりません。その「正しい」ことに従えばいいだけです。

民主主義はその時点において、何が客観的に正しいことなのか分からないからこそ、そこでさまざまな情報に基づき、議論をしてとりあえず物事を前に進めるための手段です。私たち人間は情報や雰囲気に流され、その時々で正しい判断ができないことがあります。だから少数意見も配慮した十分な議論を経たうえで決定する民主主義の手続きが必要になるのです。後にその判断が誤っていたとわかったときには、その原因を明らかにして修正します。こうしたダイナミックなプロセスが民主主義であり、そのためには適正な手続きと、後世のための検討資料を正確に残しておくことが不可欠です。その民主主義の基盤や手続きをないがしろにした上で重要な案件や政策を進めていくというのは本末転倒です。

では、「民主主義の手続き」とは何でしょうか。 まず憲法の下では国民が主権者です。国政の最終決定権者は国民であるということです。政治家や官僚ではありません。よって、国民が必要十分な情報に基づいて、意思決定することができる仕組みが欠かせません。

もちろん、国民の代表者たる政治家が一時的には政策決定します。しかし、その一時的な意思決定が正しかったかどうか、後に国民が吟味して検証し、間違っていたら是正させる、あるいは議員を交代させることによって国民の意思に従わせるというプロセスが民主主義です。したがって選挙の過程で、正しい情報が国民に知らされることが主権者国民にとっては決定的に重要です。選挙は正しい情報を主権者が得ることで初めて意味を持ちます。

ところが、選挙の際に判断に必要な重要情報が出てこなかった、改ざん、捏造、隠蔽されていたとなると、国民が国政の最終決定権者として、選挙権を正しく行使できません。言葉を換えれば、政治家や官僚が政治のイニシアティブを握る、主権者になっているのと同じことです。選挙で判断するために正確な情報が提供されることは民主主義の大前提なのです。

現在の日本はこうした民主主義の前提が危うくなっているように思えます。 「モリカケ」問題の根底には、だれが国政の最終権利者なのかについての考え方の違いがあるのではないでしょうか。「モリカケ問題をいつまでやっているのか」という人たちは、政治の意思決定は政治家や官僚が下すものであって、国民はそれに従えばいい、という価値観があるように思われます。要するに「愚民」として国民を見ているのです。一般大衆である国民の声に従って政策を決めていくと、まともな行政はできない。だから政治家や官僚がよかれと思うことに国民を従わせることが、この国の正しい姿であると考えているのではないでしょうか。まさに「由らしむべし、知らしむべからず」です。

国民のためにいい政治をやっている、特区を作って経済発展させてやるので、それは必要なことなのだ。文句を言わず黙ってついてこい、ということなのでしょう。権力者目線でものを見ると、そういうことになります。

もちろん、国民が判断し、国民の声に従って判断しても、それが常に正しいわけではありません。そこで、間違いを次に正し、よりよいものにしていくのが国民主権、民主国家の筈ですが、今回のやり方はその否定です。そんなまどろっこしいことはやってられない、政治家や官僚が自分たちの正しいと思うことを実行し、国民はそれに従っていればいい、という考えが前提になっているように思えるのです。

しかし、本来、国民が主権者の民主国家であれば、そうはならないはずです。あくまで国民・市民の声を吸い上げて政策として実現していくのが国民主権国家、民主国家のありようです。その結果の判断が、一時的に間違っていれば、後で正せばいいのです。その場合、何が、どのように、なぜ間違ったのか、その政策決定の過程を記録に残しておくことは次の政策判断のためには不可欠です。

仮に政治家や官僚が国政の最終決定権者というのであれば、自分たちが意思決定できればそれで十分なので、国民に情報を提供する必要は全くありません。国民に示さない情報はそもそも、公文書として作る必要もないし、保管し、開示する必要もありません。自分たちの政策決定に影響がなければ、それで構わないことになります。

自分たちの意思決定に影響を与えるものは「公文書改ざん」として問題にするかもしれませんが、既定路線や結論として決まっていることであれば、むしろ推進することこそが重要なのであって、それと関係ないことは重要な事柄ではないし、書き換えることが問題とも思いません。文書に記録しようが改ざんしようが問題じゃないのです。なぜなら自分たちの意思決定に影響を与えないからです。そんなものは些末な情報だ、ということになります。そうであれば、公文書を「改ざんしている」という意識すらないでしょう。

今日、政府で起こっている記録のぞんざいな扱い方を見ると、国民に判断してもらおうという意識はないと思われます。本来の民主国家であれば、記録に残し、後で国民の判断材料にしてもらおう、という考えが生まれますが、国民を判断権者と見ていないから公文書の扱いがぞんざいになるのです。

逆に国民を決定権者として尊重するのであれば、意思決定に影響する全ての情報は国民のものである、という大原則に基づいて行動することになります。情報の重要性を自分で勝手に判断せず、迷ったら記録します。国家の情報は原則、国民の情報なのです。官僚や政治家の私有物ではありません。これが国民主権国家、民主主義国家の原則です。これが理解できていれば、官僚が「これは重要な情報」「これは単なるメモ、手控え」と勝手に判断して廃棄することなどあり得ません。もちろん、その情報をその時々で公開できるかはまた別です。安保・外交などに係わる秘匿すべき情報もあるでしょう。しかし、それは後にルールに従い、公開して後世の国民の判断材料とすべきものです。

「こんな問題いつまでやっているのか」と発言する人たちも、官僚や権力者の立場に立ってモノを見ています。「正しい判断は自分たちが下すのだから、いつまで何をぐずぐず言っているのか」ということです。ですが、それは違うのです。官僚のみなさんが自分たちがよかれと思っても、それが正しかったのかどうかを最終的に判断するのはあくまで国民です。それが国民主権国家です。そう考えると、この問題はその国のありよう、だれが主権者なのか、という根本的な考えの違いが表れている問題だといえます。

米国連邦憲法の起草者の一人であるジェームズ・マディソンがこんなことをいっています。「人民が情報を持たず、情報を入手する手段を持たない人民の政府は、喜劇への序章か悲劇への序章に過ぎない。」「知識を持つ者が持たない者を永久に支配する。自らの支配者であらんとする人民は、知識が与える力で自らを武装しなければならない」。「知識」は「情報」と言い換えてよいでしょう。逆に、国民を主権者にしたくない人は、国民に情報を与えないようにします。「情報公開」というと新しい概念のように聞こえますが、既に240年も前にマディソンはこのようなことを言っているのです。

残念ながら日本では、手続きの重要性は浸透していません。刑事裁判でもそうです。例えば真犯人なら自白を強要してもいい、といった風潮があります。テレビの刑事ドラマを見るとわかります。否認していた被疑者にひどい言葉を浴びせながらも自白を引出したりすると「名刑事だ」と評価されたりします。日本では、刑事手続のプロセスの重要性が理解されていないことを示しています。

このように手続きに従うことの大切さが理解されていないことが、今回の問題、国会での議論の大前提になる「情報を開示する」「記録を残す」という根本が問われる問題を過小評価する識者や国民の声につながっている、と見ています。そして国民投票手続の公正さに大いに疑問があるにもかかわらず、改憲の中身の議論ばかりが先行してしまうのも、同じ問題だと思っています。 人権保障の歴史は手続保障の歴史であったことを思い起こすべきです。法律家や行政官は、手続的正義を実現するために存在するといっても過言ではありません。皆さんに期待しています。