« 1996年5月 | メイン | 1996年7月 »

1996年6月

1996年6月 1日 (土)

第10回 幸福権と幸福追求権

 ある受験生がいました。彼女は今、心の病を患い、病院に入院しています。どのようにして私の自宅の電話番号を知ったのかわかりませんが、深夜、早朝とわず、電話をかけてきたり、長い手紙を書いてよこしたりします。初めははっきりいって大変に迷惑でした。夜中に電話でたたき起こされて、訳の分からない話を聞かされます。話題は彼女の生い立ちや自分をねらっているものがいるから助けてほしいというもの、フランスの構造主義の問題点、ボスニア紛争まで多岐にわたります。

 そんな彼女が手紙で小説を書いてよこしました。すばらしい内容でした。

 私はそのとき、障害や心の病はハンディではない、たんに人と違っているだけだ、それは個性の一つにすぎないということを思い出しました。実は障害でも病でもないのです。ひとつの個性にすぎないのです。

 私たちは何かにつけて、正常と異常、常識と非常識、出来のいい子と悪い子、コースに乗った者とおちこぼれ、という概念で人をくくってしまいがちです。特に法律を学んでいると原則と例外という発想がしみこんでしまい、何かを原則にしないと気が済まなくなっていたりします。司法試験は法学部卒が原則で他学部からは例外だとか、学生のうちに始めるのが原則で脱サラは例外だとか、2年や3年で受かるのが本来で5年かかるのは肩身が狭いとか、勝手に自分たちで原則や自分の常識をつくってしまい、それからはずれていることを引け目に感じたりその規格にあっているかで人を評価してしまいがちです。

 しかし、人はそれぞれ個性があり、その人の人生はその人だけのものであり、人と同じである必要は全くありません。ましてやこれが「本来の生き方」というものや「これがだめな人生」などというものもありません。

 択一試験の合否など本当に小さなことです。受かっても落ちても自分の個性としてそれを自分の人生に活かしていけばいいだけです。

 人の幸福に一定の規格や定義などはありません。だから憲法は幸福権ではなく、ひとそれぞれの幸福追求権を保障しているのです。

 先日、全盲の受験生が福岡から東京の塾まで説明会を聴きにきてくれました。彼は彼の個性を生かした法律家になるべく今日も頑張っています。皆さんも自分がいま、ハンディだと思うことは自分の個性なのだと信じてそれを活かすように日々を過ごしてください。目分自身も含めて人を規定の枠や世間の価値観に押し込めて見ない自由な心を、この塾で皆さんとともに大切に育てていきたいと思っています。