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1997年8月

1997年8月 1日 (金)

第24回 ささいな幸せ

 公園でふとベンチにすわって子供たちの遊んでいる姿を眺めるのが好きです。道を 歩いていて空を見上げ、照りつける太陽をまぶしげに仰ぐのが好きです。あの輝きを 見るたびに思います。この太陽はさっきまでアメリカや太平洋を照らしだし、これからユーラシア大陸に恵みを与えていく。本当に世界中のすべての人々に分け隔てなく 光り照らすという大仕事を毎日黙々とこなしているのです。 こうしたつまらないことに感動してしまう自分はおかしいのかとも思います。しかし、これが私のストレスマネージメントなのです。日々のつまらないと思われる現象の中に実は感動的な営みが満ちていることに気づくとその瞬間、自分が生きていることを実感できます。その瞬間は講義の予習も、決済しなければならない山積みの書類も、新しい出版物の原稿の締切も、一切合切を忘れて、その瞬間に入り込むことができるのです。これは私にとって幸せな瞬間です。講義の合間にこうした時間をできるだけ持つようにしています。 

 この雑感でも、「今を生きる」ということを今までも何回か言ってきました。憲法がたとえ理想であってもそれを忘れてはならないように、将来の自分を強く思い描いてそのとおりに生きようとすることはとても大切なことです。しかし、他方である図式を自分で勝手に描いてそれを自分にあてはめてしまうと、それから逃れられなくなるので注意が必要です。自分で勝手に自分の将来をステレオタイプにこうでなければ ならないと、決めつけてしまうと苦しくなるだけです。また、こんな自分じゃなくて本当の自分があるはずだと悩み続けても何も始まりません。自分探しは日々の自分の思いに忠実に毎日を真剣に生きることから始まります。今を肯定し、ありのままの自分を受け入れることから始まります。

 今という時間は誰にでも平等にあるのですから、それを自分なりに最大限使って幸せを感じることが、私にはストレス解消になります。これは一瞬という短い時間にいろいろなことを詰め込む効率を言っているのではありません。一瞬は一瞬であり幅のある概念ではありませんから何かを押し込むことはできないのです。むしろその瞬間を最大限楽しむのです。人と話をしているとき、歩いているとき、本を読んでいるとき、趣味に没頭しているとき、あらゆる時間を自分に与えられた貴重な瞬間として生かしていくのです。生かすというと何か管理しているようですが、ただ純粋に楽しんでいるだけです。お昼にはampm(コンビニです)のカルボナーラを買ってきて食べることが多いのですが、それも私には幸せな瞬間です。車を運転しているときはそのハンドルの感触、タイヤから伝わってくる地面の凹凸、信号の光かげんなど、あらゆるものが新鮮に感じられます。駅前の歩道橋から見える景色も毎日違う。歩道橋の汚れ具合も違う。そうした変化に楽しみを見いだしているのです。公園を歩く機会が あれば足の下に感じられる大地を大いに楽しみます。 

 受験時代の初めの頃は将来こんなことをしてやろうとか、弁護士になったらこんな 車に乗ってとか、将来の事ばかりを考えていました。そしてつらい今を堪え忍ぼうとしていたのです。喜びを先送りにしていたわけです。当然、「今」はつらく忙しくおもしろくなくなります。そして夢が実現できそうもなくなると自分は時間を無駄に過ごしたと思い込み自己嫌悪になります。これではなんのいいこともありません。夢が自分を不幸にしていたのです。そこで考えました。夢も将来の自分のためにあるので はなく、今の自分を充実させるためにあるのだと思おうと。将来のことを考えて楽しむのもいいですが、それは将来が楽しいからではなくて、今、そのように考えていられる自分の幸せを実感できるから楽しいのです。自分に存在するのは今だけなのだから、それを自分で意識して感謝しながら精一杯楽しもうと思いました。それでずいぶん楽になりました。肉体的にはきつくてもストレスを感じることの少ない受験生活を送ることができました。 

 皆さんは今、夏の日ざしを感じていますか。今、しっかりと空気を吸っていますか。 今、大地をしっかりと自分の足で踏みつけて歩いていますか。自分の人間としての 営みを一つ一つ素直に受け入れ、喜んでみると以外と幸せは身近かにある気がします。