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1999年4月

1999年4月 1日 (木)

第44回 ある本を読んで

 「ある死刑囚との対話」(弘文堂)という本を読みました。死刑囚Aと作者であり精神医学者でもある加賀乙彦氏との間で交わされた書簡集です。処刑される前日までの2年4ヶ月間のやりとりは、死刑確定囚とのものですから特別の世界のように見えるのですが、実は極めて普遍的なことを学べた気がします。

 Aが処刑されたのは40歳と7ヶ月のとき。私がこの本を読んだのは偶然にも40歳と8ヶ月でした。彼より1ヶ月長く生きていますが、果たして彼のように濃密な生き方をしているかを思わず振り返ざるを得ませんでした。

 人は生まれたその日から死に向かって歩み始めます。絶対に避けられない死に直面しての生き方を問われるという点では、我々もまったく同じではないか。死刑囚とはその死を自覚できるか否かの違いがあるだけであり、誰もが今日この日を生きながら、常に死と向かい合っているのです。

 そこで、この生と死を考えながら、善と悪、光と闇、人間と神、心と身体、こどもとおとなという二分論について改めて考えてしまいました。実はこれらは相反する概念でありながら実は一体ではないか。同じことの裏表ではないか、死を見つめることができるが故に今をよりよく生きられる。ある人にとっての善が同時に別の人にとっての悪である。闇があるが故に光の存在がわかる。こどもは大人社会の鏡であり大人とこどもの線引きなどできない。

 こうして考えてみると、生や善などの一方のみを受け入れるのではなく、こうした対立概念をすべてひっくるめて受けとめることが必要なのではないか、そんな風に思えるのです。人間というものはこうした二分論では割り切れない存在だと思うからです。死刑囚は絶対に完成しないことに毎日打ち込むことになります。しかし、それだからといって希望がないということにはなりません。「死刑囚も生きがいを求めている」のです。彼らも喜びつつ生きることはできるのです。無の自覚から生まれる全肯定の心や、何もないところに身を置いたときに知りうる何も不足していないという自覚は宗教的なものにつながる、私にはまだまだの領域です。

 しかし、自分も受験生であったときに、閉じこめられた暗闇の中で必死に生きている感覚がありました。自分の存在意義を問いながら必死に生きていました。確かに合否という結論はでます。しかし、合格不合格という二分論では割り切れない、そんなものを超越した何かがあるのではないかと思います。

 合格と不合格という目の前の大きな違いのように見えるその現象にのみ眼を奪われることはありません。今、ここで学んでいることそれ自体が重要なことなのです。日々前に進み、60兆の細胞が活動して自分がここにいるそのこと自体が大切なのです。頑張るということは合格だけを目指すことではありません。頑張ってこの一瞬を生きることです。目の前の一問一問を大切にすることです。その積み重ねで迎える結果である合格と不合格は一体でありどちらも価値あるものなのです。いや価値の有無など超越したものなのです。そんなものに惑わされる必要はありません。

 焦らず安心して日々を過ごしてください。Festina lenteです。