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1999年5月

1999年5月 1日 (土)

第45回 絶対的な価値基準

 毎日の勉強は、自分の弱点を冷静に見据えて、本当に自分にとって必要なことの繰り返しです。そして、まわりの人の勉強方法に惑わされることなく、これだと決めた方法を徹底的にやり通すことが何よりも合格への近道です。

 このことは、おそらく真実なのだと思います。かっては基本書中心主義という言い方をしていました。今は、基本書がテキストや講義テープになったりしているだけで、これだと決めたものを徹底的に繰り返して完全に自分のものにした人が短期合格していくという構図に変わりはありません。その意味では信じる者は救われるという言葉は昔からひとつの真実を表していました。

 今の社会は信じるものがなくなりつつあります。明治憲法の時代はリベラルな考え方の人にとって批判の対象が明確でした。また、30年くらい前までは権力対市民という図式も明確でした。権力は悪であり、自由な市民は善である。企業は悪で労働者は善である。こうした極めて明解な図式の中に、人々は何を理想として生きたらいいのかを見いだしやすい構造になっていました。ところが、現在は権力が悪いわけではないし、企業が悪いわけでもない。良いときもあれば悪いときもある。絶対的な悪があるわけではないので、自分以外のすべてのものが悪になる可能性がある。それどころか、自分自身もぼやぼやしていると悪になってしまう。このように明確な批判対象としての悪がいなくなってしまったことにより、自分を守るためにはまわりのすべてを悪となる可能性のあるものとして捉えなければならなくなってしまったのです。絶対的な価値基準を失ったことにより、自分をまわりの中で相対化してみなければ落ちつかなくなってしまいました。

 そこでまわりの人を攻撃して自分を相対的に優位に立たせようという考えがはびこることになります。いじめられないようにするにはいじめっ子になるという考えです。善と悪の区別が曖昧になり、権力が絶対的な悪として把握されなくなってきた今日の社会は権力を行使するものには極めて都合のいい社会です。

 いつも言っているように良いことも悪いことも相対的であることは確かです。でも、それを承知の上で、自分の絶対的な価値を持ちそれを主張し続けることはもっと大切なのではないでしょうか。憲法は個人の尊重を基調にしています。それは自分の考えを主張する人間を前提にしています。公共の福祉は利益と利益の調整の原理です。しかし、調整の前に、個人の利益どうしがぶつからなければ話になりません。なあなあで自分の主張を自ら引っ込めてしまうような個人はそこには予定されていません。

 自分の絶対的な価値基準で生きようではありませんか。

 世の中を要領よくわたり、わかったような顔をして大人の振りをするのをやめて、本当に自分がしたいと思うこと、本当に自分が正しいと思うことを信念をもって発言し実行する、そんな生き方がこれからの日本を活性化していくのだと思います。理想を語りつづけること、「べき」と言い続けることは疲れます。人に何を言われようがそれでも負けずに信念を貫き通すことを勇気というのだと思います。

 択一試験を受ける方は信念をもって正々堂々と受けてきてください。結果は後からついてきます。大切なのは試験に対する自分の姿勢だけです。