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1999年6月

1999年6月 1日 (火)

第46回 北風と太陽

 少年犯罪に厳罰を科すべきだという主張があります。こうした議論を聞くにつけ、平和主義への対応の仕方とそっくりだなと思うことがあります。

 憲法は、武力による紛争解決は実効性がないと考えて自衛戦争すら放棄しました。これは世界の常識のレベルから考えると極めて非常識なことです。殴られたら殴り返す、殴られる前に相手を殴り倒すという身の処し方の方がわかりやすいことは確かです。しかし、そのような相手を殴り倒して平和を得るという方法は止めてもっと別の道を探そうというのが憲法9条の発想です。コソボ問題を見るまでもなく相手国の国民の憎しみを増幅させるだけでは何の解決にもならないからです。そして世界の誰かが武力による紛争解決でない方法を模索して実験しなければいつまでたっても世界は変わらない。だから日本がその役をかってでよう。たとえピエロに見えてもそんなことを百も承知で名誉ある第一歩を踏み出そうとしました。

 ですが、現実には日本はなんの努力もせず、安易に世界の常識に戻ろうとしているようです。充分に憲法の理念を汲んだ必死の努力をしてみて、そのあげくにやっぱり理想主義的すぎた、やはり殴られたら殴り返す方法しかないと国民が考えたのならきちんと憲法で軍隊を規定してリスクを覚悟の上でそのような国になればいいだけのことです。武力によらない平和追求の努力をなにもしないで、安易にわかりやすい選択に走るのでは、なんのために戦争に負けたのかわかりません。

 これと同じ事が少年法改正で議論されているように思われます。本来予定している保護主義の充実という方向での必死の努力をしないでおいて、少年の凶悪犯罪には厳罰で処すべきだというきわめて単純でわかりやすい議論をして、本来あるべき姿を追い求めることを止めてしまおうとしているようです。確かに厳罰主義はわかりやすいし、一般受けします。しかし、アメリカの例をみるまでもなく長期的に見るとなんの役にもたちません。

 目先に惑わされることなく、何百年も先を見据えた長期的展望がここでは必要です。いみじくもガイドライン法案と少年法改正が同じ国会に提出されている現状は極めて示唆的な気がします。

 少年はいわば発展途上にあるのであり、厳罰よりも教育が必要です。環境などさまざまな要因によってそのような問題行動に出ているはずです。世界の中の問題を起こす紛争地域も民主主義や人権という観点からは発展途上であり、武力による制圧よりも啓蒙や生活水準の向上が必要な場合もあるでしょう。

 少年であっても国家であっても問題行動を起こすには必ず原因があるはずです。その芽を摘むことが根本的な解決なのであって、無理矢理力で押さえつけることが解決になるわけではありません。イソップ物語の北風と太陽の話と同じです。憲法はまさに太陽のやり方を取ろうとしたのですから、少年への対応と平和を達成する方法とはともに厳罰ではなく、地道に忍耐強く個別対応によって解決していくべきなのです。それが憲法の個人の尊重の理念に合致した解決方法であると私は考えます。いかにも青臭い理屈だと批判されそうですね。でも、最後の一人になっても理想を訴え続けることの意味を憲法は私たちに教えてくれているはずです。