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1999年7月

1999年7月 1日 (木)

第47回 ある日の雑感

 先月、ひとつ歳をとりました。

 誕生日には、いくつになってもおめでとうと言われます。

 小さいころは素直にうれしかったし、歳をとっていくことが大人になっていくことの証であり、まさにおめでたい気持ちがしました。

 しかし、こうしてある程度年齢を重ねてくると、歳をとることを疎ましく思ったり、もう若くはないんだと思わされたり、極端にいえば死に一歩ずつ近づいていることを自覚するようになります。誕生日になって歳をとって何がおめでたいのか、と思ったことがあります。

 しかし、誕生日を意識することで、ふたつのことを自覚できるのでやっぱりいいことなんだなと思うようになりました。ひとつは、将来の死を意識することで今を懸命に生きることができることです。今というときは永遠には続かないと自覚することで今の幸せをかみしめることができます。もうひとつはそれまでを振り返って、この一年元気に生きてこれたことをうれしく思い、おめでたく思うということです。これは何よりも一年間生かされていたのだと自覚することで多くの人に感謝することができます。

 こうして将来と過去の座標軸の中で自分の今の位置づけを確認する、そんな日が誕生日なのだろうなと思うようになりました。だから何歳になったからおめでたいのではなく、一年無事に過ごせて今ここにいられることがおめでたいということなのです。

 実は私は自分の年齢は自分で決めるべきだと考えています。

 何歳になったといってその年齢らしい生き方などを考える必要はないし、自分が生きたいように生きればいい。世間が決めた年齢の型に自分をはめこむ必要などないということです。「年甲斐もなく」という言葉などは無用です。

 自分でどう生きるかによって、その人の輝きは変わってきます。年齢に意味があるのではありません。ひょっとしたら時間の進む早さは人によって違っているのかもしれません。その原因はわかりませんが、生きる密度の濃さや、心の大きさや豊かさによって一年間の意味が違っているような気がするのです。忙しい忙しいと言って今を感じる余裕がなくなると、本当に「心を亡くして」しまいます。幸せを先送りしないで、常に今そこにある幸せを大切にした方がよいようです。これは刹那的な生き方とは違って、生かされていることへの感謝から自然にわき上がる幸せの感覚です。感情をもって生きていることへの感謝です。

 こう考えると悲しいことに遭遇した場合でも思いきり泣けることは幸せなのかもしれません。喜ぶことができるのと同じように悲しむことができることも実は幸せの一部だったのかもしれません。私はいつもみんなに前向きに考えるように言っています。それは自分なりにどん底で心が死んだ状態を知っているつもりだからです。

 声をあげて大泣きするような悲しみや苦しみを感じる気持ちがあることに、自分の人間らしさを見いだしてほっとすることがあります。こうして生きている限り喜びも悲しみも同根であり、幸せは日々の生活の中にある。だから、マイナスもプラスもないはずなのです。そんなことを自覚できるような一年を淡々と過ごせたらなと思いました。