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1999年8月

1999年8月 1日 (日)

第48回 情報とプライバシー

 今は、情報さえあればなんでもできる時代です。
 次の司法試験の問題を知っていればどんなに楽なことでしょうか。

 明日の為替相場を知っていればどんなに簡単にお金儲けができることでしょうか。

 プライバシーも私生活をみだりに公開されない権利から自己に関する情報をコントロールする権利へと進化しました。このプライバシー権は人格的生存に不可欠と言われます。なぜでしょうか。

 この社会においては、まわりが保有している自分に関する情報によって自分の価値は決められてしまいます。前科などなくても前科があるかのごとくの情報が流通し、まわりが保有していれば自分は前科者になってしまうのです。つまり、社会が保有する情報によって私たちは社会的な存在としてこの世に認められ存在できるのです。したがって、自己に関する情報を自分でコントロールできないと自分自身の社会の中における存立基盤が揺らいでしまいます。本来の自分とはまったく違った存在として社会からは認知されてしまうことになります。まわりの目が気になるという人はこの感覚が敏感なわけです。このように自分に関する情報をコントロールすることは、自分自身の人格的自立そのものであり、その人の人格的生存にとって不可欠ということになります。

 こうして自分自身の存在にとっても情報は重要ですが、逆に社会の情報を自分が得ることもまた不可欠です。人は皆社会の中で何らかの関わりを持って生きていますが、その社会との接点が情報です。知らなければ存在しないことになります。コソボでの虐殺も知らなければないことになります。犯罪被害者の苦しみも知らなければなんでもありません。つまり眼をつぶれば何もないことになるのです。

 このように私たちは社会が持っている自分に関する情報と、自分が社会に対して持っている情報を媒介として社会的存在としてなりたっています。つまりこの社会では情報が私たちにとっての実体を形成しているとも言えるのです。

 ところが私たちの得る情報は常に真実とは限りません。一般に情報には真実と意図的に流されるバイアス、そして偶然によるもの3種があります。このことをふまえて自分でその情報の価値をきちんと選別できるようにしておかなければなりません。ハルマゲドンはどうか知りませんが、たとえば2000年問題は日本に深刻な影響を与える危険性があります。世界的な規模での混乱が生じるかもしれません。

 他方で、こうした情報の重要性を認識しつつも、情報に振り回されたり、まわりの情報によって自分が位置づけられているという点のみにこだわると本質を見誤る危険性があります。真実以上の過大な評価をされていることに気づかずに思い上がると痛い目にあいます。情報との関わりで存在する自分と、実体としての自分、つまり自分が本当はどのような人間であり、どれだけのものかということは全く別のことです。それ故、自分に関する情報をコントロールするとともに、自分の価値は自分で決める謙虚さと勇気が必要なのです。自分にしかできないことは何か、自分の進むべき道は何か。自分のことは自分で決めるという気概が必要です。そして周りの人が何を言おうが言うにまかせておけばいい。表面的な自分への評価をコントロールできたとしても、そんなものは時とともに意味を失います。社会の評価など気にしないで、自分が信念をもって行動し続ければいいのです。そうするとそれが自然とその人の評価にもつながります。この段階でまさに自分に関する情報を積極的にコントロールしたことになるのです。情報コントロール権としてのプライバシーもやはりまず中身ありきなのだと思います。