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2000年8月 1日 (火)

第60回 本音で生きる

 いくつかの大学からロースクールに関するシンポジウムに招かれ、発言する機会を得ました。一方的に批判するだけではフェアーではないと考える、見識ある大学人の方もいるのです。両当事者の言い分を聞いたうえで、事実に基づいて判断するという法律家らしい議論がやっとできるようになりました。

 最近のロースクールの議論は単なる制度論のみではなく、法学教育とはいかにあるべきかという一歩踏み込んだものになりつつあります。大学ごとの個性が出てきている点は評価すべきことです。市民のための法律家の育成という観点が明確なところもあります。

 こうした場で発言したり、関連雑誌のインタビューに応えたりすると心配してくださる人がいます。さらに批判も集中するし、仮にロースクールができると塾としてやっていけないのではないか、積極的に発言などしていて大丈夫なのかというわけです。

 確かに、理想通りのロースクールができると、司法試験塾の存在理由がなくなってしまうかもしれません。しかし、だからといって、私たちが沈黙したり、自らの保身のために発言することは、現場にいるものとしての責任を果たしていないと考えています。

 あるべきロースクールを作るためには、大学も弁護士会も大きな負担を強いられることになります。担い手としての教官の意識改革と教授法の研鑽も不可欠です。しかし、人々がより幸せになるシステムを構築する際に多少の痛みが生じることは世の常です。これは分かち合わなければなりません。社会の幸せの総量が増えるのなら、それに協力するのが社会の一員としての責務です。

 完全に公平で開放的ですべての人に平等に機会が与えられるロースクールができるのなら、それは法曹一元に向けてのひとつのステップとして有意義と考えます。必要に応じて学費プラス生活費を援助したり、仕事をしながらでも合格できるような仕組みができあがることが絶対必要条件です。まじめにこつこつ勉強することによって誰でも必ず合格できるようになれば、法律家が特別のエリートとして扱われることはなくなるでしょう。専門家としての役割を分担しているにすぎず、特別な存在ではないと自覚できる法律家がこれからはぜひとも必要です。 

 こうした理想の実現のためには、この塾としても相当の覚悟で乗り越えていかなければいけない課題を突きつけられるかもしれません。ですが、それはむしろ歓迎すべきことです。自らをあえて追い込んでいくことで、新しいエネルギーを生み出すことができるからです。
 世の中のためになると本気で信じることを懸命に行なっていれば、それは必ずいつかどこかで実を結ぶと信じています。目先の利益を追うのではなく、大義に生きるという生き方もあります。私はこの塾を創るときに本音で生きることに決めました。それが最も強い力を生むと信じたからです。

 本音どうしでぶつかった相手は尊敬できるし、認め合うことができます。お互いの批判の中から新しいものを生み出すことができるからです。本音を通そうと努力した結果なら、負けても恥ずかしいと思うことはありません。より謙虚に、より強く信念を持てばいいだけです。