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2000年9月

2000年9月 1日 (金)

第61回 人格的自律

 よく、この試験は先が見えないから不安だと相談されます。しかし、先が見えることが本当に安心で幸せなことなのでしょうか。自分の人生の先が見えるとしたら、それを見てみたいと思いますか。

 私は、誰かが作った人生を後追いで生きていくことをおもしろいとは思いません。私は自分の人生は自分で創りあげていくもの、だから先のことなど決まっていないし、誰にも決めてほしくないと思っています。自分の人生の先を見ようと思っても、自分で創りあげない以上は存在しないので、見ようがないのです。だから先が見えないことはむしろ望ましいことです。

 そう思うと、試験の結果などわからない方がおもしろく生きることができます。そして、この人生の双六は先が見えないけれども、どんどん先に進みます。試験の結果という小さな通過点など諸ともせずにどんどん突き進みます。どちらに進んでも、さらにその先には何があるかわかりません。その意味で、いつも言っているように試験の合否は等価値です。世の中の世俗的な価値などに振り回される必要は何一つありません。自分を律して前に進むことができれば、それだけで十分に価値ある人生です。

 それでも、進む方向によっては失うものがあるので怖いと思う人もいます。確かに人は豊かになったり満ち足りてくると失うものが増えるので不安になります。逆に失うものなどないと思えるときは強くなれます。ですから、普段から、失うものを増やすのではなく、決して失わないもののために生きていけばいいのです。得ることができるだけで失うことのないもの。それは自分の心の満足、生きることそのものへの日々の満ち足りた感謝の気持ちです。これは自分の心の中の問題なので、一度得られれば、失うことはありません。会社やお金や地位のために生きているとしたら、それらを失ったときのダメージは計り知れないでしょう。しかし、毎日を感謝する気持ちをもって自律的に生きることができるだけで満足ならば、それを失う不安から開放されます。

 法律を学んでいると、どうしても、人間はこうでなくてはいけないと考えてしまいがちです。しかし、そうしたところから解き放たれて、自由に生きることを人格的自律といって憲法は奨励しているのではないでしょうか。

 確かにこの自由はそれを得たとたん、責任を伴うので、急に不自由になります。自由と不自由は表裏一体です。例えば、社会人受験生は不自由な身分から会社を辞めて自由になったつもりでも、実は自分を縛る目に見えないものからなかなか自由になれず、かえって窮屈に感じたりします。つまり、規律の主体が社会から自分自身に変わっただけなのです。しかし、これは気持ちの問題ですから、自らコントロールすることができます。社会の価値に拘束されるのではなく、自らの価値で自分を律することができる。これこそが自由の意味なのです。そして、今日という日を主体的に生きることができるのならば、不安から開放された生き方もまた選び取ることができるはずです。