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2001年5月

2001年5月 1日 (火)

第69回 法を学ぶ

 薬害エイズ訴訟の安部被告に対する一審無罪判決が出ました。

 被害者の方々の無念さは察するに余りあります。この裁判に限りませんが、弁護士というのは悪人の片棒をかついでいて、世の中の常識に反することばかりをやっていると批判されることがあります。また、解雇の正当性を主張する会社側弁護士は、何人もの労働者の首切りに加担していると思われることもあります。法律は冷たいものだし、それを手段として使っていく以上はやむを得ないということなのでしょうか。

 法は一定の価値を実現するための手段です。人権擁護の世界であれ、ビジネスの世界であれ、一定の目的のための制度やルールとして法が存在することは確かです。

 しかし、法は被告人を無罪にするための道具、お金儲けのための道具にすぎないわけではありません。

 法の目的が幸せづくりだとすると、勝っても負けても、心の癒しが真の紛争解決です。そして当事者の心が癒されることがあるとすれば、それは他人のもめごとに真剣になって取り組んでくれる法律家の愛情を当事者が敏感に感じとるからに他なりません。

 そもそも法は人間の営みを対象とします。人間の生命システムは複雑系の典型だと言われますが、その行動もまったく予測がつかない不可解なものです。だからこそ創造的とも言えるのですが、人間の行動などそう簡単に理解できるものではありません。

 こうした人間を相手にする以上は、人間そのものへの洞察、そして深い愛情がなければなりません。非合理的な行動をとる愚かで不条理な人間をそのまま肯定して受け入れ、あるがままの人間として認めなければ、真の法律家としての活躍は望めません。

 法は冷厳なものであり、それを扱う法律家は冷たいと言われます。確かに死刑判決や強制執行の現場などを見るとそう思います。しかし、冷厳な法を扱う者に心の豊かさと温かさがあるからこそ、法は幸せの道具として機能するのです。法が冷厳であればあるほど、それを扱う法律家の心は豊かで温かくなければならないと思っています。

 法を学ぶということは、単なる紛争解決の手段を学ぶことではありません。人間そのものへの深い愛情を感じることなのです。神にしかできないはずの行為に対する畏敬の念、謙虚さを失わず、どこまでも人間、命、愛というものを突き詰めていくことなのです。単なる手段と割り切るとそこで探求が止まってしまいます。哲学、文学、歴史、そうした一見無縁に見える学問を深めて、人間をトータルで捉え、常に人間そのものへ肉薄しようと努力することが必要です。それは自分自身の人間力を鍛えるということと同義です。

 このことは科学者も同じです。たとえナノの世界であっても最後は宇宙につながり、哲学につながります。アインシュタインがそうであったようにすぐれた科学者はすぐれた哲学者です。そして哲学と切り離された科学技術が有害ですらあるのと同様に、哲学と無縁の法学もやっかいなだけです。

 私たちはこうしたことを承知の上で、試験は所詮、試験にすぎないと割り切らなければならないのです。