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2001年11月

2001年11月 1日 (木)

第75回 正義と邪悪

 試験に合否はつきものです。

 この20年間、毎年3回、発表会場で多くの受験生の人生の岐路に立ち会ってきました。そこには、合格はいいもの、不合格は悪いもの。合格は幸せの証、不合格は不幸のどん底という雰囲気が常に満ちています。ものごとを単純化し、2項対立の選択肢にして判断するという思考が幅を利かせているようです。これはその後も続きます。

 給料の高い有名事務所に就職することはいいこと、忙しい割には給料が安いところは損。
 大都市の裁判所が出世コース、地方の支部周りは日陰者。特捜は検察のエリート、毎日無銭飲食と覚醒剤の事件ばかりではうんざり。
 こうした決まりきった価値判断の枠組みの中で、いつも私たちはその評価に振り回されます。最近流行の「文明と野蛮の戦い」だとか、「正義と邪悪の戦い」なども同様です。
 しかし、本当に物事は時代劇やハリウッド映画のようにシロクロをはっきりつけられるものなのでしょうか。たとえば米国流の正義が地球上の多くの地域では悪とみなされていることを今回の事件は世界中に知らしめました。どうやら正義と邪悪の区別はそう簡単ではなさそうです。
 もちろん、法律家は正義を追求するものだと考えますし、法律がシロクロをはっきりさせて紛争解決を図る道具である以上は、事件の勝ち負けも重大です。ですが、そこでの正義はそう簡単に見つけられるものではないからこそ、法律家は判断する際にとても苦しむのです。
 とすると自分に起こった出来事についても、それを単純化し、それに対して簡単に評価を下して結論を出してしまっていいのものかどうか。どうも違う気がするのです。 
 自分自身の身にある出来事が起こったときに、それに評価を下して判断する自分が正しく評価できるほどに大した人間なのかをまず疑ってかかるべきでしょう。失敗した自分に対して判断する自分がそんなに偉いのか、過去の自分を否定するほどに今の自分が偉いのかということです。
 もちろん、十分考えて、決断することは必要です。そしてその決断に基づいて常に行動しなければなりません。決断によって人は人生の方向を決めていくからです。ぐずぐず停滞していたのでは、なにも進化しません。決断は大切です。
 しかし、その決断した結果の意味や価値がどれほどのものかは、その時点において絶対的に判断できるものではありません。合格という事実や、不合格になって方向転換したという事実に新たな意味や価値を与えるのはその後の自分なのです。試験に不合格になり方向転換してビジネスの世界で大成功している人は何人もいます。試験に失敗した経験から共感能力にすぐれた法律家となって依頼人に愛されている弁護士も大勢います。

 ある事実に自分でどのような意味づけを与えるかによって、人生におけるこれらの位置づけは大きく変わります。つまり、自分の意識次第で過去の事実をよくも悪くもできるのです。人に対して2項対立の選択肢の決断を早急に迫ることは得策でないのと同じように自分自身で判断することについても焦りは禁物です。
 起こった出来事を人のせいにしたり奢ったりすることなく、謙虚に受け止め、そこから出発できる人は必ず成長します。事実をありのままに素直に受け止めることのできる力、それが本当の勇気であり人間としての実力です。