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2002年3月 1日 (金)

第79回 自立

 皆さんは新潟の監禁致傷事件の判決をどう思いましたか。些細な窃盗を併合罪として付加して刑を決定するのは罪刑法定主義の観点から批判が多いところです。しかし、他方で被害者の立場に立つと法文通り10年以下の懲役でよいのか疑問です。被告人の立場に立って罪刑法定主義という原理を守るのか、被害者の立場に立って公平という正義を守るのか。これはどちらか一方が客観的に正しく他方は誤りという問題ではありません。判断者の価値観によって結論が異なってくる問題です。だからこそ、人間が行う意味があるのですが、その際に自分の判断が正しいと確信をもって判断することが法律家には求められます。

 また、同時にこうした問題に決断を下すということは、まさに判断者の価値判断によって一方を切り捨てることを意味します。実は価値判断とは衝突する価値の一方を選択し他方を切り捨てるという非常に冷酷な作業だったのです。法律家を志す者はこのことを知っておかなければなりません。

 しかし、よく考えてみれば、私たちは日頃の生活において同じような価値判断という作業を行っています。自立的に生きるとはこうした価値の衝突を自分の価値観によって判断しながら先に進んでいくことです。

 皆さんには思い思いの願望があると思います。択一に受かりたい。期末試験をうまく乗り切りたい。彼女や彼氏との関係をうまく修復したい。家族との時間をもっと大切にしたい等々。しかし、ときにそれらの願望は衝突します。そして、それぞれの願望への欲求が強ければ強いほど、その衝突が葛藤となり、私たちは苦しみます。試験に受かるには勉強時間をもっと増やさなければならない。しかし、そのためには家族との時間を削らなければならない。どちらも大切であるがゆえに深い悩みとなります。友人との時間を削って勉強にあてていいのか。人付き合いが悪くなったと言われて、何か自分勝手な人間になってしまった気がするときがあります。こうした価値の衝突においてその問題から逃げることなく、正面からぶつかって何とか乗り越えていく。それが価値判断をするということであり、自分の人生を主体的に生きるということです。言い換えれば自立的な生き方といえるのだと思います。

 自分はこうありたいと思い、そのためにいくつかの衝突する価値のぶつかり合いを自分の価値観によって決定し、先に進んでいくのです。そのとき、当然、どちらかの価値を選択するということは他方を切り捨ていることを意味します。価値判断という作業は法律家として行う場合に限らず、そのような覚悟が必要なものなのです。

 しかし、同時に切り捨てられる者への愛情がなければならないと思っています。その者の立場に立って共感し伴に苦しさや悲しさを感じようとするのでなければ、そこでの判断は単なる強者の論理や独りよがりとなります。切り捨てられる者への共感と深い愛情があるからこそ、判断を躊躇します。そして苦しみ抜いた末の判断だからこそ受け入れられる余地が生まれるです。こうした価値判断は辛いことです。しかし、その辛さから逃げるためにバリアーを張って自分を守りながら一方を切り捨てるのでは、その判断は説得力を持ちません。自分も心から痛みを感じるからこそ、その判断に人を動かす力が生まれるのです。共感することに伴う痛みや苦しみを受け入れるしなやかな強さが必要となります。