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2002年4月

2002年4月 1日 (月)

第80回 無知の至福

 狂牛病、産地の偽り、ムネオハウス、論文本試験の成績、従軍慰安婦、ハンセン病訴訟、予防接種禍、恋人の本音、南京大虐殺、不良債権の総額、HIV・・・。
 これらの共通点はなんでしょう。

 それは知らない方が幸せだったかもしれないということです。知らぬが仏とはよく言ったものです。

 皆さんはこれらの事実を知らない幸せと知る幸せのどちらをとりますか。多くの疑惑は、明らかにすることが幸せだという発想に立って解明を求められます。
しかし、世の中に多くの矛盾があることを知らなければそれはある意味で幸せです。
国会議員がどれだけいいかげんな仕事をしているか、官僚がどれだけ税金の無駄遣いをしているか、知らなければ、国民は安心しています。理不尽になく人がどれだけいるか知らなければ心を痛めることもありません。無知とは幸福への道なのです。

 今更、気をつけても手遅れだろうとわかっていても、知ってしまった以上気になって焼き肉を食べないという人がいます。食品の産地などまったく無頓着だったのに、不当表示だとわかってしまったので急に不安を感じる人もいます。

 やっていることも中身も今までとまったく変わらないのに、表示だけで、つまり知ってしまっただけで満足度や安心感が変わってしまうのです。本当はこんな表示に踊らされることなく、自分の目や舌で国産か外国産かの区別がつかないといけないのですが、それがわからないから表示で満足するしかないのです。実体ではなく、外形に支配されているわけです。本来、どこ産であろうと自分でおいしいと思えばそれでいいはずです。政治家の行う政治の本質、官僚の行う行政の実体が本当に国民の幸福につながるのならそれでいいはずですが、そのような本質を見ようとしなかったのです。本質を知ろうとぜず、表示という意味のないものを安易に信頼し、あたかも実体のように錯覚してしまったことへのしっぺ返しです。信頼が崩れたとマスコミは騒ぎますが、そもそも民主主義は不信を根底にもつものです。信頼は堕落をよびます。監視し続けることが民主主義の根本です。
 なぜ貪欲に本質を知ろうとしないのでしょうか。

 表示でなく実体を知ってしまうと、一定の意見や、感情を持たなければなりません。知を前提に決断をしなければいけないので、面倒です。そしてその決断について自分で責任をとらなければならなくなるので、うっとうしくなります。もちろん何も考えないという選択もありますが、それは無視つまり、知らないフリをするということです。知ってしまった以上は、何らかの評価や決断、行動を伴います。自分の考えをもち、自分で決めること、その結果について責任をとることが嫌いな人は知らない方がよかったということになります。つまり主体的に生きることを拒否するということであり、隷属的な生き方をよしとすることになります。これは民主主義社会における主権者の生き方ではありません。

 他方、知るということは、不安や責任を伴うことではあるものの、エキサイティングでもあります。知らなければその楽しさがわからないことは世の中にたくさんあります。無知と決別し、自分から情報を獲得して、主体的に生きるという苦難の道もまた楽しいものです。法律を学ぶこともまたこの道のひとつです。