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2002年7月 1日 (月)

第83回 異端の自由

 今回のワールドカップでの日本チームは、外国人の監督の下で、海外経験組の選手が活躍したといわれます。純粋な日本選手にもトルシエ監督のこれまでにない指導方法が大きな刺激になり、海外遠征にも頻繁に連れて行ったことが功を奏したともいわれます。確かに、多様な経験をし、ちょっと異質だと思われるくらいの選手が活躍しているようです。

 もちろん、いくら日本でサッカーエリートとして育ってきたといっても、海外のクラブチームに出ていけば、世界中から集まった精鋭たちの中でもまれるわけですから、これは鍛えられます。サッカーは子どもを大人にし、大人を童心に戻すといわれるように、多くのことを学んできたのでしょう。ですが、一番大きなことは、外から日本を見て、自分や日本チームのことを客観視できるようになったことだと思います。多様な経験は人の視野を広げます。世界の視点からものを見る力や歴史の中で今を判断する余裕を人に与えます。

 こうしたサッカー界の変化を、幕末、若者たちが欧米に出かけ、その経験を生かして近代日本を作っていったことになぞらえることもできます。権利、自由、社会、こうした言葉から作り出さなければならなかった当時の若者たちは、外国に出て大変なショックを受け、また吸収し、変化していったのです。そして、日本の文化伝統と欧米の理念という異質なものをつき合わせて、新たなものを生み出していきました。新しくものを作り出す力はこうして生まれます。

 法律家の世界も同じです。法学部で4年間法律を勉強しロースクール2年と司法研修所でさらに1年以上法律を学び続けた人が法律家になることは、それはそれで意味があるとは思います。しかし、法律以外の世界から異質な人材がどんどん供給され、世界から日本を見た経験のある人が日本の法曹界を刷新していく原動力になるであろうこともまた確かです。女性法律家ももっと増えなければなりません。裁判所に市民を入れるという発想も同じです。同質的な裁判官ばかりでなく、市民の発想もそこに入れることで新しい血が混じり、進歩のきっかけがつくられるのです。少なくとも一票の価値に5倍も差が出ているのに、それを平等だと言うような非常識な裁判所からはなんとしても脱却しなければなりません。多様な経験を経て法律家になるか、法律家になってから訓練するか、どちらかです。

 たとえ、択一に落ちたり、勉強の過程で不安に苦しむ経験ですら、何もなく順調に合格してしまうよりは数段、人間が鍛えられます。自らの経験こそが人間力を鍛え上げる最上の方法なのです。

 どんなに力があっても、決勝トーナメントに進めないことがある。まるで択一試験を見ているようです。そして優れた選手であればあるほど、アジアの気候や審判のせいにしないで、その事実を受け入れている。これにもまた、感動を覚えます。そして、それはそうした苦しみをこれまでも乗り越えてきているからできることなのです。負けても勝っても選手としての価値が下がるわけではありません。次への対処の仕方で差がつくのです。そして、異質な者が競い合う厳しい勝負の世界だからこそ、その中で鍛えられ、本物が生まれてくるのです。