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2003年1月 1日 (水)

第89・90回 謹賀新年

 「私たちが権利を主張すると障害者のエゴだと言われるんですが。」ある講演会でひとりの視覚障害者の方から申し訳なさそうに質問されました。視覚障害者がホームから転落する事故が耐えないので安全策を講じてほしいと要求すると他の多数の人の負担や不便になるからと断られる現実がこの国にはあります。

 私たちは福祉や人権を本の中で学びます。ですが現場に出ると障害者への接し方一つとっても知らないことばかりだと気づかされます。視力を失い文字が読めなくなったりしても個人的な問題ですが、それを理由に就学就労の機会を失うなどの社会的不利益を受けるとそこで始めてハンディキャップとなります。社会的な多数派が意識的にまたは無意識のうちに少数者である障害者を排除して社会のシステムを作り上げてきたところに問題の本質があるとようやくわかってきます。

 福祉の問題はこれまで社会や国家に与えてもらうものだと考えられてきました。確かに社会権は国家に作為を要求するものだと学びます。ですが本当にそうなのでしょうか。すべての人は生まれながらに人間の尊厳を維持して生きる権利を保障されています。個人の尊重です。どのような障害をもっていようが人として幸福を追求する権利を有しています。それを多数派を前提とした社会や国家が奪っていると考えることはできないでしょうか。
社会や国家が与えていないのではなく、奪っていると考えるのです。与えろと主張するのではなく、奪うなと主張できると考えていくのです。社会権から自由権への転換です。

 関所を設けて自由に旅行できなくすることは居住移転の自由を侵害しますが、それと同じように、点字ブロックや柵をそなえず、安全で自由な旅行ができない駅をつくることも人権侵害です。テレビや新聞のある情報を特定グループの人だけに知らせないとしたらそれは憲法21条に違反します。それと同じように駅の券売機に関する情報を視覚障害の人にだけ知らせないようにしたらそれも知る権利を侵害しているのです。

 世の中はことごとく多数派に便利なようにできています。視覚についての多数、聴覚についての多数、運動能力についての多数、知能についての多数、仕事をする性別の多数、信仰についての多数、民族についての多数等々。こうして世の中は多数派を基準に作られるので少数者には住みにくい社会になっています。逆に完全な強者にとっては住みやすい社会かもしれませんが、すべての面での強者などいません。誰でもなんらかの弱い部分をもっています。

 そこでもっと多様性を根本のところから認めて、異なった立場の人たちがそれぞれの幸福を追求できる社会の仕組みに変えていくことはできないでしょうか。少数者に配慮した社会をつくろうとすることは、すべての者にとってより住みやすい社会をめざすことになるはずです。障害者も含めて、すべての人がお互いの多様性を認め合い、少数者がいることを当然のこととして社会を組み立てることができたらどんなにすばらしいことでしょう。そのような要求を権利として認めていくことが幸福追求権に他なりません。この権利は社会を変えるために堂々と主張すべきであり躊躇する必要などありません。憲法は世界のレベルでそれを実現しようとしました。世界中のマイノリティが平和の中で人間としての尊厳をもって生きられる社会を作ること。それが憲法の理想なのだと思います。この理想に一歩でも近づける年であることを願ってやみません。