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2003年9月 1日 (月)

第97回 個人と公共

私は、子どものころから高いところが好きです。視点の変化が楽しくて、木登りが大好きでした。先日、話題の六本木ヒルズの展望台に昇ってみました。小学生のころ東京タワーから見て感動した景色がまったく違って見えました。高いところから東京という都市を見ると一見して気がつくことが2つあります。ひとつは高いビルがまばらで、地面に張り付くように小さな家屋が広がっていること。もうひとつは公園や広場などのオープンスペースの少ないことです。よく公園の狭さはNYやロンドンなどとも比較されますが、それだけでなく、ヨーロッパの都市の建物の多くは中庭を持っていて、そこの緑が都市に生活する人びとに潤いを与えています。また街といえばどこにも必ずある大小の広場が東京には見あたらないため、都市の印象をかなり窮屈なものにしてしまっているようです。

 NYのように極端に垂直方向へ発展した都市が好きなわけではありませんが、もう少しメリハリがあってもいいように思います。パリでもロンドンでも従来の街並みのよさを損なわないように最大の配慮をしつつ、新しいものを取り入れています。また、多くの国では政治、経済、司法、文化、芸術、教育などさまざまな機能を都市ごとに分散し、それぞれの街が特徴をもった姿を持っています。分散つまり役割分担とメリハリがキーワードだと感じました。

 日本で権力分立がほとんど機能していないことは、憲法で学びますが、こうした集中傾向は都市の場合も同じようです。確かに権力に限らず、多くの事柄は分散するよりも集中した方が効率的です。ですから効率を最大の価値とする社会では集中を求めることになります。しかし、権力の抑制による腐敗の防止や、生活の余裕などに価値を置こうとすれば、集中よりも分散の方がよいはずです。より成熟した社会、人間らしい豊かな社会を目指すのならもう少し余裕があってもよいように思います。別に皆さんにスローライフを勧めるというわけではありませんが、こうしたことを考えることが同時に個人と公共のあり方を考えるきっかけになる気がします。

 ヨーロッパでは、街ごとに屋根の色や建物の高さが一定であることに驚きます。景観にものすごく気を使っていることがわかります。窓辺に花を置くかどうかも規則で決まっているほど面倒ですが、逆に統一された美しさは、街の住民の誇りになっています。個人主義だといわれるヨーロッパでもこうした共同体としての一体性を実に大切にしているのです。イタリアなども、その明るい国民性から、自由奔放でまったく秩序がないようにみえます。しかし、この20年くらいの経済の復興を支え、都市の再生を支えてきた秩序と計画性には目を見張るものがあります。都市の中心部では車を締め出して歩行者を大切にし、快適な空間を創る。田園地帯に工場を作る場合であっても、地域の景観を壊さないように気を使いながら地域に溶け込んで地域の雇用を作り出してきました。

 日本でも、一人ひとりが快適に生活できる公共空間とは何か、個人をベースに考えた公共性とは何かを真剣に考える時期に来ています。公共を無視した個人を語っても、人びとの幸せの総量が増えるとは思えません。地域の街づくりを本気で考えることが、この国のあり方を考えることにつながり、自分たちのことは自分たちで考えて決めるという民主主義国家への第一歩になるはずです。

 高いところから景色をみると大きなことを考えたくなってしまう悪い癖は、どうやら変わっていないようです。