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2003年12月

2003年12月 1日 (月)

第100回 無知の知

 必死になって努力したことが報われないとき、なぜなのか、わけがわからず呆然とすることがあります。自分の身に降りかかる理不尽な出来事の意味がわからず、ただ苛立つときがあります。

 受験勉強をしていると少なからず感じることがあるはずです。私の場合には、たとえば、これほどまでに法曹養成を真剣に考え、骨身を削って日々努力し続けているにもかかわらず、嫌われ、疎まれ、痛めつけられるのか、わけがわからないときがあります。私は、人にはその人の大きさに合った試練が用意され、それを乗り越えることが期待されていると考えています。ですが、現実に大きな試練にぶち当たり、その壁の高さを見せつけられると思わずひるむこともあります。そんなとき、普段から、絶対に最後まで諦めるなと皆さんに言っているのですから負けられません。なんとしても試練を乗り越えてやろうと思います。

 ただ問題はその方法です。なぜ自分にこうした重い試練がのしかかってくるのか、そのわけを知りたいと思うのですが、それを知ることはできません。

 そもそも私たち人間が知ることができる知恵とはたかがしれています。ソクラテスが言っているように、死とは人間にとって良いことか悪いことか誰も知らないにもかかわらず、誰もがそれを悪の最大のものと確知しているように怖れるのです。何でもわかったように説明しようとしますが、それは無知ゆえのことです。自分のことは自分が一番よく知っていると思いがちですが、実は自分が一番知らない。わからないからまた悩む。自分の限られた知恵によって、自分の身に降りかかったことの意味を知りたがるから苦しいのです。

 試験に落ちた意味、彼氏や彼女にふられた意味、親をなくした意味、リストラされた意味、親友に裏切られた意味、ありとあらゆる理不尽の意味を探ろうとして苦しみます。その理由を自分の知恵によって解明できると考えているのです。しかし、それは傲慢です。

 人間の知恵ではあらゆる出来事、身に降りかかることのわけを知ることなどできません。地球が太陽の周りを回っていることや人間の身体の仕組みが少しずつわかってきたからといって、物事の道理がわかるようになってきたと思うのは思い上がりです。実は何もわかっていません。そもそも心とは何か、まったくわかっていません。なぜ人は犯罪を犯すのか、なぜ戦争はなくならないのか、わかったような説明がなされても真理とは思えません。

 第一、私たちはなぜ生まれてきたのか、なぜ生きているのか、なぜ死ぬのか、そうした自分にとって最も根元的なことについて何も知りません。とすれば、なぜこんな試練に直面するのか、障害が続くのかを理解して、理屈でその壁を乗り越えようとしても無駄なのです。自分の知恵で乗り越えようとしても、それはさらに苦しみを増すだけです。ただただあるがままを自然体で受け入れることによってのみ克服可能なのだと思います。きっと自分の知恵では知ることができない意味があるはずです。そのことさえ知っておけば、あとは淡々とねばり強く前に進むだけです。それで十分なのだと思います。私はそのようにしなやかに強く生きていきたいと思います。