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2006年8月

2006年8月 1日 (火)

第132回 蝉の声

 夏になりました。都会でも蝉の声が聞こえます。7年間も土の中でじっとしていて、地上に出てきて懸命に鳴き続けて1週間でその命を終えます。(※)
「何のために生まれてくるの?」「どうしてたった1週間なの?」子どものころそうやって親を困らせた経験はありませんか。

 自然は不思議です。きっと何か意味があるのでしょうが、人間の価値基準ではわからないことがたくさんあります。その蝉の命も一度失われると二度と元には戻りません。人間の命と同じです。捕まえた蝉が死んでしまうと、この一匹の命は戻ってこないと子どもながらにも思いました。他にもうるさいほどに鳴いているのに、自分が捕まえた蝉は特別だったのです。

 自分たちのまわりに起こる出来事であっても、その意味を考えてもわからず、ひたすら受け入れるしかないことが数多く起こります。なぜ、この地域の人たちだけこうした自然災害に遭わなければならないのか。どうしてこの時代の人たちだけ戦火に追われなければならなかったのか。こうしたことは皆、自然の摂理として受け入れなければならないことなのでしょうか。

 人間は残酷な生き物だから、暴力はなくならない。闘うことは本能なのだから戦争はなくならない。差別は人間の卑しい本性に基づくものだからなくならない。こうしたことがしたり顔で、あたかも自然の摂理のごとくに語られることがあります。確かにテロリストを人間と見ないで拷問を正当化するアメリカやレバノンでのイスラエルの無法ぶり、北朝鮮のミサイルテスト後の朝鮮学校生徒へのいやがらせなどを見ると、そのように悲観的にも思えてしまいます。

 しかし、おかしいと感じるものに対しては、しっかりと声を挙げることもできるはずです。自然の摂理だとか真理だからという言葉に惑わされないで、疑ってかかることが知性を持った人間の対処の仕方です。もちろん人智の及ばないこともあるでしょう。しかし、人間が自分たちの意思でコントロールできることもまた無数にあるはずです。原理、真理、摂理といった言葉に惑わされることなく、しっかりと自分の頭で考えて行動することが、特に法律家には求められます。

 ひたすら信じることや畏れをその本質に持つ宗教と違って、学問は疑うことから始まります。憲法で学ぶ人類普遍の原理という言葉すら一度は疑ってみることで、その本質を理解することができるようになります。

 相手を同じ人間として見ないところから差別が生まれます。殺してもいい人間と、守られるべき人間がいるという分断、排除の論理から戦争は生まれます。そして、正義の戦いを叫ぶ権力者は安全なところにいて死ぬことはありません。弱い者から犠牲になっていきます。

(※)...飼育によると1ヶ月以上生きた蝉の記録もあるようですが、私が子どものころ捕まえた蝉は飼い方が悪かったのか、1週間も持ちませんでした。かわいそうなことをしました。