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2006年10月

2006年10月 1日 (日)

第134回 自由

 私たちは自分の生き方や幸せの定義について、人から強制されない自由を持っています。特に私たちの内心には国家は介入できません。9月21日に東京地裁で画期的な判決が出ました。東京都立の高校などの入学式や卒業式で東京都教育委員会が日の丸に向かっての起立や君が代の斉唱を教職員に強要するのは違憲であるとして損害賠償が認められたものです。

 憲法を理解している者からすれば、あまりにも当然の判決なのですが、画期的な判決と言われてしまう社会に生きていることが悲しくなります。もちろん、日の丸や君が代にどのような思いを持つかは人それぞれであり、すばらしいと思う人がいてもいっこうにかまいませんが、問題なのは、それを国が強制することにあるという点についてはしっかり理解しておかなければなりません。

 明治憲法を起草した伊藤博文は、国家統治のための手段として、日本古来からあった神道を組み替えて、国家神道として天皇制とともに利用することにしました。同時に天皇制国家へ国民の意識を向けていくためには、シンボルも必要となります。そこで、平安末期から祝い歌として歌い続けられてきた古歌に曲をつけて、「天皇統治の時代が永遠に続きますように」という意味の歌に変えました。1880年の天長節に宮中で始めて演奏されたものが君が代です。

 日の丸もまた、徳川幕府が1854年に船の旗として定めたのが始めのようですから、けっして日本古来のものではありません。君が代とともに、まさに、ときの権力者が天皇の下に国民を支配するために創り出し、国民を天皇のために戦争に駆り立てるための道具として利用されてきたものです。

 ただそうだとしても、客観的に国旗や国歌がどのような意味をもっているか、どのような意味を象徴しているかは問題ではありません。たとえば、フランス国歌はとても過激な内容になっていますが、それが問題なのではありません。重要なことは国民がそこからどのような意味を感じるかは、一人一人の個人の問題だということです。国旗や国歌というシンボルにどのような気持ちを持つかはひとり一人の自由であり、まさにその人らしさの問題です。

 同じように、ある出来事をどう感じ、どう評価するかも一人一人の問題であり、その人らしさが現れます。たとえば、試験の合否の結果もそうです。この社会的には些細な、しかし個人的には大きな出来事をどう評価するかはまさにその人らしさが現れる場面です。不合格の事実を突きつけられたときに、それを自分なりにどう評価し、それにどう答えていくかについては決まった正解がありません。一般的なものさしで評価して、試験に失敗したのだからだめだというように自分を決めつける必要はどこにもありません。

 私たちは生きているうちに、仕事や人間関係を始めとして多くの課題に直面します。そのたびにそれを真正面から受けとめ克服していく、そうした経験から得たものはかけがえのない財産になります。結局はそうして逃げずに自分を磨き続けることができたかで、将来の自分が決まっていくのです。まわりや他人の評価など気にせず、事実に向き合い、自分らしくその事実を評価して努力を続けていけばいいのです。それが憲法の保障する自己決定権であり、自立した個人の自由です。たとえつらくても自分らしく生きようとする勇気ある受験生を私はこれからも応援し続けます。