« 2007年2月 | メイン | 2007年4月 »

2007年3月

2007年3月 1日 (木)

第139回 不都合を受け入れる

 私たち人間は迷うことがあります。たとえば裁判です。本当に被告人が真犯人なのか無実なのか裁判官にもわからない。そのときにどう行動するかを予め決めておけば判断に迷うこともなく、悩むこともありません。それが無罪の推定です。裁判官も人間ですから、判断を誤ることがあります。そのときに私たちがどのような過ちなら受け入れることができるかを予め決めておくのです。「真犯人を取り逃がす過ち」と「無実の人を処罰してしまう過ち」と社会はどちらを受け入れることができるかを決めておきます。

 憲法は後者を選択しました。一人一人がかけがえのない命を持っていて、社会のためにそれを犠牲にすることは許されないからです。残念ながらまだ日本の社会が真犯人を取り逃がす不都合の方がまだましだという感覚をもっていないため、無罪判決を下す裁判官には相当な勇気が必要なことがあります。しかし、仮に疑わしきは罰するという判断基準の下で失敗したら、取り返しがつきません。特に日本には死刑制度がありますから、ここでの失敗は修復不可能です。真犯人を取り逃がす失敗があっても、他の方法による社会防衛や被害回復は可能です。修復可能な不都合の方を受け入れるべきなのです。

 憲法9条の改訂も同様です。一度9条2項を削除し、アメリカと共に軍事行動をとる普通の国になってしまったら、もう元へは戻れないでしょう。一度持ってしまった軍隊を放棄することは、再び大きな戦争でひどい目にあわない限り不可能です。軍と軍需産業の癒着が進み、軍が私たちの生活の隅々まで入り込むことになります。一度捨ててしまったら取り戻せないことには慎重であるべきです。確かに9条の条文と現実が不一致だと不都合を感じるかもしれません。ですが、その不都合と9条2項を捨て去った場合の不都合を比較してどちらを受け入れることができるかの選択が必要なのです。

 こうして考えてくると、判断に迷ったときには、受け入れることができる不都合はどちらか、修復可能な不利益はどちらかをしっかり考えることが必要であることがわかります。

 勉強でも同じです。新しく資格試験の勉強を始めようとするときに、自分は合格できるだろうか、自分に向いているだろうかと迷うのは当然のことです。すでに勉強を始めている人でも、こんな模試の点数で合格できるだろうか、と不安になるのは当然です。ですが、こうしたことも今の自分に正確に判断できるわけがありません。誰にもわからないことなのです。としたら、諦めるのと頑張ってみるのとどちらの不都合の方なら自分は許容できるかを考えてみてください。挽回可能な失敗はどちらか。これまでの私の経験からは、諦めた後悔は一生続きます。
 しかし、一時的な失敗の経験はむしろ将来の糧になります。勉強での失敗などたかがしれています。それを怖れて自分らしく生きることを捨ててしまう方がよほど残念なことに思われます。

 私たちは迷いながらも常に自分の人生を選択して生きていかなければなりません。確かに社会の常識からすると今さらこうした難関試験に向かうのは無謀だと言われるかもしれません。しかし、自分の人生です。自分にとって何が幸せなのかを自分で決めることができるのです。それが個人の尊重という憲法の価値です。世の中の常識や世間の眼などに惑わされることなく、自分ならどちらの不都合を受けいれることができるかを、自分の意思で勇気をもって判断し、堂々と挑戦すればいいのです。