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2007年5月

2007年5月 1日 (火)

第141回 力と理

 4月27日、中国人の戦後補償問題について重要な判決が出ました。実体法上の権利はあるが、国家間の条約により個人が裁判所を利用して請求することはできないというものです。条約の趣旨や法的安定性を考慮しての判決と思われますが、理不尽に苦しむ被害者の救済という具体的妥当性の観点からはどうでしょうか。

 先月は、長崎市長の銃撃事件やバージニア工科大学での銃乱射事件もありました。報道によるとこれらの犯人もいろいろと思い通りにいかないことがあったようです。しかし、そうであっても、暴力という力に訴えることは、許されません。

 インターネットの世界ではときどき、暴言の応酬がなされていて、読むに耐えないことがあります。他人を一方的にけなして終わり。議論を進化させようとする姿勢はみじんもありません。

 誰かと意見が対立したときに、自分と意見の違う人から暴力を受ける恐れがあると感じると、怖くて意見を言えなくなります。日本社会ではただでさえ、人と違うことを言ったりすると、場の雰囲気を壊すとか、空気が読めないなどとのけ者にされがちです。

 みんなが黙ってしまったら、多様な意見が出てこなくなり、民主主義が成り立たなくなります。民主主義はそもそもどのような結論が正しいかわからないからこそ必要なルールです。誰の意見も平等に価値があり、それをみんなで聞いてから判断しようとするものです。自由にものが言えなくなったらそれは民主主義ではありません。

 こうした銃や言葉の暴力と同じくらい民主主義に対する脅威となるものとして、議会などでの強行採決をあげることができます。十分な審議をしていないにもかかわらず、多数の数の力によって相手をねじ伏せようとする態度は、暴力と何も変わりません。

 少数派の人たちが、自分たちが意見を言っても無駄だ、聞いてもらえないし、どうせ強行採決されてしまうのだからと諦めてしまうようになったら民主主義は成り立ちません。暴力という力と多数の力はときに同じように民主主義を危うくします。

 暴力反対であるのならば、多数の横暴も、資金力など経済力による横暴も、そしてもちろん軍事力という力によって紛争を解決しようとする姿勢も止めるべきです。そうでなければ一貫しません。何事も強引な力によって解決する姿勢を憎むところに真の民主主義の理念があるのです。

 そして、そうした力による政治や紛争解決が行われようとするときに、理によってそれを正し、正義を回復することが司法の役割です。国家の論理や力の政治によって理不尽を押しつけられた個人の尊厳を守り、一人ひとりがテロや暴力などの力に訴えなくても理不尽を回復できるシステムが機能してこそ、社会の安定は保たれます。法的安定性を重視するがあまり、具体的妥当性という正義をないがしろにしたのでは、かえって社会が不安定になってしまうことを司法の場で仕事をする者は知らなければなりません。

 国際紛争は、軍事力という力ではなく外交で解決するべきです。市民の間の紛争は暴力ではなく、裁判などで解決するべきです。そして、政治的意見の違いは、数の力で押し切るのでなく、十分な話し合いをもとに解決していくべきなのです。それが、強い力をもった為政者や特定グループから少数派を守るという役割を持つ憲法の理念に合致する態度だからです。

 そのためには国家のレベルでは外交力をつけ、制度としては司法が機能するようにし、個人のレベルでは議論する力を高めることを憲法は求めています。憲法施行60年の節目にこうしたことを再確認する意味はあるはずです。