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2007年12月

2007年12月 1日 (土)

第148回 応援

 もうすぐ一年が終わります。今年も1年間、さまざまな試験の受験生を応援してきました。試験会場で、そして発表会場でその姿を見送ってきました。また、憲法を守ろうとする市民団体の集会に呼ばれ、講演活動を通じて憲法価値を守ろうとする多くの人々を応援してきました。どのような応援の場であれ、その都度思うことがあります。これまで、何千回、何万回、口にしたかわからないのに、自分には「頑張ってください!」と応援する資格があるのだろうかと。

 「やればできる。必ずできる。」といって受験生を励ましていますが、実際には思ったようにできずに諦めてしまう人もいます。今、自分が応援している人たちはしっかりと成果を出せるだろうか。これだけ頑張っている人たちにさらに「頑張れ」と声をかけることは精神的に追いつめてしまうことにならないだろうか。こうした悩みの中でそれでも「頑張って」と声をかけています。

 憲法の集会でも同様です。憲法価値を守ろうとする老若男女は、必死に頑張っている人が多いのです。平和や人権など当たり前の価値を大切にしようと言っているだけなのに、まわりからは「サヨク」とレッテルを貼られ、変わり者のように見られたり、偏見をもたれたりすることがあります。

 体制に迎合しないだけでも、価値のある言動ですし、立憲主義の精神からすれば当たり前の市民活動であるのに、時代に合わない、空気を読めないということなのでしょうか、小馬鹿にされることもあります。そんな中で頑張っている人たちに講演でさらに「頑張ってください」と声をかけることに意味があるのか、正直いって躊躇することがあります。

 少し前に、「東京大学応援部物語」(最相葉月著、新潮文庫)を読みました。東大野球部は六大学野球でなかなか勝てません。たった1勝でもニュースになるくらいです。それでも応援部員は必死で応援します。勝利というわかりやすい形で報われることのない応援を何のためにやっているのかと自問自答しながらも、自ら血のにじむような練習をしています。

 このノンフィクションの中に、自分が考えてきたことを言葉としていくつも見つけました。「応援する人間は応援される人間より強くなければならない。」「より努力する人間こそ、人に対して頑張れといえる。」「運動部の選手たちから感謝されることを期待してはいけない。」(33頁)などなど。

 自己陶酔、全体主義、思考停止などの私がもっとも嫌う概念に近いと思われてしまいそうな応援部に自分との共通点を見いだして驚きました。自己犠牲に憧れた若いころの自分を投影していたのかもしれません。

 誰かのために何かをしたいと願う心は、応援する側だけでなく、応援される側も持っているはずです。真剣に他者を思って行動する。実践する。ねばり強く継続する。そこで人は強くなり、人間らしく成長するのだと思います。

 結果が見えないことに対して、頑張り続けることは大変です。でも、そこに意味がある。プロセスには価値があるからです。もちろん、結果を出そうと頑張り続けるのですが、その過程で成長できたからこそ、結果を出せるのです。試験の合否も、その結果を自分なりに受け止め、前向きに活かすことができれば、必ず、成長できます。そのための日々を大切にすることができます。私はそうした時間を多くの受験生とこれからも分かち合っていきたいと思っています。来年もただひたすら応援し続けます。