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2010年3月

2010年3月 3日 (水)

第175回  個人と国家

ドイツにいた中1のころ、市内のスケート場に行ったらそこでカーリングの試合をしていて使えなかったことを覚えています。初めて見たその競技のなんとなくのんびりした感じがとても印象に残っています。見かけの穏やかさと違って激しい精神的な闘いがあり高度な集中力を要する難度の高いスポーツだということは後になって知りました。

どんなスポーツでも高度の集中力と持てる力を発揮する強い精神力が必要なことはいうまでもありません。特にオリンピックともなると想像もできないほどのプレッシャーの中で普段どおりの力を発揮しなければなりません。ときには国を背負って出場する気持ちになる人もいるかもしれません。しかし、本来ならばそのような気負いは無用なものです。

オリンピックになるとナショナリズムや国旗・国歌をめぐる議論が起こることがあります。ちなみに表彰式で流れる歌や旗は、かつては国旗国歌だったようですが、1980年にIOC憲章が改正されてから、選手団(各地域のオリンピック委員会)の旗・歌となっています。選手団は国連承認の国単位ではなく国と同等に扱われる地域(country)単位となっているため台湾、香港なども参加します。

オリンピックでもっとも重要なことのひとつは、「選手間の競争であり、国家間の競争ではない」という点でしょう(憲章6条)。まさに日本国憲法と同じく国家主義ではなく個人主義をベースにしているのです。1936年のベルリンオリンピックでのナチスの例を挙げるまでもなく、オリンピックは常に偏狭なナショナリズムの危険と緊張関係にありました。選手だけでなく、応援する側の知性が問われる競技大会と言えるでしょう。

最近、国家と個人の関係を考えさせられる事件がもうひとつありました。政府が高校授業料無償化をめぐり朝鮮学校(北朝鮮の民族学校)の除外を検討しているそうです。拉致担当大臣の発言がきっかけですから北朝鮮に対する制裁の一部とでも考えているのでしょう。

国家間の紛争の制裁を何の罪もない子どもたちに対して行うことは許されません。
憲法のみならず、国際人権規約(社会権規約)13条2項、人種差別撤廃条約5条、子どもの権利条約28条などに明らかに違反します。国際社会から民族差別と受け止められるに違いない行動をなぜ政府はとろうとするのでしょうか。

拉致被害者や犯罪被害者の立場に立って想像力を働かせることはとても重要なことです。しかしだからといって、国家の側に立って個人に制裁を加えることに安易に賛同してはなりません。また、自分と国家を重ね合わせて安心するというメンタリティーは成熟した市民のものではありません。

先日JICAで、民族対立によって内戦や虐殺を繰り返してきたアフリカからの研修生に対して平和構築の講義をしてきました。どうしたら憲法に従った安定した政治を実現できるかを皆さん真剣に考えていました。そこでは立憲主義を実現したいという真のエリートの個人の意思が国家の先行きに大きな影響を及ぼします。

塾生の皆さんも試験が近づくと憂鬱になったり孤独を感じたりするかもしれません。ですが、そうした試練を通じて自分自身を磨き上げ、個人としての心の強さを身につけていくのです。皆さんが合格後に仕事をする場は、まだまだ人権も民主主義もコンプライアンスも未成熟な日本社会です。鍛え抜かれた皆さんの強い意志の力でよりよい社会に変えていかなければなりません。
つらいときこそ自分を鍛えるチャンスです。頑張ってください。