« 2010年10月 | メイン | 2010年12月 »

2010年11月

2010年11月 2日 (火)

第183回 法を学ぶ意義

米国の報復戦争が始まってから10年目に入ったアフガニスタンでは、これまで一般市民の被害が相次ぎました。
その結果、反米感情を増幅させ、それがタリバーンの復興を許す土壌を作ってしまったとの反省から、昨年から米軍では、相手が敵だと百パーセント確信できなければ、撃つなという規則を徹底させているそうです。敵と確信しても殺害せず、まず手足を狙って撃つルールになったことに対して、ある下士官は「われわれ軍人にとっては、相手の頭や心臓を狙って撃たないこと自体、経験したことがない『異文化』だ」と語ったそうです(2010年10月15日朝日新聞)。

こうした軍隊の本質に反するような努力にもかかわらず、反政府武装勢力によって市民が巻き込まれる被害は増加しているようです。
地元の治安維持にとって重要な役割を果たす地域警察の腐敗が深刻で十分に機能していないとの報告もあります。
戦後復興支援は、それまで武器を手にしていた人々が、武器を捨てても生活していける糧を確保しなければまた元に戻ってしまいます。また警察官などの公職につく者も賄賂がなければ生活できないような困窮を強いられれば腐敗するのも当然です。
こんなことは初めからわかっていたことですが、軍隊を持つ国による復興支援策はどうしても軍事力に依存してしまいがちです。

農業などの産業復興支援を含めて、武器を持たない国ができる平和構築支援の可能性は無限にあります。
軍隊を持たない日本だからこそできる国際貢献がそこにあるのです。不自由が人を自由にすることがあります。
いろいろな制限を受けて不自由だからこそ、知恵を絞っていろいろな可能性を見つけ、むしろ自由になれるのです。
時間は制限されているからこそ、その使い方を工夫しようと努力します。記憶力に自信がなくなったらそれを理解力や応用力で補っていこうと努力します。

国家も同様です。軍隊を持たない、武力によって紛争解決しない、武器を輸出しないと自らを縛り、不自由であるがゆえに逆に平和構築において自由に活動できる可能性が広がっているのです。これは国際貢献での可能性だけではありません。
尖閣諸島などの領土問題でも同じことが言えます。外国との領土問題においても憲法は、徹底して対話・言葉による交渉で解決の道筋をつけることを要求します。
武力による威嚇を紛争解決手段に使わないと自らを縛り国家に不自由を強います。

軍事力に依存しないのですから、その分、外交力、政治力、経済力、文化力、そして理念の力をつけなければなりません。
そのための先見性、バランス感覚、国民の胆力も必要になるでしょう。経済のみならず人権、民主主義、平和という理念において一等国となってこそ、「国際社会において、名誉ある地位」(日本国憲法前文)を占めることになるのです。
自国のことのみに専念して他国を無視するようでは世界から尊敬を集めることはできません。自らに不自由を課した日本だからこそ、国家という枠組みを超えて地球規模で環境、エネルギー、食料、貧困、飢餓、災害対策などさまざまな分野で「人間の安全保障」に貢献できる可能性を秘めています。

そのためには、答えがわからない未知の問題に対して自分の頭で考えて決断し、その結果を事実と論理と言葉で説得する能力を身につけた真のエリートが、社会のあらゆる分野で活躍することが必要になります。法を学ぶことはこうした能力を身につけ、真のエリートとしての自覚を持つきっかけとなります。
たとえ法曹や行政官にならなくても、憲法の理想とする「全世界の国民が恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」を享受できる世界に近づける役割を果たすことができるのです。