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2011年11月

2011年11月 4日 (金)

第195回 貧困と法律家

1%の金持ちが99%の富を握っているとして「ウォール街を占拠せよ!」という合い言葉でアメリカから始まったアクションが世界中に拡大していきました。10月15日には日本を含む世界各地(約80カ国・950以上の都市)の「反格差デモ」に広がります。

ノーベル経済学賞受賞のクルーグマン教授は、ウォール街の人々は「複雑な金融商品を売り歩くことで金持ちになった」が、それは「米国の人々に利益を分配するどころか、危機に陥れた。まさにこの金融危機の余波が、何千万人もの市民の生活を苦しめ続けている。それでも彼らはなんの代償も払っていない。金融機関はほとんど無条件に、納税者によって救済された。……何百万ドル(何億円)という所得の人が、中所得者よりも税の負担率が軽いというような『抜け穴』によってもうけている」という不正義を指摘しています(10.13朝日新聞より)。

創意工夫によって利益を上げることは当然に認められてよいことです。ですが、その富の分配、税負担においての公平という観点や、富のためなら国家や地域を経済危機に陥れてもよいのかはまた別の問題です。経済的利益だけではない価値があるはずだと考えます。

先進国といわれる国でこうした格差・貧困が深刻化していますが、日本も例外ではありません。
2011年6月時点で、生活保護受給世帯は過去最高の約147.9万世帯となり、受給者数は約204万人と過去最高で1951年と同水準になりました。子どもの貧困率は15.7%(2009年)です。ワーキングプア(年収200万円以下)は1000万人を超えています。5年連続1000万人超で、2009年は民間給与所得者の24.4%を占めています。餓死者数も1995年から急増し、その後の11年間で867人が餓死しています。そんな中で3.11大震災が起こりました。憲法13条、25条の重要性が再認識されるべき時代であることは明らかです。

こうした状況の中で、司法修習生への給費制が廃止され貸与制に移行しようとしています。
司法制度はいうまでもなく国家組織の基礎的インフラであり、これを担う人材の養成費用は国家が負担するべきものです。たとえ権力と対立する弁護士であっても、企業法務によって大きな収入を得る弁護士であっても、その目的は法の支配、憲法価値の実現なのですから、国民に奉仕する点において裁判官、検察官と本質的な差はありません。

明治憲法時代は、天皇により近い官の地位が高く待遇も厚く、弁護士など天皇からの距離があるほど、自己負担で資格をとり、その後も自己責任でした。しかし、戦後、国民主権となったことにより、国民との距離は皆、等距離であり、その役割も等価値であるとの認識のもとに、裁判官、検察官、弁護士への給費制による統一修習が1947年5月3日(憲法施行日)から始まります。まさに日本国憲法の価値を具体化するためにこの給費制による統一修習が始まったわけです。

そしてこの給費制は、受験資格が一切ない司法試験と相まって、意欲と能力さえあれば誰でも法律家になれる道を開いてきました。経済的理由から生活に困難を感じている人であっても弁護士になって社会矛盾と闘うことができる制度だったのです。
それが司法制度改革の名の下に法科大学院ができ、一気に法律家になるための経済的ハードルが上がりました。そのうえさらに給費制廃止では、ますます法曹をめざすことができる層が限られてしまいます。

三権の一角を担う人材が薄くなり司法の力が落ちることは、国会、内閣という政治部門にとってはありがたいことのように見えるかもしれません。しかし、民主主義は立憲民主主義なのですから、司法が健全に機能して初めてうまくまわるのです。司法権の担い手の層が薄くなることは、国家の統治制度全体へのゆがみに拍車をかけることになります。限られた国家予算を適正に配分することは重要です。だからこそ、経済的効率性だけで判断することなく、法曹養成制度の憲法的価値を認識した上での制度設計を強く求めるものです。この問題は決して人ごとではありません。