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2011年12月

2011年12月 5日 (月)

第196回 アスベスト裁判

アスベストの健康被害を知っていますか。70年代に大きな社会問題になった公害問題に比べても、規模においては四大公害事件よりも大きく、被害発生地域も限定されません。公害問題以上に国民の関心が寄せられるべき問題ですが、認知度が高いとはいえません。
戦前の軍需で栄えた大阪・泉南地域の石綿紡績業は、戦後、在日コリアンなどの社会的、経済的弱者がその工場で働き、高度成長を支えました。ところが、工場で働けば、石綿粉じんによる曝露によって命を落としてしまう危険があります。
国はそのことを知りながら、労働環境の改善には無策でした。

2010年5月の大阪地裁の勝訴判決は、そういう国民の無関心と労働行政の無策に一矢報いるものでした。
地裁判決では、当時の労働大臣にとって石綿粉じん曝露による健康被害対策が喫緊の重要課題であり、石綿粉じん曝露防止策を策定することが強く求められていたこと、使用者に人的、物的、経済的負担を負わせることが、労働者への安全策をとらない理由にはならないことがはっきり示されたからです。

ところが、2011年8月の大阪高裁判決では、逆転敗訴の判決が言い渡されました。
判決は、違法性の判断に石綿製品の社会的必要性や工業的有用性をも考慮すべきだとし、労働行政として被害対策をどうするかは、そのような様々な要素を考慮して行われるべき旧労働大臣の高度に専門的かつ裁量的な判断に委ねられるとします。結論として、大臣の権限不行使は、許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くものではない、と判断しました。

そこには、生産の効率性に傾斜した発想をみることができます。
危険性よりも工業的有用性や社会的必要性が勝っていれば違法としない、多少の人の命を犠牲にしても、それ以上に日本という「国家」が発展すればそれでいいという発想です。
そこには、日本に暮らす「個々の人間」を尊重するという発想はありません。憲法の根本価値である「個人の尊重」(憲法13条)の欠如です。そういう官僚的発想を司法が追認したのがこの判決といえます。

こうした発想は、原発行政に似ています。「事故は絶対に起きない」と決めつけ、短期的なコストを追求してきたのが日本の原発行政でした。原発行政に群がる人びとには、それが「日本という国家」の発展につながるという思いがあったのかもしれません。
しかし、東日本大震災で原発行政のずさんな安全管理が明らかになり、立入禁止区域とされた地元の被害者の様子をみれば、「個々の人間」を尊重した施策とはとうてい言えないものだったことは明らかです。また、社会的に弱い立場の人々の犠牲の上に、国家つまり多数派の豊かな生活を築こうとした点においても共通しています。

さらにアスベストによる健康被害の問題は、低線量内部被曝の問題に似ています。
短期的には自覚症状がないままに、最終的には生命を脅かす被害をもたらすうえ、因果関係が明らかになりにくい。アスベスト裁判の帰趨は、低線量被爆の原発被害に行政がどう向き合うかということにも影響してきます。国民はアスベスト裁判にもっと強い関心をもたなければなりません。

環境破壊、人権侵害、難民、貧困など、個々の人間の生存、生活、尊厳に対する脅威を排除し、個々の人間の安全を保障していこうという「人間の安全保障」の考え方は、日本における外交政策上のひとつの柱ですが、その根本は、人間性や自然と共生できる環境を確保し、人間が人間らしく暮らしていけるようにすることにあります。だとすると、人間の安全保障は、国内の施策にも同じく当てはまるはずです。

この訴訟では、経済的効率性よりも重要な価値があるという憲法の価値基準を最高裁が示せるかが問われています。まさにこの国の司法の有り様が問われている裁判と言っても過言ではありません。