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2012年8月

2012年8月 2日 (木)

第204回 オリンピック

オリンピックの度に思うのですが、4年に一度というのは選手にとって本当に過酷です。この機会を逃したら次は4年後までひたすら自らを鍛え続けなければなりません。
これに比べれば、ほとんどの試験は毎年行われますから幸せなものです。1年間努力するくらいなんでもないことに思えてきます。
それにしても4年間待たされるとはずいぶんと大きな制約ですが、そもそもスポーツそのものが一定の制約の中で競い合うものです。
一定の距離、時間、回数、手段など様々な制約の中で技を競い能力を極限まで高めていきます。
そこで人間の無限の可能性を見せつけられ、驚きと感動を覚えるのです。
 
身体的な能力開発とともに精神的な成長もなければ結果を出せません。いわば人間の総合力が試されるものであり、だからこそ一つひとつの競技にはドラマがあるのです。
ある一瞬にすべてをかけるその一点集中力に感動し、4年間それに向けて努力を続けていく「続ける力」に心を打たれ、障害を乗り越えスランプを克服してきた自分を信じる力に勇気をもらうのです。
 
制約の中で人間がどこまで極められるかを競い合うものの代表はスポーツですが、考えてみれば、これは何もスポーツに限りません。私たちが挑戦している試験も時間、字数などの制約の中で一定の成果を出さなければならないものの一つです。
試験当日という一点に向けて努力を継続し、あらゆる試練を乗り越えて、結果が保証されていないにもかかわらず、自分を成長させ続ける過程は過酷です。

自分を鍛え上げ、より成長させる。これは私たちの人生そのものです。
日々生きていること自体がさまざまな制約、不自由の中で、それを乗り越えようとする過程そのものであり、生活、仕事などの毎日は、金銭的、時間的、人的な制約の中で一定の結果を求められます。
つい、不平不満を言ってしまいがちな弱い私は、活躍する選手の姿から不自由こそ人を自由にすることを再認識させてもらっています。

もう一つ、オリンピックを見ていつも感じることがあります。国家と国民の関係です。
活躍している選手がたまたま自分と同じ国籍だというだけで応援したりします。ですが、ほんの数年住んでいただけのドイツも応援したくなります。自転車好きのフランスの友人の顔を思い出しながらフランスを応援したりもします。
要は自分にとって身近かどうかが重要なようです。
自分とのよい関わりの記憶が残っている国の選手を応援しているのです。

ここで、国と個人のつながりをみる基準は国籍以外にもいろいろあることに気づきます。
定住しているか、仕事の関わりがあるか、友人がいるか、留学したかなどです。
つまりその国や人のことをどれくらい知っているかが大きな判断要素になっているのです。
こうしてみると国籍だけにこだわることがつまらなく思えてきます。

多様な人々と人間関係を持ち、他国や他文化を知ると、世界とのつながりを実感できるようになります。
そして同じ地球市民の一員としての連帯感も生まれてきます。
国籍、人種、宗教、文化などの違いを知り、その上で個人として共感できる感性も生まれてきます。

真の教養とは、「人間は戦争をしてはいけない」と知ること、そして「他国のこと」を知ることであり、この二つは密接につながっているように思えてなりません。
オリンピックも偏狭なナショナリズムを煽るために利用されるのではなく、私たちが人間の多様性と可能性を知り、地球市民としての自分の人間性を高めるきっかけにできれば、一人ひとりにとっても意味のある祭典となるに違いありません。