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2013年6月

2013年6月 4日 (火)

第214回 憲法25条

憲法は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定します。
自民党改憲案はこの25条の前に、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」という規定を置こうとしています。家族が尊重されなければならないことは、道徳、倫理の話であって、憲法に規定して国民に押しつけるようなものではありません。
個人の尊重を否定し個人よりも集団、戦前のような「家制度」を大切にしたいという発想が透けて見えます。

家族に国が口を出すことになると、推奨するモデル家族のようなものが国によって規定され、家族の多様性も否定されることでしょう。家族の有り様も一人ひとりが自分で決めるべきことであり、様々な家族のスタイルがあっていいはずです。
個人のライフスタイルに国が介入するべきではありません。

そして、何よりも家族の助け合い義務によって、生活保護、介護、教育、医療などは家族でやりくりしなさいといわれるようになるでしょう。生活保護の申請の際に、家族に助けてもらえと窓口で申請を拒否する口実を憲法が与えることになります。本来、国が口を出すべきでないところに口を出しておきながら、国が介入して保護すべきところから手を引く。これでは国民にとっての憲法ではなくなります。

現在、生活保護法の改正が進んでいます。保護費抑制や不正受給防止が目的のようです。窓口での保護申請手続きを厳格化したり、親族に扶養できない理由や収入などの報告を求め、調査できるようにしたりするものです。

タレントの母親が生活保護を受けていたことをやり玉にあげて、あたかも不正受給が蔓延しているかのごとくの報道がなされることもあります。そうでしょうか。
まず1951年に204万人いた生活保護受給者は1995年には88万人にまで減少しましたが、その後215万人以上にまで増えてしまいました。新自由主義がもてはやされ、自己責任の名の下で格差が広がっていった時期から急速に増えたわけです。ですが、不正受給の割合は金額にして全体の0.4%でほとんど変わっていません。たった0.4%の不正受給をやり玉に挙げているのです。

また、日本では人口比での利用率を見ると1.6%で、ドイツの9.7%、イギリスの9.3%などに比べて極めて少なくなっています。本来は生活保護を受ける必要がある人のうち、実際に保護を受けている人の割合(捕捉率)は2割もありません。それは窓口で追い返されたり、申請自体を躊躇したりしてしまっているからです。日本の生活保護費のGDPに占める割合は0.6%に過ぎず、OECD参加国の平均の4分の1でしかありません。貧困大国といわれるアメリカですら1.2%です。こうした現実がありながら、さらに保護費削減をめざし、窓口での申請を厳格化しようとしているのです。

そもそも25条の生存権は人権です。もともとGHQ草案になかったものを日本人の意思で規定しました。まだ戦後の混乱の中で、あえて人権として保障することを規定したのです。人権(human rights)は人として正しいことを意味します。恩恵、施しなどではなく、堂々と主張することができるものなのです。躊躇することなく権利を行使できるような環境を整えることこそ、国が行うべきことであるはずです。ところが厚生労働大臣ですら、国会答弁で「生活保護家庭は恩恵を受けているわけですよね」というような発言をしてしまっています。

生活保護を受けることを恥と感じさせてしまう社会の雰囲気をこうした人たちのみならず、私たちが作り出してしまっていないでしょうか。受給者をさげすむ視線や落伍者というレッテル貼りをしてしまっていないでしょうか。憲法は少数者、弱者の人権を保障します。もちろん国家がその保障をする義務を負います。ですが、弱い立場の人たちが人権を躊躇なく主張できるような状況を作り出すことは、多数者、強者の責任でもあると思います。憲法を学ぶことはこうした市民としての自覚を学ぶことでもあるのです。

【参考リンク】
伊藤真著書「赤ペンチェック!自民党 「憲法改正草案」(出版社/大月書店 (2013/5/31))」