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2015年2月 2日 (月)

第234回 市民としての成熟

米国では奴隷解放のために闘ったリンカーンが暗殺された後に、人種・皮膚の色などを理由に選挙権を制約してはならないという人種差別禁止条項が合衆国憲法に追加されました(1870年・修正15条)。こうして憲法上の権利として規定されたにもかかわらず、南部諸州の抵抗から、人種差別禁止の実現は、キング牧師による公民権運動を待たなければなりませんでした。憲法で規定されてから100年近くたった1964年の公民権法によってやっと具体化することになるのです。黒人大統領が生まれた現在でも人種差別は暴動などの要因となっています。人権や平等の問題を理想に近づけるには多大な労力と時間が必要なようです。

人種差別とは別に、一票の価値においても米国はかつて驚くほどの住所差別がありました。白人が多いバーモント州議会ではなんと972倍の格差、ニューハンプシャー州議会にいたっては1081倍の最大格差があったそうです。それが、1964年に出された「米国連邦憲法は人口比例選挙を保障している」とする、たったひとつの連邦最高裁判決(レイノルズ判決)によって解決しました。議員の中には、「人口比例選挙などが実現してしまうと、カリフォルニア州はロサンゼルスとサンフランシスコに支配されてしまう」といってこの判決に反対する議員もいたそうです。ですが最高裁長官のウォーレンは「議会は人々を代表するのであって、木々や土地の面積を代表するのではない」と明快に判示しています。

人口比例選挙の原則は、人種、宗教、思想、支持政党、年齢、性別、職業、収入、健康状態などありとあらゆる点において皆、それぞれ違うけれども、人間としての存在価値は誰もが絶対的に等しいから、選挙権という政治的影響力も皆、絶対的に平等でなければならないとするものです。つまり、憲法13条の「人は皆同じ、人は皆違う」を選挙権の場面に具体化したものといえます。

お互いの違いを受け止めながら、その本質的な存在価値を認め合えるような成熟が今、世界中の市民に求められています。米国は住所による違いを乗り越えました。しかし、未だ人種や宗教、貧富の壁は残っているようです。世界でも欧州対アラブ諸国、キリスト教対イスラム教など様々な対立が深刻な問題を生み出しています。どんな場面でもそうですが、相手を一方的に悪と決めつけて攻撃するだけでは問題は解決しません。相手の立場に立って考える共感力は個人や企業の紛争解決の場面で有効なだけではありません。差異を冷静に受け止め、寛容を重んじながらお互いの共感を生み出していける人がグローバル社会の成熟した市民です。

また、紛争当事者から一歩離れた第三者の視点で解決策を模索することの重要性は法律家なら誰でも知っていることです。国際社会でも同様です。日本は憲法9条を持つ平和国家としてそうした独自の国際貢献の道を追求してきたはずなのですが、“普通の国”を目指す現政権は、こうした日本の立ち位置を大きく変えてしまいました。

“普通の国”を目指すことが市民にどれだけのリスクをもたらすかは、多くの“普通の国”がテロの標的となっている現状を見ればわかるはずです。このように国の形が大きく変わるような決断を主権者国民が自ら行うのなら、残念ですが仕方ありません。ですが国民からなんら正統性を与えられていない国会議員や政府が行うことは許しがたいことです。

法の支配が機能している国では、裁判所が憲法保障の役割を果たすことで、国家による不正義を正していくことができます。さて、日本はどうでしょうか。監視する市民の眼もまた試されています。