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2015年7月

2015年7月31日 (金)

第240回 畏れ

試験に向けて勉強をしていると自分の力ではどうしようもないことに遭遇することがあります。どれだけやっても勉強がうまくいかない。仕事が忙しくなって勉強時間がとれなくなってしまった。試験直前に大切な人を亡くしてしまう。事情は人それぞれですが、もうどうしようもないなと諦めてしまいたくなることが必ずあるものです。人の人生に不条理や理不尽は容赦なく襲ってきます。

70年前の夏、この国は悲惨な戦争にやっと終止符を打つことができました。ただ、それまでは理不尽の連続でした。日本に侵略されたアジアの民衆だけでなく、徴兵された市民、学徒動員され散っていった大学生、学問の自由を侵害された研究者、弾圧された宗教者、治安維持法で投獄された自由主義者、そして容赦なく降り注ぐ焼夷弾から逃げ惑う人々などが、権力者たちが始めたどうしようもなく理不尽な戦争に翻弄され痛め続けられました。

今でも社会は理不尽なものです。憲法があるのに、政府与党は戦争法の衆議院採決を強行しました。平和の党とは名ばかりの公明党もこれに反対することはできそうもありません。沖縄では圧倒的多数の民意を無視した基地負担の押しつけと辺野古の軍事要塞建設が、本土の国民が支持してできた中央政府によって強行されています。

天災など人智の及ばない出来事による不条理は受け入れるしかありません。しかし、人間が引き起こす理不尽は、単に黙ってそれを受け入れるだけが私たちの取るべき最善の方法とは思えません。「こんな理不尽を受け入れない」と訴え続けることは必要な対処方法です。理不尽を引き起こす人間においては、多くの場合、自らが理不尽なことをやっているという意識は極めて希薄です。人間である自分の無謬性を否定できず、自分は正しいことをしていると信じて突き進むのです。

人間は誰もが間違いを犯すことがあるというある種の弱さを抱えています。その弱さを隠して大きく強く見せようとするとどこかでほころびが出てしまいます。人間の弱さや愚かさと向き合い、それを受け入れることはとても難しいことです。ですが、自分の力ではどうしようもない不条理なことがあるという、ある意味での自分の無力さ、自分の弱さを知っているから、人は謙虚になれるし、他者への尊敬の念や自然への畏れの気持ちを持つことができるのだと思います。

最近、権力の座についた人々の発言であまりにも知性や品性に欠けるものが多くて残念な気持ちになります。そうした発言に接するたびに、本当の知性や品性そして人間としての強さとは何なのだろうかと考えさせられます。

どんなに優秀な人でも人間であり、間違いを犯すことがある。人は人間である以上、不完全で弱い生き物であることを自覚している人は、強い力を持ったり権力の座についたりしても謙虚でいられます。本当にすごい人は、自分を客観視することができるため、自分の無力さを知っているし、自分よりも優れた、かなわぬ存在がいる可能性を想像できる。何よりも自分の判断が間違っている危険性を想像できるから、その判断に謙虚でいることができます。そして自分の判断にある種の畏れを感じて、常にこれでよいのだろうかと自問自答しながら、その判断に磨きをかけ、ときに間違っていたと気づいたときにはそれを改める勇気を持っているのです。

私の勝手な願いですが、塾生の皆さんには、将来どんなに強い力を持ったとしても、低きに自分の身を置いてものを考えることができるようになってほしい。奢りではなく畏れの気持ちを持つ法律家や行政官でいてほしい。そしてそれ以前に、人として畏れの気持ちを持ち続けることができる謙虚さを持っていてほしいと願っています。

明治初めの台湾出兵から終戦まで、日本は71年間、戦争をし続けた国でした。その日本が戦後70年間、戦争をしない国であり続けました。将来、戦後100年を迎えられるかは、今の私たちにかかっています。今、法律家や行政官になることの意味をしっかりと自覚しながら勉強を続けてほしいと思っています。

2015年7月 2日 (木)

第239回 憲法の番人

政治家による「マスコミを懲らしめる」発言にはあきれるばかりですが、政府与党は憲法学者、弁護士会のみならずあらゆる分野の学者の反対、そして国民の懸念などどこ吹く風とばかりに国会の会期を延長して強引に戦争法関連法を成立させようとしています。
「自衛の措置が何であるかを考え抜くのは憲法学者ではなく政治家だ。」という発言があったとも聞きます。そのとおりでしょう。ですが、政治家はあくまでも憲法の枠内でそれを考え抜いて実践していかなければなりません。憲法を無視して好きなように考えることは素人でもできます。それではプロの政治家とはいえません。

「権力は常に監視されなければならない。どんな権力者でも憲法に従う。」人の支配から法の支配へ近代立憲主義の確立とともに移行したはずなのに、近代国家の中で日本だけが再び人の支配へ逆行しようとしています。「安倍の支配」に誰も異を唱えることができないとは情けない限りです。
今私たちに問われているのは、どのような国に過ごしたいのか、日本をどのような国に創り上げたいのかという私たち自身の意思です。私たちが主体性をもって自らの生き方を選択することができるかが問われているといってもよいでしょう。つまり私たち自身が自立した市民になる気概があるのかが問われているのです。

私たちは日本を一体どんな国にしたいのでしょうか。
これまでの日本は法で権力がコントロールされる国を目指してきました。それをやめて、数の力にものを言わせることが民主主義だといわんばかりに、何でも力で押し通す国にしたいのでしょうか。力は権力だけではありません。国のトップがそのような考えを持つと、腕力、財力、社会的地位などの強い力を持つ者が弱い者を支配する国になってしまいます。ずいぶんと野蛮で品性のない国になりそうです。
マスコミや国民が自由にものを言って権力を批判することができる国が民主国家です。それが、政治家による圧力でメディアが萎縮してしまい、言いたいことも言えず、権力を賛美するしかない国になってしまいます。
これまで外に敵を作らず攻撃されない国を作ることがこの国にあった一番の安全保障だと考えてきた国が、わざわざ仲間の敵は自分の敵とばかりに外国に敵を作りに行く国になってしまいます。外交力を鍛えてあらゆる国との信頼関係を構築しようと努力する国から、同盟国のことだけを考えて、相手を抑止力で抑え込むために軍事力が突出した国になってしまいます。
専門家に敬意を払い、力を持つ者も謙虚さを美徳とする国から、専門家など自分に都合よく利用すればいいとばかりにその叡智を貶める国になってしまいます。これらはどう考えてみても、国家として衰退する方向と言わざるを得ないように思われます。私たちは本当にそんな国を望んでいるのでしょうか。

自民党の高村正彦副総裁は「憲法の番人は学者ではなく、最高裁だ」と発言したそうです。一人一票実現訴訟の判決では最高裁判決をまるで無視しておきながら、砂川事件判決を集団的自衛権の根拠として持ち出すとは、苦し紛れとしか思えません。ですが、その最高裁判事も国民審査で罷免されます。つまり憲法の番人は国民なのです。
具体的な事件が起こって判決が出るまでは、国民が民主制の過程を通じて立憲的な監視をします。判決が出てからは国民審査を通じてやはり国民が憲法の番人として立憲的な監視をし続けるのです。これが憲法制定権者である国民の責務です。憲法12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」と規定されています。いまほど国民の憲法制定権者としての、つまり主権者としての責任が問われているときはないと思います。自分たちがどのような国で生きていきたいのか、日本をどんな国にしたいのか、その意思を明確にして、はっきりと意思表示をする必要があると思います。
請願や署名活動は外国人でもできます。こうした意思表示は年齢、国籍、民族を問いません。この国と関わりを持つすべての市民が主体的に生きるためにできることの一つです。日弁連でも引き続き署名を集めています。法律家、公務員をめざす皆さんやご家族にもぜひ、自立した市民として、そして憲法の番人としてご協力いただければ嬉しく思います。

≫集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回と関連法律廃案を求める署名のお願い(伊藤塾ウェブサイト)