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2015年10月

2015年10月 1日 (木)

第242回 個人と民主主義

安保法制が自民党・公明党による採決の強行によって成立しました。ほとんどの憲法学者のみならず、元法制局長官や元最高裁長官まで違憲といい、すべての弁護士会が立憲主義に反するという意見書や決議を出した安保法制です。地方公聴会の報告もなされず、議事手続き上も決議不存在としかいいようのない中での成立でした。私も参議院で参考人として意見を述べましたが、結論先にありきのセレモニーのような国会審議でした。米国との約束によって結論が決まっているものを消化試合のように淡々とこなしていく、そんな国会をみて、これがこの国の民主主義かと幻滅した人もいるかと思います。しかし、幻滅することばかりではありませんでした。国会の外と内とでは3点できわめて対照的だったように思います。

外では多くの人々が民主主義を訴えました。選挙はある一時点で自分たちの代表者を選ぶ仕組みであり、候補者や政党が掲げた政策のすべてを是認するものではありません。選挙で勝ったのだから数の力で何でもやっていいということになると国会は不要になります。選挙で勝った瞬間、絶対的な権力を手に入れてしまうのですから、これは専制政治です。民主主義は選挙の後であっても、個別の政策について主権者が声をあげ、その声を議員が尊重することによって実現するものです。選挙権とデモなどの表現の自由は民主主義実現のために不可欠の車の両輪です。国会の外ではまさに民主主義が実行されていました。

ところが、国会内では、選挙で勝ったのだから与党は民意を反映しているとし、外の国民の声は雑音のごとく無視されました。しかも、現在の国会は各院とも最高裁が2回も違憲状態と断じた選挙による無資格者の集まりでしかなく、なんら民主的正統性はありません。国会の外では立憲主義が叫ばれましたが、国会内では日本を取り巻く安全保障環境が変化したのだから抑止力を高めるのにこの安保法制が必要なのだという一方的な主張が繰り返されました。安保法制の合憲性については、72年政府意見書と砂川事件最高裁判決というまともな法律家ならば考えたこともないような根拠がなんの説得力もなく繰り返されただけでした。

しかも、憲法論と政策論の区別を意識して議論することもできていませんでした。どんなに優れた安保政策であっても憲法の枠内で実現しなければならないし、それが政治家の責任であり、それが立憲主義国家の最低限のルールだという、議論に必要な最低限のフレームが与野党で共有できていません。立憲主義というものに重きをおかない人々とは議論がかみ合わないのはむしろ当然でした。今回の国会での議論を通じて、立憲主義を尊重しない非立憲という立場がこの国に存在することがわかったことは収穫でした。

そして国会の外では、個人が声をあげていました。若者もビジネスパーソンもママたちも皆一人一人の個人として自分の考えや不安を訴えていました。政党や団体から動員されて組織のメンバーとして参加しているのではなく、あくまでも個人の意思によって国会前や全国各地での運動に参加した人たちばかりでした。原発など国の言うことを無批判に鵜呑みにしているだけだととんでもないことになるという体験を通じて、自分たちが主体的に行動しないといけないという自覚が市民の中に芽生えてきたのです。沖縄問題、TPP、秘密保護法そして安保を通じて黙っていてはいけないという意識が個人に育ってきたのだと思います。

それに対して、国会内は依然として組織の論理でしか動けない人たち、何かに追従することしかできない人たちばかりでした。米国に追従する総理大臣、党首に追従する議員、自民党に追従する公明党。一人一人の議員が個人としての考えをもつことができなくても議員をやっていける党議拘束という「世界の非常識」が日本ではまかり通っているのです。主体性のない国会議員と主体的に行動する市民という対比が鮮明でした。

憲法は個人の尊重を最高の価値とします。それが国会の外で、全国で具現化していました。この個人の尊重から民主主義が生まれます。今回の安保法制の成立は日本の民主主義の萌芽といえる重要な出来事であったと思います。こうしたときに法律家や行政官になる皆さんも、より主体的に生きることが求められているのです。