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2016年1月

2016年1月 1日 (金)

第245回 謹賀新年

「日本に、本当に地方自治や民主主義は存在しているのでしょうか。沖縄県にのみ負担を強いる今の日米安保体制は正常といえるのでしょうか。国民の皆さますべてに問いかけたいと思います。沖縄、そして日本の未来を切り開く判断をお願いします。」これは昨年12月2日代執行訴訟口頭弁論での翁長雄志沖縄県知事の意見陳述の最終部分です。

戦後70年を経たにもかかわらず、国土面積0.6%の沖縄県に73.8%の米軍基地を集中させ続け、沖縄のみならず世界の財産である自然環境・文化遺産を破壊して、耐用年数200年の軍事要塞を日本国民の税金で新たに建設しようとしています。こうして沖縄にさらなる負担を強いようとする日本政府から訴えられた知事の言葉です。これを異端者のわがままとして無視してよいものでしょうか。

沖縄で行われている、民意を無視した権力行使は自公政権の姿勢そのものを表しています。政府が少数者に生命・健康等の人格権の犠牲を強いておいて金銭で穴埋めをしようとする姿勢は原発再稼働と同様の構造です。憲法は29条3項で財産権についてのみ経済的補償を条件にその剥奪を許していますが、正当な補償さえすれば人格権をも制約できるとはしていません。また憲法95条は特定の地域のみに負担を強いるような法律は地域住民の賛成がなければ制定できないとしており、たとえ国民の多数が支持する国策であったとしても、利害関係ある住民の反対を無視して過大な負担を地域に押しつけることはできないはずです。

憲法13条は個人の私的領域に関わることは自分で決めるという自己決定権を保障しています。それは自分たちの生活地域のことは自分たちで決めるという住民自治を要請します。地域のことは自分たち住民が決める、そしてこの国の権力のあり方はこの国で生活する一人一人が決める。これが民主主義です。残念ながらこの民主主義が、憲法13条の要請するように機能しているとはいえません。先の翁長氏の発言はそれをすべての国民に自分たちの問題として考えてほしいと呼びかけています。他人事ではなく自分事として受けとめる想像力を私たちが持っているかを厳しく問いかけているのです。

そして、司法に日本の未来を切り開く判断を求めています。残念ながら現在の司法もその職責を十分に果たしているとはいえません。砂川事件最高裁判決によって事実上安保条約は合憲とされてしまい、それに基づく地位協定、各種特別法という安保法体系が日本国憲法の外にできあがってしまいました。その結果、人権と平和を最優先する憲法体系を擁護すべき司法権が、米軍優先の価値基準に対して何も言えない、実質的な治外法権、対米軍事従属国家となってしまっています。沖縄に限らず全国の基地周辺の住民の平和的生存権、人格権が侵害されているにもかかわらず、司法がその救済の役割を放棄し、多数者支配の政治部門に追従してしまう。この構造は選択的夫婦別姓を認めない現行民法の適否を国会の議論に委ねてしまおうとする司法の態度と共通するものがあります。

少数者の存在を認めることは、すべての人の幸せにつながるはずです。人はそれぞれ個性があり、皆違って当たり前であり、また違うからこそすばらしいという個人の尊重を今こそ再確認する必要があると考えます。人の個性は無限の属性の組み合わせによってできあがっています。誰もが、ある属性において多数派であっても、別の属性においては少数派なのですから、一人一人の個性の尊重は、多様な人々の共存をめざす社会では不可欠なことなのです。

少数意見や異端を認めない。それはファシズムにつながります。一つの考えしか認めない、全体を一つにまとめる力が強く働く、そんな社会はファシズムです。束ねるとか全体という意味のファッショというイタリア語が元になっているそうですが、個人を尊重し多様性を認めようとする憲法とはまったく目指す方向が逆です。「絆」の強調はときに意図しない負の効果を生むことがあります。どうも最近の日本はいろいろな面で異論を排除し、全体としてのまとまりを重視しようとしているように思えてなりません。沖縄問題のみならず報道規制も家族のあり方もそうです。今後、災害対策、テロ対策の名の下にさらにこうした傾向が進むおそれがあります。多数派ましてや政府が異端を排除しようとするとき、憲法を学んだ者はそれに抗い、声を上げなければなりません。憲法公布70年を迎える今年、本当の意味で個人が尊重されるように最善を尽くしたいと思います。今年もまた一年、真剣勝負です。