« 第245回 謹賀新年 | メイン | 第247回 不安に克つ »

2016年2月 1日 (月)

第246回 怒りの矛先

人はさまざまな怒りを持ちますが、その対象や解消の仕方は人それぞれです。芸能人のスキャンダルに怒る人もいれば政治家に怒る人もいます。その後始末の仕方に納得できず怒り続ける人もいます。その怒りも特定の個人や団体に向けられることもあれば、社会一般に対して漠然とした怒りを感じるという人もいるようです。

法律家はその職種を問わず、当事者の様々な怒りに付き合わなければならないことがある仕事です。依頼者などの怒りに接したときに、その当事者からの距離の置き方が難しい。少し距離を置いて冷静でいると冷たいと思われてしまうし、逆に理不尽さへの怒りで熱くなりすぎて客観的に判断できなくなってしまっては専門家の意味がなくなります。怒りを適切にコントロールすることも法律家として必要な資質の1つです。

皆さんはどんなことに怒りを感じますか。自分が試験に落ちてしまったときに自分自身の不甲斐なさに怒りを感じるかもしれません。急に制度や合格点が変わる理不尽さに怒る人もいます。勉強を続けながらも社会の矛盾や不公平感に怒りの気持ちを持ち続け、それが勉強を続ける原動力だという人もいます。

私の場合は、責任ある立場の人の一貫性(consistency)のなさに怒りを覚えることが少なくありません。自分の過去の言動に責任を持つことは本当に難しいことです。ですが、これを大切な価値として意識するか否かは重要なことだと思っています。自分の発言の一貫性などどうでもいい、そのときをなんとか乗り切ればそれでいいと考えるような人が責任ある立場にいること自体に怒りを覚えるのです。

人間ですから完璧な人などいないし、間違いや考え違いを犯すこともあるでしょう。ですが、自分の言動が間違っていたならばそれを認識し必要ならば謝罪し、そして言動を改めるというのが筋だと思っています。専門家や責任ある立場の人が自分の言動の結果に責任を取らず、あたかも何もなかったかのごとく発言をしたりする。その結果、社会も何も学習せず進歩しない。こうした理不尽に怒りを覚えます。

怒りの矛先をどこに向けるのかによっても、その人の人間としての気高さをうかがい知ることができるときがあります。私的な怒りを持ったときでも、人によってはその怒りを特定の個人などに向けるのではなく、出来事の背景や社会に意識を向けて、その改善に向けて社会を動かすことができる人がいるのです。

先月、スキーバス事故が起こった際に愛娘を失った父親が憤りを抱えながらも、日本の労働状況や過剰な利益の追求、安全軽視などの社会問題に事故の原因を見いだし、本当の解決を求めていました。誰もができることではありません。また、2001年のニューヨーク同時多発テロの際に日本人にも多く犠牲者が出ましたが、息子を失った父親が米国によるアフガン空爆が始まったときに次のように語っています。「『敵討ちができてよかったね』と知人に言われた。でも、報復は暴力の連鎖を生むだけだ」「せがれは事件に巻き込まれたが、さらに関係のない人たちが命を失うのには耐えられない。日本は米国の腰ぎんちゃくになる必要はない。テロの背景にある貧困の解消など、ほかの手だてを考えるべきだ」「子どもを奪われることのつらさ、つまり命の重さというものは、息子を失ってからより真剣に考えるようになりました。テロリストも国家も『正義』を語る。しかし、関係のない人の生命を犠牲にするところに正義などありえない。」(島本慈子「戦争で死ぬ、ということ」岩波新書より)

今の日本はこうした犠牲者の怒りや思いをどれだけ改善に反映させられているのでしょうか。15年戦争の加害と被害の歴史から何を学んだのでしょうか。かけがえのない命が犠牲になった出来事から何も学ぼうとしない、その姿勢に強い怒りを覚えます。犠牲者の遺族などの気高い怒りを受け止めて、さらに多くの人の社会を変えていく原動力としての怒りに転換していくことができたならば、こうした怒りの連鎖は意味があると思うのです。

もちろん個人の怒りの矛先はそれぞれの関心の対象に向かうのでしょうから、人それぞれでいいとは思います。ですが、もっと社会の理不尽や政治家、政党の言動にまで怒りが向いていくと、この国の民主主義はもっと成熟していくと思います。法律家や公務員をめざす皆さんにも、社会の理不尽に対する怒りを勉強や今後の行動のエネルギーにしていただければと思っています。