真の法律家・行政官を育成する 「伊藤塾」 株式会社 法学館

2019年7月 1日 (月)

第287回 無罪の推定

私たちは、裁判という制度を真実発見のためのものとして考えてしまいがちです。ですが、民事裁判は紛争解決が目的ですし、刑事裁判も国家による刑罰権の発動を許してよいかどうかを判断するための手続きです。どんな裁判であっても人間が行う以上は、真実に到達できないこともあります。ところが刑事事件において、有罪とするには証拠上疑問が残るときでも警察・検察などの捜査機関は被告人を処罰しようとやっきになることがあります。職務熱心のあまりの思い込みもあるでしょうし、組織としてのメンツもあるかもしれません。ときに証拠の隠蔽、ねつ造を行うこともあります。それは例外的な事象と思いたいですが、実際にいくつかの裁判で明らかになっています。

警察・検察や裁判所が社会の秩序を維持し、正義を実現するために重要な役割を果たしていることはいうまでもありません。しかし、同時におそろしい権力としての側面もあわせ持っていることを忘れてはなりません。裁判所もけっして正義の味方とか人権保障の最後の砦といったプラスの側面だけでなく、冤罪を生み出しかねない極めて危険な国家権力でもあるのです。

旧刑訴法時代に発生した横浜事件では1943年に、治安維持法違反容疑の名目で中央公論社、朝日新聞社、岩波書店等の関係者約60人がでっち上げで逮捕されたうえ、竹刀等で殴られるなどの拷問を受けたあげく、4人が獄死しました。当時、自白は証拠の王とされ、強制・拷問を伴う自白偏重の取調べが虚偽の自白を生み、後の裁判で無罪を主張してもかえって重く処罰されました。そのことが冤罪の温床となっていたのです。

このような苦い経験にもとづいて、日本国憲法は被疑者・被告人のために、刑事手続上の人権を詳細に定めています。すなわち、33条以降で、逮捕や捜索・押収に令状主義を徹底し、弁護人依頼権を保障し、公平で迅速な公開裁判や黙秘権、自白法則、補強法則を定めるとともに、31条でより一般的に、公権力を手続的に拘束し、人権を手続的に保障すべく、適正手続条項を定めました。

適正手続を根幹にすえたこのような憲法のもとで、無実の人を処罰しないことは、刑事裁判に求められる最低限度の要請です。ところが、憲法が施行されて70年余り経つにもかかわらず、冤罪事件はなくなりません。そしてその冤罪を晴らすための再審請求が極めて狭き門になってしまいました。

「疑わしきは被告人の利益に」という言葉があります。無罪の推定ともいいますが、刑事訴訟の基本原則です。憲法に規定があるわけではありませんが、憲法13条前段の個人の尊重や31条の適正手続条項から導かれます。極論すれば、9人の凶悪犯が無罪となっても1人の無実の者を処罰してはならないという原則です。仮に、凶悪犯として起訴された10人のうち9人までは死刑確実な真犯人ですが、1人だけ無実の人が紛れ込んでしまったとします。ところが、誰がその1人かわかりません。そのときに裁判所としてはどのような判決を出すべきでしょうか。

教室事例ですが考えてみます。全員有罪にすれば社会は安泰かもしれません。しかし、無実の1人が犠牲になります。逆に全員無罪とすればその1人は救えるかもしれませんが、社会に凶悪犯人が戻ってきてしまいます。社会の秩序を維持するために1人を犠牲にするという考えもありえますが、憲法はそうした考えを選択しませんでした。全員無罪釈放となります。これが無罪の推定です。その被告人が犯罪を犯したとすることに合理的な疑いがあれば有罪としないことにしました。犯罪を犯したと裁判官が確信できなければ国家は刑罰権を行使してはならないとしたのです。

これは社会が一定の不利益を受けることがあったとしても無実の者を処罰してはならないということを意味します。そこまで誰をも個人として尊重するということです。もちろん、「疑わしきは罰する」という選択もありえます。しかし、それでは自分や大切な人が虚偽の密告やでっち上げられた証拠により処罰されてしまう危険がある。そんな社会はいやだ、すくなくとも無実であれば処罰されることはないと信頼できる社会の方が、私たちが幸せを感じられるはずだと考えたのです。

それでも裁判は人間が行いますから、間違いを起こすこともあります。そのときのために再審手続きを用意しました。これは間違った裁判を正すという趣旨のものでも、真実発見のためのものでもありません。なぜなら被告人に有利な再審しか許されていないからです。もし真実発見を重視するのであれば、間違った無罪判決の確定に対しても検察官からの再審請求が許されてもよさそうです。しかし、それは認められていません(刑事訴訟法435条)。

民事裁判とは異なり、刑事裁判は国家による最大の人権侵害である刑罰権の発動を許すかどうかを問題にしますから、被告人の人権という観点から考えなければいけないのです。憲法39条は「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。」と規定します。これは事後法の禁止と二重処罰の禁止(一事不再理効)について規定したものです。

事後法の禁止(実行のときに適法であった行為の処罰の禁止)は刑法の基本原則である罪刑法定主義の一内容として、明治憲法に規定はなかったものの、従来からマグナカルタ以来の刑事法の基本原則として理解されていました。しかし、二重の危険の禁止(同一の犯罪について二度裁判を受けない)は英米法の概念(double jeopardy)であり、アメリカ合衆国憲法修正第5条にならって導入されたものですが、憲法制定当時からあまり理解されていなかったようです。その結果、日本では無罪判決に対する検察官上訴も判決確定前だから許されるという解釈が一般になってしまっています。

しかし、そもそもこの二重の危険の禁止は、一度国家権力によって有罪にされる危険にさらされた被告人は、再びそのような危険にはさらされないことを人権として保障したものです。刑事裁判制度の一内容としてではなく、人権として保障しているのです。そのため憲法39条という人権条項の中に位置づけられています。この点を考えると英米の国々のように検察官上訴は禁止するべきだと考えます。そしてさらにこの規定を再審請求においても適用するべきだと考えています。

先月40年前の大崎事件の再審請求が最高裁で棄却されました。請求人の原口アヤ子さんは事件当初から一貫して否認をし続け一度も自白していません。10年服役した刑務所でもやっていないからといって、仮釈放されるために勧められた反省文を書くことも拒否し続けたそうです。捜査員に誘導された知的障がい者の供述や検察官による証拠隠し、事故死の可能性を指摘する鑑定書もあり、有罪という結論を維持するには相当疑問が残ります。

原口さんは1995年4月に第一次再審を申し立てています。私が塾を立ち上げた年です。2002年3月の決定から始まって、これまで三度の再審請求に対して地裁、高裁、最高裁と3回ずつ決定が出ていますから合計9回の再審裁判が行われているのです。そのうち3回は再審を認める判断がなされました。つまり原口さんの犯罪とするには疑いがあるということです。事実上、冤罪であることが認められたにもかかわらず、検察官の不服申し立てによりそれが取り消されました。

刑が確定するまでを入れれば原口さんはこれまで12回も裁判を受けなければなりませんでした。一体何度、有罪の危険にさらせば気が済むのでしょうか。無罪の推定、二重処罰の禁止という刑事訴訟法の基本原則、憲法原則からいっても、相当に大きな問題といえます。再審は判決が確定した後の問題だから、通常の刑事裁判の原則が適用されないと考えることはできません。国家権力による人権侵害の危険がある場面であり、個人の人権保障を重視するべき場面であることは同じだからです。

原口さんは92歳です。40年前の冤罪をまだ晴らせていません。国家権力とくに司法の恐ろしさを思い知る事件です。たまたまわが身に降りかからなくてよかったと自らの幸運に感謝するだけでよいのでしょうか。もちろん、法的安定性という要請もあります。ですが、一人の個人の尊厳を犠牲にしてまでも守るべき法的安定性などあるはずもありません。

今回の決定を出した最高裁第一小法廷は5人の裁判官から構成されています。元東京高裁長官、前東京高裁長官、元大阪高検検事長といった司法官僚3人の他、2人の弁護士がいますが、木澤弁護士は元加計学園監事でしたし、山口弁護士は任命の数か月前に弁護士登録したばかりの東大名誉教授ですが官邸の意向で任命されました。最高裁裁判官の人事も含めて、法律や権力は何のためにあるのか、改めて考えさせられます。

今回の最高裁決定を知ったとき、ご本人のみならず20年以上もこの冤罪事件を闘ってきた弁護士の方々の落胆はいかばかりだったでしょうか。明日の法律家講座で講演してくれた鴨志田弁護士の「ここで諦めるわけにはいかない」という言葉が私にとっては唯一の救いです。

【関連リンク】明日の法律家講座バックナンバー 東京校 第264回「大崎事件から見える刑事司法の問題点~憲法の理想と現実のギャップ~」

2019/7/13実施明日の法律家講座は、冤罪を阻止・根絶するために法曹が果たすべき役割・責任について考えます。明日の法律家講座 東京校第285回「冤罪の阻止・根絶と法曹の責任」

伊藤塾ホームページ
Copyright © 伊藤塾/(株)法学館 1996 All Rights Reserved.