真の法律家・行政官を育成する 「伊藤塾」 株式会社 法学館

2019年8月 1日 (木)

第288回 プロの誇り

参議院議員通常選挙が終わりました。翌日の新聞一面の見出しは興味深いものでした。朝日、毎日、日経、産経、そして東京新聞は、皆「改憲勢力3分の2に届かず」という趣旨のものでした。それに対して読売新聞だけがそれには触れず「与党勝利 改選過半数」が一面トップの見出しでした。印象がまるで違います。安倍首相は、改憲を公約として掲げ、憲法改正を議論してほしいという国民意思が表明されたかのような発言をしていますが、各種世論調査では優先して取り組んでほしい課題について、改憲は数%にすぎず、国民の関心は社会保障、増税など日々の生活にあることは明らかに思えます。そもそも依然として一人一票が実現していない選挙ですから、その結果には何の民主的正統性もありません。

その上、投票率は48.8%だったそうです。戦後2番目に悪いのですが、若者を中心に政治離れ、選挙離れがさらに加速したように思えます。長い歴史の中でやっと獲得した選挙権を放棄し、投票にいかない国民が半分もいる国は、民主主義を標榜する国の中ではちょっと見当たりません。せっかく18歳以上に選挙権が認められたのにと残念がる方もいるようですが、この結果は無理もないことかもしれません。なにしろ、主権者教育、市民教育を一切してこなかったのですから、自分が主権者たる国民で国政の主体なのだという自覚のある人などほとんどいないのではないでしょうか。

憲法前文には「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」とあるのですが、国民が「主体的に自ら行動するのだ」という自覚はほとんどないと思われます。私たちは、小さいときから学校ではルールを守れだの、校則に違反したから停学だのと、規則やルールは既に存在していてただ守るだけのものという意識を植え付けられています。自ら主体的にルールを作りそれを運用していくという経験がほとんどありません。

およそルールというものは、本来の民主主義社会では、自分たちが作り、使い、必要に応じて変えていくもののはずですが、ルールを自ら作り活用するという経験を学校でも家庭でもほとんどしてきませんでした。そんな子どもたちに18歳になったら選挙にいって責任を果たせと言っても、めんどう、うざい、訳わからないという気持ちになって当たり前です。

社会人になってからも日々の生活があり、選挙に行っても何も変わらないという無力感を覚えてしまうと、投票するモチベーションがなくなります。日頃から政治に関心を持ち、自分の意見を主張する人を、意識高い系などと揶揄してみたり、政治的な活動を主体的に行う国民・市民を活動家とかプロ市民などといって批判する人もいます。日々の生活の中で政治的なことを話題にするのはやめて、意見の分かれる問題については触れない方が無難だという姿勢は、テレビ、学校などを通じて国民の中に浸透させられています。

日本国民は、国民・市民として行動する統治の主体ではなく、政治家や官僚、裁判官などの為政者による統治の客体に貶められているのですが、そのような状況にそれなりに満足している人も多いようです。名君によって支配されながらも日々の生活を守ってもらって感謝している民草、臣民の感覚でしょうか。私は昔からそれを「奴隷の幸せ」と呼んでいます。主体的な自由などなくても保護してもらって、そこそこの生活ができれば幸せであり、その現状を変えようとする意欲もなく、飼い慣らされていないかということです。まるでミュージカルの『キャッツ』の世界ですが、私も国民・市民としての誇りを意識してしまうものですから、飼い慣らされた猫はいやだなあと思ってしまいます。

ですが、これはもちろん個人の自由であり、何を幸せと感じるかは個人の選択の問題です。先日、中国人の知り合いから「プライバシーや表現の自由、選挙権などなくても共産党一党独裁によって豊かな生活ができるのだからなんの問題もない。日本人はプライバシーだとか表現の自由が保障されていると自慢するけど、だれもそんなもの欲しがっていないんじゃないか。だってこんなに監視カメラもあり、言いたいことも言えない、いや言いたいことなんてもともと無いのかもしれないが。その証拠に、多くの日本人は選挙権も行使しないし、誰も文句を言わない。香港の市民のようにおかしいと声をあげて権力と闘う者もいない。民主主義なんてまやかしだよ。」と言われてしまったのです。

とても厳しい指摘ですが、なかなか反論が難しかったのも事実です。民主主義は自律した市民を前提にしています。政治的な意見を持つだけの余裕のある市民を前提にしているといってもいいかもしれません。目の前の生活で手一杯で政治的な問題などに関心を持つ余裕のない人もいることでしょう。それでもそれらの声を上げられない人達の声を代表者は代弁しなければなりません。声なき声を反映することは代表という概念の自己矛盾ですが、そこを乗り越えなければ日本の民主主義は完全に消滅してしまうでしょう。それでも名君を育てるなり、すばらしい為政者に任せっきりの政治でいいのかもしれませんが、結局当てが外れたとか、任せても意味がないなどといって、多くの者は政治に対し諦めていくのでしょうか。

ただ、そのような社会によって国民・市民が分断され、格差がますます広がっていくと、社会全体の管理コストも相当あがると思われます。市民の不満が鬱積し、犯罪、暴動、テロなどが横行する社会は、富裕層の人達にとっても自分たちを自己防衛するために多大なコストをかけなければならず、安心して街を歩けない社会となってしまうのは、けっして望ましいことではないはずです。自分の幸せを第一に考えることは仕方がないとしても、それでも自分たちが安全で自由な社会で過ごせるという自分の幸せに直結する価値が害されるおそれがあるのであれば、他人事ではなく自分事として声をあげる責任が、それぞれの職域のプロにはあるように思います。

今回の選挙では、性的マイノリティの方や、重度障害者の方が議員になりました。国会自体が多様性を具現化する場になる貴重な一歩だと思います。それでも国会が数の力で動いていることは否定できません。当選後露骨に数集めに奔走する政党もあるようです。こうしたときに、少数者の権利を守るべく仕事をするのが裁判所です。政治部門によって拾い上げることができなかった少数者の権利をすくい上げ、人権保障の最後の砦としての役割を期待されています。

その裁判所が、最近、政府に忖度しすぎではないかと批判されることがあります。全国で提訴している安保法制違憲訴訟でも、あくまでも新安保法制法の制定によって現実的に具体的に苦しんでいる原告らの救済を求めているのですが、政治的な問題には裁判所は口を出さない方がよいという司法消極主義の発想から、憲法判断に立ち入らないで結論を出してしまう裁判所が出てきそうです。

もちろん安全保障政策に関する国民の意思は多様です。その国民意思を統合して統一的な国家意思形成を行うことが国会には期待されており、具体的な安全保障政策の実現や外交交渉の内容などは政治部門の判断に委ねられているといえます。ですがそうだとしても、その際に内閣、国会が最低限遵守しなければならない大きな枠組みは憲法によって規定されているのですから、この枠組みを逸脱する立法か否かの判断は、司法において可能であり、むしろこれこそが司法に期待されている本来的な役割のはずです。

これまで特定秘密保護法、新安保法制法、組織的犯罪処罰法など十分な議論と検討が必要なはずの法律が、数の力によって押し切られるように成立してしまいました。昨今の官僚、政治家の不祥事、不適切な発言、公文書の廃棄、隠蔽、改ざんをあげるまでもなく、議会制民主主義の根幹が揺らいでいます。そして前述したような選挙の状況です。これまでにないほどに立憲主義、平和主義、民主主義といった憲法価値が危機に直面しているのではないか。こうした時だからこそ、果たさなければならない司法の役割、裁判官の使命があるはずだと思っています。

アメリカ、フランス、ドイツにおける各違憲審査制を概観してみると、違憲審査権の行使を躊躇することをせず、むしろ民主主義とも整合するものであり、人権保障と憲法保障に積極的であるがゆえに国民からの信頼を得ていることがわかります。そして、それぞれの国の歴史を踏まえて、立憲民主主義、法の支配・法治主義という憲法原理を維持するべく重要な役割を果たしています。どの国も過去において暗い歴史を持ち、司法もそれと無縁ではありませんでした。アメリカ先住民や黒人差別に対してアメリカの裁判所が無力だった時期があること、フランスのアンシャンレジームにおける裁判所が王権と結託して人々の権利侵害に加担したこと、ドイツの裁判所がナチスに加担しヒトラーを擁護したことなどです。ですが、今日においてはそうした過去を克服し、政治部門から独立した裁判所としてあるべき姿を確立し、権力分立が実質的に機能するようにその職責を果たしています。

日本においても、大日本帝国憲法の下の裁判所は、司法省の監督下にあり真の独立はなく、行政裁判や違憲審査権も認められていませんでした。このように民事刑事裁判に限定された役割しか認められなかった戦前とは異なり、日本国憲法の下では司法権の独立が認められ違憲審査権が規定されているのです。その裁判所が、戦前レベルの判断しかしようとしない国家機関であってよいはずがありません。

去る6月13日に前橋地裁における安保法制違憲訴訟の証人として、宮﨑礼壹元内閣法制局長官が、集団的自衛権の行使は憲法違反だと毅然とした態度で法廷で断言されました。まさに国家権力の中枢で憲法価値を堅持してきた法務官僚としての誇りが感じられる証言でした。私は裁判官にも同じように、法律家としての誇り・プライドを判決で見せてほしいのです。

政治家、官僚、法律家がそれぞれの職責を果たすこと、そして国民・市民も自らの自由を守るために「不断の努力」をおしまないこと(憲法12条前段)が、今ほど求められているときはないように思います。皆さんには法律家、行政官としての誇りとプライドをもった志あるプロを目指してほしいと願っています。

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