真の法律家・行政官を育成する 「伊藤塾」 株式会社 法学館

2019年9月 2日 (月)

第289回 寛容

立憲主義が成り立つために私たち市民が身につけるべき特性として、寛容性があると考えています。「人はみな違う」ことを前提に、その共存を図ろうとする以上は、自分の価値観や感性、ときに正義感と異なる他者の言動を受容することが不可欠だと思うからです。唯一の例外はドイツの「闘う民主制」と呼ばれる憲法忠誠の強制でしょうか。自由で民主的な基本秩序に反するような言論はドイツでは憲法上保障されていません。例えば、ナチズムを擁護する言論が規制されていることは皆さんも承知のことかと思います。

しかし、日本ではそうした例外すら憲法は予定していません。つまり、自由の敵にも自由を与えるという徹底したスタンスを堅持しています。民主主義の敵にも民主主義を否定する自由を与えてしまうことは大きなリスクを伴いますが、それを承知の上で憲法価値を否定する言動も、他者を傷つけたりして違法でない限りは許されています。

自分の意に沿わない表現行為を批判したり、そのような表現をさせない言動をする自由も認められているということです。立憲主義を根底から否定する言動も禁じられているわけではありません。立憲主義は自分の信じる価値観と異なる言動を許容するものですが、それを否定することも理屈の上では許されているのです。しかしだからこそ、私たち一人ひとりが立憲主義を理解し、それを維持していく努力を市民として求められているのだと思います。

表現の自由に関して、講義でも触れる有名なヴォルテールの言葉があります。「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」。つまり表現内容の賛否を問わず、表現すること自体の意義を理解して、お互いの言論を尊重するということです。この根底には、自分と異なる価値観を持つ他者の存在を認めるという寛容性があると思います。彼のこんな言葉も好きです。「寛容とは何か。それは人間愛の所有である。我々はすべて弱さと過ちから作られているのだ。我々の愚かさを許し合おう。これが自然の第一の掟である」、「寛容の精神は我々すべてを兄弟にする。しかし不寛容の精神は人間を野獣にする」。このように寛容とは人間らしさの表れであり、お互いの、自分自身の弱さを認めることを意味すると思うのです。

ただ、こうした寛容は、自らに人間としての余裕がないと生まれてこないのかもしれません。毎日の生活に窮し、生きていくだけで精一杯というときにはなかなか寛容である余裕は生まれません。また、自分の正義感を満足させたいと思う人も寛容ではなくなる危険があります。正義感が強すぎるが故に、私的制裁を加えることがスッキリ感、優越感という快感につながるからでしょう。

ですが、この正義感もときに人を傷つけます。正義もまたアリストテレス以来、論争の種でした。多義的で人によって解釈が異なるからです。国家間の戦争や民族対立のみならず、最近の米中、日韓の紛争においてもお互いの正義を譲り合えず打開策もなかなか見出せません。同様に個人のレベルにおいても、自らが正義と信じて行動したことが、他者の人格を毀損したり、他者の正義と衝突してどちらも引けなくなったり、大きな被害を生じさせることすらあります。

公権力という強大な力を持った捜査機関ですら犯罪者を特定することなど容易ではないにもかかわらず、一市民が無関係な人をSNSなどで犯人として特定して批判し、私的制裁を科すことがどれほど危険なことかを思い知る事件も起きました。煽り運転事件に関連して「ガラケー女」として誤って特定され甚大な被害を受けた方が法的手段をとるそうです。リツイートしただけであっても、それは情報の発信者として表現しているのですから、名誉毀損、業務妨害などの違法行為を行ったと評価されて責任を追及されてもやむをえません。

大手メディアによる報道被害については、松本サリン事件の際の河野義行さんの冤罪被害が有名ですが(1997年5月の「明日の法律家講座」でもお招きしています)、現代においては誰もがSNSで情報発信をすることにより報道被害の加害者になりうる時代ですから他人事ではありません。

この夏は、一般市民のみならず、公権力の担い手の人々が持つべき特性としても寛容性が重要であることを考えさせられる事件がいくつか起きました。1つは「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」です。公立美術館で検閲を受けて展示できなかった作品を展示しようとした企画だそうですが、各方面からの批判を受けてわずか3日で中止になった事件です。一連の騒動そのものが「表現の不自由」を実感させるイベントになったという点では皮肉です。

政治家にも表現の自由があるという主張は、よく聞くものですが、ここでの展示内容への口出しの理由になりません。そもそも表現の自由は権力に対して市民が主張するべきものであり、権力を行使する側の政治家がその立場で主張するべきものではないからです。何よりも、政治家や自治体の首長のように権力を行使する者が、自分の価値観に合わない表現(より端的に言えば自分の気に入らない表現)を禁止、抑制しようとすることは、とても民主主義社会をめざそうとしているとは思えません。

そして、たとえ公金が使われて県や市がかかわっているとしても、公権力に係わる人が展示内容に口を出すべきではありません。芸術的な表現であろうと政治的表現であろうと、専門家にいったん任せたにも拘わらず、表現内容に権力側の人間が口を出すこと自体が、表現に対する萎縮的効果を生みますし、間接的な規制といわざるをえません。権力が思想言論内容に介入することを許さないというのは、検閲絶対禁止の趣旨ですから、今回の事件は検閲そのものではないものの、その趣旨に反する言動を政治家が行ってしまったという批判は免れないように思われます。

この点では、教科書検定を想起しました。家永教科書裁判の第3次訴訟では家永先生の一部勝訴となりましたが、最高裁は個別の検定意見について詳細な検討を加えて、「朝鮮人民の反日抵抗」「731部隊」に関する修正意見などの適法性を判断しています。5人の裁判官の意見が3対2で分かれたものもあります。家永氏は一連の訴訟について「もともとこの訴訟は、学問・教育のような精神的な内面に権力が介入するのを違憲違法と裁判所に宣言させるのを目的として起こした訴訟であって、検定意見と教科書原稿とのどちらが正しいかを裁判所に判断させるものではなかった」と述べています。日本史の支配的な学説を国家が認定することになってしまったのです。

学問であろうと芸術であろうと、その内容が政治性を持つことは避けられません。そしてそれを政治的に正すために国家が介入することを認めてしまったのでは、思想言論・表現の自由は保障されません。政治的に偏っているという批判も、公権力がかかわる表現の場や教育現場においてよく耳にします。政治的中立性という言葉が誤解されているようです。これは政治的に無色透明であれという意味ではまったくありません。どのような表現であろうとも、明らかに差し迫った危険の発生が具体的に予見されない限り公権力はその内容に立ち入って規制してはならないという意味にすぎません。

今回の事件は表現の自由の問題ではない、他の場所であれば、堂々と自分のお金を使って表現できるはずだという意見もあります。市民会館での関西空港反対集会を制限するけれども、自宅で集会するのは自由なのだから表現内容規制ではないといっているのと同じで妥当とは思われません。パブリックフォーラムにおける表現行為は最大限保障されるべきですし、こうした美術館という公共の場で表現の機会を保障することは、重要な意味を持つからです。もちろん、表現させろと要求する積極的な権利まで保障されているわけではありません。ですが、専門家の判断に公権力が介入して、表現の場を奪うことはやはり表現の自由の問題になると考えます。

展示の中止は、展示内容に反発する者による脅迫があったことを理由にされているようですが、これも「敵意ある聴衆」の問題です。敵対する勢力から妨害行為がなされるような論争的な内容での集会は認められないということになると、公的な場においては、当たり障りのない言論しか人々の目に触れないことになります。思想言論の自由市場を確保することが公的機関の使命であるにもかかわらず、これを放棄するものであり、問題です。自由な言論を確保するためにこそ警察権力を使うべきだと考えます。

それが残念ながら、憲法のめざす方向とは逆に権力行使がなされてしまった事件もありました。7月の参院選応援のための安倍首相の応援演説中に「安倍やめろ、帰れ」「増税反対」と叫んだ市民や年金制度批判のプラカードを掲げようとした市民の行動を警察官が排除ないし阻止したというのです。公道での選挙演説が政治的表現の自由として憲法上保障されることは当然として、これに対して、聴衆として参加した市民が演説をしている候補者に届くくらいの大きさの声で質問や意見表明をしたり、演説内容に疑問を呈する目的でヤジを飛ばしたりすることも同じく政治的表現の自由として保障されている(憲法21条1項)と考えます。これは「敵意ある聴衆」として公権力がその発言を規制してよいものとは思えません。選挙演説遂行に支障をきたさない程度のものであるにもかかわらず、これらを警察が規制することは、憲法のみならず、警職法5条や警察法2条2項との関係でも問題になりそうです。

これに対して、柴山昌彦文科大臣が「表現の自由は最大限保障されなければならないが、集まった方々は候補者や応援弁士の発言を聞きたいと思って来ている。大声を出したりすることは、権利として保障されているとは言えないのではないか」と述べたと報道されています。しかし、演説を批判したい聴衆も来ていますし、活発な意見の応酬は候補者の考えに対して、より理解を深めることにもつながります。権力の側の人間は、自らと異なる意見に対し、より寛容でなければならないのではないでしょうか。

批判や異論に耳を傾けようとしない不寛容な体質が政権側にあると指摘する人もいます。ですが、政治家の考えは市民の意識の反映ですから、日本の市民全体の構造的な問題だといえます。立憲主義の確立した民主主義国家をめざすのであれば、寛容の持つ意味を市民として再度自覚しておかねばなりません。ただ、市民相互間で他者の思想言論に対しては寛容であることが必要ですが、権力者の不寛容に対しては寛容であってはならないと思います。

今後、権力の側で仕事をすることになる塾生も多いと思いますが、権力を行使する側であればあるほど、より寛容の重要性を認識しておいてほしいのです。私は従来から立場や力のある人のノブレス・オブリージュ(noblesse oblige / noble obligation)が重要であると訴えてきましたが、今回のような問題もそれがたとえ「やせ我慢」だとしても意味のあることであり、寛容でいられる人間が真のエリートだと考えています。

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