真の法律家・行政官を育成する 「伊藤塾」 株式会社 法学館

2019年11月 5日 (火)

第291回 裁判官への期待

 先月末に立て続けにいくつかの裁判と判決がありました。裁判の1つは、全国で25の裁判を展開している安保法制違憲訴訟において、東京で集団的自衛権の行使や後方支援活動の差止めを求める訴訟の最終弁論です。翌31日は、同じく横浜で行われた安保訴訟において証人尋問を行いました。そして一人一票実現訴訟のいくつかの判決です。7月に提訴された参議院選挙無効訴訟ですが、2つの違憲状態判決が続いた後、合憲判決ばかりで残念です。たった0・34票分の投票価値しか保障されていなくても許されてしまう国が民主主義国家といえるのか本当に疑問です。

 この問題についてはこれまでも何度か書いていますので、今回は安保法制違憲訴訟で私が弁論した内容を紹介します。700頁を超える最終準備書面を弁護士が分担して仕上げて提出しました。私が担当した第6章「本件と司法判断のあり方」だけでも120頁ほどあります。このような膨大な主張を70分で行うのですから大変でした。私の持ち時間も12分しかありません。今回は前に「プロの誇り」(288回)として述べたところと一部重なりますが、弁論の後半部分を紹介します。

「3 本件における裁判所の職責安全保障政策に関する国民の意思は多様である。その国民意思を統合して統一的な国家意思形成を行うことが国会には期待されており、具体的な安全保障政策の実現や外交交渉の内容などは政治部門の判断に委ねられているといえる。そうだとしても、その際に内閣、国会が最低限遵守しなければならない大きな枠組みは憲法によって規定されている。本件訴訟は、新安保法制法の安全保障政策上の当否の判断を裁判所に求めているのではない。あくまでも、新安保法制法が、憲法が許容している枠組みを逸脱しているか否かの判断を求めているのである。

そして、国家賠償法上の違法性の判断ないし原告らの損害の有無の判断に先行して憲法判断をすることは、問題がないどころか必要な場合があることを、平成17年在外邦人選挙権制限違憲判決、平成27年夫婦同姓規定合憲判決、平成27年再婚禁止期間違憲判決などで最高裁も認めている。

 世界的に見るなら、特に司法権のあり方をめぐっては実に大きく変容しており、グローバルな潮流でみれば、司法が違憲審査において政治に関わりを持つことは、もはや「当たり前」となっている。特に、ここ10年、20年の間に様相が様変わりし、例えばアメリカでは、2000年のBush 対Gore により、ジョージ・W・ブッシュが大統領となることが、連邦最高裁判決により決定した。このような極めて高度の政治性を有すると考えられる問題を連邦最高裁が判断したことにより、実質的に伝統的な「政治的問題の法理」は説得力を失ったものと指摘されている。

 日本では、未だに統治行為論や憲法判断回避の準則といった一般的な理論があるかのように言われることがあるが、厳格なルールや準則として扱うことに、理論的な理由はない。事案の性質や経緯、文化的・社会的な事情、そして国民の期待や社会通念を含めて、裁判所の任務や役割を具体的に探っていくことが必要である。

 そして、近時の学説からの批判を踏まえると、裁判所には、憲法判断を避けることが許されない場合があるというに留まらず、憲法判断に踏み込まなければならない場合があることも明らかになった。そして、本件訴訟がそのような場合であることを原告らは主張している。

 新安保法制法の合憲性については原告らが争点としてあげ、被告がそれを争っているのであるから、仮に裁判所が憲法判断を避けるのであれば、相当に説得力のある論証が必要になるはずである。単に、付随的違憲審査制や、権力分立や民主政などの憲法原理を持ち出すことによって憲法判断を回避することは決して許されることではない。本件においては、権力分立や民主政の観点からこそ裁判所が憲法判断するべきことを原告らは主張している。裁判所にはこの点に関する応答義務があるはずである。

 アメリカ、フランス、ドイツにおける各違憲審査制を概観してみると、どの国も暗い過去を克服し、政治部門から独立した裁判所としてあるべき姿を確立し、権力分立が実質的に機能するようにその職責を果たしている。

イギリスにおいても興味深い最高裁判決が2019年9月24日に出された。イギリス最高裁は、ボリス・ジョンソン首相が5週間にわたり議会を閉会したことに対して、憲法原理に反して違法と判断した。2009年に設置されたばかりの最高裁が、EU離脱にも関わる極めて政治的な問題に対して、政府や女王への忖度なしに明確な違法判決を出すことにより、その存在意義を示したのである。

 もちろん不文憲法であり明確な違憲審査権を有しないことなど、我が国の法制度との違いは多々あるものの、裁判所が憲法価値を擁護するために一定の重要な役割を果たし権力分立という国家のガバナンスが機能していることは確かであろう。

 日本においても、大日本帝国憲法の下の裁判所は、司法省の監督下にあり真の独立はなく違憲審査権も認められていなかった。このように民事刑事裁判に限定された役割しか認められなかった戦前とは異なり、日本国憲法の下では司法権の独立が認められ違憲審査権が規定されているのである。その裁判所が、戦前レベルの判断しかできない国家機関であってよいはずがない。

 いうまでもなく、戦争は最大かつ最悪の人権侵害である。国家が戦争に近づくことを阻止することは、最大の人権侵害を未然に防ぐことを意味する。だからこそ、人権保障のためには、憲法9条や前文の平和主義が要請する平和国家としての憲法秩序の維持が必要なのであり、裁判所には違法な立法行為を正し、違法な本件処分を差し止めることが要請されているのである。

 このまま新安保法制法による違憲の既成事実が積み重ねられ、将来、日本人が人を殺傷し、殺傷される事態が生じたとき、新安保法制法を成立させた安倍内閣、そして国会とともに裁判所も共同で責任を負うことになる。

 「今はなき」と評されるようになった内閣法制局にこれまでのような憲法擁護のための内的批判者としての役割は期待できない。日本がこうした事態に陥ってしまっている以上、政治部門の外にある裁判所が、内閣の意向を忖度したりすることなく、立憲主義の擁護者としてその役割を積極的に果たす以外に、日本における立憲主義を維持貫徹する方途はないのである。

 特に我が国のように、裁判所への信頼が一定水準を保っているような法治国家においては、憲法破壊的状況において裁判所がなしうる役割は、そうでは無い国と比べて格段に大きいはずである。「裁判もお金次第」という国が少なくない中で、我が国の裁判官はその清廉潔白で公正なイメージが広く国民に共有されている。政治部門が法による拘束を免れようとする中で、三権分立を機能させるために、司法府が政治部門にブレーキをかけなければならない場面があるはずである。

 こうした時だからこそ、憲法価値を維持貫徹するために、それぞれのアクターがその役割を果たさなければならないと考える。本件訴訟を提起し遂行することによって国民・市民は一定の役割を果たしてきた。弁護人も微力ながら法律家としての職責を果たしてきたつもりである。同様に裁判官にも果たさなければならない役割、使命があるはずである。

 今日のような憲法の危機に際して、裁判所がその役割を果たさずして、日本に未来はあるのであろうか。政治的な問題だから司法は口を差し挟まないという態度が、国の方向を誤らせるのではないか。後世から見れば、あの時が重要な分岐点だったと言われる時に今私達はいるのではないか。裁判官にも法律家としての誇り・プライドを見せてほしいと思う。

4 最後に  裁判官は特別な権限と地位を与えられた職業である。「憲法の番人」、「人権保障の最後の砦」といわれる任務を担っている。憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と規定する。裁判官としての良心に基づく自らの意思で憲法をよみがえらせることができるし、目の前で苦しんでいる原告に希望の光を与えることもできる。これは裁判官にしかできないことである。そして、裁判官には何も畏れるものがない。仮にあるとしたら自らの良心だけである。従うべきものも自らの良心と憲法だけである。

 原告らは、「裁判所だったら正しく判断できる」という司法への信頼と期待があるからこそ提訴した。仮に、信頼と期待を持ち得ない状況だったら、このように多くの原告らが多大なエネルギーを裁判に割いたであろうか。

 万が一でも、市民の間に、違憲審査権が裁判所によって適正に執行されることに絶望しか持てないようになってしまったら、これは司法の存在意義を大きく毀損する事態であると言わざるを得ない。市民から期待されうる司法であることは、我が国の立憲主義と法の支配の実現にとって極めて重大な意味を持つものである。

 本件訴訟の原告らおよび代理人も、つい裁判所に「勇気と英断」を求めてしまう。しかし、「勇気と英断」がなければ、憲法に従った判断はできないと決めてかかるのは、裁判所に対して礼を失することになろう。裁判官が自己の良心に従って法律のプロフェッショナルとして、憲法に則って淡々と職責を果たすのはむしろ当然のことである。

 原告らと代理人は、裁判所に良心をもって本件訴訟の事案の本質を洞察し、司法に負託された当然の職責を果たしてもらいたいと期待するだけである。司法に課せられた憲法保障機能と人権保障機能を全うし、法の支配の実効性を高め、立憲主義の崩壊を防ぐため、政治部門に対して強く気高く聳え立っていてほしい。このことを弁論を終えるに際して改めて切に願う。」

 東京地裁のエリート裁判官がどのような判断をするかまったく未知数です。ですが、裁判官なりのノブレス・オブリージュを発揮してもらいたいと願っています。

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