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2020年5月

2020年5月20日 (水)

【臨時号】第298回 検察庁法改正問題

今回の検察庁法改正案は見送りになり、市民にとって自分たちの行動で政治が変えられるという貴重な成功体験になりました。この点については、表現の自由や民主主義の本質が関係しますが、次回の雑感で述べることにします。今回は審議を延期するというだけですから、また再開するということですので、問題が解決したわけではありません。この問題については、その本質をしっかりと考えておく必要があります。

さて、検察庁法改正問題を考えるときに気をつけなければいけないことが2つあります。 1つは定年延長と裁量による延長を区別することです。もうひとつは黒川氏個人への批判と制度への批判を区別するということです。

後者に関しては、法務官僚としての黒川氏個人を批判することには理由がないと考えています。氏を官邸の守護神と評する方もいるようですが、検察官には国の顧問弁護士としての職務もあり、法律家として依頼者に忠実であることは何ら不思議なことではありません。政府が実行する政策に問題があるとしたら、その責任をとるべきは国会や政府であり、官僚個人ではありません。

黒川氏個人がどのような資質の官僚であり、どのような仕事をしてきたかという評価とは切り離して、今回の法律改正自体の適否を判断するべきです。仮に政府が今回の改正が黒川氏を検事総長にしたいがためであるのであれば、その立法事実が不適切であるというだけであり、そこを批判すればいいだけのことです。

次に、公務員や検察官の一般的な定年延長や役職定年制度と、内閣の裁量による役職延長・勤務延長とは全く別の問題であり、そこをしっかりと区別しなければなりません。この問題を報道のように検察官定年延長問題と一括してしまうと混乱が生じます。私は前者については、定年後の給与水準を検討する必要はあるものの、納得出来る制度改革だと考えています。問題はあくまでも後者です。

実はもうひとつ、違法な法律適用を解消するための後追い立法は許されるのかという問題がありますが、この点はしばし置いておきます。

さて、個別の検察官について、定年になっても役職や勤務を内閣・法務大臣の裁量で延長できるのかという点に焦点を絞ってみます。この問題は、憲法上は権力分立の問題と指摘されています。なぜ、権力分立が問題となるのでしょうか。私は2つの観点から検討するべきと考えています。 1 内閣が政党の影響を受けてしまう点。議院内閣制の下での権力分立がもともと弱い点。 2 検察官の職務が司法に準じるものである点。準司法官の人事に政治が介入する危険。

憲法は三権分立を採用すると共に、国会における第一政党の党首が総理大臣になる仕組みをとり議院内閣制を採用しています。行政が与党によってコントロールされるわけです。憲法上は内閣は国民ではなく国会に対して責任を負うことになっていますが(66条3項)、現実的には、与党の政策を実現し、与党の利益を考えて行政が動くことを許す制度となっています。かつて、安倍首相が自分は「立法府の長だ」と発言して問題になったこともあるほど、立法権と行政権は一体化しているのです。

よって内閣の政治的意思決定は、与党に配慮したものになる可能性があります。国会の多数派と内閣の間の抑制均衡は事実上働かないのです。そこでは与党への配慮から検察行政がゆがめられる危険が増すことになります。その危険を最小限にするために、準司法的機能を果たす検察官の独立をより一層、保障する必要性があるのです。つまり、三権分立というよりも、司法部門と政治部門の抑制均衡として考えるべきだということです。ここでの司法部門には裁判所のみならず検察が入り、政治部門は国会・内閣が一体となって構成しているものを想定します。

このように、検察は行政権でありながら、その職責は司法権に準じるものがあるという二面性が問題を複雑にします。次に、検察の準司法機関という性質について検討してみましょう。

まず、検察官の職務は行政権に含まれますが、その職務は裁判に深く関わり、起訴・不起訴の権限は検察官だけに与えられています(刑事訴訟法247条)。政治家を起訴することもあることから、政治的勢力によって左右されないように不偏不党を貫かねばなりません。そのため司法権に準じた独立性が確保されなければならないということから、準司法的機関と位置付けられます。具体的には職務の独立性、身分保障、適格審査制、定年制、俸給表などの点で、通常の行政官とは異なった扱いになっています。現行の検察庁法は、検察官の身分保障について規定し、職務の独立を担保するとともに、その反面、定年制を設けて、63歳(検事総長は65歳)に達したときに例外なく退官することにしているのです(同法22条)。

このように定年に達したときには例外なく退官し、任命権者の恣意・裁量を許さないことが、検察行政に政治的介入を許さない制度的保障となっているのです。定年まで辞めさせられないし、勤務を伸ばすこともできない。これが政治的介入を防ぐ仕組みとして機能していたということです。

今回の法改正において、検察官の定年延長や役職定年を設けることに乗じて、これまでの制度を変更して、内閣ないし法務大臣の裁量で個別に特定の検察官に対してだけ、役職延長や勤務延長を可能とする規定を入れようとしている点が問題なのです。

しかし、そもそも行政官なのだから人事権が内閣にあるのは当然ではないか、という疑問も生じるかと思います。この点はどうでしょうか。

アメリカでは連邦地方検事は大統領が任命しますが、各州の州地方検事は、住民が選挙で選びます。行政のトップと同じく、検察官も民選であり、州地方検事は州の住民に責任を負うのです。行政権の行使に対するダイレクトな民主的統制です。

それに対して日本では、主権者である国民の代表機関である国会に対して責任を負う内閣に任命権があります。行政権が内閣に属するのですから(憲法65条)、行政権の一部である検察権を行使する検察官の任命権が内閣にあるのは当然の帰結でもあります。

一般検事の任命権は法務大臣にあり、検事総長と次長検事、高検トップの検事長は内閣が任命し天皇が認証します。ただ、一般行政とは大きく違うのが、先ほどの準司法官的職責から、実際の運用において、検事総長の了承を得た人事案を大臣や内閣が追認する慣例となっているという点です。つまり、法形式上は行政権を行使する検察官の人事権は内閣にありますが、実際の運用上は、その準司法官的性格を尊重して内閣から独立した人事が行われているのです。

こうした法形式と実際の運用でのバランスという点は、裁判所とよく似ています。 裁判官の任命も内閣ですが、裁判内容に内閣が介入することは許されません(76条3項)。そして任命に関しても、最高裁の作成した名簿による(憲法80条1項)ことになっていて、そこを逸脱できません。それと同じような制度として検察官人事も運用されているのです。違う点といえば、裁判官の任命は憲法上の要請ですが、検察官はそれに準じた形で慣例として運用されているということです。

裁判官の任期は10年ですが(憲法80条1項)、仮に10年たった後の再任の際に、内閣の裁量で再任が決まるのでは、内閣から独立して裁判などできません。それと同じです。内閣に人事の裁量権を持たせないことが極めて重要な意味をもっているのです。

このように検察官に関しても、司法権を行使する裁判官と同じような身分保障と政治権力からの独立性が必要なのです。ここまで裁判所と検察の類似性をみてくれば、両者の権力行使の正統性の源泉も共通していることがわかります。憲法を勉強した方ならわかると思いますが、裁判所の正統性の根拠は国民の信頼にありました。それと同じく、検察権力の正統性の根拠も国民の信頼にあるのです。

ですから、国民が検察を信頼できなくなってしまうと、その存立基盤が揺らぐことにもなりかねません。起訴、不起訴の権限は検察だけにありますから、その判断に政治が介入しているのではないか、政府を忖度しているのではないかという不信感が国民の間に生まれたら、検察の権威が失われ、後は権力を行使するしかなくなります。為政者は権威と権力を使って国民を支配するのですが、権威の威力が落ちると権力に頼るようになります。検察による強権発動をさらに生むことになるでしょう。これは国民にとって不幸なことです。

そうした疑念を抱かせないようにするために、内閣の裁量で個別に、役職延長や勤務延長が可能になるような制度はあってはならないのです。このように検察への信頼が問題の本質にあることから、検察官OBの方々が反対の意見を述べることは十分納得できます。

要するに、この問題は検察行政に対して民主的責任行政を貫徹することと、個別案件への政治的介入を防ぐことの調和をいかに図るかという制度設計の問題です。法務大臣から検事総長への指揮権発動もこれに関する問題ですが、ここでは割愛します。

これまで適切に機能してきたものを変更するのであれば、それなりの根拠が必要なはずですが、その点に関する説明は改正案提案者からありません。つまりは、立法事実がないということです。なおこの問題は、黒川氏が辞任すれば解決するというものではありません。この騒動を理由に現職検事長が辞任するとなれば、かえって準司法官的性質を持つ検察行政が政治問題に巻き込まれたことになります。私は黒川氏には淡々と職務を全うしてほしいと思っています。

2020年5月 3日 (日)

第297回 憲法記念日

73回目の憲法記念日がやってきました。例年この日の前後は大きな集会での講演を依頼されて忙しくしているのですが、今年はどこの集会も中止です。コロナの感染防止を考えれば仕方がないこととはいえ、たった一つの感染症によっても、集会の自由、表現の自由にここまで大きな影響が及ぶのだと改めて実感します。

外出自粛が求められ、法的強制力はないものの事実上、外出することは相当勇気がいる事態になっています。居住・移転の自由という人権が憲法22条1項に規定され、経済的自由権に分類されていることは憲法を学んできた皆さんならよくわかっていることだと思います。そして、それが、なぜ経済的自由権に位置づけられているのか、その趣旨も理解していることかと思います。

少し復習をすると、この居住・移転の自由は、自己の住所又は居所を自由に決定し、移動することを内容としています。封建社会では人を土地に封建領主の下で結びつけておくことが不可欠であったため、居住移転の自由が制限されていました。それに対して市民革命後の近代社会においては、自由に人々が行き来できる権利が確立され、人々が都市部などに出て自由に自分の望む職業に就くことができるようになったのです。こうして資本家による労働力の調達が可能となり、居住・移転の自由は資本主義経済の基礎的条件となりました。このような歴史的背景によって、経済的自由権のひとつとされてきたわけです。最近では移動の伴わない在宅勤務、テレワークなどが提唱されていますが、まだまだ対応できない会社や社員の方々も多いようです。

コロナの影響によって、外出ができず移動の自由が制限されると、ここまで経済が大打撃を受けるのかと驚かされます。その点からも、居住・移転の自由がなぜ経済的自由権に分類されているのか、その意味を改めて思い知らされます。人が移動できないことがどれだけ私たちの経済にダメージを与えるか、そして、サービスを提供する側の営業の自由がこうして制限されると、それが私たちの生存そのものを脅かすほどになっていることに愕然とします。収入を得る道を絶たれ生活がたち行かなくなり、自ら死を選ぶ人が増えているという話も聞こえてきます。まさに居住・移転の自由、営業の自由という経済的自由権が、生存権(憲法25条)につながり、さらには生命の権利(13条後段)につながっているのです。

何か他人事のように言っているように受け取られてしまうかもしれませんが、私も伊藤塾という中小企業の経営者の端くれですし、渋谷でベトナム料理店もやっています。東日本大震災の年に開店してもう10年になります。ベトナム人留学生のアルバイト先を創り、生活支援をしようと始めたものですから、この状況だからといって留学生たちの仕事を簡単に無くすわけにはいきません。特にコロナの影響で留学生たちがどれほどの困難に直面しているかを知っているので、なんとしても彼ら彼女らの生活を守りきらねばという気持ちになります。ですが、どんな規模の会社であっても社員の雇用を守ることは本当に大変なことで気が休まることのない毎日です。

さて、居住・移転の自由は、このように経済的自由権として極めて重要な人権ですが、現代においては、広く知的な接触の機会を得るためにもこの自由が不可欠であることから、精神的自由の要素も併せ持っていると考えられています。複合的性格を有する人権というわけです。

たとえば少し家を出て自由に空気を吸う場所を求めて移転するだけで、リフレッシュすることができます。居住・移転の自由が自らの幸福追求のためにも不可欠であったことがよくわかります。コロナ疲れなどといわれますが、人出の少ない公園なら少しくらい出かけてもいいのではないかと思う気持ちもよくわかります。私はパチンコはやりませんが、何らかの娯楽で少しくらい気晴らしをしたいと思う気持ちは理解できます。

外出している人や開店している店舗を攻撃する言動もあると聞きました。皆、外に出たい気持ちや店を開けたい気持ちを我慢しているのに、その禁を破る奴は許せないということから「自粛警察」なる行為が見受けられるそうです。補償を伴わなくてすむように法的な強制力を持たせずに、社会の同調圧力を利用した自粛要請をして事態を収めようとする為政者の思惑通りの行動をとってくれる人も多いということです。

人の正義感はときに暴力になります。コロナに感染した方を差別する言動も報告されています。悪意によるものではなく、何気ないSNSでの噂話によって被害を受けている人もいます。このウイルスは感染した人を苦しめるだけでなく、感染していない人の心にも入り込み、様々な悪さをするようです。

移動の自由、集会の自由が制限されることにより、今年の憲法記念日は、屋外での市民集会による表現活動が一切できない異例の日になります。憲法施行70年の2017年には東京の有明で5万5千人が集まる大きな集会があり、私も登壇して発言しました、そのときにはこんな憲法記念日が来るとは夢にも思っていませんでした。

憲法が保障する表現の自由、集会の自由が極めて重要な人権であるにもかかわらず、こうして法的強制力もない一種の行政指導の下で、かくも容易に制限を受けてしまうものなのだということも衝撃的です。実は表現の自由を制限するためには、法的強制力などいらなかったのです。国民・市民を不安にさせ、マスコミを利用して1つの方向に向かわせることができれば、それで制限するには十分なほどに脆弱な人権だったのです。精神的自由権の脆弱性、もろさを今実感しています。

現在でも、政府や自治体の発表を流すだけのマスコミの状況を見ていると、報道の自由は本当に保障されているのか疑問に思います。たとえばコロナ対策としては、政府が要請する外出自粛によって接触機会を減らすことだけでなく、感染リスクを減らす方法もあるはずです。しかし、政府の方針とは違う対策についてはほとんど報道されず議論の余地すらないかの如くです。さらに、PCR検査を抑制してきた政策についても真正面からの批判はほとんど報道されません。

報道現場はどうなっているのか。月刊「創」編集長の篠田博之氏の論考などを読むと現場の実態がよくわかります。 そこで紹介されている日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)のホームページに公開されているアンケートに寄せられた声を孫引きで恐縮ですが引用します。これを読むと現場の切実な叫びが伝わってきます。

●政権批判の報道は上層部が常にチェックしている。政権や自治体批判をしていたスタッフが部署異動になる。政権批判の内容に対しては細かい裏取りが必要だと言われ結局見送りになる。事前予定項目に政権批判のニュースが入っていたのにいつのまにか変更になっている。こういう事例が森友以降目立っている。(関西の民間放送局の関連会社・取引のある制作会社社員)

●政治ニュースで政権からクレームが来ないかだけを考え、少しでも何か来そうだと誰か幹部が指摘すると、本来問題点を指摘することをやらなくてはいけないのに、放送をやめる。或いは表現をオブラートに包んで 、何が問題かが分からなくする。それが繰り返されることで、段々面倒なものはやらないとなり、或いは幹部に言っても放送しないだろうと考え、やらないのが当たり前になり、思考停止状態。おかしなことがおかしいと言えないどころか、気づかなくなり、あげくのはてには、問題にすることがおかしいと、ただの政権の方針を垂れ流す広報機関になり下がる、そんな事態が目の前で起きている。 (東京の民間 放送局社員 報道局)

●報道番組のディレクターですが、理事や報道局長からの介入が酷い。報道局長とその部下の女性記者に官邸からホットラインがあり、政府、安倍総理の広報原稿を読むだけになっている。日曜討論に与党しか出ない、総理会見の質問を打ち切り、女性記者が総理の代弁をする。全てホットラインのせいであり、部長や編集長級は転勤をちらつかされて言いなりです。(放送局社員)

●自主規制。正直、政権与党から直接的な圧を感じた事はないが、内側にいる我々が勝手な忖度し、中立公平という謎の概念に、ジャーナリズムを放棄するような判断が多々見られた。ジャーナリズムよりも企業倫理が勝ってしまう現状に危機感を感じ続けている。(東京の民間放送局の関連会社・取引のある制作会社社員=ニュース報道番組)

●忖度がまかり通っている。総務省が、理事がこう言っている、という主語で悪びれもなく指示が下りてくる。幹部も上司も思考停止で、監督官庁の意向を忖度するのに必死で、唯々諾々と上からの指示に従っているという感じ。疑問を呈するという姿勢がそもそもない。(放送局社員)

これが日々私たちが目にしている報道の自由の実態です。こんな状況のときに憲法改正して緊急事態条項を創設するべきだという議論が政治家から出ています。大きな災害の度に条件反射的に主張される緊急事態条項創設の改憲ですが、今回は実現可能性が高いと考えての発言でしょう。コロナ対策の緊急事態宣言が出されたのに従わない人を見て納得できない人々が、もっと強力な措置が必要だと声をあげると、それに同調する人が出てくるという社会的な下地があった上での改憲の主張です。「空気」に弱い日本の人々の特性を改憲を望む人達はうまく利用するものです。共同通信の実施した憲法に関する世論調査では、大規模災害時に内閣の権限を強め、個人の権利を制限できる緊急事態条項を憲法改正し新設する案に賛成51%、反対47%だったそうです。

自民党が2012年に改憲草案で示したものはまさに内閣独裁条項です。私などは現政権のコロナ対応を見て、内閣の権限をこれ以上強化することは本当に危険だと思うのですが、多くの人々の感覚はそうでもないようです。現在の憲法で許されている以上の人権制限を可能にするための改憲ですから、一体どこまでの人権制限をしようとするのか恐ろしくなります。仮に改憲されれば、政府の対応を批判するような表現の自由、集会の自由も一切許されなくなることでしょう。

現在のフランス憲法16条には大統領の非常緊急措置権が規定されています。4人の将軍によるアルジェリアにおける反乱(1961年)において、反乱自体は1週間もたたずに鎮圧されていたにもかかわらず、ド・ゴール大統領は、さらに5ヶ月、緊急権を適用して表現の自由を制限し続けました。1961年4月にはすでに反乱は鎮圧されていたにもかかわらず、1963年になっても依然として文書の発禁処分が頻繁に行われていたのです。

どんなにすばらしいと評価される為政者であっても、自分に都合の悪い言論は封じ込めたくなるものです。こうした濫用の危険のある権限を政府に与えてしまう緊急事態条項を私たちの憲法の中にに入れ込む必要は全くありません。立憲主義を国家の都合で一時停止させることを本質とする緊急事態条項は、国民が自然権として持つ抵抗権とは全く目的が異なることを再度確認しておく必要があります。

弱い立場に追い込まれ、ものが言えなくなっている国民・市民が最後の手段として抵抗権を行使しなくて済むように、最大限の弱者への配慮と表現の自由を保障する制度づくりを求めて、これからも声を上げ続けなければなりません。そうしたときに、法律を学んだ者、憲法を知ってしまった者の責任は大きいと思っています。受験生の皆さんは今できること、やるべきことに集中してください。こうした危機の中にあっても人々に価値を提供できる、信頼を与えられる法律家、行政官をめざしてください。そうした日々の懸命な努力の先には、必ず社会の幸せの総量を増やす役割が待っています。私はそこに憲法の希望の光を見つけていきたい、これが私の憲法記念日の願いです。



・NHK「バリバ ラ」再放送差し替え事件と「忖度」が広がる放送現場 (篠田博之/月刊『創』編集長)

・報道関係者への「報道の危機」アンケート結果(概要)について (日本マスコミ文化情報労組会議)