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2020年6月 5日 (金)

第299回 SNSの功罪

文春砲(週刊誌のスクープ)による幕引きは意外でした。 ですが法律を学ぶ者としては、賭け麻雀に惑わされずに、検察が行政権であるにもかかわらず、その機能が司法権に準じるという意味をしっかり理解することが重要です。裁判所は裁判によって判断するのですが、刑事事件においては判断対象を提供するのは検察です。検察が起訴しなければどんなに裁判所が判断したくても、裁判所は司法権を行使できません。ですから検察官による起訴は、刑事事件については司法権にとって不可欠の前提なのです。

ついでにいうと、弁護士が被告人を弁護することで、被告人は検察と対等な立場の当事者となることができ、裁判を安定した公平なものにすることができます。ですから、弁護士にも司法権に準じた、検察と同様の独立性が要請されます。そのために弁護士会があり、監督官庁による監視監督を受けるのではなく、国家から独立した弁護士会という組織によって自律的な統制を行う仕組みとなっているのです。この裁判所、検察、弁護士というそれぞれ独立した組織体の三位一体構造によって司法が適切に機能することが想定されているということができます。

今回の検察庁法改正案の成立は見送られることになりました。解決したわけではありませんが、市民にとって自分たちの行動で政治が変えられるという貴重な成功体験になりました。ツイッターなどのSNSによって、民意の反映つまり表現の自由の自己統治の側面がこんなにわかりやすく示された例として受験生にとっても収穫でした。

日本で生活する私たちは、自分たちの行動で政治が変えられるという成功体験が少ないために、自分たちが主体となって政治を変えるという意識が低くなりがちです。光州事件で闘った韓国の市民や中国本土に送還されてはたまらないと声を上げた香港の市民のように体を張って、命を賭けて闘って何かを勝ち取った経験があまりありません。私は学生運動を知りませんが、東大紛争などでも結局は変えることができなかった挫折の経験だと総括する人もいます。

教育の政治的中立性の名の下に、学校では、子どものころから政治はタブー視されてきました。従順な物分かりのいい臣民を育成することをめざす戦後の公教育制度の中では、自立した批判精神旺盛な市民、つまり国家や為政者にとって、不都合な物言う市民はあまり生み出されてきませんでした。法教育についても、誰かが作った法律やルールを守ることが重要なのであり、秩序や規律を重んじることが重視されてきました。高度成長をめざした国家としては、団体行動を疑問なくできて、規律を守れる社員、工員の育成が何よりも重要だったのです。

学校ではルールは守るものであり、自分たちが作り変えられるものという本質を教えてもらうことはほとんどありません。学校で政治をタブー視しておきながら、18歳になったとたんに選挙に行こうといわれても戸惑うだけです。ですが、SNSを通じてであっても政治を変えられるという成功体験が積み重なれば、民主主義社会における自律した市民として成熟していけるのだと思います。

アーティストやスポーツ選手によるSNSでの検察庁法改正反対発言に対して、よく知らないことについて専門家でもないのに発言するなという批判の声が上がりました。仮に政治に無関心な人がいても、政治に無関係な人などいません。政治的発言を制約される人は天皇以外にいないはずです(憲法4条1項)。国民・市民の誰もが政治に対して発言することができる社会が健全な民主主義社会です。主権者という以前に日本で生活するすべての市民の権利です。つまりここでは国籍も関係ありません。これも政治活動の自由で勉強するとおりです。

芸能人などは社会的影響力が大きいのだから間違ったことを言うなという意見もあります。ですが、思想言論の自由市場の考え方からすれば、間違った言論も含めて保障することが表現の自由(憲法21条1項)の要諦です。そもそも間違っているかどうかわからないのですし、仮に間違っていたとしてもそれは正しい言論を補強する重要な意味があるからです。よって、権力を行使する人が国民・市民に間違ったことを言うなと言論封殺をすることは許されません。

こうした言論封殺、それは沈黙強制ともいえるものですが、これは民主主義の観点からも人権の観点からもそれ自体が間違っていると考えますが、私人が別の私人にそのような発言をすること自体は許されています。それにさらに反論すればいいだけです(対抗言論)。または、無視して発言を続ければいいだけです。それもまた思想言論の自由市場です。言論封殺をしようとする発言を見て、別の市民がその表現の価値を判断して、無視するか、哀れむか、受け流すか、適当に対処すればいいだけです。その発言が一定の社会的評価を受けている人の発言であれば、その評価に影響するだけです。偉そうなことを言っている評論家でも実は何も判っていなかったのだなと多くの人に知らしめるだけのことです。そしてそのような評価に納得がいかない本人がさらに再反論すればいいだけです。面倒でもその過程が民主主義にとって重要なことなのです。

ですが、他者の言論によって、そのような対抗言論や言論の自由市場では回復できない被害を受けるときがあります。プライバシーの侵害やヘイトスピーチ、人格攻撃を含む誹謗中傷です。これらの表現はその攻撃を受けたときのダメージが極めて大きく、しかも回復困難な精神的被害を受けることがあります。私もずいぶんと酷いことを言われることがありますが、受験生からの誹謗中傷は、受験勉強によるストレス解消の機会を奪ってしまっては可哀想かなと思って受け流していたこともありましたし、憲法関連の発言に対しての誹謗中傷は、対抗言論が意味をなさないものについては無視していました。しかし、受け流せばいいという対処方法が採れない人もいます。気にしなければいいなどというレベルの攻撃ではすまない被害を受ける人もいます。女子プロレスラーの木村花さんのような事件は、日本のみならず韓国などでも起こっているようです。

SNSには二面性があります。情報の送り手と受け手が分離・固定化している現代において、市民が送り手の側にまわれる貴重な手段だというプラスの面がある一方で、他方で匿名性から抑制が効かず、また相手の様子が見えないために相手に大きなダメージを与えることがあるというマイナス面です。しかも、一度拡散してしまうと自分の発言をなかったことにはできないというインターネット特有の恐ろしさも併せ持っています。

憲法では自己決定権を人権として尊重しますが、当然にその行使には責任が伴います。権利には義務など伴いませんが、権利行使には一定の責任が伴うことがあります。仮に正しく権利を行使したとしても、それが他者を害することはありうるのであり、その際の責任は引き受けなければなりません。自分の頭で考えて、自分の価値観で意思決定して行動し、その結果については自分で責任をとる。この責任をとるという覚悟まで自覚して初めて自己決定権という人権が完結するのだと考えています。言論の自由の限界を自ら判断できない人に対しては、法的制裁もやむを得ません。

ですが、SNSの負の側面に着目して、これを規制することは、プラスの面を抑制する危険があることも十分に承知していなければなりません。批判と誹謗中傷の限界は曖昧なので、政治家など批判されたくない人たちが、SNS規制を言論封殺に利用する危険があるからです。せっかく盛り上がったSNSの有用性を減殺してしまうような規制はするべきではありません。現在の制度でもそれをうまく活用できれば、SNSでの誹謗中傷に対しても抑止力としての一般予防や二度とやるまいと思わせるだけの特別予防効果は期待できるはずです。

ただ、利用するには何度も裁判をしなければいけなかったり、情報の保存期間、手続、費用等の面でハードルが高すぎたりします。もっと、手軽かつ確実に被害者が制度を利用できるようにするべきでしょう。また、裁判所の判断を待っていると時間がかかることがありますから、弁護士等の専門家による第三者機関を作り、そこで迅速な判断をしてもらう仕組みも有効かと思います。独立行政委員会による前審としての関与のイメージです。何よりも専門知識をもった法律家がもっと増えることが必要だと思います。

SNSを活用して人種差別に反対する、民主化運動を支援する、地球環境改善に賛同する、等々、多種多様な政治的発言や意見交換に活用できるSNSは今後ますます発展することになるでしょう。個人情報などのデータ管理も特定企業に依存するのではなく、分散型のネットワーク処理など新しい技術も活用されるようになるかと思います。技術の進歩を最大限活用しながら、人間は一歩一歩進化するのだと思います。

それにしても人間社会の進化の歩みは遅々としています。人種差別、いじめ、ヘイトクライムはなかなかなくなりません。人権や立憲主義は何十年、何百年の中で、少しずつ前に進むしかないようです。アメリカは奴隷制の中から建国されました。憲法の中に奴隷を想定した規定を持っていますし、憲法起草者のマディソンやジェファーソンも奴隷所有者でした。アメリカの建国の歴史は極論すれば、差別と先住民への略奪と虐殺の歴史です。そうした負の歴史の中から様々なことを学び成長しているのです。

1803年のマーシャル判決によって裁判所に違憲審査権が認められるようになりましたが、チェロキー族への理不尽な扱いは変わりませんでした。南北戦争の後に、リンカーンによって奴隷制廃止の修正13条が追加され、その後の修正14条によって黒人にも市民権が与えられました。公民権条項です。ですが、その後も、人種差別はやむことなく、セパレート・バット・イコールが政策としても正当化され、司法もこの分離政策を合憲とし続けました。キング牧師の公民権運動による公民権法制定(1964年)により、法の上での人種差別は終わったはずなのですが、それから半世紀以上たった現在でも未だに人種差別を原因とする抗議活動が全米で起こっています。

このように理想を実現するには気の遠くなるような時間がかかります。人間の本性を変えようとする試みだからなのかもしれません。人間の持つ、邪悪な面をなんとか制度や仕組みで矯正しようということですから、それは時間がかかって当然です。ここで重要なことは、諦めずにその努力を続けるということです。制度を作り、完璧ではなくても実施してみて、問題点を見つけて改善していく。SNSなどの技術のプラス面を活用しながら、そのプロセスを繰り返していくしかないと思います。

人間は弱い、不完全な生き物であるが故に、うまくいかないこと、失敗することが当たり前であることを前提にしなければなりません。そして何が正しいかわからない、やってみなければわからないからこそ、透明性、説明責任、少数意見や反対意見の尊重など民主主義のプロセスが重要なのです。自分の生活の中でも、こうした憲法の叡智を活かしていきたいと思います。