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2020年9月 1日 (火)

第302回 安倍退陣

まだまだ続く公務員試験や予備試験論文、今月末の司法書士試験、11月の行政書士試験に向けて頑張っている塾生の皆さんの中には、早く試験が終わらないかとやきもきしている人もいるかと思います。先月、夏真っ盛りの中、異例の司法試験、予備試験短答、国家公務員総合職試験が終わりました。何事にも必ず終わりがあります。時間は面白いもので必ず前に進んでいくのです。今、試験直前期で不安な皆さんも、数週間後には試験前の自分を振り返ってあっという間だったなと思うはずです。

違憲の新安保法制法が強行採決された5年前の9月、この政権による悪夢はいったいいつ終わるのだろうかと暗澹たる気持ちになったことを覚えています。内閣法制局長官の首まで挿げ替え、最高裁裁判官人事にまで手を突っ込んで、これまでの保守政党たる自民党政権にはなかった官邸主導の政治が繰り広げられてきました。政権を揺るがすような疑惑が起るたびに、マスコミを手なずけて問題をうやむやにしながら政権を維持する力はこれまでにないもので驚きの連続でした。ですが、そうしたときに、これもいつかは終わるのだから心配いらないと自分に言い聞かせていたことを今では苦々しくも懐かしく思い出します。

「政権を私物化したというつもりは全くありませんし、私物化もしておりません。」これは安倍首相の辞任表明会見の際の言葉です。持病が原因で志半ばで総理大臣を辞職することは本当に悔しいことであろうと思います。そうした本人の気持ちは理解できるのですが、権力を私物化したことはないというのであれば、それを国会において、そして国民・市民に十分に説明するべきでした。それができなかったのですから、その点を批判されてもやむを得ません。

政治家は国民を事実と論理と言葉で説得して自らの考えを実現していく仕事だと考えています。新安保法制法、共謀罪などの賛否が分かれる重要法案、森友・加計問題、桜を見る会の問題などの場面において、安倍首相はいつも「丁寧に説明する」と口にしてきましたが、国会での情報開示や、国民に対しての丁寧な説明はなされませんでした。

何よりも公文書をきちんと保管せずに、廃棄したり改ざんしたりと信じられないような公文書管理の不祥事が相次ぎました。後に歴史の評価を受けるという意識が皆無だったのでしょうか。どのような政策も人間が立案し実施しますから、万全ではありません。ときに失敗や間違いもあるでしょう。ですが、それは事後的検証により同じ間違いを繰り返さない教訓を得ることによって、はじめてその失敗は単なる失敗ではなくなるのです。ですが、人事権を握られた官僚の忖度が蔓延したことによって、意味のある失敗の経験を残すことすらできませんでした。

国会での説明に際して、「ご飯論法」と命名された議論のすり替え技術や、ヤジや敵と決めつけてのレッテル貼りなどの技を駆使することによって、真正面からの議論と説得を避けてきました。「朝ご飯を食べたか?」という質問に対して、実はパンを食べたのに「ご飯は食べていない」と答えるように、「朝食を食べたか」の論点に対して、「何を食べたか」の論点にすり替えることは、議論をかみ合わせて発展させようとする態度とはほど遠いものです。

異論や批判に耳を貸さずに、相手を敵か味方かに分け、敵認定すれば徹底的に厳しい言葉で攻撃しました。民意を統合しようとするのではなく、逆に国民の分断を煽る結果になってしまいました。国会の役割は憲法で勉強するとおり、「民意の反映」と「民意の統合」にあります。しかし、こうした国会での首相の答弁からは、誠実に議論して民意を統合し、よりよい結論を見つけ出そうとする姿勢がまるで見えなかったが故に、権力の私物化と批判されてしまうのだと思います。

経済、財政政策にしても、アベノミクスが目標にしていた「デフレ脱却と年率2%の物価上昇」は到底達成されたとはいえませんし、異次元の金融緩和と呼ばれる政策が繰り返されていますが、家計消費はむしろ減少しています。実質賃金もコロナ前であってもマイナスが続いていました。こうした状況にもかかわらず、国民・市民も、首相に「道半ば」と何度も強調されると、もう少し様子を見てみようと、十分な説明を求めることなく納得してしまったところがあるのかもしれません。

十分な説明を求めない国民と説明しない為政者は見事にセットなのです。つくづく、ヒトラーの「大衆の理解力は小さいが、忘却力は大きい」という言葉を思い知らされます。私も大衆の一人として情けないことに、安倍政権が本来説明するといってきたことをいちいちと覚えていられません。「アホノミクスに始まり、アベノマスクに終わる」と揶揄してみたところで、すべて自分に返ってきそうです。

「政治においては、その職に何日間在職したかではなくて、何を成し遂げたかが問われる。」これも安倍首相の言葉です。何を成し遂げたかの前に、本当は何を成し遂げたかったのかが今ひとつ不明でした。災害復興、憲法改正、北方領土、拉致問題、オリンピック・パラリンピック、コロナ対策、女性活躍、一億総活躍、働き方改革、人づくり革命等々、問題課題は山ほどありましたが、官僚ではなく安倍首相が本当に成し遂げたかったことは何だったのでしょうか。その優先順位、そしてそれに向けての周到な戦略や執念が見えてきませんでした。試験勉強も含めて何事も同じで、やりたいことがたくさんあるときほど、優先順位付けとメリハリが重要なのだとつくづく思います。

安倍首相の次の総理大臣を誰にするかという問題も考えさせられます。自民党内で政策を競い、その説得力によって自民党総裁が決まるのではなく、政策には興味がなく権力争いにしか関心のない人が安倍首相の後継者を決める切り札を握っていたりします。飲み食いの人間関係によって支援を集めることができる人が総裁選で有利になったりするようです。

いうまでもなく、自民党という私的団体の総裁を決めるわけですから、選出方法は本来、その団体の自由です。ですが、いくら私的団体といっても多額の政党交付金つまり税金が投入され、その私的団体のトップは自動的に日本の総理大臣になるのですから、極めて公的な機能をもった総裁選であるはずです。

アメリカでは何年もかけて大統領候補者を絞り込み、事実上の国民の直接選挙によって行政のトップである大統領を決定します。アメリカ大統領選挙のネガティブキャンペーンもひどいものですが、それでも政策論争はしっかり行います。日本ではこうした国民の面前での政策論争ではなく、私的団体内部の権力闘争、しかも飲み食いやどれだけお金の面倒をみてやったかというような前近代的な事情によって国のトップが決まってしまいます。

しかも自民党総裁は、小選挙区制の下で選挙区ごとの公認候補を決める最終権限を握っていますから、絶大な権力を党内で持つことになります。その国会における第一政党の党首が内閣総理大臣に指名されるのですから、国会を牛耳る組織のトップと行政のトップが一致することになります。さらに裁判官は内閣から任命されますから、その人事権を行使すれば裁判所も牛耳ることができます。権力分立であるとはいえ、仕組みの上では恐ろしいほどの権力の集中が可能な制度となっているのです。

だからこそ、その担い手である政治家は、謙虚さと全体観、歴史観といった人間としての器の大きさが必要となってきたといえます。どのような制度であっても完璧なものなどはありません。どうしても何らかの弱点を持っています。だからこそ、そうした制度の持つ弱点を、これまでは制度を担う個々の政治家の人間力で補ってきたのです。ところが、逆にそうした制度の弱点をも、むしろ最大限に自らの権力行使や権力の温存のために利用するようになってしまったようです。これでは、中国共産党の一党支配や北朝鮮の世襲制を非難できたものではありません。

政治家は自ら決断した結論を、事実と論理と言葉で説得する仕事だと述べましたが、法律家も同様です。法律を学ぶことの意味は、何が正しいのかわからない問題について自ら答えを創り出し、それを事実と論理と言葉で説得する能力を身につけることだと言い続けてきました。私自身もそうした能力を法律家としても伊藤塾の経営者としても鍛えようと努力してきたつもりです。

ですが、裁判で負けたりすると、ときには事件の筋が悪かった、相手が悪かった、裁判官が官僚裁判官だったからだと言い訳をしたくなります。会社経営においても自分の能力不足を棚に上げて社会のせいにしたくなることがあります。本当に人間は弱いものだとつくづく思うのですが、なかなか成長できません。安保法制違憲訴訟で敗訴判決が続いたり、一人一票訴訟でとんでもなく悪い判決が続いたりすると裁判官の資質を批判したくなることもあります。

ですが、考えてみれば、そうした官僚裁判官を説得できなかった自分の能力不足が原因なのですから、そこで人のせいにしてみても自分の成長はありません。自らの学びと成長のためには、そこで人のせいにするのではなく、どうすれば頭が固い、政府を忖度するような、ときに自らの出世しか考えていないような官僚裁判官を説得できるだろうかと必死に考えることが必要なのだと思います。

これは本当に困難なことです。ですが、もともと裁判で簡単なものなど一つもありませんから当然のことです。およそ裁判というものは、どんな事件であっても相手方と裁判官という人間を相手にするものですから、簡単であるはずがありません。

何か、こう書きながらいかにも優等生的な言い方で、もう一人の自分がうんざりしています。しかも塾生の皆さんには、「すべて自分で引き受けるな。ときには人のせいにすることも大切だ」と言っているのにもかかわらずです。しかし、それでも自分の成長のためにはもう1歩必死で考えないといけないと思うのです。

自分の非力は十分に認識しているつもりですが、それでもこういうときだからこそ、司法が役割を果たすべきだということをしっかりと裁判官に説得していかなければならないと強く思います。

新安保法制法は2015年当時、日本中の法律学者が反対し、日弁連を含むすべての弁護士会が反対し、最高裁長官経験者も違憲と指摘した法律です。それが数の力にまかせての強行採決により成立してしまいました。その後の施行によって違憲の事実が積み重ねられています。もちろん安全保障政策の問題は様々な考えがあって当然です。しかし、憲法はそこに一定の枠をはめました。それが集団的自衛権行使は許されないというものです。自民党政権も含めて長年の国会、内閣による憲法実践の中で確立した解釈を内閣の一存で変更することはできません。仮にこれを変えるのであれば、主権者国民が参加する憲法改正手続が必要なはずです。

裁判所としては違憲の法律であれば、しっかりと違憲と判断して、まずは国会による再度の十分な議論に委ねるべきです。違憲判決の個別的効力説に従えば、当該法律は裁判所の違憲判決が出たからといって、当然に廃止されるわけではないからです。その上で、国会議員がどうしても集団的自衛権行使を認めるべきだと考えるのであれば、憲法改正の国民投票による主権者の判断に委ねるべきです。こうした民主的な手続に委ねることをせずに裁判所が違憲判断を避けることは、政治部門への忖度以外の何ものでもありません。

特に集団的自衛権行使を認めるか否かは、一部の国会議員の判断で決めてしまってよい問題などではなく、主権者国民の判断に委ねるべき問題なのです。裁判所が違憲判断を下すということは、主権者国民がしっかりと判断するようにと政治部門に問題を投げ返すということです。非民主的な機関だからという理由で裁判所が違憲判断を躊躇することは、けっして民主政を尊重することにはなりません。

安倍政権が終わったとしても、今まで以上に裁判所を説得していかねばなりません。こうした司法のあり方も含めて、しっかりと権力分立が機能していくように、政治家や裁判官、そして私たち国民・市民も自分の意見を持ち、異論との対話を怖れずに議論する力をつけなければならないのだと思います。法律を勉強することは、そうした市民としての力をつけることにつながります。目の前の試験のことで頭が一杯かもしれませんが、今の勉強は将来、いろいろな意味で必ず役に立ちます。自信と誇りをもって勉強を続けてください。