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2020年10月

2020年10月 6日 (火)

第303回 エリートの矜持

菅義偉首相が、日本学術会議が推薦した会員候補者105名のうち6名の任命を拒否していたことが、10月1日の報道で明らかになりました。日本学術会議の推薦者を首相が会員に任命しなかったのは、現行制度では初めてです。

任命されなかった宇野重規教授、芦名定道教授、岡田正則教授、小沢隆一教授は、新安保法制は憲法違反であると反対する立場をとり、松宮孝明教授は共謀罪に批判する意見を国会で述べ、加藤陽子教授などは秘密保護法の危険性について指摘されていました。

このように、今回拒否されたのが、これまで政府が強行採決などの手法で強引にすすめてきた新安保法制、共謀罪、秘密保護法などの政策に批判的立場をとる学者であったことから、「政権にもの言う学者を排除した」「学問の自由に対する侵害ではないか」との批判がなされています。

日本学術会議は、我が国の科学者の内外に対する代表機関で、内閣府の「特別の機関」にあたります。1949年に「科学が文化国家の基礎であるという確信」のもとに、「わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献」、「世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命」として設立されました。

政府に政策提言や答申、勧告を行うため、政府から独立して職務を行うとされています。(日本学術会議法3条)。この会議に対するコントロール権限は政府になく、この点が通常の審議会などと全く異なります。会員の選考については、日本学術会議法7条2項によれば、「会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。」とされ、17条では「日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする。」とされており、選考権限は学術会議にのみあることが明白です。

1983年の国会の政府答弁では「私どもは、実質的に総理大臣の任命で会員の任命を左右するということは考えておりません。」「形式的に任命行為を行う」という政府答弁がなされており、これとの矛盾も指摘されているところです。

では、今回の任命拒否は憲法で保障された学問の自由(憲法23条)の侵害といえるのでしょうか。ここで教科書検定が検閲にあたるかという論点を想起してみます。検定不合格処分によって教科書として使えないだけであり、一般図書としての発表は問題なくできるのであるから、検閲にはあたらないという判例の理屈です。それと同じように今回任命されなかった6人の学者の方々も今まで通り、大学での学問研究は何ら制約を受けていないのですから、学問の自由を制限されたとは簡単には言えなさそうです。

しかし、今回任命拒否された6人の個人的な人権侵害という観点だけからこの問題を考えるのでは不十分です。任命拒否が学問の自由に与える影響は大きく、独立を保障された学術会議の存立目的を否定し、一定の方向へ学問を誘導するような総理大臣による人事介入は、決して許されるものではありません。

そもそも学問の自由を憲法が保障した趣旨を思い出して下さい。学問が真理の探究にかかわり人類文化にとって意義あるものでありながら、その批判的性格ゆえにときの権力による干渉を受けやすいこと、また、日本では明治憲法下に滝川事件(1933年)や天皇機関説事件(1935年)のように学問の自由が直接国家権力によって侵害された歴史があることから、特にその自律性を尊重すべく規定されたものだったはずです。

こうした学問の自由の保障の趣旨から考えると今回の任命拒否はかなり露骨な学問の自由への介入です。本来は形式的任命権に過ぎなかった人事権を通して学問をコントロールしようとすることは許されません。裁判官や検察官人事と同じ問題です。形式的任命権が内閣にあったとしても、実質的にはその被任命者の独立を保障すべき場合があるのです。これまで安倍内閣の人事に関する姿勢には目に余るものがありました。アベノミクスのための日銀総裁人事、集団的自衛権行使容認のための内閣法制局長官の交替、そればかりか最高裁判事、検事総長の人事も従来の慣行を破る姿勢に疑問が持たれました。

人事権を形式的なものに留めて、実質的な独立性を確保してきたこれまでの制度運用を無視して、実質的な人事権を行使して介入し、後は忖度させる。この手法によって、本来は独立性が保障されなければならない組織が政権の意のままに動かされています。権力が集中することによる弊害を除去しようとして、過去から学んで制度設計がなされたものを、そうした過去に学ぶことなく壊してきました。学問研究に従事するエリートとしてこうした制度破壊を見過ごすことなどできないに違いありません。

安倍政権は、文化・芸術への助成金も恣意的で違法といえる選別を行いました。そして今回は、菅政権による学問の世界にまでの介入です。どこまで自らの意のままにあらゆる組織と人を動かしたいのでしょうか。独立性を保障するべき組織の独立が失われ、政府に追随するだけの機関や組織となってしまって本当にいいのでしょうか。多様な意見の応酬からよりよいものを見つけ出すというプロセスが省略され、自分の政策や意見が正しいという信念に基づいた無謬性を前提にしています。そもそも人間は過ちを犯す弱い生き物だからこそ、憲法や権力分立が必要だったはずなのですが、官僚の忖度がはびこり、多様な叡智を結集できずに道を誤る。いつか来た道をまっしぐらということでしょうか。

こうした大きな流れに逆らうことは本当に難しいことです。 10月1日に安保法制違憲訴訟の前橋地裁での判決がありました。元内閣法制局長官の話しもじっくり聴きたいという裁判所の希望もあり証人尋問が実現したのですが、判決はふたを開けてみると東京地裁のものと瓜二つで何も目新しいことのない陳腐なものでした。これで7連敗です。少しは期待していただけにとても残念でした。もちろん楽観はしていませんでしたが、それでも試験に落ち続けているような気がしてきます。見えない壁がとても厚いことを今更ながら思い知ります。

この安保法制違憲訴訟は、集団的自衛権行使を認める法律の制定によって、現実に具体的な精神的苦痛を被って苦しんでいる原告がいることを裁判所に救済してもらいたいというものです。理不尽に苦しむ原告の気持ちに寄り添うことは本当に難しいことなのだと改めて思います。実は私も原告の方々の声を直接に聴くまでは、そこまで深刻な被害とは認識できていませんでした。

国家の安全保障政策には様々な考えがあります。そもそも自衛隊を違憲と考えるかどうか、個別的自衛権の行使を許すか否か、という点ですら多様な考えがあります。ですが、どのような安全保障政策であろうが、近代立憲主義国家である以上、どうしても守らなければならない則があります。それが憲法です。政府は憲法の枠の中で国民の安全、幸福追求権を守るために国防政策を実現していかなければなりません。日本が立憲主義国家であるというのであれば、すべての国家政策は憲法の枠の中で実現されなければならないのです。

 そして政府がどうしても、自衛隊を米軍とともに海外で戦争する軍隊にしたいのであれば、国民の意思で憲法を改正して戦争する国になればいいのです。もちろんそのリスクは国民自身が負うことになります。外国と一緒に戦争する国になっておいて、自分たちだけ被害を受けない、テロの標的にならないなどという虫の良いことが通用するわけはないですから、様々な被害を受ける危険を覚悟の上で国柄を変えることになります。それはあくまでも主権者国民の意思で決定されるべきことです。

そうした国民の意思を憲法改正国民投票によって問うこと無く、一部の政治家の意思で決めてしまうことは許されません。集団的自衛権の行使を認める、米軍の後方支援をするということは、自衛隊が海外で軍隊として活動することに他ならないのですから、安保法制違憲訴訟はこれを憲法改正による国民の意思を問うことなく行うのがおかしいという訴訟です。

そして憲法に違反する政治を正すことは裁判所に与えられた権限ですから、それを裁判所はしっかりと行使するべきだと主張しているのです。憲法が許していない政策を放置することによって、さらに敵基地攻撃能力の保持など際限なく軍事的拡大は進んでいきます。

 裁判所は政治に口を出すべきではないという人がいます。ですが、政治に枠をはめてその暴走を抑制することが憲法という法の役割です。ですから憲法違反かどうかという裁判所の判断は常に政治的な意味を持つのです。かつては統治行為論という議論がなされたことがありましたが、すでに過去のものとなっています。英米仏などにおいても、今日、政治的だからという理由で裁判所が違憲判決をあえて避けることなどはしません。

裁判所が違憲判決を書くと、任命権者である政府から睨まれて裁判所の人事、予算に介入され、人権保障の役割すら果たせなくなるという声も聞きます。しかしそんな言い訳をして違憲の現実を見逃すということは、始めから権力分立そして裁判官の職責を放棄しているようなものです。政治に屈服することを承知で裁判官になるのであればそれは国民に対する背信行為であり、この国がすでに立憲主義国家ではなくなっていることを意味します。

裁判官の中にはなぜ戦争について、その危険を現実的なものとして捉えられない人がいるのでしょうか。自分が経験していないことは実感をもって理解できないのかもしれません。新安保法制法が成立しただけでは、原告らの生命・身体への危険は抽象的なものであり、具体的な危険とはいえないと繰り返す裁判官は、まるで「ゆでガエル」のようです。日本の経済が危機に陥っていることを認識できずに、構造改革、成長戦略を打ち出せない財界や政府と同じように、司法の世界でも日本が危機的状況にあることに気が付かずに、いや気が付いていても行動できずにいるエリートが多いということなのでしょうか。裁判官は世間からはエリートとみられます。ですが、エリートとは、自分のためではなく、世のため人の為にその能力を尽くしきれる人、いわゆるノブレスオブリージュを実現できる人なのだと思います。自己保身に走るのではなく、本来の期待された役割を果たす人間が真のエリートです。この安保法制違憲訴訟の判決を書く裁判官にはぜひエリートとしての職責を果たしてほしいと強く願っています。

終戦直後、自らの意志でもない戦争の悲惨事を味あわされた民衆の怒りと悲しみの声を聞いた憲法9条の発案者である幣原喜重郎は外交官であり、総理大臣になったエリートです。彼は「何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくてはいかんと、堅く決心した。」と述懐し、憲法9条をマッカーサーに提案しました。その憲法9条が国民に受け入れられて今日まで重要な役割を果たしてきたのです。

米国では連邦最高裁のルース・ベイダー・ギンズバーグ判事の訃報が伝えられると各方面からその功績を称える声が上がりました。米国連邦最高裁判事は終身ですから、1993年にビル・クリントン大統領に2人目の女性最高裁判事として指名されてから死去するまで27年間にわたって性差別の撤廃などを中心にリベラル派判事として大きな影響力を発揮しました。民主党大統領から指名されたのだから、リベラルな判決を書くのは当然だと考える人もいることでしょう。

ですが、共和党のトランプ大統領に指名されたニール・ゴーサッチ判事は、2020年6月15日、トランプ政権の敗北と紹介されるような、職場でのLGBT差別は公民権法7編に違反するとする判決の多数意見を書いています。指名してくれた大統領を忖度することはしません。ニール・ゴーサッチ判事とブレッド・カノバー判事はトランプ大統領により連邦最高裁判所判事に指名されたのですが、別の事案でもトランプ大統領の意を忖度することなく、あくまでも裁判官の職責を全うし「法の支配」を堅持するために、トランプ政権の政策を否定する判決を支持しています。

そして何よりも、米国連邦最高裁判所は、トランプ大統領の政策に対して政治的問題だからといって判断を避けることはしません。むしろ果敢に自由・権利、そして憲法の擁護者として政権にも対峙しています。

こうした姿を見せられると、エリートの矜持とは何かを改めて考えさせられます。将来、権力を行使する側にまわる塾生も多くいると思います。何のために法律家、行政官になるのかを忘れないでほしいと心から願っています。