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2020年11月 2日 (月)

第304回 続ける力

先月、一人一票裁判の最高裁弁論をしてきました。15人の最高裁判事を前に言いたいことを言うこと自体は充実感があるのですが、果たして伝わっているのか、実はすでに結論は決まっている上での儀式にすぎないのではないかなどと思うと空しくもなります。10年も一人一票を実現するための裁判を続けてきて高裁、最高裁を合わせると100以上の判決を得てきましたが、その中で違憲無効判決はたった2つです。最高裁判例も3歩進んで2歩下がる感じでなかなか人口比例選挙になっていきません。

それでも確実に一人一票に近づいていますし、最近は憲法学者の間でも現状を違憲とする立場が圧倒的になっています。少しずつ流れは変わってきているとは思うのですが、なかなか思ったような結果を出せずにいると、何のためにこうした裁判にエネルギーを使っているのか考えてしまうことがあります。

安保法制違憲訴訟もそうです。4年半ほど全国25の裁判体で裁判をしていますが、これまで出た7つの判決はすべて憲法判断を避けた上での原告敗訴判決でした。まるでその場しのぎの政治家の答弁のような形式的な判決ばかりです。憲法は「個人の尊重」を頂点とする価値の体系であり、もともと価値中立的ではありません。人間の命を守り、尊厳を守り、自由を守るための法として、自由や平和という特定の価値を実現するための法であるはずです。その価値を護ることが裁判官の職責であるはずなのですが、そうした気概が感じられない判決ばかりでとても残念です。

こうして結果を出せないことに対しては、全国でこの裁判にかけている弁護士の労力は本当に無駄遣いだ、なんと意味のないことをやっているのだと評価する人もいることでしょう。人の評価は様々でいいのですが、私はそうは思わないのです。

何事も結果は極めて重要です。ですが、それと同じくらいにその過程が重要だと思っています。人は努力の過程で自分が成長し、他者にもさまざまな影響を与えます。裁判もそれ自体の勝ち負けが必ずしも原告の幸せや社会の進歩に直結するわけではないものもあります。そもそも勝ち負けの概念自体あやしいものです。そんなものに振り回されずに、自分が何をしたかったのか、自分の中の価値基準に照らして自分が納得できることをしたかという点だけを意識して次につなげるために続けていけばいいことだと思っています。

その意味ではこうした公益的な裁判も続けることが重要だと考えています。続けていく中で社会に問題提起をし続け、重要課題を風化させないことができます。そこに大きな意味があり、これまでも多くの憲法訴訟がそのように進められてきました。

試験勉強においてもすぐに結果を出せる人もいれば、他方で思っていた以上に年月がかかる人もいます。伊藤塾で勉強しているのであれば、勉強の方向性は正しいのですから、後はその示された道を自分のペースで進めばいいだけです。ですが、その進むスピードは人によって皆違います。これまでの生き方や現在の環境等が違うのですから当然です。そこで人と比べることは本当に意味のないことです。

ここで最も大切なことは、続けるということです。自分と冷静に向き合って一歩一歩、「ゆっくりいそげ」ばいいだけなのです。もちろん、自分にとってもっと価値ある別のゴールが見つかったのであれば、方向転換をすることに何の躊躇もいりません。重要なことは、本当は合格したいのに勉強が大変だからとか、なかなか合格できないから自分には無理だと言い訳をして諦めたりしないということです。単純に結果だけをみて自分の行為の価値を判断してしまうことはもったいないことです。

そもそも生きていること自体、何かのゴールのために生きているわけではありません。万人に与えられた死というゴールに向かってどのように生き続けるかが重要なのだと思っています。時計のように止まらないことに価値があるのです。心臓も止まらないこと自体に大きな価値があります。淡々と血液を循環させているだけですが、それを一瞬も止まることなく続けることはとても大変なことです。 結果を出せたかどうかは問わない。頑張っても結果が出せないときもある、仕方がないときもある。それでも続けること自体に価値があると考えます。

続けることは執着とは少し違います。いやいや続けるのではなく、合格して成功している人を羨むのでなく、自然体で淡々と続けるということです。無理をすると心身を壊してしまうことがありますし、余計なものに手を出せばかえって失敗します。物事の評価はすべて相対的なものです。その中で自分だけが絶対存在なのですから、自分を中心に考えてください。そうです。自分中心で考えればいいのです。まわりの評価などコロコロ変わりますし、曖昧で不確かなものです。そんなものに惑わされたり一喜一憂したりすることなく、自分に正直にやりたいことをやり続けていればいいのです。

私も受験指導を始めたころは、大学の先生方から「学者でもないのに法律を教えるなんて生意気だ」と批判されました。「論証を準備する勉強方法などのテクニックばかりを教えている」と批判され、フローチャートを使って論点を解説すると「法律はイエス・ノーで割り切れるものではない」と批判され、「学生が大学の授業に出ないのは伊藤真のせいだ」と批判され、散々な評価を受けてきました。ですが、出る杭も出すぎると打たれないのだから、圧倒的な合格実績を出し続ければいいと気づいてからは、そうした評価を気にしなくなりました。

最近は、逆に法科大学院制度改革について国会に呼ばれて意見を求められるようになりました。他人の評価など本当にあてにならないと身をもって感じています。40年も一つのことを続けているとそれを批判する人もいれば、評価してくれる人もいるということです。ですが、それは狙ったわけでもなく、たまたま一つの結果にすぎません。

YouTubeライブのチャット質問でときどき、塾の運営などについて厳しい指摘を受けることがあります。塾のスタッフも万全の対応をしようと努力していますが、人間ですから私を含めてミスをすることがあります。どこよりもよいサービスをめざしますが、至らないこともあります。それを公然と指摘されることは恐怖である反面、ありがたいことだと感じています。自信のない若いころなら反発することもあったかもしれませんが、今は塾の運営をよりよくするために必要な耳の痛い情報であれば本当にありがたいと思えるようになりました。こう考えられるようになったのも伊藤塾を25年も続けて圧倒的な実績を出し続けてきた1つの成果だと思っています。

いいものを作りたい、いい仕事をしたいと願って努力を続けている以上、完成はありません。芸術家が最高傑作はどの作品かを問われて次作だと答えるようなものです。講義も塾の運営も同様です。憲法も未完の法典と言われることがあります。条文の形になってもそれが価値として国民に定着して運用されていく中で少しずつ完成に近づいていくということです。私たちにとって本当に大切なものは、目に見える形で完成するようなものではないのかもしれません。合格や仕事の成果といった目に見える成果はあくまでも過程なのであって、それ自体がゴールではないからです。

私にとって続ける秘訣は小さな幸せを意識して見つけることです。コロナ禍の今だからこそ、小さな幸せを感じることができるかどうかは重要だと思っています。「生きているだけで儲けもの」、「勉強ができるだけでも本当に幸せ」、「1人でも塾を信頼してくれる塾生がいてくれるだけで満足」。こうして足ることを知ることが重要なのだと感じています。

仕事がきついときには時々、仕事場を離れて小さな幸せを見つけるために公園に行きます。運動を兼ねて代々木公園まで歩いていって、木々を眺めたり、紅葉を愛でて、落ち葉の匂いを嗅いだりします。渋谷のビルの中にいると自分が自然に生かされていることを実感する機会がない気がするからです。ですが、実はもっと身近なところにも自然は満ちています。もちろん塾の前の桜の木もそうですし、コスモスの鉢植えも自然の一部です。そしてビルに挟まれた狭い空から覗く雲も自然の一部です。

傘を持たずに出て、突然の豪雨に見舞われ雨が通り過ぎるのを待っているときにも自然を感じます。そういえば、「雨雲が西からやってくる」というような理解は間違いだそうです。その場で雲が発生しては消えて、隣の雲が発生しては消えて、デジタル掲示板の素子の点滅のようにその発生・消滅が少しずつ場所を移動して起こるだけです。そんなことを考えながら雨雲が通り過ぎるのを少し待っている間も、私には都会で自然を実感できる貴重な幸せの時間です。

憲法の講義では、幸せの基準は自分で決めていい、それが幸福追求権なのだと話しています。ですが、本当は幸せの基準を自分で見つけ出すことはかなり大変だなと思っています。お金があると幸せ、仕事がうまくいっていると幸せ、SNSでフォロワー多くて評価されていると幸せ、見栄えがいいと幸せ、友人が多いと幸せ、そして目指す試験に短期合格したら幸せ、等々。自分の周りを様々な幸せの基準が取り巻いており、どうしてもそうした価値基準の影響を受けてしまいがちだからです。

試験前に合否の結果を考えてみても仕方がないし、合格しなかったらどうしようと不安になって萎縮してしまうことは意味がないからやめようと話しているのですが、そのように自分の気持ちをコントロールすることはそう簡単ではありません。仮に不合格になってもそのこと自体は何も意味をもたない、その事実にどんな意味を与えるかを自分で決めることが重要だと話しているのですが、これも決して容易いことではありません。それはそうした場面に遭遇することが稀であるため、心をコントロールする訓練が十分にできていないからです。そこに気づけば、自分を鍛えるチャンスが与えられたことに感謝することができます。すると試験前の緊張感も幸せと感じることができるようになります。

今の世の中を生きていると様々な社会の価値基準によって、どうしても勝ち負け、優劣、上下を意識して、周りからの判断を気にして苦しむことが多くなっています。しかし、周りからの評価は決して自分本来の価値を図る基準ではありませんし、その評価が正しい保障などどこにもありません。自分からマウンティングして優劣や勝ち負けを勝手に判断しているだけです。ですから、自分の判断基準を変えるか、そもそも判断しなければいいのです。

私は憲法を学ぶ中で13条の個人の尊重を知り、「人はみな違って当たり前」と理解できるようになりました。そこから「人と比べることをしない」「人と比べることは意味のないこと」という考えに至りました。自分自身が変わり者と言われ、批判され続けてきたからかもしれません。自分自身の価値は自分で判断すればいいと言うこともありますが、実は、そうした判断自体をやめてしまうことが幸せに生きるためには必要なこともあると思っています。

何が正しい生き方か、何が幸せな生き方かなど判断できるのかどうかあやしいものです。白黒つける生き方をしない、なるようにしかならない。こうしたしなやかな開き直りも、続けるためには必要なことだと思うからです。

法律を勉強していると「規範」「べき論」の世界にいるものですから、どうしても自分自身を「こうなるべきだ」「こう生きるべきだ」と規範的に考えてしまいがちです。そして規範や理想に到達していない自分を少しでも理想に近づけるべく努力をすることが大切だと思い、そこばかりを意識してしまいます。

もちろんそれはとても大切なことなのですが、こうした「べき論」で自分を縛るのではなく流れに任せ、「なんとかなるさ」、「Let it be」とすべてを肯定していくことが必要な時期も人生にはあることも忘れないでください。試験前の不安なときや思い通りの結果を出せなかったときなどは、自分を萎縮させてしまう前者よりも、緩い後者の考えの方が必要で有効なことがあるのです。それも立派な続ける力です。