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2021年2月

2021年2月 1日 (月)

第307回 試練の意味

先月、司法試験、司法書士試験、行政書士試験、そして司法試験予備試験論文の合格発表がありました。行政書士試験以外はコロナ禍の影響で例年より3ヶ月遅れての試験実施そして発表となりました。受験生の皆さんは本当に大変な思いをされたことと思います。これまで誰も経験したことのない日々を過ごし、試験が実施されるかどうか、それすらわからない不安な日々を乗り越えてきました。1月末には予備試験の口述があり私も新浦安の試験会場で早朝から毎日応援をしてきました。応援といってもあまり大きな声は出せませんが、今年の試験はいろいろな意味で半端なく緊張するので、「最後まで頑張ってほしい」という気持ちだけは伝えたかったのです。コロナ禍の中、各試験を受験された皆さんの経験は実務家になった後も、仮に別の道に進んだ場合であっても、これから自分の身に降りかかるであろう大きな試練を乗り越えていくための大きな糧になるに違いありません。

毎年伊藤塾は圧倒的な合格実績を出し続けていますから、合格発表を受けてどうしてもそちらに目を奪われてしまいがちです。例年、短期合格者、最年少合格者、大学在学中合格の塾生が注目を浴びるのですが、捲土重来を期す塾生も数多くいます。残念だった塾生の中には、結果を出せずに伊藤塾の講師やスタッフに申し訳ないと言ってくださる方もいます。期待に応えられずに申し訳ないという気持ちのようです。もちろん期待に応えてくれることは本当にうれしいことですが、私たちが目標にしているのは、塾生の皆さん一人ひとりの幸せです。幸せな人生を送るために必要な学びの場としてこの塾を最大限活用してもらえれば、私たちは自分たちの役割を実感できます。来年に向けて自分自身を鍛え上げる場として利用してもらうことが私たちにとっての喜びです。引き続き精一杯応援しますから、何も気にせず伊藤塾で堂々とやるべきことを続けてください。

弁護士になると受任した事件の解決に何年もかかることがあります。1審で負けて控訴審、そこでも負けて最高裁、そこでも負けてさらに何年もかけて再審でひっくり返すこともあるのです。一つ一つの裁判結果に一喜一憂していては先が見えなくなります。場合によっては数十年、折れそうになる心を奮い立たせ続けなければならないことがあります。そんな諦めない力、続ける力を身につけるためには、これらの試験は必要なのです。だから私たちはどんな結果になった塾生であっても最後まで応援し続けるのです。

少なくとも法律の資格試験は正しい勉強方法でしっかりと学習を続けていれば、合格することができます。もちろんもっと別の道が見つかり、そちらで自分の人生を進めたいと思い積極的に転進することは素晴らしいことです。ですが、もし合格して法律家になりたいと強く願っているのなら、続けることです。そうすれば自分にとって一番良いときに合格することになっています。それが40年以上この受験指導の世界にいて感じる実感です。

ただ、合格のタイミングは本当に人それぞれです。それは立ち向かわねばならない試練が人それぞれだからだと思います。人生には自分の身の丈、つまり大きさに見合った試練がやってきますから、その人の人間としての大きさに合わせて過酷な試練も待ち受けています。ですが、本人が乗り越えられる試練にしか直面しませんから、どんなに大きな分厚い壁に見えても乗り越えられますし、そこでの成長はその後の人生にとって本当に大きな糧になります。

私も大学3年で初めて受けた司法試験で短答不合格という試練がなければ、今はありませんし、25年前の塾立ち上げの際の訴訟や様々なトラブルがなければ、伊藤塾の基盤は作れませんでした。また日本一の法科大学院を作ろうとして理不尽な権力に押しつぶされた経験がなければ、今頃、その他大勢の法科大学院と同じく衰退の道まっしぐらだったかもしれません。このように、そのときは最悪だと思っていたことでも後で意味が変わってくるのです。一言でいえば、修羅場を乗り越える経験によって強靱になります。よりしなやかな強さを身につけることができるのです。

自分にあった修羅場を経験して人間として成長したいと思ったところで、ほどよい修羅場が目の前にタイミングよく現れるわけではないですから、試験不合格というわかりやすい試練に直面したことはある意味では幸運なことです。そこで本当に人間として成長できるからです。本人からしてみれば、まだそんな気持ちになれないかもしれませんが、40年間受験生を見続けてきて心からそう思います。この点は私の中では確信になっています。何の心配もいりません。

自分の身に降りかかった事実をしっかりと見据えて、そこにどんな意味があるのか、その事実に意味づけを与えるのは自分です。家族でも友人でも社会でもなく自分自身です。しっかりと自分で正しい意味づけを与えて、それを糧に一回り大きくなってほしいと願っています。

さて、日本では相変わらずコロナ対策で右往左往している政府ですが、アメリカ政府はコロナ以上に大きな課題を抱えて新たにスタートしました。トランプ元大統領によって分断された社会を、再び統合しようとバイデン大統領が就任しましたが、本来のユナイテッド・ネイションに戻ることができるのか、大きな試練だと思います。バイデン大統領は、トランプ元大統領によって失墜してしまった大統領の権威を取り戻すことができるのでしょうか。アメリカのように社会が分断してしまったときに、人々を1つの方向にまとめていくために、為政者がとる手段として2つの方法があります。

それは、権威と権力です。為政者に権威があれば、人々は自らの意思でこれに従おうとします。この権威を高めるのが1つ目の方法です。もう一つは、無理矢理、力で人々を従わせる方法です。財力、暴力、恐怖の力、数の力など力に物を言わせて従わせようとします。有無を言わさぬように権力をより強固にする方法です。時に為政者は、権威を失ったときに警察力や罰則などの権力で無理矢理人々を従わせようとしてきました。

本来は権力の行使を正統化するための源泉に権威がなければならないはずです。権力行使を正統化するだけの権威があって始めて、その権力行使を人々は納得して受け入れることになるからです。権威を失って苦し紛れに権力だけを振りかざすような為政者に人々はついていきません。

日本においてはどうでしょうか。コロナ禍で誰もが大きな試練に直面しました。感染防止対策において、日本ではこれまで法的根拠のない政府からのお願いに人々を自主的に従わせようとしてきました。それは、従順な国民性や同調圧力を利用したともいえるでしょうが、以前は政府にまだ少しは権威が残っていて、政府の言うことに従おうとする国民が少なからずいたからと言うこともできそうです。

ですが、昨年来、政府は国会議員から憲法53条による臨時国会召集要求があったにもかかわらず安倍首相の辞任まで国会召集に応じようとしませんでした。コロナ第3波が冬期にやってくることは分かっていたにもかかわらず、医療体制や保健所体制の整備拡充などのための必要な議論も政策立案もしないまま事態を放置してきました。場当たり的なGoToキャンペーンや中途半端な水際対策、極めて不十分な補償などの無策が招いた結果を目の当たりにして、国民は政府への信頼を失ってしまいました。首相が「私は休みもなく頑張っているんです」と語気強く訴えたところで、仕事のできない社員の言い訳のようにしか聞こえません。「頑張ることが仕事ではなく、結果を出すことが政治家の仕事だと分かっていない」と国民に感じさせてしまいます。つまり、政府は国民が自主的に従う根拠となる権威を失ってしまったのです。だから今さらのように罰則という権力を振りかざして、国民を従わせようとしています。

そもそも、国民が為政者に従おうとする権威はどこから生まれるのでしょうか、政治部門であれば、民意の反映と透明性、説明責任です。それに対して、司法部門であれば、国民の信頼と政治部門と同じく透明性、説明責任であると考えます。残念なことに、政治部門のみならず、司法部門においても、最近は透明性と説明責任を尽くした十分な審理も行わないままに、訴訟指揮権という裸の権力を振りかざして、判決という権力行使を正統化しようとする裁判官も増えてしまいました。

司法は直接的な力を持ちませんが、司法権という権力の源泉は、手続の適正、そして裁判所が理性による判断の場だという国民からの信頼にあると考えます。政治部門が数による力の府だとすると、司法は理性の府であり、まったく性質が違うからこそ、その存在意義があるのです。 現在においても、政治部門は、コロナ対策のみならず、検察庁法問題、学術会議問題、安倍首相による桜を見る会問題などの数々の問題をかかえ、結局、透明性、説明責任を果たすことが出来ずにいます。この状況において司法までその権威を失ってしまったのでは、権力だけがものをいう中世の暗黒時代に戻ってしまいます。 だからこそ司法の力で本来の正しい国の姿に押し戻す必要があり、そのためにはここで裁判所が透明性と十分な説明責任を回復し、国民・市民からの信頼という裁判所の正統性の源泉を取り戻さなければなりません。 そして、国民・市民の信頼は、司法が憲法価値を実現し、政治部門から独立して、その暴走に歯止めをかけることができる部門であってはじめて生み出されます。それが権力の源泉としての司法の権威に生まれ変わるのです。今ほど、政治部門から独立した司法が、国民・市民から必要とされるときはありません。

そもそも裁判所は誰のためのものだったのでしょうか。一人ひとりの国民の裁判を受ける権利を保障するためのものであり、国のためという場合であっても、それは現政権ではなく、憲法体制、憲法秩序のためであり、それを護るのが裁判所であったはずです。憲法秩序こそが国家のあり方そのものなのです。真に国家を護るということは、憲法体制を守ることであり、裁判所はこれを第一の使命としなければなりません。

米国連邦最高裁ロバーツ長官がミネソタ大学ロースクールで行った講演(2018年10月16日)の一部を紹介します。(https://www.youtube.com/watch?v=9i3RwW0y_kE

「政治部門と司法部門とは全く異なる。政治部門は、人々を代弁する。司法部門は、憲法を代弁する(Speak for the constitution)。」「その仕事のためには明らかに政治部門からの独立が必要です(That job obviously requires independence from the political branches.)。」

私は一人一票実現訴訟、憲法53訴訟、そして安保法制違憲訴訟などの憲法訴訟において、こうした憲法を代弁する司法の使命、そして権威を取り戻すための闘いをしています。弁護士として裁判に負けることは本当に悔しいです。ですが、もっと悔しいことは、裁判で私たちの主張を聴くふりをして無視され、理由もなく切り捨てられてしまうこと。そして司法の権威が失墜していくさまを見ていかざるを得ないことです。それでも諦めずに続けていきます。

皆さんの中には、将来裁判官、検察官、行政官として、また各分野の弁護士、司法書士、行政書士として活躍する方も多いことでしょう。その仕事の中で今まで経験したこともない新しい困難な問題に直面することもあるでしょう。そんなときには自分が法律家をめざした原点や個人の尊重、そして困難な試練を乗り越えて今そこにいることを忘れないでいて下さい。そうすれば必ず法の女神が何らかの智恵を授けてくれます。「なんだ、最後は神頼みかよ」と突っ込まれそうですが、日々の仕事によって運を引き込むのも実力のうちです。あらゆる試練や困難を自分の力に変えて、頑張っていきましょう。私も毎日が真剣勝負です。