塾長雑感バックナンバー Feed

2020年5月20日 (水)

【臨時号】第298回 検察庁法改正問題

今回の検察庁法改正案は見送りになり、市民にとって自分たちの行動で政治が変えられるという貴重な成功体験になりました。この点については、表現の自由や民主主義の本質が関係しますが、次回の雑感で述べることにします。今回は審議を延期するというだけですから、また再開するということですので、問題が解決したわけではありません。この問題については、その本質をしっかりと考えておく必要があります。

さて、検察庁法改正問題を考えるときに気をつけなければいけないことが2つあります。 1つは定年延長と裁量による延長を区別することです。もうひとつは黒川氏個人への批判と制度への批判を区別するということです。

後者に関しては、法務官僚としての黒川氏個人を批判することには理由がないと考えています。氏を官邸の守護神と評する方もいるようですが、検察官には国の顧問弁護士としての職務もあり、法律家として依頼者に忠実であることは何ら不思議なことではありません。政府が実行する政策に問題があるとしたら、その責任をとるべきは国会や政府であり、官僚個人ではありません。

黒川氏個人がどのような資質の官僚であり、どのような仕事をしてきたかという評価とは切り離して、今回の法律改正自体の適否を判断するべきです。仮に政府が今回の改正が黒川氏を検事総長にしたいがためであるのであれば、その立法事実が不適切であるというだけであり、そこを批判すればいいだけのことです。

次に、公務員や検察官の一般的な定年延長や役職定年制度と、内閣の裁量による役職延長・勤務延長とは全く別の問題であり、そこをしっかりと区別しなければなりません。この問題を報道のように検察官定年延長問題と一括してしまうと混乱が生じます。私は前者については、定年後の給与水準を検討する必要はあるものの、納得出来る制度改革だと考えています。問題はあくまでも後者です。

実はもうひとつ、違法な法律適用を解消するための後追い立法は許されるのかという問題がありますが、この点はしばし置いておきます。

さて、個別の検察官について、定年になっても役職や勤務を内閣・法務大臣の裁量で延長できるのかという点に焦点を絞ってみます。この問題は、憲法上は権力分立の問題と指摘されています。なぜ、権力分立が問題となるのでしょうか。私は2つの観点から検討するべきと考えています。 1 内閣が政党の影響を受けてしまう点。議院内閣制の下での権力分立がもともと弱い点。 2 検察官の職務が司法に準じるものである点。準司法官の人事に政治が介入する危険。

憲法は三権分立を採用すると共に、国会における第一政党の党首が総理大臣になる仕組みをとり議院内閣制を採用しています。行政が与党によってコントロールされるわけです。憲法上は内閣は国民ではなく国会に対して責任を負うことになっていますが(66条3項)、現実的には、与党の政策を実現し、与党の利益を考えて行政が動くことを許す制度となっています。かつて、安倍首相が自分は「立法府の長だ」と発言して問題になったこともあるほど、立法権と行政権は一体化しているのです。

よって内閣の政治的意思決定は、与党に配慮したものになる可能性があります。国会の多数派と内閣の間の抑制均衡は事実上働かないのです。そこでは与党への配慮から検察行政がゆがめられる危険が増すことになります。その危険を最小限にするために、準司法的機能を果たす検察官の独立をより一層、保障する必要性があるのです。つまり、三権分立というよりも、司法部門と政治部門の抑制均衡として考えるべきだということです。ここでの司法部門には裁判所のみならず検察が入り、政治部門は国会・内閣が一体となって構成しているものを想定します。

このように、検察は行政権でありながら、その職責は司法権に準じるものがあるという二面性が問題を複雑にします。次に、検察の準司法機関という性質について検討してみましょう。

まず、検察官の職務は行政権に含まれますが、その職務は裁判に深く関わり、起訴・不起訴の権限は検察官だけに与えられています(刑事訴訟法247条)。政治家を起訴することもあることから、政治的勢力によって左右されないように不偏不党を貫かねばなりません。そのため司法権に準じた独立性が確保されなければならないということから、準司法的機関と位置付けられます。具体的には職務の独立性、身分保障、適格審査制、定年制、俸給表などの点で、通常の行政官とは異なった扱いになっています。現行の検察庁法は、検察官の身分保障について規定し、職務の独立を担保するとともに、その反面、定年制を設けて、63歳(検事総長は65歳)に達したときに例外なく退官することにしているのです(同法22条)。

このように定年に達したときには例外なく退官し、任命権者の恣意・裁量を許さないことが、検察行政に政治的介入を許さない制度的保障となっているのです。定年まで辞めさせられないし、勤務を伸ばすこともできない。これが政治的介入を防ぐ仕組みとして機能していたということです。

今回の法改正において、検察官の定年延長や役職定年を設けることに乗じて、これまでの制度を変更して、内閣ないし法務大臣の裁量で個別に特定の検察官に対してだけ、役職延長や勤務延長を可能とする規定を入れようとしている点が問題なのです。

しかし、そもそも行政官なのだから人事権が内閣にあるのは当然ではないか、という疑問も生じるかと思います。この点はどうでしょうか。

アメリカでは連邦地方検事は大統領が任命しますが、各州の州地方検事は、住民が選挙で選びます。行政のトップと同じく、検察官も民選であり、州地方検事は州の住民に責任を負うのです。行政権の行使に対するダイレクトな民主的統制です。

それに対して日本では、主権者である国民の代表機関である国会に対して責任を負う内閣に任命権があります。行政権が内閣に属するのですから(憲法65条)、行政権の一部である検察権を行使する検察官の任命権が内閣にあるのは当然の帰結でもあります。

一般検事の任命権は法務大臣にあり、検事総長と次長検事、高検トップの検事長は内閣が任命し天皇が認証します。ただ、一般行政とは大きく違うのが、先ほどの準司法官的職責から、実際の運用において、検事総長の了承を得た人事案を大臣や内閣が追認する慣例となっているという点です。つまり、法形式上は行政権を行使する検察官の人事権は内閣にありますが、実際の運用上は、その準司法官的性格を尊重して内閣から独立した人事が行われているのです。

こうした法形式と実際の運用でのバランスという点は、裁判所とよく似ています。 裁判官の任命も内閣ですが、裁判内容に内閣が介入することは許されません(76条3項)。そして任命に関しても、最高裁の作成した名簿による(憲法80条1項)ことになっていて、そこを逸脱できません。それと同じような制度として検察官人事も運用されているのです。違う点といえば、裁判官の任命は憲法上の要請ですが、検察官はそれに準じた形で慣例として運用されているということです。

裁判官の任期は10年ですが(憲法80条1項)、仮に10年たった後の再任の際に、内閣の裁量で再任が決まるのでは、内閣から独立して裁判などできません。それと同じです。内閣に人事の裁量権を持たせないことが極めて重要な意味をもっているのです。

このように検察官に関しても、司法権を行使する裁判官と同じような身分保障と政治権力からの独立性が必要なのです。ここまで裁判所と検察の類似性をみてくれば、両者の権力行使の正統性の源泉も共通していることがわかります。憲法を勉強した方ならわかると思いますが、裁判所の正統性の根拠は国民の信頼にありました。それと同じく、検察権力の正統性の根拠も国民の信頼にあるのです。

ですから、国民が検察を信頼できなくなってしまうと、その存立基盤が揺らぐことにもなりかねません。起訴、不起訴の権限は検察だけにありますから、その判断に政治が介入しているのではないか、政府を忖度しているのではないかという不信感が国民の間に生まれたら、検察の権威が失われ、後は権力を行使するしかなくなります。為政者は権威と権力を使って国民を支配するのですが、権威の威力が落ちると権力に頼るようになります。検察による強権発動をさらに生むことになるでしょう。これは国民にとって不幸なことです。

そうした疑念を抱かせないようにするために、内閣の裁量で個別に、役職延長や勤務延長が可能になるような制度はあってはならないのです。このように検察への信頼が問題の本質にあることから、検察官OBの方々が反対の意見を述べることは十分納得できます。

要するに、この問題は検察行政に対して民主的責任行政を貫徹することと、個別案件への政治的介入を防ぐことの調和をいかに図るかという制度設計の問題です。法務大臣から検事総長への指揮権発動もこれに関する問題ですが、ここでは割愛します。

これまで適切に機能してきたものを変更するのであれば、それなりの根拠が必要なはずですが、その点に関する説明は改正案提案者からありません。つまりは、立法事実がないということです。なおこの問題は、黒川氏が辞任すれば解決するというものではありません。この騒動を理由に現職検事長が辞任するとなれば、かえって準司法官的性質を持つ検察行政が政治問題に巻き込まれたことになります。私は黒川氏には淡々と職務を全うしてほしいと思っています。

2020年5月 3日 (日)

第297回 憲法記念日

73回目の憲法記念日がやってきました。例年この日の前後は大きな集会での講演を依頼されて忙しくしているのですが、今年はどこの集会も中止です。コロナの感染防止を考えれば仕方がないこととはいえ、たった一つの感染症によっても、集会の自由、表現の自由にここまで大きな影響が及ぶのだと改めて実感します。

外出自粛が求められ、法的強制力はないものの事実上、外出することは相当勇気がいる事態になっています。居住・移転の自由という人権が憲法22条1項に規定され、経済的自由権に分類されていることは憲法を学んできた皆さんならよくわかっていることだと思います。そして、それが、なぜ経済的自由権に位置づけられているのか、その趣旨も理解していることかと思います。

少し復習をすると、この居住・移転の自由は、自己の住所又は居所を自由に決定し、移動することを内容としています。封建社会では人を土地に封建領主の下で結びつけておくことが不可欠であったため、居住移転の自由が制限されていました。それに対して市民革命後の近代社会においては、自由に人々が行き来できる権利が確立され、人々が都市部などに出て自由に自分の望む職業に就くことができるようになったのです。こうして資本家による労働力の調達が可能となり、居住・移転の自由は資本主義経済の基礎的条件となりました。このような歴史的背景によって、経済的自由権のひとつとされてきたわけです。最近では移動の伴わない在宅勤務、テレワークなどが提唱されていますが、まだまだ対応できない会社や社員の方々も多いようです。

コロナの影響によって、外出ができず移動の自由が制限されると、ここまで経済が大打撃を受けるのかと驚かされます。その点からも、居住・移転の自由がなぜ経済的自由権に分類されているのか、その意味を改めて思い知らされます。人が移動できないことがどれだけ私たちの経済にダメージを与えるか、そして、サービスを提供する側の営業の自由がこうして制限されると、それが私たちの生存そのものを脅かすほどになっていることに愕然とします。収入を得る道を絶たれ生活がたち行かなくなり、自ら死を選ぶ人が増えているという話も聞こえてきます。まさに居住・移転の自由、営業の自由という経済的自由権が、生存権(憲法25条)につながり、さらには生命の権利(13条後段)につながっているのです。

何か他人事のように言っているように受け取られてしまうかもしれませんが、私も伊藤塾という中小企業の経営者の端くれですし、渋谷でベトナム料理店もやっています。東日本大震災の年に開店してもう10年になります。ベトナム人留学生のアルバイト先を創り、生活支援をしようと始めたものですから、この状況だからといって留学生たちの仕事を簡単に無くすわけにはいきません。特にコロナの影響で留学生たちがどれほどの困難に直面しているかを知っているので、なんとしても彼ら彼女らの生活を守りきらねばという気持ちになります。ですが、どんな規模の会社であっても社員の雇用を守ることは本当に大変なことで気が休まることのない毎日です。

さて、居住・移転の自由は、このように経済的自由権として極めて重要な人権ですが、現代においては、広く知的な接触の機会を得るためにもこの自由が不可欠であることから、精神的自由の要素も併せ持っていると考えられています。複合的性格を有する人権というわけです。

たとえば少し家を出て自由に空気を吸う場所を求めて移転するだけで、リフレッシュすることができます。居住・移転の自由が自らの幸福追求のためにも不可欠であったことがよくわかります。コロナ疲れなどといわれますが、人出の少ない公園なら少しくらい出かけてもいいのではないかと思う気持ちもよくわかります。私はパチンコはやりませんが、何らかの娯楽で少しくらい気晴らしをしたいと思う気持ちは理解できます。

外出している人や開店している店舗を攻撃する言動もあると聞きました。皆、外に出たい気持ちや店を開けたい気持ちを我慢しているのに、その禁を破る奴は許せないということから「自粛警察」なる行為が見受けられるそうです。補償を伴わなくてすむように法的な強制力を持たせずに、社会の同調圧力を利用した自粛要請をして事態を収めようとする為政者の思惑通りの行動をとってくれる人も多いということです。

人の正義感はときに暴力になります。コロナに感染した方を差別する言動も報告されています。悪意によるものではなく、何気ないSNSでの噂話によって被害を受けている人もいます。このウイルスは感染した人を苦しめるだけでなく、感染していない人の心にも入り込み、様々な悪さをするようです。

移動の自由、集会の自由が制限されることにより、今年の憲法記念日は、屋外での市民集会による表現活動が一切できない異例の日になります。憲法施行70年の2017年には東京の有明で5万5千人が集まる大きな集会があり、私も登壇して発言しました、そのときにはこんな憲法記念日が来るとは夢にも思っていませんでした。

憲法が保障する表現の自由、集会の自由が極めて重要な人権であるにもかかわらず、こうして法的強制力もない一種の行政指導の下で、かくも容易に制限を受けてしまうものなのだということも衝撃的です。実は表現の自由を制限するためには、法的強制力などいらなかったのです。国民・市民を不安にさせ、マスコミを利用して1つの方向に向かわせることができれば、それで制限するには十分なほどに脆弱な人権だったのです。精神的自由権の脆弱性、もろさを今実感しています。

現在でも、政府や自治体の発表を流すだけのマスコミの状況を見ていると、報道の自由は本当に保障されているのか疑問に思います。たとえばコロナ対策としては、政府が要請する外出自粛によって接触機会を減らすことだけでなく、感染リスクを減らす方法もあるはずです。しかし、政府の方針とは違う対策についてはほとんど報道されず議論の余地すらないかの如くです。さらに、PCR検査を抑制してきた政策についても真正面からの批判はほとんど報道されません。

報道現場はどうなっているのか。月刊「創」編集長の篠田博之氏の論考などを読むと現場の実態がよくわかります。 そこで紹介されている日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)のホームページに公開されているアンケートに寄せられた声を孫引きで恐縮ですが引用します。これを読むと現場の切実な叫びが伝わってきます。

●政権批判の報道は上層部が常にチェックしている。政権や自治体批判をしていたスタッフが部署異動になる。政権批判の内容に対しては細かい裏取りが必要だと言われ結局見送りになる。事前予定項目に政権批判のニュースが入っていたのにいつのまにか変更になっている。こういう事例が森友以降目立っている。(関西の民間放送局の関連会社・取引のある制作会社社員)

●政治ニュースで政権からクレームが来ないかだけを考え、少しでも何か来そうだと誰か幹部が指摘すると、本来問題点を指摘することをやらなくてはいけないのに、放送をやめる。或いは表現をオブラートに包んで 、何が問題かが分からなくする。それが繰り返されることで、段々面倒なものはやらないとなり、或いは幹部に言っても放送しないだろうと考え、やらないのが当たり前になり、思考停止状態。おかしなことがおかしいと言えないどころか、気づかなくなり、あげくのはてには、問題にすることがおかしいと、ただの政権の方針を垂れ流す広報機関になり下がる、そんな事態が目の前で起きている。 (東京の民間 放送局社員 報道局)

●報道番組のディレクターですが、理事や報道局長からの介入が酷い。報道局長とその部下の女性記者に官邸からホットラインがあり、政府、安倍総理の広報原稿を読むだけになっている。日曜討論に与党しか出ない、総理会見の質問を打ち切り、女性記者が総理の代弁をする。全てホットラインのせいであり、部長や編集長級は転勤をちらつかされて言いなりです。(放送局社員)

●自主規制。正直、政権与党から直接的な圧を感じた事はないが、内側にいる我々が勝手な忖度し、中立公平という謎の概念に、ジャーナリズムを放棄するような判断が多々見られた。ジャーナリズムよりも企業倫理が勝ってしまう現状に危機感を感じ続けている。(東京の民間放送局の関連会社・取引のある制作会社社員=ニュース報道番組)

●忖度がまかり通っている。総務省が、理事がこう言っている、という主語で悪びれもなく指示が下りてくる。幹部も上司も思考停止で、監督官庁の意向を忖度するのに必死で、唯々諾々と上からの指示に従っているという感じ。疑問を呈するという姿勢がそもそもない。(放送局社員)

これが日々私たちが目にしている報道の自由の実態です。こんな状況のときに憲法改正して緊急事態条項を創設するべきだという議論が政治家から出ています。大きな災害の度に条件反射的に主張される緊急事態条項創設の改憲ですが、今回は実現可能性が高いと考えての発言でしょう。コロナ対策の緊急事態宣言が出されたのに従わない人を見て納得できない人々が、もっと強力な措置が必要だと声をあげると、それに同調する人が出てくるという社会的な下地があった上での改憲の主張です。「空気」に弱い日本の人々の特性を改憲を望む人達はうまく利用するものです。共同通信の実施した憲法に関する世論調査では、大規模災害時に内閣の権限を強め、個人の権利を制限できる緊急事態条項を憲法改正し新設する案に賛成51%、反対47%だったそうです。

自民党が2012年に改憲草案で示したものはまさに内閣独裁条項です。私などは現政権のコロナ対応を見て、内閣の権限をこれ以上強化することは本当に危険だと思うのですが、多くの人々の感覚はそうでもないようです。現在の憲法で許されている以上の人権制限を可能にするための改憲ですから、一体どこまでの人権制限をしようとするのか恐ろしくなります。仮に改憲されれば、政府の対応を批判するような表現の自由、集会の自由も一切許されなくなることでしょう。

現在のフランス憲法16条には大統領の非常緊急措置権が規定されています。4人の将軍によるアルジェリアにおける反乱(1961年)において、反乱自体は1週間もたたずに鎮圧されていたにもかかわらず、ド・ゴール大統領は、さらに5ヶ月、緊急権を適用して表現の自由を制限し続けました。1961年4月にはすでに反乱は鎮圧されていたにもかかわらず、1963年になっても依然として文書の発禁処分が頻繁に行われていたのです。

どんなにすばらしいと評価される為政者であっても、自分に都合の悪い言論は封じ込めたくなるものです。こうした濫用の危険のある権限を政府に与えてしまう緊急事態条項を私たちの憲法の中にに入れ込む必要は全くありません。立憲主義を国家の都合で一時停止させることを本質とする緊急事態条項は、国民が自然権として持つ抵抗権とは全く目的が異なることを再度確認しておく必要があります。

弱い立場に追い込まれ、ものが言えなくなっている国民・市民が最後の手段として抵抗権を行使しなくて済むように、最大限の弱者への配慮と表現の自由を保障する制度づくりを求めて、これからも声を上げ続けなければなりません。そうしたときに、法律を学んだ者、憲法を知ってしまった者の責任は大きいと思っています。受験生の皆さんは今できること、やるべきことに集中してください。こうした危機の中にあっても人々に価値を提供できる、信頼を与えられる法律家、行政官をめざしてください。そうした日々の懸命な努力の先には、必ず社会の幸せの総量を増やす役割が待っています。私はそこに憲法の希望の光を見つけていきたい、これが私の憲法記念日の願いです。



・NHK「バリバ ラ」再放送差し替え事件と「忖度」が広がる放送現場 (篠田博之/月刊『創』編集長)

・報道関係者への「報道の危機」アンケート結果(概要)について (日本マスコミ文化情報労組会議)

2020年4月 1日 (水)

第296回 パンデミックと桜

毎年、この時期の雑感はさくらをテーマに書いてきました。渋谷の伊藤塾の前には見事な桜並木があり満開を迎えています。例年はそれを題材に、桜は散り際が大切だとか、桜の花言葉とされている気高い精神とすばらしい教育は塾の理想とぴったりだなどと書いてきました。

ですが、今年はさすがにそんなのんきなことを言っていられなくなりました。世界で数十万人が感染し大勢の方が亡くなっています。サッカーの試合がきっかけで感染が拡大したイタリアのベルガモでは、まるで戦場のようだと表現せざるを得ない状況に追い込まれています。トリアージによって命の選別をせざるをない状況は医療関係者の方々にとっても、患者のご家族にとっても本当に苦しいことです。日本でもテレビで元気な姿を見せていた方が亡くなると、穏やかな日常がどれほど価値あるものかを意識せざるをえなくなります。

国家の役割は国民の生命・健康・財産を守ることです。この点については、私たちは何のために国家をつくったかを考えれば明らかなことです。人々は自分たちの利益を守るために国家という組織をつくりました。相互に契約して権力を国家に委譲したという社会契約の考えをとるかどうかは別にしても、そこで生活する人々を無視して国家の存続自体を目的にすることは自己矛盾です。なぜなら国家に価値を見出す人がそこに存在しなければ、いくら国が大切と言ってみても意味がありませんし、そもそも国家は国土、国民、主権から成り立っていますから、国民がいない国家など国家の名に値しないからです。

となれば、国家は全力をあげて国民の存在を守り切らなければなりません。国民に対して降りかかる害悪が戦争であろうと、疫病であろうと、自然災害であろうと変わりはありません。ただ、そのときの国民の守り方が国によって様々です。一般国民よりも特定の支配層を守るために政策を実現する国もあれば、一般国民、特に社会的経済的弱者を第一に守ろうと動く国もあります。

アメリカは世界最大の軍事国家ですが、コロナウイルスから国民の生命・健康・財産を守れていません。当たり前のことですが、国民の生命・健康・財産に対する脅威は戦争だけにとどまりません。疫病、自然災害、貧困・格差など多くの脅威があります。それらに優先順位をつけて、国民にとって本当に必要なものから対策を講じていくことが国家には求められます。アメリカでは健康は自己責任の問題だとして医療関連の社会保障を怠ってきました。そのツケが回ってきたようです。ニューヨークでは2月末には死者1人だったものが、たった1か月で3000人を超えています。とてつもないスピードで被害が拡大しています。こうした感染症の蔓延を目の当たりにすると、それによって単に貧困層が犠牲になるだけではなく、国家全体が甚大な被害を受けることや、経済にも大打撃となることがよくわかります。

憲法は前文で「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(憲法前文2項)と規定して平和的生存権を人権として保障しました。ここでの平和とは、単に戦争がない状態ではありません。誰もが感染症などの恐怖から免れ、経済破綻による貧困から免れて、自分らしい幸せを求めて穏やかに生活できることが平和として保障されているのです。そしてその実現に向かって国際社会に貢献することを日本はめざします。これが本来の積極的平和主義です。

さらに憲法は、国家の安全保障ではなく国民一人ひとりを守る人間の安全保障をめざしていると解することができます。人間の安全保障とは、個人の生存、生活、尊厳を脅かすさまざまなリスクや脅威(貧困、飢饉、災害、環境破壊、紛争、人権侵害など)に対し、人間一人ひとりに注目し、人間同士の尊厳を認め合いながら、市民的な共感と連帯による平和の尊重、人権擁護をめざす考えです。すべての人の生存、生活、尊厳を確保することをめざすもので、近時のSDGs(持続可能な開発目標)の核心である「誰一人取り残さない」ことにつながります。

こういうときだからこそ、憲法前文が規定する平和的生存権や人間の安全保障の意義を再認識する必要があるように思います。そして、軍事力では国民の生命・健康・財産を守ることはできない時代に入ってきていることをしっかりと確認することが必要だと思います。国境によって区切られた国別で対応するのでは解決できない問題が山積みの時代です。地球温暖化のみならず私たちの健康についての問題も、互いに協力しなければ乗り越えられないことをコロナウイルスは私たちに認識させました。

今の時代は、わからないことが多すぎる。だからこそわかったつもりになるのではなく、何が正しい答えなのかわからないことを自覚しつつ、それでも決断することが必要なのだと思います。多くの人を巻き込んで一定の成果を出すためには、正解がわからないからこそ、事実と論理と言葉で人々を説得することが必要になります。憶測やデマが飛び交う危険があるからこそ、リーダーはわかりやすい明確な言葉で、方向を指し示す必要があるのではないでしょうか。危機的な状況であればあるほど、政治家の言葉には説得力が求められます。

先月末の週末は、都知事から首都圏の住民に外出自粛が呼びかけられました。確かに渋谷のスクランブル交差点あたりは人影もまばらでしたが、パチンコ店の前にはいつもどおり行列ができていました。不要不急の外出は控えるように言われても、人によってその受け止め方がまちまちなのは否めません。その上、都知事の自粛要請には強制力はありませんから、従うか否かは個人の自由です。従わない人がいても当然でしょう。だから諸外国のように強制できる法的根拠を明確にするべきだという議論があるのは当然です。

私は、明確な要件の下に人々の集会、外出などを禁止することは、必要最小限の行動制限であるならば、公共の福祉の範囲内の規制として許されると考えています。集会などは表現の自由にかかわりますが、規制目的との関係で一定限度の集会規制は許される範囲内だといえるでしょう。もちろん濫用の危険もありますから、事前・事後チェックは必要です。ですが、緊急に感染症の拡大を防止するために、そしてより被害の大きな都市封鎖を避けるために一定期間、制限が必要とされることがあります。ただこうした国家の適法行為によって損失を被った場合でも正当な補償を受ける権利があります(憲法29条3項)から、その救済策も同時に考えておくべきです。一部の人を犠牲にして、多くの人が利益を受けることは不公平ですし、人権として個人の財産を保障した憲法の趣旨に反します。

こうした事後的な救済を含めた立法による対応をせずに、単なる協力のお願いという形で感染拡大を防止しようとしても、中途半端な効果しか得られません。法律によって行政は動きますし、権力行使が正当化されます。法律の根拠が明確でない要請を繰り返せば、かえって法律による行政、法治主義が徹底できなくなります。仮に感染症法33条による交通制限を知事が命じるのであれば、その要件効果を国民にわかりやすく説明するべきです。PCR検査のみならず、血清検査など多様な方法によって実態をできるだけ把握して、その事実に基づいて判断し、それをわかりやすく、真剣さが伝わるように国民に説明していくことが不可欠であると思います。

国会では、インバウンド激減、外出自粛などにより経済的打撃を受けた人々への救済策が遅ればせながら議論されているようです。全国民の代表であることを忘れた族議員によるお魚券やお肉券は論外としても、現実に今を乗り切れるかという瀬戸際にいる国民・市民をどう救うかという問題と、今後の落ち込んだ経済をどう立て直すかという問題とをしっかりと区別して迅速な対策をとってほしいものです。どのような対策であっても一長一短はあるでしょう。だからこそ、その判断過程の適切さ、手続の適正さがものをいいます。それが決断した結果に対する信頼を生み、リーダーシップへの信頼すなわちリーダーの言葉に従おうとする信頼につながります。

今回のように予想もできないことが起きることがあります。それに対して、各人がこれをどう乗り切るかを自分事として真剣に考え、立ち向かう気概を持つことが何よりも重要です。見えない敵と闘うことは大変な困難を伴いますが、気を付けるべきは、油断したくなる自分の心です。天災と同じく自分は大丈夫だという慢心や油断が甚大な結果を招くことになります。「ウイルスはすぐにそこにいるかもしれないと自覚することが大切です。桜は来年も必ず帰ってくるけど、命を奪われたら二度と帰ってきません」というiPS細胞研究所長・山中伸弥教授のメッセージはとても重いものです。

さて、伊藤塾でもこうした状況を踏まえて、全校舎でライブクラスを一時的にネット配信に切り替えます。25年前の塾立ち上げの直後から、自宅でも通学するのと遜色ない授業が受けられるようにと、単なる通信講座ではなく「在宅校」として映像教材による学習システムを取り入れ、法律分野では日本で最初にネット講義配信を実現してきた伊藤塾ですから、心配いりません。質問受けやフォロー体制も含めて塾生対応の準備は整っています。これまでどの試験種においてもネット授業(在宅クラス)で圧倒的な合格実績を出し続けてきていますから、安心してもらえると思います。

そうは言っても、公務員試験、司法試験受験生の皆さんは、そもそも試験が通常通り行われるかどうか不安なことでしょう。オリンピック選手と同じように本番当日にピークを持ってくる訓練をしているのですから、万が一試験日が変更になりにでもすれば、大きな影響があります。7月の司法書士試験や予備試験の論文式試験ですら影響があるかもしれません。

しかし、そうした条件の変更は皆同じです。本番では予想外のことが起こることを予想しておかねばならないということは、いつも言っているとおりです。状況の変化に対応できるかも試されているのがこの試験ですから、何があっても負けないという決意だけは持ち続けて下さい。模試でも自宅であってもしっかりと時間を計って会場にいるのと同じ緊張感を経験してください。

社会人の方でテレワークなどにより時間の融通がつくようになった方は、このチャンスを活かしてください。時差通勤などにより通勤時間を勉強に活用しやすくなった方も多いと思います。移動時間などの隙間時間の活用が合格の秘訣です。司法書士試験、行政書士試験に向けて頑張っている社会人の方も、ピンチをチャンスに変える発想が求められています。仕事も大変だと思いますが、こういうときだからこそ、単なる自己啓発に留まらない生き抜く力を身につけるには良い機会だと思います。負けずに頑張りましょう。

これから勉強を始める新入生を始めとした大学生の方は、大学で授業を受けることができるようになるまでのこの時期をどう過ごすかで、本当に今後の人生は大きく変わると思います。大学のオンライン授業を活かすためにも、WEBを使った伊藤塾での法律の基礎基本の学習を徹底的に活用してください。伊藤塾では単にインターネットで講義が聴けるだけではありません。短答の問題も解けるし、テキストも読めるし、判例もデータベースでしっかりと確認できます。伊藤塾を利用すれば合理的で無駄のない勉強をすることができ自由な時間と将来の可能性を生み出します。この機会に一気に差を付けてほしいと思います。

それぞれの置かれた環境でベストを尽くすこと、そしていかなる状況も謙虚に受け入れながら、何があっても、焦らず、慌てず、諦めず、「ゆっくりいそげ」(Festina Lente)を忘れずに毎日を大切に過ごしてください。私も頑張ります。

2020年3月 3日 (火)

第295回 コロナ

新型コロナウイルスへの対応で社会は混乱を極めています。時差通勤やテレワーク、世界経済の悪化、オリンピックを始め各種イベントへの影響、学校の休校をはじめとする行動制限などが話題になり、政府の対応や具体策の欠如などが批判されています。

政府による感染症対策の遅れや思いつきとしかいえない対応も、何が国民にとって本当に必要なことなのかをリアルに考えることができず、かつ政権担当者に現場感覚がないことによる結果なのでしょう。学校を臨時休校にしたら共働き家庭はどれだけ混乱するか、学校にいけない子どもたちの行き場はどうなるのかなどをどこまでリアルに想像したのでしょうか。韓国、台湾、イタリアなどの対応の迅速さと比べるとその判断のタイミングの遅さ、情報公開や説明の不十分さ、政治家の当事者意識の欠如が際立ちます。

信頼できる情報がないと国のみならず国民・市民もどのような対応をとったらよいのかがわからず、混乱するだけです。現状を知るためには感染者数の把握が大前提となりますから、感染しているかどうかを判断するPCR検査体制がすべての出発点となるはずです。日本では1日約3800件の検査が可能といっていたものが、実際には一日平均約900件しか行われていなかったそうです。他方で韓国では全国で約500カ所の検査所で検査を行い、1日1万3000人ほどの検査を実施しています。ドライブスルー型の検査によって数分のうちに結果がわかる仕組みも取り入れているそうです。

取調べにおける弁護士の立ち会いや可視化など刑事司法の分野では、圧倒的に日本より進んでいる韓国ですが、こうした感染症対策でもあっという間に日本を抜き去ってしまいました。日頃、嫌韓を声高に叫び、日本を礼賛していた人達はこの現実を目の当たりにしても、きっと何かあら探しをするのでしょう。もういい加減、国や民族での対立を煽るようなことは止めるべきだとつくづく思います。

危機の際にトップに権限を集中して、人権制限を含めて迅速な対応を可能にする制度が国家緊急権なのですが、そのトップに適切な危機管理能力がないと、かえって大変な混乱を招いてしまうことも今回よくわかりました。為政者に権力を集中させるよりも、迅速で的確な判断、現場での個別対応の方がよほど重要だとよくわかります。この感染症が問題になり始めたころ、政治家の中には、緊急事態条項を憲法改正項目として検討するべきだと主張した人もいましたが、災害や感染症などの度に、条件反射的に改憲と結びつける愚かなことはもういい加減やめてほしいものです。

私はこの一連の政府の対応の混乱やクルーズ船関連の騒動を見ていて、戦略的思考ができない日本の体質を見たような気がします。コロナウイルス感染者が多数発生したクルーズ船の中に入り、現場を「カオス状態」と告発した岩田健太郎教授が、「本来なら疫学チームが船のどこで感染が発生し、何が原因かを分析し、環境感染学会に引き継ぎます。知恵を出し合い、感染拡大を防ぐ戦略をたて、それを実施すべきでした。しかし、権限は厚生労働省の職員にありました。」と述べています。つまり専門家の司令塔がいなかったのです。また、「一生懸命やっているとか、一致団結していることに価値を見出し、異論や異説に耳を傾けない。いったん計画を作るとそれに固執し、代替案(プランB)を持たない。」とも言っています(毎日新聞2020年2月29日)。

私はこの発言を知ったときに、これは法科大学院制度の混乱と同じだなと思いました。まず、現場のことを知らない人々によって制度設計がなされ、不具合が見つかっても弥縫策で一時的な対処をするだけで、抜本的な原因究明と根本的な対策を立てることをしない。一度決めたらそれに固執し止められない、異論に耳を傾けない、などまるで同じです。現場を知らない学者や官僚が机上の数字合わせで対応し、「現場の先生は頑張っているのだから」と、明確な目標設定もなく、主観的な頑張りによって制度の善し悪しを評価してしまいます。

これではとても戦略的政策とは言えません。臨床医の意見を聞かずに、研究の専門家の意見だけで対応策を立案し、それを一律に実施しようとする今の政府の姿にぴったり重なります。そして、この体質は、第2次世界大戦で負けた日本の「失敗の本質」そのものです。

今回、私はかなり批判的に書いていますが、この本質は自分の中にもないか、常に気をつけなければならないと思っています。勉強でも仕事でも、頑張っているからいいじゃないか。努力そのものに価値があるかのような錯覚に陥っていないか。努力は明確な目標があり、事後的な検証ができて初めて意味を持ちます。ただ、闇雲に「頑張りました」では何も得るものがありません。明確な達成目標があり、評価基準があって初めて、失敗から次に活かす教訓を得ることができるのです。その上で、新しいことに挑戦するからこそ、挑戦に意味があるのです。このことは常に自分に言い聞かせています。

さて、伊藤塾では一昨年から外国人留学生が日本の法科大学院に入学できるように受験指導を行っています。東大の法科大学院をはじめとして様々なロースクールに進学して日本法を学び、企業に就職してたとえば日中の架け橋となるような仕事を通じてそれぞれのキャリアを築く支援をしています。中には中国の司法試験に合格していて日本の司法試験にも挑戦したいという方もいます。日本と母国の法律を共に使いこなせるにようになれば、活躍の場は大いに広がることでしょう。こうした外国人留学生の挑戦を応援したいのです。

そして、こうした外国人支援の一環として、伊藤塾では4月から渋谷校舎の2階の一部を利用して日本語学校を始めます。法科大学院などに進学したい外国人学生に論理的で使える日本語を教え、将来、多国籍企業で世界を舞台に活躍してもらいたいのです。そして何よりも日本のよき理解者となって世界で活躍してもらいたいと思っています。

この雑感でも何度か書いているのですが、私は外国人留学生や外国人労働者の皆さんに親日になって帰国してもらうことが、最も効果的な安全保障だと考えています。高価な武器を言い値で爆買いするのではなく、もっとこうした外国人の受け入れ対策に費用をかけるべきだというのが持論です。外国人労働者の方々を単なる企業の安い労働力としてみるのではなく、日本社会の一員であり、共同体のメンバーだという意識で迎え入れ、一人ひとりを個人として尊重し、日本になじめるように様々なサポートをすることに予算をかけるべきです。

外国人の子どもたちへの教育も欠かせません。憲法26条1項の教育を受ける権利は、社会権ではありますが、外国人にも等しく保障されるべきだと考えています。戦時中の植民地政策として行われていた同化政策とは全く異なる受け入れ政策が必要なのです。感染症の広がりにより、デマ、差別、排外主義などが蔓延しがちな今だからこそ、アジアからの留学生を支援する意味があると思っています。

多様性を認め合える共生社会を目指すという点では、障がいを持った子どもたちへの教育とも共通点があります。特殊学級として区別するのではなく、普通学級での教育を望む子どもには、その希望通りに健常者の子どもたちと同じ環境での教育を受ける権利を保障するべきです。そのことが、健常者の子どもたちにとって多様性を学ぶいい機会になります。同様に外国人の子どもたちと共に学ぶ場が与えられた子どもたちは、幼いころから多様性を意識せずに受け止めることができるようになることでしょう。

こうした外国人の受け入れ、障がい者の受け入れにもっと予算を使うべきだと考えるのですが、どうしても今の政府は強い国づくりを目的として予算編成をしたいようです。本当に国民目線で予算を考えるのであれば、軍事費よりも教育や災害対策、感染症対策などに税金を使うという発想が生まれてきそうなのですが、どうもそうなりません。

人類が直面する危機として、戦争、地球温暖化、食糧危機、貧困・格差問題など様々ありますが、最も緊急性のある課題は感染症拡大(パンデミック)だという話を数年前に聴いたことがあります。もちろん軍事力を強化して行う安全保障が最重要だという考えもあるでしょう。しかし、日本の場合には、武力攻撃を受ける蓋然性よりも自然災害の脅威の方がよほど目の前にある現実のリスクです。そして今回露呈したように感染症対策こそが国民・市民にとって、最も切実な政治課題であると思います。

希少資源の分配が政治の本質だとしたら、税金など国家予算をどこに使うのかの優先順位付けが政治家の仕事であり、100年後の国の姿をイメージして国民・市民が幸せを実感できる国づくりをするべきです。どうも優先順位付けが苦手な政治家ばかりのようです。試験勉強でもメリハリをつけた優先順位付けが短期合格にとって不可欠であることは、合格者が例外なく指摘していることです。

そういえば、先の岩田教授が、首相が行った小中高の全校一斉休校の要請に対して、試験対策にも通じる本質的な指摘をしていました。「休校を正当化するならば、その方策がもたらすゴールをはっきりさせる必要があります。休校で感染をゼロにするとか、一日何人まで減らすとか。そういう目標設定がちゃんとあり、その背後に根拠があれば、事後的に政策の成否がわかります。それなしに、ただ『やる』と言われても、その成否は事後的に判然としません。クルーズ船のときと同じ。『みんながんばったね』が残るだけです。ゴールが見えず、ただ場当たり的に政治的判断がなされており、『科学よりも政治』という、またしても悪い前例となってしまいました。」

この指摘のとおり、明確な目標設定が極めて重要です。これから司法試験の勉強を始めようとする方は、少なくとも来年の5月の予備試験短答には合格することを目標にしてください。来年予備試験最終合格を目指すという人もいることでしょう。十分に実現可能です。すでに勉強を始めていて今年は絶対に合格するという皆さんも200点とるぞ、という具合に明確な目標設定が重要です。司法書士試験、公務員試験、行政書士試験も同様です。できるだけ明確な目標設定を心がけてください。そうすればたとえ失敗したときにも、次につながる教訓を得ることができます。

さて、伊藤塾では、基本的にすべての講義をインターネットを通じて受講できます。25年前から映像教材を導入し、どこよりも早くインターネットでの講義配信を始めた伊藤塾だからこそ、感染症対策の行動制限の中でも各自の環境に合わせて効率的に学習することが可能となっています。渋谷における私のライブクラスも翌日からインターネットで聴講できますから、安心して受講してください。司法試験や予備試験、公務員試験、司法書士試験の本番までに事態が収束していることを祈るばかりですが、受験生の皆さんは過度に不安がることなく、今、やるべきことを淡々とこなしていってほしいと思います。

2020年2月 1日 (土)

第294回 修習時代

司法試験に合格すると司法修習が待っています。現在は期間が1年間に短縮されてしまいましたが、私のころは2年間でした。湯島(東京台東区)にある司法研修所(旧岩崎邸の敷地内にありました。)での前期修習4か月、全国に散っての実務修習(民事裁判、刑事裁判、検察、弁護各4カ月ずつ)、そして湯島に戻っての後期修習4か月と、実に充実した2年間を送ることができました。私は東京での実務修習でしたが、地方での実務修習を経験し、そのまま修習地で弁護士になる人も多くいました。

修習中に検察官、裁判官の魅力に触れる機会も多く、当時の私は将来の進路について大いに迷いました。当時は検察官志望者が少なかったからか、検察教官から強く検事になることを勧められました。実務修習でお世話になった検察官は誰もが人間的に魅力ある方ばかりでしたし、湯島では佐藤道夫教官(後に札幌高検検事長を経て参議院議員を2期務められた)にずいぶんと飲み食い付きの勧誘を受けて、私の気持ちも相当、検事に傾いたものです。「権力を正しく使ってみないか」という言葉は、世の中を知らない若造にはかなり魅力的な誘い文句でした。

また、刑事裁判教官の「裁判官は精神貴族だ」という言葉にもひかれました。自分は貴族とは無縁だと思い辞退しましたが、もし裁判官になっていたら全く違う人生になっていたことでしょう。当時は渉外事務所であっても今ほど大きな事務所はなく、仕事の内容も国際業務や自分が好きなコンピュータ関連の事案もあり、これにも魅かれました。 結局何をしたいのかが自分でもわからないまま、最終的にはあえて道が敷かれておらず、将来の選択の幅が最も広そうな弁護士を選びました。私の修習時代は悩みと迷いの連続だったように思います。合格前から司法試験受験指導に関わっていたこともあり、弁護士になってからも次第に受験指導に注力するようになっていきました。あのときの迷いがあったからこそ、本当に自分がやりたいことを30歳半ばになって見つけることができたのだと思っています。

当時は、学者でもない人間が受験指導をすることを含めて相当批判されたものです。マニュアルや受験テクニックばかりを教えているというワンパターンの誹謗中傷はひどいものでした。そんな中で、法律をゼロから学びたい人のための入門講座を開発し(当時は独学か試験委員の大学教授の講義を潜りで聴くしかありませんでした)、論証を事前に準備しておく勉強法を生み出し、法的三段論法という言葉を普及させ、すべての論文過去問を解答例とともに検討することを日本で初めて行うなど、司法試験受験のスタンダードを創っていったのです。

多様性こそ法律家の世界に必要であり、法学部以外の学生や社会人経験を経た方々に法律家になってもらいたいとの思いから、こうして受験指導に邁進してきましたが、「普通の弁護士の仕事をしたらどうだ」「いつまでそんなことをしているんだ」という声は止むこともなく、いくつかの修羅場も経験しました。それでも人と違う自分の道を貫くことができたのは、憲法13条のおかげだと思っています。

受験時代には表面的な理解しかできていなかった憲法の「個人の尊重」「個人の尊厳」を実感できたのは修習時代でした。若く合格して社会を知らない自分にとって、タクシー運転手や建設業など様々な社会経験をして合格してきた年上の修習生の方々が眩しかったのを覚えています。いかに自分が多数派、強者の側の人生を歩んできたのかに気づき、少数者の人権などと答案に書いて合格した自分の未熟さを思い知り、居心地の悪さや恥ずかしさを感じたのもこのころでした。

自分がそれを知ったときの感動から、個人の尊重、個人の尊厳、そして「人と違うことはすばらしい」という憲法の核心を市民や子どもたちに伝えたいという一心で40年近く憲法に関する講演も続けてきましたが、最近は、普通という言葉がとても気になります。「普通の裁判官はそんなことしない」、「普通の家庭では・・・」「普通の子どもは・・・」と聞く度に普通という言葉など無くなってしまえばいいのにと思っています。今から思えば、修習時代のクラス旅行の夜更けに「これって普通じゃないよなあ」と思いながら、皆が飲んで寝静まった後に、モソモソと起きて受験指導用のテキスト原稿を書いていたころから明らかに普通ではなかったようです。

個人の生き方としては、普通という言葉などなくていいと思っているのですが、裁判官や検察官、行政官など権力を行使する仕事をするときには、普通の市民感覚を忘れてもらっては困るとも思っています。弁護士の仕事をしていると、今までの自分の生活圏では絶対に会うことはなかった人に会うことがあります。想像を絶する貧困生活を目の当たりにしたり、逆に湯水のようにお金を使う富裕層の実態を知って驚いたり、本当に様々な人がいるのだと改めて実感します。

先日、最高裁判事であった山浦善樹弁護士による明日の法律家講座の講演がありました。最高裁判事だった方の6人目の講演です。これだけ最高裁判事や検事総長、日弁連会長、国連大使、総理大臣経験者など社会で活躍されてきた様々な方々が講演してくださること自体が本当にありがたいことです。多方面の官僚の方々から現場での経験を話してもらう機会もありますので、公務員志望者の塾生にも有意義なプログラムです。300回以上の実務家講演はどこの大学でもロースクールでもやっていないことですが、「合格後を考える」という伊藤塾の理念に共感してくださる皆さんの協力でここまでやってこれました。塾生の皆さんには迷いながら合格後を考えてほしいと思っています。

さて、その山浦先生の講演ですが、「マチ弁から最高裁判事へ」という演題でした。銀行員を経て弁護士になり、1人弁護士1人事務員の事務所を立ち上げて市民のために尽力されてきました。法律家の仕事は、法を使って市民の不安や悩みを解消し和らげること、法は人を幸せにする道具だと断言されます。その山浦先生が最高裁に入り、夫婦別姓事件、再婚禁止事件などを担当し、誰もが持っているであろう無意識の差別意識から解き放たれた社会の実現のために、まさに権力を正しく行使されてきました。最高裁判事を退官してからまたマチ弁に戻って、一人ひとりの依頼者のために全力で取り組まれています。「他人の苦しみを自分のこととして感じられない人は法律家に向かない」とはっきり言えるような人が裁判官になるべきだとつくづく思いました。山浦先生の話を伺って、これがまさしく法曹一元であり、本来憲法が理想としていた司法制度だと確信しました。

今、いくつかの憲法訴訟をやっていますが、その中で裁判官が精神貴族ではなく官僚になってしまっている姿をいくつも見てきました。政治部門と一線を画した司法部門の存在意義が今ほど問われるときはないように思います。司法の民主化のゴールは法曹一元であり、そのために2年間の司法修習があるのだと思っていました。修習では将来の志望とは関係なく、全員が法曹三者の実務を体験します。その中で立場や感覚の違いを理解し、法律家は市民のために仕事をするのだと実感できます。

法曹養成制度改革の功罪は様々ありますが、公平性、開放性、多様性という理念からはほど遠いものになってしまった法科大学院制度の残念な結果だけでなく、司法修習期間短縮によるカリキュラムの過密化も大きな問題だと思っています。余裕をもって法曹三者の内情を実感できる唯一の機会を奪ってしまったことは、単に修習生の負担増というだけでなく、法曹一元の将来展望を見誤るものだと憂慮しています。

実務修習期間を延ばし、余裕をもって社会の現場を知る機会が少しでも増えることが、司法全体の底上げにもつながると思います。法科大学院や受験制度を変えるだけでなく、給費制による司法修習をより充実した余裕のあるものにすることが、これからの日本の司法の未来にとって重要なことのはずです。 塾生の皆さんには、ぜひ、当事者目線を忘れずに自分らしい仕事をする法曹、行政官を目指してほしいと思います。

2020年1月 1日 (水)

第293回 謹賀新年

伊藤塾東京校のある渋谷がどんどん変わっています。新しくきれいなビルが建ち、駅の様子が変わり、歩道橋が移動し、数年前とはすっかり様変わりしました。塾前の桜並木も数年前にきれいに整備されました。今後もどんどん変わっていくことでしょう。古いものは新しいものに入れ替わっていきますが、古いものはかつては新しいものでした。そして、その新しいものはしだいに古くなっていきます。

皆さんは、新しい年をどのように迎えていますか。不思議なものです。切れ目なく「時」はつながっていて、昨日と何も変わりなく地球は回っていますが、人間は新年という人為的な区切りをつけたがります。これはけじめをつけて変わりたいという意識の現れでしょうか。今年は頑張るぞという気持ちの切り替えをして、決意を表明することで自らを鼓舞するのです。

誕生日、年度末、そして正月。本当は何も変わっていないのに、変わった気になるようなシステムです。本当は変わっていないのに変わった気にさせるために、創り出された便宜的で都合のいい概念なのかもしれません。この時間という概念は本当に不思議なものです。Timeという言葉は切るというゲルマン語のタイから来ているそうです。イタリア語で時間を意味するTempoはラテン語の広がるという意味のテンプスから来ているそうです。ゲルマン語由来の時を刻むというイメージにはカントの時計をもって時間どおりに散歩する姿がぴったりです。逆にラテン語由来のテンポからはなぜか南ヨーロッパのゆったりした時の流れを感じます。

時間を、つながりと広がりを持ったものとして意識するか、細分化されていて限定されたものと意識するかによって、だいぶ自分の気持ちや行動様式も変わってきます。仕事や勉強に関しては、「限られた時間と明確な目標設定が成功の秘訣」と常日頃から言っていますし、自分でもそれを実践しています。人生の時間は有限だと自覚しているからです。

ですが、年末年始くらいあえて、テンポのイメージで時間をとらえてみたいと思いました。何も変わらずただただゆったりと時が流れ続ける。自然を眺めながら、そんな悠久の時間を感じることができたらいいなと思っていました。人間の命のように有限ではなく、いつまでも変わらず流れていく時間を自然の中に感じたいと思ったのです。

ところが、自然や地球の時間がこれからも変わらずに流れていくという認識自体が誤りであることが明らかになってきました。人間が人為的に地球の時間を人間の命と同じように有限なものにしてしまったようです。昨年、日本では様々な政府や企業の不都合な事実が隠蔽されてきました。仮に明るみになっても隠蔽、改竄、廃棄、言い逃れによって不都合な事実がなかったことにされてきた事例がこんなに続いた年も珍しいように思います。ですが、国民もその不誠実さに鈍感になってしまったようで、強い怒りの声を聞くことはあまりありませんでした。そんな自らの鈍重さにも辟易していた中で16歳のグレタ・トゥンベリさんの訴えは衝撃的でした。ニューヨークの国連気候行動サミットで5分にも満たないスピーチの間に「how dare you」(「よくもそんなこと」「なんと恥知らずな」)を4回も繰り返したのです。大人に対する強い怒りの言葉でした。

日本ではあまり話題にされずにいますが、世界では気候危機(climate crisis)が相当深刻なものとして受け止められています。産業革命による工業化以降、世界の平均気温は1度上昇しており、このままでは2040年までに1.5度上昇するおそれがあるなど、人間の活動による二酸化炭素等の温室効果ガスの排出が世界の気候に影響を与えていることが明らかになっています。夏の猛暑日の増加、氷河消失、積雪や海氷面積の減少、海面上昇、豪雨と干ばつ、頻繁な台風などここ数年の実感できる変化だけみてもあまりに異常です。1度とか1.5度上昇と言われてもあまりピンときませんが、自分の体温が36度から1度上がってずっと微熱が続いている状態をイメージするとその異常さが理解できます。日本のみならず世界で頻繁に発生し激甚化している自然災害との関係は到底無視できるものではありません。

こうした気候危機に対して、日本政府の対応はあまりに出遅れています。昨年スペインで開かれたCOP25では、温暖化対策に後ろ向きと認定された国が選ばれる不名誉な化石賞を2つも受賞してしまいました。石炭、化石燃料の発電を選択肢として残しておこうとする姿勢に対してのものです。日本は、世界が廃止に向かっている石炭火力発電所の新設計画のうちすでに稼働した15基の他、さらに計画、建設中の22基が稼働すれば排出抑制とは程遠い状況になります。主要7か国(G7)の中で、日本が唯一、海外への石炭火力発電プラント輸出を促進していることも批判の対象です。さらに世界の金融・投資の現場では脱炭素化に向けた変化に対応できる企業かどうかが企業価値を判断する重要な基準になっているにもかかわらず、日本のみずほ、三菱UFJ、三井住友の3グループが、石炭火力発電事業に融資している世界のトップ3となっています。まるで世界の潮流など眼中にない様子です。これでは国際競争に勝てないどころか、その土俵に乗ることもできないでしょう。

原発事故を経験し、環境対策の最先端を走ってきた自負のある日本だけにとても残念な気持ちになります。昨年、頻発した国内での不祥事、コンプライアンス違反事案とこうした環境危機対策における姿勢は共通した原因があるように思います。それは、「今だけ、金だけ、自分だけ」よければいいという倫理観の退廃です。自分の在職中に問題が表に出なければそれでよし、経済的な利益が判断基準、そして自分の欲望を優先させるという中で、まともな社会の発展など望めるわけもありません。自分が死んだ後の地球のことなど無関係、水害被害は個人の運不運の問題で自分はラッキーでよかった、経済面を考えると現時点では石炭と原子力に依存するしかない、云々。

これからの時代は、気候正義(climate justice)という言葉に象徴されるように、気候危機により不利益を受ける人々と利益を得ている人々との間の不公平、不公正がさらに深刻な問題になっていきます。それは、これまで経済的価値、利潤という物差しだけで測って決めてきた行動基準より、命という価値、人権と人間性の価値という物差しによる行動基準を優先させるように、世界の多くの人々や先端的な企業が価値観そのものを変化させていることを意味しています。そしてこれは日本国憲法の根本価値そのものです。憲法13条前段の個人の尊重は、「皆違っていい」とそれぞれの個の存在を肯定した上で、「誰も取り残さない」という愛に満ちた条文です。憲法前文とともにSDGs(持続可能な開発目標)を先取りした憲法価値を実践していけるかどうかが、今後の日本の存続の要になっているように思います。

グレタさんの活躍で思い出したスピーチがあります。1992年ブラジル・リオデジャネイロで行われた国連地球環境サミットで12歳のカナダ人少女セヴァン・カリス=スズキさんの 6分間のスピーチです。そこで彼女は以下のように訴えました。

「オゾン層にあいた穴をどうやってふさぐのか、あなたは知らないでしょう。 死んだ川にどうやってサケを呼び戻すのか、あなたは知らないでしょう。 絶滅した動物をどうやって生き返らせるのか、あなたは知らないでしょう。 そして、今や砂漠となってしまった場所にどうやって森をよみがえらせるのか、あなたは知らないでしょう。 どうやって直すのかわからないものを壊し続けるのはもうやめてください。 … もし戦争のために使われているお金をぜんぶ、貧しさと環境問題を解決するために使えば、この地球はすばらしい星になるでしょう。私はまだ子どもだけどそのことを知っています。 … なぜあなたたちが今こうした会議に出席しているのか、どうか忘れないでください。 そしていったい誰のためにやっているのか、 それはあなたたちの子ども、つまり私たちのためです。 皆さんはこうした会議で、私たちがどんな世界に育ち生きていくのかを決めているんです。 親たちはよく『だいじょうぶ。すべてうまくいくよ』といって子どもたちをなぐさめるものです。あるいは、『できるだけのことはしているから』とか、『この世の終わりじゃあるまいし』とか。 しかし、大人たちはもうこんななぐさめの言葉さえ使うことができなくなっているようです。 お聞きしますが、私たち子どもの未来を真剣に考えたことがありますか。

父はいつも私に不言実行、つまり、何を言うかではなく、何をするかでその人の値うちが決まる、といいます。 しかし、あなたたち大人がやっていることのせいで、私たちは泣いています。 あなたたちはいつも私たちを愛しているといいます。しかし、言わせてください。 もしそのことばが本当なら、どうか、本当だということを行動で示してください。 最後まで私の話をきいてくださってありがとうございました。」(「あながが世界を変える日」学陽書房より一部抜粋)

このスピーチから30年近くたって、地球環境はどうなったのでしょうか。もう待ったなしのようです。子どもは大人になります。そして大人は消えていきます。ですが、誰もが今を生きるものとして、未来に責任があります。未来の原因を作っているからです。まずは、自分が変わること、流れに任せておけばうまくいくはずだという楽観論だけではなく、人間が壊し続けている地球も有限の存在であることをしっかり自覚して、一日一日を大切に生きなければと改めて思いました。 今年一年が皆さんにとっても、地球にとっても、よりよい方向へ進む年であるように心から祈念しています。

2019年12月 5日 (木)

第292回 感謝と責任

先月末、秋田弁護士会主催で「イージス・アショアからみた憲法問題」という講演をしてきました。イージス・アショアとは、イージス艦のレーダー、指揮通信システム、迎撃ミサイル発射機などで構成されるミサイル防衛システム(イージス・システム)を、陸上に配備した兵器で、大気圏外の宇宙空間を飛翔する弾道ミサイルを地上から迎撃する能力を有しているとされています。これが、山口県萩市のむつみ演習場と秋田県秋田市の新屋演習場に配備されそうなのです。

講演の後、「対中国や北朝鮮との関係で日本防衛のために必要なものなのだから、日本のどこかに置かなければいけないのではないか」という質問をいただきました。まず、本当に日本防衛の為の兵器であるのかを疑って掛かるべきでしょう。萩は北朝鮮からグアムに向かうミサイルの軌道の下ですし、秋田はハワイへ向かうミサイルの軌道の下です。ちょっと偶然にしてはできすぎています。

私は、これまでの日本の防衛政策の対米従属を考えると、決して日本の国土防衛が目的であるとはいえないと考えています。アメリカのミサイル防衛のある専門家は、「日本は“不沈空母”から太平洋を守る“巨大なイージスの盾”に生まれ変わりつつある 」と指摘します。イージス・アショア問題の背景には、アメリカ本土を「防衛」するために日本を「巨大なイージスの盾」とするアメリカの世界戦略があることは明らかでしょう。

ちなみに、”不沈空母”は先月、101歳の長寿を全うして亡くなった中曽根康弘元首相の言葉です。原発を平和利用という名目で推進する立役者にもなりました。1983年にアメリカのロナルド・レーガン大統領が打ち出したミサイル防衛構想(SDI構想)について、それが上空で核爆発を起こすものであるにもかかわらず手放しで賛成した人でもあります。しかもそれを「我が国の平和主義に違背するものではない」と強弁した答弁も残っています。

さて、イージス・アショアが仮に日本防衛のためであるとしても本当に必要なものなのかはしっかりと検証しなければなりません。現在ですら迎撃の性能は3回に1回成功した程度ですし、効果は疑わしいものです。そもそも超音速のミサイルを開発している中国に対しては無力となる可能性が極めて高いものです。中国は米国以上の数の偵察衛星を保有していますし、10万人以上のサイバー部隊を抱えています。5Gをはじめとして米国の技術をとうに凌駕しているという評価もあります。

軍事技術競争はイタチごっこですから、「強い盾」を開発すればより「強い矛」を開発されるだけです。そして利益を得るのは軍需産業だけという構図が見えてきます。昨年末に導入が閣議決定されていますが、今年7月の防衛省の発表によると1基あたり1340億円、今後の維持運営費を加えると、2基総額は約4664億円になるそうです。ちなみに生活保護費を月額8万円から7万円に減額して得た金額が約160億円だそうです。どこに税金を使うのが国民・市民のためなのかを私たち自身が本気で考えないといけないように思います。

そして、何よりも仮に国土防衛に役立ったとしても、地域住民の生命、健康、財産を犠牲にすることが許されるのかという視点を忘れてはなりません。ルーマニアに既に配備されているイージス・アショアは、約9万平方㎞の基地内にある米軍基地の中に設置されており、周辺は広大な原野で民家もありません。ところが秋田は県庁などの中心地から2~3キロですし、そもそも住宅、高校、病院など市民の生活区域に隣接しています。住民被害は深刻なものになりそうです。レーダーが発する電磁波を浴び続けると、癌、白血病、鬱病などを引き起こすおそれがあり、小児の行動や発育に影響を与える可能性があると指摘されています。

防衛省からは電波環境調査の結果として人体への影響なしと発表されていますが、この調査で使われたレーダーの出力はイージス・アショアの100分の1でまるで意味がありません。このような調査結果で問題ないと言われても納得できる人はいないでしょう。憲法が保障する人格権(13条後段)の核心である生命・身体に不可逆的な影響を及ぼすことが懸念されるのであれば、科学的な因果関係が不明であっても予防原則に則ったアプローチがされるべきです。

予防原則とは、科学的には不確実な環境リスクであっても、生じ得る損害が、重大又は回復不可能な損害のおそれがある場合には、そのリスクの具現化を防止する措置を講ずべきであるとする環境法政策の原則をいいます。実際に使用される機器が発する電磁波が健康被害等を起こさないかどうか、十分な科学的調査がされるべきですし、電磁波のリスクが不明であればそもそも配備は中止されるべきです。

そしてイージス・アショアは、当然に相手国の攻撃の標的になります。ロシアとの中距離核戦力廃棄条約を8月に破棄したアメリカは、中距離核ミサイルを大量に保有する中国とのパワーバランスから、中距離弾道ミサイルを沖縄かイージス・アショアが設置される萩市か秋田市に配備する計画をしているそうです。それには中国もロシアも当然反発していますし、攻撃対象になることを覚悟しなければなりません。ちなみに米軍は、安保条約6条、日米地位協定2条1項(a)によって自衛隊基地を米軍基地として使うことができます。

仮に秋田に配備されなかったとしても、日本のどこかの住民が犠牲になるわけですから、国民・市民の犠牲の下でも守るべき国益といえるのかをしっかりと考えねばなりません。自衛隊も軍隊も国家の存立を守るものであり、国民を守るものではないことは、軍事の常識なのですが、日本国憲法の下でもそれを許してしまってよいはずはありません。それが軍事的なるものの存在自体を否定した現行憲法の基本的な立場です。

さらに地方自治の観点からも、住民の生活に影響を及ぼしうる米軍や自衛隊の基地などの軍事施設を「国のために我慢してくれ」と特定の地域の住民の意思を尊重せずに押しつけることは、団体自治を侵すことになりますし、例えば住民投票も行わずに基地に利用する土地を収用する特別法などを制定して強制することは、住民自治に反します。憲法第95条は、「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。」と規定しますが、その趣旨からも一地方に不利益を押しつけることはできないはずです。

防衛政策が国策である以上、国が決定することであるとしても、その決定に際して、憲法92条や95条の趣旨を没却していいはずがありません。秋田選定の根拠資料に初歩的なミスがあったり、住民への説明会において役人が居眠りをしていて批判されたりしましたが、政府として誠意をもって説明し納得を得ようとする姿勢は全くみられません。米国の要請による確定事項であるから動かせないかのようです。

こうした理不尽を強行しようとしている政権与党ですが、安倍首相は11月20日で通算在任期間が2887日に達し日本の憲政史上最長となりました。桜を見る会の問題など、批判はあるものの、内閣支持率はあまり下がっていないという報道もあります。私たちの税金がどう使われているかにあまりにも無頓着過ぎるのでないでしょうか。天皇の代替わりについても政教分離や税金の使い方の観点からの異論がほとんどきかれませんでした。

権力の私物化はファシズムの兆候だそうです。というかもう既にそうなのかもしれません。もちろん納税者と主権者は一致しませんが、私は、納税者意識は主権者意識とつながると思っています。自分が稼いだ収入から税金を払っていることを意識するようになると、それがどこに使われているか気になるものです。自分のお金を政府に預けているだけだという感覚が重要です。

あるスイス人の友人が、「自分は税金を喜んで払うと発言したら、その場にいたイタリア人から信じられないと呆れられた」と言っていました。スイス人の彼は税金が道路や年金など必要なことに使われていることがよくわかるから必要な負担をするのは当然だという意識のようでした。

そして国のトップは1年で代わるから個人的にお金を着服することはないので安心だとも言っていました。何年も権力の座に居座り続けると腐敗することは歴史が教えるとおりなので、その教訓を活かした統治制度にしているようです。スイスでは、連邦大統領は毎年閣僚の中で持ち回され、担当する省の大臣を兼任し、再任は禁止されています。連邦議会議長も同様に任期1年で再任禁止です。連邦制であり直接民主制で国民投票によって多くの政策が国民によって決定されるという日本との違いも多々あるのですが、権力の濫用に対しての危機感とそれを統制するガバナンスの仕組みではずいぶんと進んでいる印象を受けます。その上、国民が豊かで幸せを実感できるのであれば、すこしうらやましくもなります。

私たちにも、選挙権、請願権、表現の自由などが保障されています。確かに表現の自由などは愛知トリエンナーレの問題を見ても課題を抱えていることは明らかですが、それでも政府を批判することで拘束されることはありません。選挙で自由に自分の意思で投票することも許されています。にもかかわらず、参議院選挙で投票率が50%を切ってしまいました。高い内閣支持率や低い投票率については様々な分析ができるのでしょうが、ひとつ言えることは、私たちは極めて恵まれているということです。

60年前の日本でも、国会前を学生や群衆が埋め尽くしたそうです。岸内閣による専制主義的政治に危機感を覚え抗議する人々の声が大きく上がったのです。今、香港では学生や市民が文字通り命をかけて自由と民主主義を求めて闘っています。もし、自分が70年以上前の日本に生まれていたらどうだっただろうか。今、香港に生まれていたらどうだっただろうか。クルド人として生まれていたらどんな人生だっただろうか。想像するだけでも苦しくなります。

今、ここにいられることに感謝の気持ちを忘れず、私たちが税金の使われ方に関心を持ち、どこかで起こっている問題を他人事として無視することをしない。そして、気づいた者から声を上げ続ける。 こうしたことが今ほど重要なときはないように思います。それが今この日本にいることができる私たちの責任でもあるように思うのです。 来年が皆さん一人ひとりにとって良い年であることを心から願っています。

2019年11月 5日 (火)

第291回 裁判官への期待

 先月末に立て続けにいくつかの裁判と判決がありました。裁判の1つは、全国で25の裁判を展開している安保法制違憲訴訟において、東京で集団的自衛権の行使や後方支援活動の差止めを求める訴訟の最終弁論です。翌31日は、同じく横浜で行われた安保訴訟において証人尋問を行いました。そして一人一票実現訴訟のいくつかの判決です。7月に提訴された参議院選挙無効訴訟ですが、2つの違憲状態判決が続いた後、合憲判決ばかりで残念です。たった0・34票分の投票価値しか保障されていなくても許されてしまう国が民主主義国家といえるのか本当に疑問です。

 この問題についてはこれまでも何度か書いていますので、今回は安保法制違憲訴訟で私が弁論した内容を紹介します。700頁を超える最終準備書面を弁護士が分担して仕上げて提出しました。私が担当した第6章「本件と司法判断のあり方」だけでも120頁ほどあります。このような膨大な主張を70分で行うのですから大変でした。私の持ち時間も12分しかありません。今回は前に「プロの誇り」(288回)として述べたところと一部重なりますが、弁論の後半部分を紹介します。

「3 本件における裁判所の職責安全保障政策に関する国民の意思は多様である。その国民意思を統合して統一的な国家意思形成を行うことが国会には期待されており、具体的な安全保障政策の実現や外交交渉の内容などは政治部門の判断に委ねられているといえる。そうだとしても、その際に内閣、国会が最低限遵守しなければならない大きな枠組みは憲法によって規定されている。本件訴訟は、新安保法制法の安全保障政策上の当否の判断を裁判所に求めているのではない。あくまでも、新安保法制法が、憲法が許容している枠組みを逸脱しているか否かの判断を求めているのである。

そして、国家賠償法上の違法性の判断ないし原告らの損害の有無の判断に先行して憲法判断をすることは、問題がないどころか必要な場合があることを、平成17年在外邦人選挙権制限違憲判決、平成27年夫婦同姓規定合憲判決、平成27年再婚禁止期間違憲判決などで最高裁も認めている。

 世界的に見るなら、特に司法権のあり方をめぐっては実に大きく変容しており、グローバルな潮流でみれば、司法が違憲審査において政治に関わりを持つことは、もはや「当たり前」となっている。特に、ここ10年、20年の間に様相が様変わりし、例えばアメリカでは、2000年のBush 対Gore により、ジョージ・W・ブッシュが大統領となることが、連邦最高裁判決により決定した。このような極めて高度の政治性を有すると考えられる問題を連邦最高裁が判断したことにより、実質的に伝統的な「政治的問題の法理」は説得力を失ったものと指摘されている。

 日本では、未だに統治行為論や憲法判断回避の準則といった一般的な理論があるかのように言われることがあるが、厳格なルールや準則として扱うことに、理論的な理由はない。事案の性質や経緯、文化的・社会的な事情、そして国民の期待や社会通念を含めて、裁判所の任務や役割を具体的に探っていくことが必要である。

 そして、近時の学説からの批判を踏まえると、裁判所には、憲法判断を避けることが許されない場合があるというに留まらず、憲法判断に踏み込まなければならない場合があることも明らかになった。そして、本件訴訟がそのような場合であることを原告らは主張している。

 新安保法制法の合憲性については原告らが争点としてあげ、被告がそれを争っているのであるから、仮に裁判所が憲法判断を避けるのであれば、相当に説得力のある論証が必要になるはずである。単に、付随的違憲審査制や、権力分立や民主政などの憲法原理を持ち出すことによって憲法判断を回避することは決して許されることではない。本件においては、権力分立や民主政の観点からこそ裁判所が憲法判断するべきことを原告らは主張している。裁判所にはこの点に関する応答義務があるはずである。

 アメリカ、フランス、ドイツにおける各違憲審査制を概観してみると、どの国も暗い過去を克服し、政治部門から独立した裁判所としてあるべき姿を確立し、権力分立が実質的に機能するようにその職責を果たしている。

イギリスにおいても興味深い最高裁判決が2019年9月24日に出された。イギリス最高裁は、ボリス・ジョンソン首相が5週間にわたり議会を閉会したことに対して、憲法原理に反して違法と判断した。2009年に設置されたばかりの最高裁が、EU離脱にも関わる極めて政治的な問題に対して、政府や女王への忖度なしに明確な違法判決を出すことにより、その存在意義を示したのである。

 もちろん不文憲法であり明確な違憲審査権を有しないことなど、我が国の法制度との違いは多々あるものの、裁判所が憲法価値を擁護するために一定の重要な役割を果たし権力分立という国家のガバナンスが機能していることは確かであろう。

 日本においても、大日本帝国憲法の下の裁判所は、司法省の監督下にあり真の独立はなく違憲審査権も認められていなかった。このように民事刑事裁判に限定された役割しか認められなかった戦前とは異なり、日本国憲法の下では司法権の独立が認められ違憲審査権が規定されているのである。その裁判所が、戦前レベルの判断しかできない国家機関であってよいはずがない。

 いうまでもなく、戦争は最大かつ最悪の人権侵害である。国家が戦争に近づくことを阻止することは、最大の人権侵害を未然に防ぐことを意味する。だからこそ、人権保障のためには、憲法9条や前文の平和主義が要請する平和国家としての憲法秩序の維持が必要なのであり、裁判所には違法な立法行為を正し、違法な本件処分を差し止めることが要請されているのである。

 このまま新安保法制法による違憲の既成事実が積み重ねられ、将来、日本人が人を殺傷し、殺傷される事態が生じたとき、新安保法制法を成立させた安倍内閣、そして国会とともに裁判所も共同で責任を負うことになる。

 「今はなき」と評されるようになった内閣法制局にこれまでのような憲法擁護のための内的批判者としての役割は期待できない。日本がこうした事態に陥ってしまっている以上、政治部門の外にある裁判所が、内閣の意向を忖度したりすることなく、立憲主義の擁護者としてその役割を積極的に果たす以外に、日本における立憲主義を維持貫徹する方途はないのである。

 特に我が国のように、裁判所への信頼が一定水準を保っているような法治国家においては、憲法破壊的状況において裁判所がなしうる役割は、そうでは無い国と比べて格段に大きいはずである。「裁判もお金次第」という国が少なくない中で、我が国の裁判官はその清廉潔白で公正なイメージが広く国民に共有されている。政治部門が法による拘束を免れようとする中で、三権分立を機能させるために、司法府が政治部門にブレーキをかけなければならない場面があるはずである。

 こうした時だからこそ、憲法価値を維持貫徹するために、それぞれのアクターがその役割を果たさなければならないと考える。本件訴訟を提起し遂行することによって国民・市民は一定の役割を果たしてきた。弁護人も微力ながら法律家としての職責を果たしてきたつもりである。同様に裁判官にも果たさなければならない役割、使命があるはずである。

 今日のような憲法の危機に際して、裁判所がその役割を果たさずして、日本に未来はあるのであろうか。政治的な問題だから司法は口を差し挟まないという態度が、国の方向を誤らせるのではないか。後世から見れば、あの時が重要な分岐点だったと言われる時に今私達はいるのではないか。裁判官にも法律家としての誇り・プライドを見せてほしいと思う。

4 最後に  裁判官は特別な権限と地位を与えられた職業である。「憲法の番人」、「人権保障の最後の砦」といわれる任務を担っている。憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と規定する。裁判官としての良心に基づく自らの意思で憲法をよみがえらせることができるし、目の前で苦しんでいる原告に希望の光を与えることもできる。これは裁判官にしかできないことである。そして、裁判官には何も畏れるものがない。仮にあるとしたら自らの良心だけである。従うべきものも自らの良心と憲法だけである。

 原告らは、「裁判所だったら正しく判断できる」という司法への信頼と期待があるからこそ提訴した。仮に、信頼と期待を持ち得ない状況だったら、このように多くの原告らが多大なエネルギーを裁判に割いたであろうか。

 万が一でも、市民の間に、違憲審査権が裁判所によって適正に執行されることに絶望しか持てないようになってしまったら、これは司法の存在意義を大きく毀損する事態であると言わざるを得ない。市民から期待されうる司法であることは、我が国の立憲主義と法の支配の実現にとって極めて重大な意味を持つものである。

 本件訴訟の原告らおよび代理人も、つい裁判所に「勇気と英断」を求めてしまう。しかし、「勇気と英断」がなければ、憲法に従った判断はできないと決めてかかるのは、裁判所に対して礼を失することになろう。裁判官が自己の良心に従って法律のプロフェッショナルとして、憲法に則って淡々と職責を果たすのはむしろ当然のことである。

 原告らと代理人は、裁判所に良心をもって本件訴訟の事案の本質を洞察し、司法に負託された当然の職責を果たしてもらいたいと期待するだけである。司法に課せられた憲法保障機能と人権保障機能を全うし、法の支配の実効性を高め、立憲主義の崩壊を防ぐため、政治部門に対して強く気高く聳え立っていてほしい。このことを弁論を終えるに際して改めて切に願う。」

 東京地裁のエリート裁判官がどのような判断をするかまったく未知数です。ですが、裁判官なりのノブレス・オブリージュを発揮してもらいたいと願っています。

2019年10月 1日 (火)

第290回 権力分立

皆さんは国会は何をするところだと思いますか。立法するところだという答えはもちろん正しいのですが、それだけではありません。政府を監視する機能があります。立法権限だけではないので、憲法第4章のタイトルは国会となっていて立法ではありません。同じく、内閣も行政権だけでなく様々な権限を有しますので、第5章は内閣です。それに対して、裁判所はほぼ司法権を行使する機関です。もちろん司法行政権や客観訴訟も行いますが、その本質的な権限は司法権ですから、第6章だけは裁判所ではなく、司法となっています。

さて、国会による内閣の監視・監督権限について、興味深い判決が9月24日イギリスで出されました。イギリス最高裁は、ボリス・ジョンソン首相が5週間にわたり議会を閉会したことに対して、「政府の行動を問いただすという議会の憲法上の職務遂行権限を首相が妨げたことは違法だ」と11人の判事全員一致で判断しました。

この判決を受けて、ジョン・バーコウ下院議長は、最高裁の判断は明確だとした上で、「議会の役割は政府を監視し、政府の行動を点検するものだという国民の期待に応える義務がある」と述べたそうです。議会が政府を監視し政府の行動を問いただすことは、憲法上の職務であること、それが「国民の期待」に基づくものであることが、よくわかります。

議会は単に法律を作るだけの機関ではないことが、議会、裁判所、そして国民にも共有されているのです。ジョンソン首相の暴走はあまりにひどいものに見えました。イギリスのEU離脱という国家の一大事を自分の考えを押し通すために議会での審議を行わせない。そのために国会を5週間も閉会してしまうというのですから、この首相の行動は、いくら政治的な問題だといっても、とても放置できるものではなかったということなのでしょう。

この裁判では原審である控訴審の判断が分かれていました。イングランドに対抗意識のあるスコットランドの控訴審が違法という判断をすることは理解できますし、イングランド・ウエールズの控訴審が政治的問題として判断を回避したこともあり得ることかと思います。ですが、最高裁が堂々と全員一致で違法判決を出したことは驚きでした。

憲法の観点からおもしろいと思ったのは、今回、イギリス最高裁は、議会の「憲法上」の機能を行使する権限を妨げたから、「違法」だと判断している点です。違憲(unconstitutional)ではなく違法(unlawful)と判断しているのです。イギリスには成文憲法がないことは皆さんも知っているかと思います。そして、議会中心で近代立憲主義が確立していきましたから、議会に対する信頼も強く、裁判所に明確な違憲審査権の行使を認めてきませんでした。

そもそもブレア政権による2005年の憲法改革法ができるまでイギリスには最高裁判所がありませんでした。それまでは議会の貴族院に所属する議員(貴族)たちが最上級審としての裁判を行ってきたのです。この法官貴族のトップは、大法官(Lord Chancellor)と呼ばれ、貴族院議長であると同時に、日本でいえば最高裁長官であり、なんと司法省を所管する法務大臣として内閣の主要メンバーでもありました。貴族院議長が最高裁長官になり内閣の中で法務大臣も務める。立法・司法・行政がみごとに一体化していて、権力分立はどこにいったのかとびっくりするような権力の集中です。大法官の官職は1068年からあるそうで、誰がその地位に就いたかの記録も残っています。まさに貴族の国イギリスの面目躍如です。

もともとイギリスの貴族院は民選の下院の暴走をチェックするために存在していますが、さらに下院へのカウンターバランスとして、貴族院に事後的なチェック機関としての最高裁の役割を持たせてきたわけです。最高裁が貴族院から独立しても、政治に対するカウンターとしての機能は同じように持ち続けているということです。

EU加盟国となったイギリスは、制度としての司法権の独立やEU法と無縁ではいられなくなり、1998年制定の人権法によって、イギリス議会が作った法律がEU人権規定に適合しているか否かを判断する権限が与えられるようになりました。イギリス憲法に適合するか否かではなく、いきなりEU人権規定に適合するか否かの判断が可能になっている点が興味深いところです。大陸法系で成文法主義のEUと英米法系で判例法主義のイギリスが法制度の上で一体化するというEUの理想は相当な困難を伴うことは容易に想像できます。それでもこれまで、なんとか摺り合わせてきたのです。

今回のイギリス最高裁の判断は、憲法上の基本原理を指摘し、そこで認められる憲法上の機能を阻害するから違法としています。イギリスでは明確な違憲審査権がなくても、議会が憲法に反する法律を作るはずはないし、仮に作ったとしてもそれを国民が許すはずがないという民主主義への信頼が依然として維持されているようです。選挙という民主政の過程によって憲法価値を護ることができると考えています。

ただ、そのような民主政の過程では瑕疵を治癒できないとき、たとえば今回のように議会の権限を政府が無視して、議会を開催しないなどというときには、裁判所が積極的に介入してそれは憲法原理に反するから違法で許されないと明確な判断を言い渡すのです。

国民がしっかりと政府を監視しているからこそ、政治的問題については裁判所は介入しないといえるし、議会が監視機能を発揮できないような政府の暴走については、裁判所も政治問題だとして介入を控えることをしないのです。

今、私は日本で憲法53条訴訟というものをやっています。2017年6月にモリカケ問題を追及しようとして野党議員が政府に臨時会の招集を要求したにもかかわらず、政府はこれを無視し98日間放置したあげくに開催したと思ったら審議を行わず、冒頭で解散してしまいました。これは憲法53条違反で許されないとして国会議員を原告にして争っています。憲法53条は「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」と規定しています。「その召集を決定しなければならない」という文言は明らかに法的義務を規定したものといえますが、政府はこれを政治的義務に過ぎないとか、統治行為論や裁量論を理由にこの問題について裁判所は判断できないなどと主張しています。

この規定の趣旨は、国会の少数派であっても内閣を監視・監督するために国会を召集することができるという国会の重要な行政監視機能を実効化するところにあります。国会議員から召集要求があったにもかかわらず、これを内閣が無視して国会を開かせないということは、まさに憲法が予定する国会の行政監視機能を阻害するもので明らかに違憲です。

さて、イギリス最高裁は明確な違法判決を出しました。日本の裁判所はどのような判断をするでしょうか。日本の権力分立は機能しているのでしょうか。日本の司法の独立性と気概が試されることになります。

2019年9月 2日 (月)

第289回 寛容

立憲主義が成り立つために私たち市民が身につけるべき特性として、寛容性があると考えています。「人はみな違う」ことを前提に、その共存を図ろうとする以上は、自分の価値観や感性、ときに正義感と異なる他者の言動を受容することが不可欠だと思うからです。唯一の例外はドイツの「闘う民主制」と呼ばれる憲法忠誠の強制でしょうか。自由で民主的な基本秩序に反するような言論はドイツでは憲法上保障されていません。例えば、ナチズムを擁護する言論が規制されていることは皆さんも承知のことかと思います。

しかし、日本ではそうした例外すら憲法は予定していません。つまり、自由の敵にも自由を与えるという徹底したスタンスを堅持しています。民主主義の敵にも民主主義を否定する自由を与えてしまうことは大きなリスクを伴いますが、それを承知の上で憲法価値を否定する言動も、他者を傷つけたりして違法でない限りは許されています。

自分の意に沿わない表現行為を批判したり、そのような表現をさせない言動をする自由も認められているということです。立憲主義を根底から否定する言動も禁じられているわけではありません。立憲主義は自分の信じる価値観と異なる言動を許容するものですが、それを否定することも理屈の上では許されているのです。しかしだからこそ、私たち一人ひとりが立憲主義を理解し、それを維持していく努力を市民として求められているのだと思います。

表現の自由に関して、講義でも触れる有名なヴォルテールの言葉があります。「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」。つまり表現内容の賛否を問わず、表現すること自体の意義を理解して、お互いの言論を尊重するということです。この根底には、自分と異なる価値観を持つ他者の存在を認めるという寛容性があると思います。彼のこんな言葉も好きです。「寛容とは何か。それは人間愛の所有である。我々はすべて弱さと過ちから作られているのだ。我々の愚かさを許し合おう。これが自然の第一の掟である」、「寛容の精神は我々すべてを兄弟にする。しかし不寛容の精神は人間を野獣にする」。このように寛容とは人間らしさの表れであり、お互いの、自分自身の弱さを認めることを意味すると思うのです。

ただ、こうした寛容は、自らに人間としての余裕がないと生まれてこないのかもしれません。毎日の生活に窮し、生きていくだけで精一杯というときにはなかなか寛容である余裕は生まれません。また、自分の正義感を満足させたいと思う人も寛容ではなくなる危険があります。正義感が強すぎるが故に、私的制裁を加えることがスッキリ感、優越感という快感につながるからでしょう。

ですが、この正義感もときに人を傷つけます。正義もまたアリストテレス以来、論争の種でした。多義的で人によって解釈が異なるからです。国家間の戦争や民族対立のみならず、最近の米中、日韓の紛争においてもお互いの正義を譲り合えず打開策もなかなか見出せません。同様に個人のレベルにおいても、自らが正義と信じて行動したことが、他者の人格を毀損したり、他者の正義と衝突してどちらも引けなくなったり、大きな被害を生じさせることすらあります。

公権力という強大な力を持った捜査機関ですら犯罪者を特定することなど容易ではないにもかかわらず、一市民が無関係な人をSNSなどで犯人として特定して批判し、私的制裁を科すことがどれほど危険なことかを思い知る事件も起きました。煽り運転事件に関連して「ガラケー女」として誤って特定され甚大な被害を受けた方が法的手段をとるそうです。リツイートしただけであっても、それは情報の発信者として表現しているのですから、名誉毀損、業務妨害などの違法行為を行ったと評価されて責任を追及されてもやむをえません。

大手メディアによる報道被害については、松本サリン事件の際の河野義行さんの冤罪被害が有名ですが(1997年5月の「明日の法律家講座」でもお招きしています)、現代においては誰もがSNSで情報発信をすることにより報道被害の加害者になりうる時代ですから他人事ではありません。

この夏は、一般市民のみならず、公権力の担い手の人々が持つべき特性としても寛容性が重要であることを考えさせられる事件がいくつか起きました。1つは「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」です。公立美術館で検閲を受けて展示できなかった作品を展示しようとした企画だそうですが、各方面からの批判を受けてわずか3日で中止になった事件です。一連の騒動そのものが「表現の不自由」を実感させるイベントになったという点では皮肉です。

政治家にも表現の自由があるという主張は、よく聞くものですが、ここでの展示内容への口出しの理由になりません。そもそも表現の自由は権力に対して市民が主張するべきものであり、権力を行使する側の政治家がその立場で主張するべきものではないからです。何よりも、政治家や自治体の首長のように権力を行使する者が、自分の価値観に合わない表現(より端的に言えば自分の気に入らない表現)を禁止、抑制しようとすることは、とても民主主義社会をめざそうとしているとは思えません。

そして、たとえ公金が使われて県や市がかかわっているとしても、公権力に係わる人が展示内容に口を出すべきではありません。芸術的な表現であろうと政治的表現であろうと、専門家にいったん任せたにも拘わらず、表現内容に権力側の人間が口を出すこと自体が、表現に対する萎縮的効果を生みますし、間接的な規制といわざるをえません。権力が思想言論内容に介入することを許さないというのは、検閲絶対禁止の趣旨ですから、今回の事件は検閲そのものではないものの、その趣旨に反する言動を政治家が行ってしまったという批判は免れないように思われます。

この点では、教科書検定を想起しました。家永教科書裁判の第3次訴訟では家永先生の一部勝訴となりましたが、最高裁は個別の検定意見について詳細な検討を加えて、「朝鮮人民の反日抵抗」「731部隊」に関する修正意見などの適法性を判断しています。5人の裁判官の意見が3対2で分かれたものもあります。家永氏は一連の訴訟について「もともとこの訴訟は、学問・教育のような精神的な内面に権力が介入するのを違憲違法と裁判所に宣言させるのを目的として起こした訴訟であって、検定意見と教科書原稿とのどちらが正しいかを裁判所に判断させるものではなかった」と述べています。日本史の支配的な学説を国家が認定することになってしまったのです。

学問であろうと芸術であろうと、その内容が政治性を持つことは避けられません。そしてそれを政治的に正すために国家が介入することを認めてしまったのでは、思想言論・表現の自由は保障されません。政治的に偏っているという批判も、公権力がかかわる表現の場や教育現場においてよく耳にします。政治的中立性という言葉が誤解されているようです。これは政治的に無色透明であれという意味ではまったくありません。どのような表現であろうとも、明らかに差し迫った危険の発生が具体的に予見されない限り公権力はその内容に立ち入って規制してはならないという意味にすぎません。

今回の事件は表現の自由の問題ではない、他の場所であれば、堂々と自分のお金を使って表現できるはずだという意見もあります。市民会館での関西空港反対集会を制限するけれども、自宅で集会するのは自由なのだから表現内容規制ではないといっているのと同じで妥当とは思われません。パブリックフォーラムにおける表現行為は最大限保障されるべきですし、こうした美術館という公共の場で表現の機会を保障することは、重要な意味を持つからです。もちろん、表現させろと要求する積極的な権利まで保障されているわけではありません。ですが、専門家の判断に公権力が介入して、表現の場を奪うことはやはり表現の自由の問題になると考えます。

展示の中止は、展示内容に反発する者による脅迫があったことを理由にされているようですが、これも「敵意ある聴衆」の問題です。敵対する勢力から妨害行為がなされるような論争的な内容での集会は認められないということになると、公的な場においては、当たり障りのない言論しか人々の目に触れないことになります。思想言論の自由市場を確保することが公的機関の使命であるにもかかわらず、これを放棄するものであり、問題です。自由な言論を確保するためにこそ警察権力を使うべきだと考えます。

それが残念ながら、憲法のめざす方向とは逆に権力行使がなされてしまった事件もありました。7月の参院選応援のための安倍首相の応援演説中に「安倍やめろ、帰れ」「増税反対」と叫んだ市民や年金制度批判のプラカードを掲げようとした市民の行動を警察官が排除ないし阻止したというのです。公道での選挙演説が政治的表現の自由として憲法上保障されることは当然として、これに対して、聴衆として参加した市民が演説をしている候補者に届くくらいの大きさの声で質問や意見表明をしたり、演説内容に疑問を呈する目的でヤジを飛ばしたりすることも同じく政治的表現の自由として保障されている(憲法21条1項)と考えます。これは「敵意ある聴衆」として公権力がその発言を規制してよいものとは思えません。選挙演説遂行に支障をきたさない程度のものであるにもかかわらず、これらを警察が規制することは、憲法のみならず、警職法5条や警察法2条2項との関係でも問題になりそうです。

これに対して、柴山昌彦文科大臣が「表現の自由は最大限保障されなければならないが、集まった方々は候補者や応援弁士の発言を聞きたいと思って来ている。大声を出したりすることは、権利として保障されているとは言えないのではないか」と述べたと報道されています。しかし、演説を批判したい聴衆も来ていますし、活発な意見の応酬は候補者の考えに対して、より理解を深めることにもつながります。権力の側の人間は、自らと異なる意見に対し、より寛容でなければならないのではないでしょうか。

批判や異論に耳を傾けようとしない不寛容な体質が政権側にあると指摘する人もいます。ですが、政治家の考えは市民の意識の反映ですから、日本の市民全体の構造的な問題だといえます。立憲主義の確立した民主主義国家をめざすのであれば、寛容の持つ意味を市民として再度自覚しておかねばなりません。ただ、市民相互間で他者の思想言論に対しては寛容であることが必要ですが、権力者の不寛容に対しては寛容であってはならないと思います。

今後、権力の側で仕事をすることになる塾生も多いと思いますが、権力を行使する側であればあるほど、より寛容の重要性を認識しておいてほしいのです。私は従来から立場や力のある人のノブレス・オブリージュ(noblesse oblige / noble obligation)が重要であると訴えてきましたが、今回のような問題もそれがたとえ「やせ我慢」だとしても意味のあることであり、寛容でいられる人間が真のエリートだと考えています。

2019年8月 1日 (木)

第288回 プロの誇り

参議院議員通常選挙が終わりました。翌日の新聞一面の見出しは興味深いものでした。朝日、毎日、日経、産経、そして東京新聞は、皆「改憲勢力3分の2に届かず」という趣旨のものでした。それに対して読売新聞だけがそれには触れず「与党勝利 改選過半数」が一面トップの見出しでした。印象がまるで違います。安倍首相は、改憲を公約として掲げ、憲法改正を議論してほしいという国民意思が表明されたかのような発言をしていますが、各種世論調査では優先して取り組んでほしい課題について、改憲は数%にすぎず、国民の関心は社会保障、増税など日々の生活にあることは明らかに思えます。そもそも依然として一人一票が実現していない選挙ですから、その結果には何の民主的正統性もありません。

その上、投票率は48.8%だったそうです。戦後2番目に悪いのですが、若者を中心に政治離れ、選挙離れがさらに加速したように思えます。長い歴史の中でやっと獲得した選挙権を放棄し、投票にいかない国民が半分もいる国は、民主主義を標榜する国の中ではちょっと見当たりません。せっかく18歳以上に選挙権が認められたのにと残念がる方もいるようですが、この結果は無理もないことかもしれません。なにしろ、主権者教育、市民教育を一切してこなかったのですから、自分が主権者たる国民で国政の主体なのだという自覚のある人などほとんどいないのではないでしょうか。

憲法前文には「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」とあるのですが、国民が「主体的に自ら行動するのだ」という自覚はほとんどないと思われます。私たちは、小さいときから学校ではルールを守れだの、校則に違反したから停学だのと、規則やルールは既に存在していてただ守るだけのものという意識を植え付けられています。自ら主体的にルールを作りそれを運用していくという経験がほとんどありません。

およそルールというものは、本来の民主主義社会では、自分たちが作り、使い、必要に応じて変えていくもののはずですが、ルールを自ら作り活用するという経験を学校でも家庭でもほとんどしてきませんでした。そんな子どもたちに18歳になったら選挙にいって責任を果たせと言っても、めんどう、うざい、訳わからないという気持ちになって当たり前です。

社会人になってからも日々の生活があり、選挙に行っても何も変わらないという無力感を覚えてしまうと、投票するモチベーションがなくなります。日頃から政治に関心を持ち、自分の意見を主張する人を、意識高い系などと揶揄してみたり、政治的な活動を主体的に行う国民・市民を活動家とかプロ市民などといって批判する人もいます。日々の生活の中で政治的なことを話題にするのはやめて、意見の分かれる問題については触れない方が無難だという姿勢は、テレビ、学校などを通じて国民の中に浸透させられています。

日本国民は、国民・市民として行動する統治の主体ではなく、政治家や官僚、裁判官などの為政者による統治の客体に貶められているのですが、そのような状況にそれなりに満足している人も多いようです。名君によって支配されながらも日々の生活を守ってもらって感謝している民草、臣民の感覚でしょうか。私は昔からそれを「奴隷の幸せ」と呼んでいます。主体的な自由などなくても保護してもらって、そこそこの生活ができれば幸せであり、その現状を変えようとする意欲もなく、飼い慣らされていないかということです。まるでミュージカルの『キャッツ』の世界ですが、私も国民・市民としての誇りを意識してしまうものですから、飼い慣らされた猫はいやだなあと思ってしまいます。

ですが、これはもちろん個人の自由であり、何を幸せと感じるかは個人の選択の問題です。先日、中国人の知り合いから「プライバシーや表現の自由、選挙権などなくても共産党一党独裁によって豊かな生活ができるのだからなんの問題もない。日本人はプライバシーだとか表現の自由が保障されていると自慢するけど、だれもそんなもの欲しがっていないんじゃないか。だってこんなに監視カメラもあり、言いたいことも言えない、いや言いたいことなんてもともと無いのかもしれないが。その証拠に、多くの日本人は選挙権も行使しないし、誰も文句を言わない。香港の市民のようにおかしいと声をあげて権力と闘う者もいない。民主主義なんてまやかしだよ。」と言われてしまったのです。

とても厳しい指摘ですが、なかなか反論が難しかったのも事実です。民主主義は自律した市民を前提にしています。政治的な意見を持つだけの余裕のある市民を前提にしているといってもいいかもしれません。目の前の生活で手一杯で政治的な問題などに関心を持つ余裕のない人もいることでしょう。それでもそれらの声を上げられない人達の声を代表者は代弁しなければなりません。声なき声を反映することは代表という概念の自己矛盾ですが、そこを乗り越えなければ日本の民主主義は完全に消滅してしまうでしょう。それでも名君を育てるなり、すばらしい為政者に任せっきりの政治でいいのかもしれませんが、結局当てが外れたとか、任せても意味がないなどといって、多くの者は政治に対し諦めていくのでしょうか。

ただ、そのような社会によって国民・市民が分断され、格差がますます広がっていくと、社会全体の管理コストも相当あがると思われます。市民の不満が鬱積し、犯罪、暴動、テロなどが横行する社会は、富裕層の人達にとっても自分たちを自己防衛するために多大なコストをかけなければならず、安心して街を歩けない社会となってしまうのは、けっして望ましいことではないはずです。自分の幸せを第一に考えることは仕方がないとしても、それでも自分たちが安全で自由な社会で過ごせるという自分の幸せに直結する価値が害されるおそれがあるのであれば、他人事ではなく自分事として声をあげる責任が、それぞれの職域のプロにはあるように思います。

今回の選挙では、性的マイノリティの方や、重度障害者の方が議員になりました。国会自体が多様性を具現化する場になる貴重な一歩だと思います。それでも国会が数の力で動いていることは否定できません。当選後露骨に数集めに奔走する政党もあるようです。こうしたときに、少数者の権利を守るべく仕事をするのが裁判所です。政治部門によって拾い上げることができなかった少数者の権利をすくい上げ、人権保障の最後の砦としての役割を期待されています。

その裁判所が、最近、政府に忖度しすぎではないかと批判されることがあります。全国で提訴している安保法制違憲訴訟でも、あくまでも新安保法制法の制定によって現実的に具体的に苦しんでいる原告らの救済を求めているのですが、政治的な問題には裁判所は口を出さない方がよいという司法消極主義の発想から、憲法判断に立ち入らないで結論を出してしまう裁判所が出てきそうです。

もちろん安全保障政策に関する国民の意思は多様です。その国民意思を統合して統一的な国家意思形成を行うことが国会には期待されており、具体的な安全保障政策の実現や外交交渉の内容などは政治部門の判断に委ねられているといえます。ですがそうだとしても、その際に内閣、国会が最低限遵守しなければならない大きな枠組みは憲法によって規定されているのですから、この枠組みを逸脱する立法か否かの判断は、司法において可能であり、むしろこれこそが司法に期待されている本来的な役割のはずです。

これまで特定秘密保護法、新安保法制法、組織的犯罪処罰法など十分な議論と検討が必要なはずの法律が、数の力によって押し切られるように成立してしまいました。昨今の官僚、政治家の不祥事、不適切な発言、公文書の廃棄、隠蔽、改ざんをあげるまでもなく、議会制民主主義の根幹が揺らいでいます。そして前述したような選挙の状況です。これまでにないほどに立憲主義、平和主義、民主主義といった憲法価値が危機に直面しているのではないか。こうした時だからこそ、果たさなければならない司法の役割、裁判官の使命があるはずだと思っています。

アメリカ、フランス、ドイツにおける各違憲審査制を概観してみると、違憲審査権の行使を躊躇することをせず、むしろ民主主義とも整合するものであり、人権保障と憲法保障に積極的であるがゆえに国民からの信頼を得ていることがわかります。そして、それぞれの国の歴史を踏まえて、立憲民主主義、法の支配・法治主義という憲法原理を維持するべく重要な役割を果たしています。どの国も過去において暗い歴史を持ち、司法もそれと無縁ではありませんでした。アメリカ先住民や黒人差別に対してアメリカの裁判所が無力だった時期があること、フランスのアンシャンレジームにおける裁判所が王権と結託して人々の権利侵害に加担したこと、ドイツの裁判所がナチスに加担しヒトラーを擁護したことなどです。ですが、今日においてはそうした過去を克服し、政治部門から独立した裁判所としてあるべき姿を確立し、権力分立が実質的に機能するようにその職責を果たしています。

日本においても、大日本帝国憲法の下の裁判所は、司法省の監督下にあり真の独立はなく、行政裁判や違憲審査権も認められていませんでした。このように民事刑事裁判に限定された役割しか認められなかった戦前とは異なり、日本国憲法の下では司法権の独立が認められ違憲審査権が規定されているのです。その裁判所が、戦前レベルの判断しかしようとしない国家機関であってよいはずがありません。

去る6月13日に前橋地裁における安保法制違憲訴訟の証人として、宮﨑礼壹元内閣法制局長官が、集団的自衛権の行使は憲法違反だと毅然とした態度で法廷で断言されました。まさに国家権力の中枢で憲法価値を堅持してきた法務官僚としての誇りが感じられる証言でした。私は裁判官にも同じように、法律家としての誇り・プライドを判決で見せてほしいのです。

政治家、官僚、法律家がそれぞれの職責を果たすこと、そして国民・市民も自らの自由を守るために「不断の努力」をおしまないこと(憲法12条前段)が、今ほど求められているときはないように思います。皆さんには法律家、行政官としての誇りとプライドをもった志あるプロを目指してほしいと願っています。

2019年7月 1日 (月)

第287回 無罪の推定

私たちは、裁判という制度を真実発見のためのものとして考えてしまいがちです。ですが、民事裁判は紛争解決が目的ですし、刑事裁判も国家による刑罰権の発動を許してよいかどうかを判断するための手続きです。どんな裁判であっても人間が行う以上は、真実に到達できないこともあります。ところが刑事事件において、有罪とするには証拠上疑問が残るときでも警察・検察などの捜査機関は被告人を処罰しようとやっきになることがあります。職務熱心のあまりの思い込みもあるでしょうし、組織としてのメンツもあるかもしれません。ときに証拠の隠蔽、ねつ造を行うこともあります。それは例外的な事象と思いたいですが、実際にいくつかの裁判で明らかになっています。

警察・検察や裁判所が社会の秩序を維持し、正義を実現するために重要な役割を果たしていることはいうまでもありません。しかし、同時におそろしい権力としての側面もあわせ持っていることを忘れてはなりません。裁判所もけっして正義の味方とか人権保障の最後の砦といったプラスの側面だけでなく、冤罪を生み出しかねない極めて危険な国家権力でもあるのです。

旧刑訴法時代に発生した横浜事件では1943年に、治安維持法違反容疑の名目で中央公論社、朝日新聞社、岩波書店等の関係者約60人がでっち上げで逮捕されたうえ、竹刀等で殴られるなどの拷問を受けたあげく、4人が獄死しました。当時、自白は証拠の王とされ、強制・拷問を伴う自白偏重の取調べが虚偽の自白を生み、後の裁判で無罪を主張してもかえって重く処罰されました。そのことが冤罪の温床となっていたのです。

このような苦い経験にもとづいて、日本国憲法は被疑者・被告人のために、刑事手続上の人権を詳細に定めています。すなわち、33条以降で、逮捕や捜索・押収に令状主義を徹底し、弁護人依頼権を保障し、公平で迅速な公開裁判や黙秘権、自白法則、補強法則を定めるとともに、31条でより一般的に、公権力を手続的に拘束し、人権を手続的に保障すべく、適正手続条項を定めました。

適正手続を根幹にすえたこのような憲法のもとで、無実の人を処罰しないことは、刑事裁判に求められる最低限度の要請です。ところが、憲法が施行されて70年余り経つにもかかわらず、冤罪事件はなくなりません。そしてその冤罪を晴らすための再審請求が極めて狭き門になってしまいました。

「疑わしきは被告人の利益に」という言葉があります。無罪の推定ともいいますが、刑事訴訟の基本原則です。憲法に規定があるわけではありませんが、憲法13条前段の個人の尊重や31条の適正手続条項から導かれます。極論すれば、9人の凶悪犯が無罪となっても1人の無実の者を処罰してはならないという原則です。仮に、凶悪犯として起訴された10人のうち9人までは死刑確実な真犯人ですが、1人だけ無実の人が紛れ込んでしまったとします。ところが、誰がその1人かわかりません。そのときに裁判所としてはどのような判決を出すべきでしょうか。

教室事例ですが考えてみます。全員有罪にすれば社会は安泰かもしれません。しかし、無実の1人が犠牲になります。逆に全員無罪とすればその1人は救えるかもしれませんが、社会に凶悪犯人が戻ってきてしまいます。社会の秩序を維持するために1人を犠牲にするという考えもありえますが、憲法はそうした考えを選択しませんでした。全員無罪釈放となります。これが無罪の推定です。その被告人が犯罪を犯したとすることに合理的な疑いがあれば有罪としないことにしました。犯罪を犯したと裁判官が確信できなければ国家は刑罰権を行使してはならないとしたのです。

これは社会が一定の不利益を受けることがあったとしても無実の者を処罰してはならないということを意味します。そこまで誰をも個人として尊重するということです。もちろん、「疑わしきは罰する」という選択もありえます。しかし、それでは自分や大切な人が虚偽の密告やでっち上げられた証拠により処罰されてしまう危険がある。そんな社会はいやだ、すくなくとも無実であれば処罰されることはないと信頼できる社会の方が、私たちが幸せを感じられるはずだと考えたのです。

それでも裁判は人間が行いますから、間違いを起こすこともあります。そのときのために再審手続きを用意しました。これは間違った裁判を正すという趣旨のものでも、真実発見のためのものでもありません。なぜなら被告人に有利な再審しか許されていないからです。もし真実発見を重視するのであれば、間違った無罪判決の確定に対しても検察官からの再審請求が許されてもよさそうです。しかし、それは認められていません(刑事訴訟法435条)。

民事裁判とは異なり、刑事裁判は国家による最大の人権侵害である刑罰権の発動を許すかどうかを問題にしますから、被告人の人権という観点から考えなければいけないのです。憲法39条は「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。」と規定します。これは事後法の禁止と二重処罰の禁止(一事不再理効)について規定したものです。

事後法の禁止(実行のときに適法であった行為の処罰の禁止)は刑法の基本原則である罪刑法定主義の一内容として、明治憲法に規定はなかったものの、従来からマグナカルタ以来の刑事法の基本原則として理解されていました。しかし、二重の危険の禁止(同一の犯罪について二度裁判を受けない)は英米法の概念(double jeopardy)であり、アメリカ合衆国憲法修正第5条にならって導入されたものですが、憲法制定当時からあまり理解されていなかったようです。その結果、日本では無罪判決に対する検察官上訴も判決確定前だから許されるという解釈が一般になってしまっています。

しかし、そもそもこの二重の危険の禁止は、一度国家権力によって有罪にされる危険にさらされた被告人は、再びそのような危険にはさらされないことを人権として保障したものです。刑事裁判制度の一内容としてではなく、人権として保障しているのです。そのため憲法39条という人権条項の中に位置づけられています。この点を考えると英米の国々のように検察官上訴は禁止するべきだと考えます。そしてさらにこの規定を再審請求においても適用するべきだと考えています。

先月40年前の大崎事件の再審請求が最高裁で棄却されました。請求人の原口アヤ子さんは事件当初から一貫して否認をし続け一度も自白していません。10年服役した刑務所でもやっていないからといって、仮釈放されるために勧められた反省文を書くことも拒否し続けたそうです。捜査員に誘導された知的障がい者の供述や検察官による証拠隠し、事故死の可能性を指摘する鑑定書もあり、有罪という結論を維持するには相当疑問が残ります。

原口さんは1995年4月に第一次再審を申し立てています。私が塾を立ち上げた年です。2002年3月の決定から始まって、これまで三度の再審請求に対して地裁、高裁、最高裁と3回ずつ決定が出ていますから合計9回の再審裁判が行われているのです。そのうち3回は再審を認める判断がなされました。つまり原口さんの犯罪とするには疑いがあるということです。事実上、冤罪であることが認められたにもかかわらず、検察官の不服申し立てによりそれが取り消されました。

刑が確定するまでを入れれば原口さんはこれまで12回も裁判を受けなければなりませんでした。一体何度、有罪の危険にさらせば気が済むのでしょうか。無罪の推定、二重処罰の禁止という刑事訴訟法の基本原則、憲法原則からいっても、相当に大きな問題といえます。再審は判決が確定した後の問題だから、通常の刑事裁判の原則が適用されないと考えることはできません。国家権力による人権侵害の危険がある場面であり、個人の人権保障を重視するべき場面であることは同じだからです。

原口さんは92歳です。40年前の冤罪をまだ晴らせていません。国家権力とくに司法の恐ろしさを思い知る事件です。たまたまわが身に降りかからなくてよかったと自らの幸運に感謝するだけでよいのでしょうか。もちろん、法的安定性という要請もあります。ですが、一人の個人の尊厳を犠牲にしてまでも守るべき法的安定性などあるはずもありません。

今回の決定を出した最高裁第一小法廷は5人の裁判官から構成されています。元東京高裁長官、前東京高裁長官、元大阪高検検事長といった司法官僚3人の他、2人の弁護士がいますが、木澤弁護士は元加計学園監事でしたし、山口弁護士は任命の数か月前に弁護士登録したばかりの東大名誉教授ですが官邸の意向で任命されました。最高裁裁判官の人事も含めて、法律や権力は何のためにあるのか、改めて考えさせられます。

今回の最高裁決定を知ったとき、ご本人のみならず20年以上もこの冤罪事件を闘ってきた弁護士の方々の落胆はいかばかりだったでしょうか。明日の法律家講座で講演してくれた鴨志田弁護士の「ここで諦めるわけにはいかない」という言葉が私にとっては唯一の救いです。

【関連リンク】明日の法律家講座バックナンバー 東京校 第264回「大崎事件から見える刑事司法の問題点~憲法の理想と現実のギャップ~」

2019/7/13実施明日の法律家講座は、冤罪を阻止・根絶するために法曹が果たすべき役割・責任について考えます。明日の法律家講座 東京校第285回「冤罪の阻止・根絶と法曹の責任」

2019年6月 3日 (月)

第286回 公益

旧優生保護法の下で不妊手術を強制された原告らが国家賠償を求めた訴訟で、仙台地裁は5月28日に、この法律は幸福追求権などを規定した憲法13条に違反し無効と判断したのですが、国賠請求については20年の除斥期間経過を理由に請求棄却しました。全国で提訴されている同種事件の最初の判決です。

子どもを産み育てることを自己決定する権利(リプロダクティブ権)は憲法13条で保障されているところ、強制不妊手術はこの権利を一方的に奪うものだという原告らの主張に対して、被告国は、国が賠償責任を負うことはないので違憲かどうかは主要な論点ではなく認否する必要はないと、憲法判断に向き合おうとしませんでした。この点について裁判所が原告の主張を認めて、憲法判断に踏み込んだ点では評価できるのですが、除斥期間の壁に司法による救済を阻まれた原告の落胆は大きいのではないかと推察します。

そもそもこの旧優生保護法とはどんなものだったのでしょうか。優生政策というとナチスを思い起こします。ヒトラーは「我が闘争」の中で次のように述べています。「民族主義国家は、人種の純粋保持に努めなければならない。…ただ健康な者だけが子どもを生むべきで、自分に病気や欠陥があるにもかかわらず子どもをつくるのはただの恥辱であり、これを諦めることこそが栄誉である。…身体的にも精神的にも不健康で、価値なき者は、その苦悩を自分の子どもの身体に伝えてはならない。」

こうした方針の下で、1933年7月には強制断種法(遺伝病子孫予防法)が制定され、精神、身体に関わる8つの疾患と重度アルコール依存症を法定遺伝病とし、患者への強制断種を認め約40万人が犠牲になりました。ヒトラー政権の優生政策の原点になります。その後、「人には生来の差があること」が学校、看護学校、病院、役所で周知徹底され、重度の心身障害者や「反社会的分子」(ロマ、労働忌避者、同性愛者、常習犯罪者など)への介護・福祉は公の幸福と利益に反するものと教え込まれることになります。

そして、1935年10月には結婚健康法制定という美しい名称の法律の下で、精神障害を罹患し、民族共同体の観点から結婚が望まれない者の結婚が禁じられます。それが1939年8月の安楽死殺害政策へと展開していき、最終的には不治の患者、遺伝病患者、心身障害者など国の戦争遂行に支障をきたすとみなした者を組織的に抹殺することになり、精神科医の協力のもとドイツ国内だけでも21万6000人が犠牲になりました。ここで培われた殺人技術がホロコーストへ引き継がれるのですが、まさに戦争は差別とともにやってくるのです。

第二次世界大戦中、ドイツと同盟国だった日本にも国民優生法という法律はあったのですが、戦時下では「産めよ増やせよ」という人口増加政策がとられ、優生手術はそれほど多くなかったようです。それが、戦地からの引き揚げ者による爆発的な人口増加や食糧危機、住宅難などの社会問題から過剰人口抑制策に転換します。憲法制定後の国会において、母体の生命健康の保護とともに不良な子孫の出生防止による文化国家建設に寄与することを立法目的として掲げた優生保護法案が提出されます。その後超党派の議員立法として成立しますが、その立法過程では、強制不妊手術は、「社会生活をいたします上に、甚だしく不適応な者とか、或いは生きていくことが第三者から見ても極めて悲惨な状況を呈する者」に対して行うもので社会公共の立場から公益のためになされるものと強調されます。一見すると自己決定権よりもパターナリスティックな配慮を重視しただけとも思えますが、そうではないようです。国家再建のために民族逆淘汰(劣悪な者が増えると国民全体の質が低下するので劣等者の増加を防ぐこと)こそが公益として捉えられていたのです。

旧優生保護法には当時の国民の多数意思が反映していたといえます。こうして国民の意思は民主政の過程を通じて政治部門によって国政に反映することになっていますが、そこで配慮されなかった少数者の人権を保障する観点から、裁判所が一種の政策形成機能を果たすものが憲法81条の違憲審査権です。国家賠償請求訴訟の中で、ある政策の違憲性が明確にされることによって、国民の多数意思によっては救済されなかった少数者の人権が回復するのです。

成年被後見人は2013年3月14日の東京地裁違憲判決を契機に法改正されるまで選挙権が否定されていました。選挙権の行使にも一定の能力が必要だということが理由とされていたようです。しかし、政治的判断能力の有無を国家が判断することは許されるべきではありません。

憲法では自己決定権という人権の重要性を学びます。子供を産むかどうかも個人の人格的生存に関わる重要な私的事項といえますから、憲法が保障する自己決定権の一内容です。では、こうした権利行使がおぼつかないような自律的判断能力に欠けるとされた弱者はどうすればよいのでしょうか。自己決定権は自己決定能力を前提とするから自己決定能力のない者に自己決定権は認められず、社会や国が本人のためにそれを判断するということになるのでしょうか。それを公益という名の下に許してよいのでしょうか。

こうした困難な問題もありますが、少なくとも本人の意思を無視して不妊手術を強制することは違憲違法です。今回の仙台地裁の判決も違憲であることは認めましたが、国賠請求そのものは除斥期間を理由に棄却しました。

そもそも国家賠償は公務員の不法行為に関しては、その雇い主である国民全体が負担することが公平だということで税金から賠償金が支払われるものです。国が賠償金を支払うことによって国民も、自らが主権者として運営している国がこんな違法行為をしたのだと認識するとともに、被害を受けた少数者の視点から主権者として国家のあるべき姿を改めることができます。

権利関係を速やかに確定するための除斥期間経過を理由に損害賠償を否定することは、時効と違い理不尽な思いが残ります。改正前の民法を勉強してきた人ならば、時効と除斥期間の違いは基本的知識として理解しているはずです。援用不要で中断・停止、遡及効もなく、権利の上に眠っているわけでなくても権利行使が否定されてしまいます。だからこそ、これまでも不法行為に関しては権利救済の観点から、例外的に時効の停止規定を類推したり、起算点を再考したりする工夫によって理不尽な結果を避ける解釈がとられてきました。そうした経緯もあって、判例で除斥期間とされてきた民法724条後段の20年の期間制限を今回の民法改正で消滅時効に変更したのです。

もちろん、法的安定性と具体的妥当性の調整は困難な問題ですし、事案によって事情も異なることは十分に承知しています。それでも今回は原告らを救済するために除斥期間についての解釈を展開する余地があったと思います。そもそも除斥期間の制度は、相手方の保護、取引関係者の法的地位の安定、その他公益上の必要から一定期間の経過によって法律関係を確定させるために、権利の存続期間を画一的に定めるものですが、今回は相手方は国であり、違憲の不法行為をしたと認定している以上は、これらの趣旨はあてはまりません。損害賠償を否定することが公益に適うとも思えません。

この判決の前日には布川事件で冤罪を生み出す捜査をした警察、検察による証拠のねつ造、隠蔽、偽証などの違法行為に関して国家賠償が認められました。50年も前の違法捜査に関する国賠請求です。判決は「除斥期間」の起点は違法行為があった時点ではなく、「再審による無罪判決が確定した時」であるとして原告を救済しました。次のように理由を述べています。  「このような場合に除斥期間の進行を認めることは、再審による無罪判決の確定までに長時間を要した冤罪の被害者にとって著しく酷であるし、また、国や公共団体としても、上記損害の性質からみて、違法行為の時から相当の期間が経過した後に損害賠償の請求を受けることを予期すべきであると考えられるからである。」

結局は裁判所が原告の被害をどこまで甚大なものと認識し、国民全体で負担することが公平と考えるかにかかっているようです。法律を違憲として憲法秩序を回復する憲法保障と、当事者の救済をはかる私権保障のどちらも裁判所の重要な機能なのですから、裁判官には正しくその権力を行使してほしいと思います。そして今の日本社会に必要な公益とは何かをしっかりと意識して職権を行使してほしいと願っています。

2019年5月 1日 (水)

第285回 法曹養成制度

「口述復活、予備試験廃止を=司法試験改革で対案―国民など」という見出しで「国民民主党と衆院会派「社会保障を立て直す国民会議」は17日、政府の法曹養成制度改革関連法案への対案を衆院に共同提出した。司法試験で口述試験を復活させるほか、受験資格を得るための予備試験を廃止することが柱。立憲民主党など他の野党に協力を呼び掛けている。」という記事が時事通信から配信されました。

これを見た人の中には、「大変だ予備試験が廃止されるかもしれない」と心配になった方もいるかもしれません。時事通信としたことがとんでもない誤報です。予備試験をめざしている塾生の皆さんは安心してください。国民民主党の対案は、司法試験の受験資格を撤廃するところに主眼があります。法科大学院(LS)卒業資格も不要にし、誰でも何度でも受験できる制度にするので、必然的に受験資格を得るための予備試験は廃止することになるというものです。つまり試験を司法試験一本にしようというのです。そしてその司法試験では口述試験を復活させるという案です。また、今回の政府案においても法曹コースという法学部生のための新ルートを創設しようというもので、予備試験廃止などは予定されていません。

先月、国民民主党から声が掛かり、23日に行われた衆議院文部科学委員会に参考人として出席して意見を述べてきました。私の他に、一橋大学法科大学院の山本和彦教授、三澤英嗣弁護士、早稲田大学法科大学院の須網隆夫教授の3名もそれぞれ意見を述べ、4人で3時間ほど各会派の議員からの質問に答えました。

政府案は、法学部生に限って学部を3年で終えてLSに入学し2年目のLS在学中に司法試験を受験できるとする法曹コースを創設しようとするものです。これにより法学部生は選択肢が増えることになりますが、他学部生や社会人は蚊帳の外です。一方で国民民主党案は、司法試験受験資格を撤廃し誰でも司法試験を受験でき、試験の内容と合格後の司法修習を充実させようというものです。LSには法曹養成以外の多様な役割を担わせることを想定しています。私は国民案に賛成という意見を述べてきました。

これまで私は、法曹養成においては多様性、開放性、公平性が重要と考え、38年間携わってきました。多様な人材、特に他学部生、社会人が法曹になれることが重要と考え、法科大学院ができる20年ほど前から他学部生、社会人が法曹をめざせる教育システムを構築してきました。

2001年に発表された司法制度改革審議会意見書に「司法試験における競争の激化により、学生が受験予備校に大幅に依存する傾向が著しくなり、『ダブルスクール化』、『大学離れ』と言われる状況を招いており、法曹となるべき者の資質の確保に重大な影響を及ぼすに至っている」との記述があります。つまり、法科大学院制度は、大学の生き残り策として生まれたものでした。大学が司法試験予備校、塾から学生を取り戻すことが目的であったのですが、それはうまくいきませんでした。

当時、盛んにパターン化された答案ばかりだと司法試験合格者の資質が問題視されました。そのパターン化の原因は私にあるのですが、今回もご一緒した先生方に当時はそうした答案ばかりで法曹の質に問題があったのだと指摘を受けました。ですが、そのような答案を書いた法曹の質が低いという客観的な証拠は何一つ見つかっていません。当時、私の講義を聴いてパターン化された答案とやらを書いた合格者が20年後の今、どれほど質の悪い法律家になっているのかを証明してもらいたいものです。

たかが試験なのですから、パターン化した答案であろうが、何だろうがさっさと合格してしまい、合格後に現場で必要な知識と経験を身につけていけばよいだけです。重要なことは合格後を考えること、志をもって法曹を目指すことだと考えています。そもそも試験において有能な法曹としての能力があるかどうかなど見極められると考えるのは大きな勘違いでしょう。試験など最低限の知識があるかどうかを見定められればそれで十分なのです。

こういうことを言うと、だから、LSにおけるプロセスによる教育が不可欠なのだと言われます。しかし、それは司法試験合格後に行えばよいことです。試験合格前にプロセスによる教育といって試験と関係ないことを学習させようと強制すること自体が不自然で無理なことです。司法試験に合格するために多額の学費と時間を使って法科大学院に入るのですから、試験の合格に意識が向くのは当然のことであり、よほど余裕のある者しか、試験の不安に打ち勝って、試験と無関係な授業を真剣に受ける気持ちなどになれません。合格してからプロセスによる教育をすればよいのです。合格後の司法研修所、実務におけるOJTもプロセスによる教育ですから、これらを充実させればよいと考えます。法科大学院、司法試験、司法修習に関する縦割り行政の弊害を放置したまま、そのしわ寄せをプロセスによる教育の名の下に受験生に負担させるのはおかしなことです。

受験回数の制限がない試験制度の下で、学生が若い時期を受験勉強のために浪費した、だから受験回数を制限してあげるのだといいます。よけいなお世話です。受験回数制限など不合理なパターナリズムの極みです。自分の人生は自分で決める。憲法で保障された自己決定権です。多様な人材が自分の意思で、年齢、学歴、受験回数などに関係なく、法曹をめざせる。いつでも学習したいときに自由に学び、挑戦できる、そんな制度のどこが不合理なのでしょうか。

何よりも実は、こうした誰でも挑戦できる仕組みが、これまでこの国の「法の支配」を支えてきました。司法試験に本気で取組み、合格はしなかったものの、公務員、他の士業、民間企業、NPO、NGO、家庭、国際社会で活躍している人材が多数います。

かつて年間5万人いた司法試験志願者のうち大多数が法曹にならなかったとしても、実はこの国の法制度を社会において支えているのは彼ら・彼女らであり、十分にその学びを生かして社会に貢献しています。法曹三者のみがこの国の法制度を支えていると考えることは傲慢であり、司法試験不合格を人生の落伍者のようにレッテル貼りをする上から目線の発想はやめるべきです。また、目的をもって学んでいる時間を合格しなかったからといって、人生の浪費と評価する価値観を私は持ち合わせていません。

ところで、司法試験の一発勝負の弊害ということもよく言われます。司法試験が試験である以上、それは当然のことのはずです。オリンピック選考試合と同じで、そこまでに十分に練習する。つまり勉強をして合格する。そのプロセスがあって合格するのです。もちろん運が悪くて落ちることはあります。それはどの世界でも同じです。受験生は、折れそうになる気持ちと闘いながら、必死に努力を続けています。その厳しい勉強のプロセスがあっての合格です。それを一発勝負などということは本当に失礼千万。試験の現場を知らない者の戯言としか思えません。

誰もが最もいい時期に、それぞれの打ち込みたいものが見つかる。それを見つけたときに誰でも挑戦できる制度が教育制度として優れていると考えています。一人ひとりの能力を引き出すことが教育の本質であり、この点はどのような教育においても同じだと思います。これから試験に臨む皆さんには、それがどんな試験であっても真正面から向き合い、ベストを尽くしてきてほしいと心から願っています。真剣に努力し、その過程で得たものは、これからの皆さんのキャリアにとって、かけがえのないものになることは間違いありません。

2019年4月 1日 (月)

第284回 憲法1条と99条

憲法1条と99条は実質的には日本国憲法の最初と最後の条文です。さて、この2つの共通点はなんでしょうか。それは、共に天皇が登場することです。

1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」、99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と規定します。

この雑感を皆さんが読んでいるころには新元号が発表されているはずです。新元号は4月1日閣議決定され、現天皇の署名・押印を付した政令によって公布されます。この政令の公布は内閣の助言と承認のもとで行う国事行為(7条1号、3条)であり、天皇の意思が介在する余地はありません。天皇が時を支配するという趣旨で元号を定めてきた伝統を重視する保守派の中には、天皇の即位後に新天皇によって公布されるべきだという考えもあるようですが、それは現憲法では無理なことでしょう。

天皇による統治を強めるために明治時代に1人の天皇に1つの元号とする「一世一元」制が始まりましたが、新憲法とともに廃止され単なる慣習になっていたものが、1979年の元号法により「一世一元」が復活しました。元々は暦と合わせて皇帝が人々の時間を支配する中国の仕組みを導入したものですし、645年の「大化」以来、幕末までは厄払いの意味合いの改元も100回ほどあったというのですから、あまり一世一元にこだわることもないのにと思いますが、「天皇の元号」という意識を通じて天皇制を日本国民の中に日本人としてのアイデンティティとして浸透させたいのでしょうか。元号が単なる時間の区切りの意味を超えて排他的ナショナリズムに利用されないことを祈るばかりです。

祈りといえば、現天皇は2016年8月の「おことば」で天皇の務めとして、「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ること」と「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」の2つをあげています。それに続けて「日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。」と述べていますが、前者の祈り、つまり宮中祭祀は象徴としての行為としてよいものなのでしょうか。

これは内閣の助言と承認を必要とする象徴としての行為ではなく、あくまでも個人的な行為に過ぎないと言わざるを得ません。言うまでもなく宗教行為ですから私的なものであり、公費ではなく内廷費でまかなうべき性質の行為です。そうでなければ政教分離原則に違反してしまいます。秋篠宮が53歳の誕生日の際に、天皇の代替わりに行われる皇室行事のうち大嘗祭の費用について国費でまかなうことへ疑問を呈しましたが、真っ当な発言でした。

では、沖縄、サイパンなどの激戦地への慰霊の旅や終戦記念日に「深い反省」と発言することなどはどうでしょうか。戦争を二度と繰り返さないという平和への強い思いが伺われ、リベラルな言論人もこれらを許容するようになりました。安倍政権があまりにも憲法無視を続けるために、天皇の護憲発言が期待されるようになったからなのかもしれません。しかし他方でこれは天皇の政治利用ではないかと批判する人もいます。

この国の主権者は国民です。昭和の時代の戦争責任を明確にすることも、戦争を二度と繰り返さないことも主権者たる国民が主体的に行うべきことであり、天皇の言動を利用して解決するべきものではありません。その意味では、現天皇の護憲発言をリベラルな人々が持ち上げるのは筋が違うのかもしれません。ですが、憲法は99条で天皇に憲法尊重擁護義務を負わせています。国家機関としての天皇に、単に憲法を尊重するだけではなく、擁護する義務を課しているのです。

したがって、現天皇が即位後の1989年8月の記者会見で「国民と共に憲法を守ることに努めていきたい」と述べ、その後も憲法遵守を表明しているのは当然のことになります。ということは、天皇を尊重する保守派の方々ほど、天皇が尊重し擁護する憲法9条を大切にしなければならないのです。これは困ったことだということで、2012年自民党憲法改正草案では憲法尊重擁護義務者から天皇を削除しました。憲法を超越した存在として天皇を位置づけたいようです。ですがこれでは明治憲法よりも立憲主義が後退してしまいます。

そもそも天皇制自体が人権、婚姻の自由、法の下の平等の例外であり、世襲という貴い血を認めることは卑しい血を認めることにつながり、知らず知らずのうちに国民・市民の社会的差別意識を生み出していないか、皇位における性差別が国民レベルにおける性差別感情の温存に影響していないか、君が代、日の丸というシンボルとの結びつきの影響など議論すべき論点は多くあります。タブーなき議論が活発に行われてこそ、その「地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」といえます。

天皇の祈りや宗教儀式に、多くの国民は寛容かもしれません。しかし、信教の自由、政教分離は少数者の人権保障がその趣旨だったことを忘れてはなりません。今後、改元に続いて天皇の代替わりの儀式が行われていく中で、少数者への配慮、国民が主権者であること、言論の自由の保障等の憲法価値がメディアなどでも強く意識されることを望んでいます。

2019年3月 1日 (金)

第283回 沖縄の民意

2月24日に行われた沖縄県民投票では辺野古の新基地建設のための埋め立てへの反対が多数となりました。投票率は52.48%でその7割を超える43万人が反対、賛成は11万票で反対が大きく上回りました。私は、ここに沖縄県民の民意が再度明確に現れたと考えるのですが、新聞各紙によってこの県民投票の評価は分かれました。

25日朝刊の見出しでは、「辺野古「反対」72%」(朝日新聞)、「辺野古反対7割超」(毎日・東京新聞)と大きく報じたものと、一面で小さく「辺野古埋め立て反対71%」(読売新聞)としただけのものに分かれました。産経新聞は、「海自観艦式韓国招待せず」を一面トップに位置づけその横に「辺野古反対7割超」と伝えています。記事の中では、あえて「『反対』が全有権者の過半数には達しないことが確実となった」と報じています。読売新聞は日本一の発行部数を誇るそうですが、同日の社説でも取り上げることもなく、記事の中では、投票率が52%だったことを指摘して、「県民の参加は広がりを欠き、影響は限定的」と評価して、自民党県連幹部の「県民の総意と呼べない」との発言を引用しています。そういえば読売新聞は、3.11原発事故の後に東京の代々木公園で数万人が集まった脱原発集会が開かれたときも、社の方針に反するからといって一面では一切報道しませんでした。

このように新聞各紙によって報道姿勢が異なります。ジャーナリズムは権力を監視し批判することがその使命であることを自覚しているか否かの違いなのかもしれませんが、ますます国民・市民のメディアリテラシーが問われる時代になっているのだと実感します。

今回の県民投票の結果を過小評価したい人は、有権者総数の37.65%に過ぎない県民しか反対していないのだからこれは民意とは言えないと言いたいようです。ですが、2017年衆議院総選挙では、全有権者に占める絶対得票率で考えると、自民党は小選挙区で25.0%、比例代表では17.5%しか獲得していません。このときの選挙結果は国民の民意を反映していないと主張するのでしょうか。

また、最低投票率の定めのない憲法改正国民投票において、仮に投票率40%、賛成51%という結果になり有権者のわずか2割ほどが賛成しただけであったとしてもきっと有効というに違いありません。私は憲法改正国民投票においては最低投票率か絶対得票率の定めが必要と考えていますが、今回の県民投票においては投票率も50%を超え、有権者の4分の1を超える反対の意思表示があったのですから、沖縄県民の民意は明らかだと思います。

沖縄県民の民意といいましたが、もちろん辺野古新基地建設に賛成の県民もいます。ですが、ここで重要なことは有権者団としての沖縄県民の総意は反対が賛成を上回っているということです。「37.6%の民意」と表現して今回の結果は県民の意思ではないと言いたいのかもしれませんが、ここで問題なのは、賛成11万に対して反対43万と圧倒的に反対が多かったという事実なのです。この事実を前にこれは沖縄県民の民意ではないとは到底いえないでしょう。

沖縄での米軍機の事故は普天間基地の周辺だけで起こっているわけではありません。1972年の本土復帰以降の普天間基地離陸米軍機の墜落事故17件の内14件は普天間基地のある宜野湾市以外で起きています。辺野古新基地建設後もオスプレイの訓練は沖縄全土で続きますし、沖縄に米軍基地があることによる危険性は何も変わらないのです。

ちなみに復帰以降の米軍機事故は基地別でいえば嘉手納基地が508件であり、普天間基地の17件に比べて事故件数は圧倒的に嘉手納基地の方が多く危険です。辺野古新基地建設で県民の危険や負担が減少すると思っているのは本土の人間くらいでしょう。

今回は自民党支持層の中でも賛成40%に対して反対48%と反対が上回り、「政府は県民投票の結果を尊重する必要ない」とする21.8%に対して「尊重すべきだ」は74.8%で、賛成反対を問わず県民投票の結果を尊重するべきと考える人が圧倒的なのは興味深いことです。支持政党を超えて沖縄の方々が問題の本質を理解している証です。

今回の結果を沖縄の民意ではないという人達は、おそらく沖縄県民の圧倒的多数が反対しても、それは日本国民の総意ではないと言い出すと予想されます。国防・外交問題は国の専権事項であるから沖縄県のような地方自治体は口を出さず黙って従えということでしょう。国の政策は、国民の多数が支持しているとされる政府与党によって決められますから、沖縄県民がいくら反対しても少数派であり勝ち目はありません。

沖縄県という特定の地域の住民が反対している政策であっても国策だからという名目で沖縄に押しつけ負担を強制することはできるのでしょうか。憲法は多数決を基本とする民主主義を採用し、国政は徹頭徹尾、国会における多数意思で決定することにしています(憲法56条2項)。しかし、他方で多数によっても侵してはならない個人の人権を保障しています。憲法を学ぶと、多数から少数を守るために憲法が存在することを理解することができます。

国防・外交問題が国の専権事項だからというだけでは、国が地元住民の声や人権を無視する正当な理由にはなりません。国防・外交問題が国の専権事項だというのは1つの解釈にすぎませんが、仮にそうだとしても民主主義という基本原理、地方自治の本旨は憲法事項なのですから、明らかにこちらの要請の方が優先することになります。繰り返しますが、国の専権事項だからといって、住民の意思を無視していいわけではありません。住民の意思を尊重して国の政策としての国防・外交を実現しろというのが、地方自治をあえて憲法で保障した日本国憲法の要請です。

憲法は92条で地方自治の本旨、つまり住民自治と団体自治を保障し、95条ではある地域の住民の権利のみを制限することになるような法律制定は地域住民の同意がないとできないとしています。その趣旨は、いくら多数派の代表である国会であっても、一地方に不利益な法律を押しつけてはいけないというものです。法律ですら、そのような押しつけは許されないのですから、単なる政策が一地方の住民意思を無視して押しつけられて良いわけがありません。

憲法は、安全保障政策であろうが、外交政策であろうが、金融政策であろうが、特定の地域の住民の意思を無視してその地域に国の政策を押しつけることを許してはいません。それが明治憲法と異なって、地方自治を憲法であえて保障した意義です。

そして日本国憲法が想定する民主主義は、こうして地方の住民の意思を尊重して、その同意を得ながら進められるべきものなのです。およそ一般的に民主主義は少数者の意見を尊重して十分な討論を経て、最後は多数決で決めるプロセスをいいます。しかし、特に一地方に不利益を及ぼすような政策は、仮に少数意見となるようなその地域の声を十分に聞いたとしても、その地域住民の意思を無視しては強制できないという制限が付いた多数決が要請されているのです。

辺野古新基地建設については、沖縄県民の声を十分に聞いて実質的な対話がなされたとは到底いえないまま強行されています。この時点でアウトですが、仮に十分に意見を聞いたとしても国レベルの多数決によって不利益を押しつけることはできないのが、92条と95条を持つ憲法の下での民主主義なのです。

ある小学校のクラスで、みんなでいじめの対象となる子を多数決で決めていじめることなど許されないことは子どもでもわかります。仮にこんな事をするのであれば、みんなが順番にいじめられ役にならなければおかしいでしょう。本土が受け入れないからという政治的理由でいつまでも理不尽な負担を沖縄に押しつけ続けるのは、まともな感性を持った人のやることではないと思っています。これから法律家・行政官をめざす皆さんには知性とともに感性を豊かにし、志を推し進める熱い心も鍛えていってほしいと願っています。

2019年2月 1日 (金)

第282回 個性の多様性

昨年以降、『ボヘミアン・ラプソディー』という映画が大ヒットしているようです。私も若かりし頃、深夜放送から流れてきたこの曲を聴いたときの衝撃を今でも鮮明に覚えています。フレディ・マーキュリーの歌声と斬新な曲想が耳から離れませんでした。一人一票裁判では不当な判決を「ガリレオ判決!」と叫んでいますが奇抜さでは負けています。インド系両親、タンザニアにあるザンジバル島生まれ、イギリス式教育、大学で芸術とデザイン専攻、これだけでも多様性を地でいっているような生き様ですが、そこにバイセクシャルも加わります。それらすべてが彼の個性であり、彼の魅力の源泉であることを否定する人はいないでしょう。

人はさまざまな要素によってその個性を作ります。年齢、外観、容姿、人種、民族、国籍、宗教、既婚未婚、職業、学歴、地位、趣味、能力、障がい、性的指向、世界観、人生観、思想・信条、死生観、経験、その他。この「その他」にはさらに多くの要素が含まれます。つまり、人の個性は無限の要素からできあがっているのです。

私たちは、ときどき、そんな多様な人間をある要素だけみて、カテゴライズしたり、その他の無限の要素に思いが至らず決めつけをしたりしてしまうことがあります。それを差別とか偏見と呼ぶのだと思っています。もういい年の大人なんだから、弁護士だから、裁判官だから、検察官だから、公務員だから、こんな学歴だから、などといって自分自身を枠に当てはめてしまうのみならず、他人をも枠にはめようとする人もいます。そうしたものの見方自体ももちろんその人の個性のひとつですが、私はあまり好きではありません。

男性だから、女性だから、LGBTだからという要素が人の評価要素になること自体がなくなれば良いのになとも思います。最近もLGBT議員が当選などとニュースになります。もちろん、政治の世界で性的多様性が実現することは極めて重要なことだと考えています。昨年末に発表された世界経済フォーラムによる男女平等ランキングでは149ヶ国中、日本は110位でG7の中でダントツ最下位です。中でも国会議員数は130位ですから目を覆いたくなるばかりです。男女すらこの状況なのですから、市民社会における性的多様性など夢のまた夢かとも思いたくなります。

LGBTにQ(Queer)を追加することも最近では目にするようになりました。一風変わったとか奇妙なというような意味ですが、普通じゃないというニュアンスがあるような言葉です。ですが、性において普通とは何なのでしょうか。L(レズビアン・女性の同性愛者)G(ゲイ・男性の同性愛者)B(バイセクシャル・両性愛者)は性的指向のことであり、T(トランスジェンダー・身体の性と心の性の不一致)という性自認の問題とは性質が違います。これらを並べて、Qを追加したとしても、”普通ではない”とされる性の個性を一定のカテゴリで整理したものといえます。

ここで前提とされている”普通の性”とは何なのでしょうか。「女の身体に生まれて、自分を女と自認して、男を好きになる人」、または「男の身体に生まれて、自分を男と自認して、女を好きになる人」の2つを想定しているようです。ですが、自分の身体的特徴、性自認、性的指向という3つの要素だけでも、男、女、どちらでもない、どちらでもいい、わからないなど様々な傾向があります。その掛け合わせですから、相当なバリエーションがあります。

身体は男だけれども自分を女性と自認したうえで女性が好きなレズビアンもいるわけです。さらに表現する性(Gender Expression)の多様性を含めると本当に多様です。表現する性とは、仕草や服装、言葉遣いなどです。見た目の「男らしさ」、「女らしさ」ともいえるもので、そもそもこの「らしさ」は社会によって異なります。男性の身体で男性と自認し女性が好きだけれども、仕草や言葉遣いは女性的という人もいます。整理すると以下のようになります。

・性的指向(Sexual Orientation) 好きになる性であり恋愛感情や性欲が向かう先
・性自認(Gender Identity) 主観的に自分をどう自認するかの性
・性表現(Gender Expression) 表現する性
・身体の性的特徴(Sex Characteristics) 身体の特徴としての生物学的な性

そしてそれぞれが男、女と2分できるものでなく、無限のグラデーションがあります。Sexual Orientation, Gender Identity, Gender Expression, Sex Characteristics, これらをまとめて、SOGIESC(ソジエスク)と呼びます。これはLGBTQのように人をカテゴライズして分類する類型ではなく、誰もが持つ性の多様な要素に着目したもので、すべての人の個性を表現する言葉と言えます。私は早くLGBTQよりもSOGIESCが広まればよいなと思っています。

ニュースでLGBTQの政治家や法律家という形で取り上げられることがなくなる社会を目指すのが憲法13条前段の個人の尊重です。どんな属性や要素を持っていても、誰もがそこに命を持って存在するだけで価値がある。この「存在価値」を認めようとすることが人権の本質であり、個人の尊重だと考えています。それは人をカテゴリで括って評価することをやめようという考え方につながります。

統計問題でも厚労省の官僚はとか、日本の役人の質が下がったとかいう決めつけ、改憲派、護憲派というレッテル貼り、徴用工問題やレーダー照射事件を受けて韓国、韓国人へのラベリングなどは、もうやめたらどうでしょうか。抽象的な概念での決めつけは、問題の本質を見誤る危険があります。

法律家や公務員は問題の本質を見極め、適切な対処をしていく仕事です。皆さんには誰もが持つ個性の多様性を踏まえて、一人ひとりの幸福追求をサポートする法律家や行政官をめざしてほしいと願っています。

2019年1月 1日 (火)

第281回 謹賀新年

一昨年の雑感268号で自衛隊明記の改憲について、「一人でも多くの国民が、「災害救助で頑張っている自衛隊がかわいそう」などという感情論に流されないでほしい、ここに指摘したことが杞憂に終わることを心底願っている」と書きました。その気持ちは今でも変わりません。それどころかますます危機感を強く持っています。新年早々、物騒な話はやめてほしいという塾生もいることかと思います。政治と宗教の話は遠慮するという日本の風土が、自立した市民となることを遠ざけてきたと考えているものですから、不興を買うのを承知であえて、正月からこんな話題で書いています。

おさらいです。まず「自衛隊明記」の改憲によって何も変わらないというウソはいけません。たとえば、9条に関する改憲案について、自民党内で検討されている有力なものは、9条はそのままにした上で、次のような9条の2を追加するというものです。

第9条の2 (第1項)前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。 (第2項)自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。

この9条の2の1項は前段と後段に分かれますが、「前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず」という前段部分は、「後法は前法を破る」という法原則によって、形式的には残される9条が上書きされ空文化することになります。自衛隊の存在は合憲となりますが、それと同時に「国及び国民の安全を保つため」という名目で戦力の保持も交戦権も「必要な自衛の措置」として認められることになります。仮に「必要最小限の自衛の措置」とされたとしても必要最小限という文言は気休めに過ぎず、歯止めにはなりません。フルスペックの集団的自衛権行使も核兵器保持も必要最小限の自衛の措置として認められることになります。

1項後段の「そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。」という部分は、まさに自衛隊の保持を明記する規定となります。これにより自衛隊が憲法上の組織に格上げされることになりますが、国会、内閣、裁判所などに並ぶ憲法上の組織となることで、これまでとは桁外れの独立性と権威が自衛隊に与えられることになります。この規定を根拠に自衛隊の活動範囲が広げられ、防衛費がさらに増加し、軍需産業を育成して武器輸出も促進され、自衛官の募集が強化され、教育現場では国防意識も浸透させられ、大学等に学問や技術の協力を要請していく等、高度国防国家をめざして、社会のすみずみまでが軍国主義化していく危険があります。

そして、「内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊」と規定されることから、総理大臣による文民統制が及ぶようにみえますが、逆にこの規定は総理大臣が自由に自衛隊を動かす根拠規定にもなり、あたかも戦前の統帥権が復活したかのようで極めて危険です。2項において「国会の承認その他の統制に服する。」と規定されますが、これは国会以外の統制でもよいとする根拠になります。政治家の方が好戦的であるといわれる今日、文民統制は幻想だと考えておいた方がよいと思われます。

一方で、自民党内の議論では、「歴代政府の九条解釈を維持したまま、内閣統制下の自衛隊であることを明記する」案も提案されていました。すなわち、

第9条の2 前条の範囲内で、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つため、法律の定めるところにより、行政各部の一つとして、自衛隊を保持する。 とするものです。

確かに、「前条の範囲内」とすることで9条が上書きされ削除されるのを避けられているように思えます。しかし、先に述べたように、自衛隊を憲法に明記することによる様々な弊害は、そのまま残ることになります。そして、そもそも、自衛隊を明記したとしても、違憲の疑いは払拭されません。自衛隊がなぜ違憲の存在と指摘され得るのかというと、自衛隊の現実の装備や活動などが戦力不保持、交戦権否認という禁止規範(9条2項)に抵触し得るためです。これを違憲と指摘されないようにするには、大前提となる禁止規範を変更するしかありません。つまり、法的規範としての意味そのものの9条2項を変更し、戦力保持を許すか、例外を認めるしかないのです。よって「何も変わりません」とすることと、「自衛隊の違憲の疑いをなくす」とすることは両立しないのです。にもかかわらず、「自衛隊明記」の改憲によって何も変わらないといって国民を欺すようなことは許されません。

これまで日本の政策はかなりの部分がアーミテージ・ナイ報告というアメリカのシンクタンクの提言のとおりに進んできました。原発推進などのエネルギー政策はもちろん、「武器輸出三原則」の緩和、集団的自衛権行使などの防衛政策も基本的にはこれに従っています。昨年10月に4回目のレポートが発表されました。そこでは米軍との一体化をより強固なものにするために合同機動部隊や合同作戦司令部の創設、武器の共同開発を求め、自衛隊が米軍の一部として相応の軍事的役割を担うことや自衛隊基地、民間施設を米軍が軍事使用できるように要求しています。 自衛隊は専守防衛を踏み越えて敵基地攻撃もできる強力な打撃力を持つようになりました。護衛艦「いずも」の空母化、長距離巡航ミサイル保有、戦闘機など米国製武器の大量購入など自衛隊がどんどん変質していっています。そうした中での自衛隊明記の改憲です。ぜひ皆さんの健全な想像力を発揮してほしいと思います。

ある雑誌の取材で、私の強みを聞かれ「きれいごとをまともに言い続けられる単純さ」と答えました。塾生の皆さんに「やればできる!必ずできる!」と激励するのもそうですし、憲法価値を語り続けるのもその一環です。「そんなのはうまくいかない」と斜に構える人が多い中で、「平和や自由っていいよね」と言い続け、「憲法9条なんか今時お花畑」と小馬鹿にされても、非軍事中立という理想を説き続ける。そういうピエロのような存在がいてもいいと思っています。きれいごとを真正面から言い続けるのは、相当エネルギーのいることですが、発言し続けることに意味があると思っています。

今年は、5月に元号が変わります。元号には賛否両論ありますが、これまで用いられてきた「平成」は、国の内外、天地とも平和が達成されるという意味だそうです。平成の30年間、日本はそれなりの平和を維持してきました。あくまでも「それなりの」平和でしかありませんが、それでも日本国憲法の存在が大きかったと思います。平成が終わっても日本国憲法の核心を終わらせてはなりません。わたしたち一人ひとりが自分の頭で改憲について考え、さらにまわりを巻き込むべき時期に来ていると思います。

2018年12月 3日 (月)

第280回 先例主義

裁判とは、原告、被告双方の言い分を聞いて、その食い違う争点に対して裁判所が憲法、法律に基づいて判断するものです。ところが、これまでの一人一票実現訴訟において、裁判所は私たちが提起した争点に対してまったく応答してきませんでした。

私たちの主張は、この問題について、憲法14条1項で規定されている法の下の平等違反を訴えるものではなく、前文第1文前段、1条、56条2項が要求する主権者による多数決という統治論に基礎を置くものです。主権者国民の44.8%という少数が国会議員の過半数を選出することになるような選挙区割りは、国民が主権者であることを前提とする憲法の下では許されないと主張しているのです。それは昭和51年4月14日最高裁大法廷判決とはまったく異なる理論構成による違憲無効の主張です。

しかし、そのことをこれまで最高裁判事が全く理解していなかったことが昨年9月27日の大法廷弁論で明らかになりました。このとき久保利英明弁護士が「我々は憲法14条に基づく人権論ではなく統治論に基づき憲法違反を主張している」と述べたことに対して、寺田逸郎最高裁長官から「代理人らは、本件選挙が、憲法14条等の法の下の平等に違反しているから違憲、と主張しているのではないのですか?」と質問されたのです。このように最高裁弁論の場で、最高裁判事から代理人に質問がなされること自体、前代未聞のことだそうです。そして、その質問内容から、我々の主張を長官をはじめ全く理解していなかったことがわかり、率直にいって大きな衝撃でした。そこで11月28日に行われた最高裁弁論(昨年10月22日施行衆議院議員総選挙に関する選挙無効裁判)においては、我々はあくまでも統治論を主張しているのであり、それが採用できないのであれば、その理由をしっかりと述べてほしいと訴えてきました。

これまでのような憲法14条1項の法の下の平等論では、不合理な差別は許されないが、合理的区別は許されるという相対的平等の考え方から、結局、合憲性判断は合理性の有無という抽象的かつあいまいな判断に委ねられてしまいます。ですが、主権者国民による多数決で国政運営しなければならないという統治論からの人口比例選挙の要請であれば、主権者による多数決が機能しているか否かを判断すればよいだけであり、判断基準は極めて単純かつ明確なものとなります。そしてこの要請による人口比例選挙を歪める必要性があるのであれば、それを国民が納得できるように説明する責任は被告にあるのですから、裁判所はそれが被告によって証明されたか否かの判断をすればいいだけなのです。

こうした判断枠組みは極めて単純明快なものと思われるのですが、私たちがこうした主張をしていたことをなぜこれまで裁判所に理解してもらえなかったのでしょうか。それは裁判所の先例主義に1つの原因であるように思えてなりません。優秀な最高裁調査官も含めて、あくまで先例の枠の中で判断しようとする姿勢に原因があるのではないでしょうか。 もちろん、法的安定性や継続性も重要な価値であり考慮すべき要素ですが、私たちは、決して思い付きでこうした統治論を主張しているのではありません。9年にわたる裁判において確信をもって一貫して主張し続けているのです。

先例に縛られて過去の判例の枠組みの中でしか判断しないのであれば、法律学の進歩はありません。どんな学問分野でも同様ですが、従来の枠にとらわれない柔軟な発想の中からしかその学問の進歩は生まれません。自然科学の世界では実験を繰り返して仮説を検証するのですが、法学のような社会科学の世界では、建設的な対話、議論・討論を通じてよりよいものに近付けていくのだと思います。対話を通じた不断の努力によってこそ社会は進歩していくものだと確信しています。そして、意味のある対話、議論・討論をするためには、お互いがその主張の根拠・理由を示さなければなりません。

国会においても、移民政策の是非について全く建設的な議論もなされないままにこの国のかたちが変わろうとしています。保守と言われている人達の手によってこうした横暴な国政運営がなされようとしていることに驚きますが、個人の尊重を否定する改憲案を提示している自民党ですから、その点では一貫しているのかもしれません。しかし、議論・対話も無しに単なる安い労働力という道具として外国人を扱うような法律を強行採決して成立させてしまうことは、いつか必ず大きなしっぺ返しを食らうことでしょう。

さて、裁判所が、私たちの統治論の主張に対して何らの応答もしないというのでは、理由を付けて裁判がなされたことにはなりません。民訴法253条1項3号で判決書に記載を義務付けられているところの「理由」は、これが求められている趣旨から考えれば、判決の結論を導くための理由です。 従って、裁判官が、本件選挙は憲法に違反していないとの結論を採るのであれば、私たちが「統治論に反して憲法違反である」と主張しているのですから、「統治論に反していない」ことの理由を、結論を導くための理由として判決書に記載することが義務付けられているはずです。「憲法14条1項違反ではない」ことの理由を述べるだけでは、本件選挙が憲法に違反していないことの理由を記載したことにはなりません。 通常の事件は最高裁で判断がなされると、さらに争う道は再審しかありません。ですが、幸か不幸かこの一票裁判は違憲の選挙が行われる度に繰り返すことができます。そこで最高裁の判断に対して次の裁判で反論したり、さらに理論を深めたものを主張することができるのです。

最高裁大法廷の代理人の座席は、15人の裁判官の方に向けて作られています。通常の裁判所の法廷は原告、被告が向き合う形で代理人席が配置されていることと比べて特徴的です。これは最高裁を、御白洲に座ってお上の沙汰を受ける評定所とするためではなく、代理人が裁判官と対話するためにこのような座席配置がなされているのだと思っています。

今後も対話を否定し、過去の先例に従うだけの裁判が続くのであれば、近い将来、裁判は人工知能(AI)にとって代わられるでしょう。過去の膨大なデータから先例に従って結論を導き出すことは人工知能が最も得意とすることだからです。先例主義を打破した新たな創造の中からしか、司法の未来も生まれないと考えます。

昨年の総選挙は、国会においていわゆるモリカケ問題などで政府を追及しようとする衆参両院の各4分の1以上の国会議員による臨時国会の召集要求(憲法53条)を98日間もの長きにわたり無視し、その後ようやく開かれた国会の冒頭で行われた衆議院解散後の選挙です。憲法の規定に則って行政監視機能を発揮しようとした少数会派の国会議員が要求した国会すら開かれず、このような憲法無視のあげくに行われた選挙という特異なものでした。

またこの選挙で、自民党は、自衛隊の明記、緊急事態条項、参院選の合区解消、教育無償化・充実強化の4項目で改憲を目指すことを選挙公約として初めて掲げました。本件選挙の結果を受けて、現国会議員が憲法改正を発議することにでもなれば、その正統性が、これまでの法律制定のとき以上に問われることになります。国民の多数によって正統性を与えられていない国会議員による発議によって、国のかたちが変えられてしまうことは、国民にとってはこの上ない悲劇です。

もし最高裁が、自らその存在意義を否定するような消極的な姿勢によって、政治部門の判断を追認してしまうような判決を出すとしたら、政治的な問題に巻き込まれたくないという最高裁の意図とは全く別の結末を迎えるおそれがあります。最高裁であっても、政治部門の意向を忖度する極めて政治的な機関であるとの印象を国民に与えてしまい、かえって国民からの信頼を失ってしまうことにつながると思われるからです。今回の選挙に至る経緯のように憲法無視の政治運営が続く中で、最高裁を含むあらゆる権力が政権与党に忖度し、その意向に異論を唱えることができないようであれば、この国はとても立憲民主主義国家とはいえないでしょう。

最高裁は平成30年10月17日岡口基一裁判官に対する懲戒処分決定において、「裁判の公正,中立は,裁判ないしは裁判所に対する国民の信頼の基礎を成すものであり,裁判官は,公正,中立な審判者として裁判を行うことを職責とする者である。」と判示しています。私はこの決定には全く反対なのですが(第279回雑感)、仮に裁判官は私生活上の行状においても国民の信頼を得ることが必要だというのであれば、裁判内容によって国民の信頼を得ることはさらに必要かつ重要なことであるはずです。

最高裁判所は最高の裁判をするところでなければならないと国民は考えているはずです。是非その期待に応えて最高裁への信頼を確保してもらいたいと思っています。そして、皆さんには先例主義にとらわれず、自由な発想で未来創造的な仕事をする法律家、行政官になってもらいたいと願っています。

2018年11月 1日 (木)

第279回 裁判官の独立

憲法では司法権の独立に関して、外部からの独立だけでなく、司法内部における個々の裁判官の独立も重要なことを学びます。「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定する憲法76条3項が実効性を持つためには、裁判官が司法行政の統制からも自由であることが必要となります。報酬、任地、昇進などにより統制されるようでは、裁判官が自らの良心に従って独立して裁判などできないからです。もちろん、ここの統制には懲戒処分も含まれます。不当な処分を恐れて裁判官が萎縮するようでは、裁判官の独立、司法権の独立そして司法への国民の信頼は失われてしまうからです。司法権という権力の正統性の根拠は国民の信頼にあります。裁判結果が正しいかどうか誰にもわからないからこそ、公正な裁判がなされるはずだという信頼が裁判所の存立基盤なのです。

2018年10月17日、最高裁大法廷は東京高裁判事岡口基一裁判官に対する分限裁判において全員一致で驚くべき決定をしました。1つのツイッターでのつぶやきを根拠に戒告という懲戒処分を言い渡しました。しかも、非公開で、適切な事前告知もなく、不服申し立て機会も保障されない、適正とは到底いえない手続きでの制裁処分でした。企業内の不当な処分であれば裁判所での救済の可能性がありますが、裁判所による不当な処分ではどうしようもありません。以下が東京高裁長官による懲戒申立て理由です。

被申立人(岡口裁判官)は、裁判官であることを他者から認識できる状態で、ツイッターのアカウントを利用し、平成30年5月17日頃、東京高等裁判所で控訴審判決がされた犬の返還請求に関する民事訴訟についてのインターネット記事及びそのURLを引用しながら、「公園に放置されていた犬を保護し育てていたら、3か月くらい経って、もとの飼い主が名乗り出てきて、「返して下さい」」。「え? あなた?この犬を捨てたんでしょ? 3か月も放置しておきながら・・」、「裁判の結果は・・」との投稿をインターネット上に公開して、上記訴訟において犬の所有権が認められた当事者(もとの飼い主)の感情を傷付けたものである。 被申立人の上記行為は、裁判所法49条所定の懲戒事由に該当し、懲戒に付するのが相当であるので、本申立てをする。

「公園…返して下さい」までが事実経過と原告の主張、「え?…放置しておきながら・・」が被告の反論、改行して「裁判の結果は・・」とツイッターでつぶやいたものです。これを裁判官の「品位を辱める行状」と断じて戒告という制裁をしました。ここには表現の自由、裁判官の市民的自由、適正手続き、司法権の独立など指摘し批判するべき憲法論点が満載です。その中でも特に、この懲戒申し立ての真の理由が、ツイッターをやめるように東京高裁長官から言われた岡口裁判官がそれを拒否したことにあると思われる点に問題の深刻さを感じます。

最高裁に提出された東京高裁事務局長の報告書があります。そこには、東京高裁の長官と事務局長が岡口裁判官を呼び出し、2人からツイートを続けるということであれば、それを前提にして分限裁判を検討せざるを得ない趣旨のことを繰り返し迫られた様子が記載されています。つまりツイートをやめるように言われたのにやめなかったから懲戒申し立てがなされたことがよくわかります。裁判所幹部が権力を笠に着て表現行為の事前抑制をしているのです。表現の自由の侵害であると同時に、こうした強制を世間ではパワハラといいます。職務上の優位性を利用して義務のないことを強制しているからです。これだけ世間ではパワハラが問題になっているのに、エリート裁判官が強要罪まがいのことをしてしまうとは、裁判所がいかに世の中の感覚とずれているかを露呈してしまったようです。

裁判官を官僚的に統制しようとしたけれど、それに屈することなくツイッターで発信を続ける岡口裁判官のような存在を許したくないということなのでしょう。どうも最高裁の守ろうとしているものは、司法に対する信頼ではなく、司法官僚制度そのもの、官僚的統制のように思えます。裁判官全体に、「余計な発言をするな」と恫喝し、その萎縮効果を狙ったのだと思われます。しかし、うるさくて目障りな裁判官を排除することによって司法への信頼を獲得できるとは到底思えません。

裁判官にも市民的自由があります。もちろん、職業柄それが制限されることはあるとしても、表現の自由に関しては特に必要最小限の規制でなければなりません。懲戒処分決定の中で、最高裁は「裁判を受ける権利を保障された私人である上記原告の訴訟提起行為を一方的に不当とする認識ないし評価を示すことで、当該原告の感情を傷つけるものであり、裁判官に対する国民の信頼を損ね、また裁判の公正を疑わせるものであるといわざるを得ない。」としています。前記のツイートがどうしてこのような評価になるのか、明確な根拠も書かれておらずさっぱりわからないのですが、説得力がないことだけは確かです。

懲戒申立て理由にもとの飼い主の感情を傷付けたことも挙がっていました。公開されている判例を紹介された当事者が感情を害することはあることですが、それが懲戒の理由になるというのは解せません。表現行為はときに誰かに不快感を与えてしまうことがあります。私のこれまでの雑感でも読んで不快と感じた人がこれまで何人もいるはずです。裁判官だから他者の感情をいささかも逆なでするような発言は、仕事を離れてもしてはならないとしたら事実上、一切の対外的な発言はできなくなります。もともと表現の自由はある程度の寛容を必要とします。今回の懲戒とは無関係ですが、岡口裁判官のこれまでのツイッターでの表現が不快だという人もいます。自分の好まない表現行為であってもある程度認め合う寛容性のない社会においては表現の自由は死滅します。裁判官は一切の対外的発言を控えて息をひそめて暮らし、とにかく裁判だけに専念しろということでしょうか。

裁判では人間の営みを問題にします。人間生活の多様性を理解できない人に裁判官は務まりません。裁判官も直接、間接の多様な経験を経て、人間について学びを深めていくのです。裁判所外の事象にも積極的な関心を持ち、広い視野と洞察力で理解し、高い見識を備える努力を続け、一市民として社会で生活する中で苦労し、悩みながら生きることによって、人間力を高め、当事者、国民の納得する裁判が可能となるのだと思います。裁判官は判決内容の説得力で評価されるべきだし、多様な裁判官がいていいと思っています。私生活など人それぞれですし、ものの見方も多様でいいはずです。裁判官の私生活上のあるべき姿など最高裁の官僚裁判官に決められるはずもありません。

「裁判官はみなこういうものだと思われてしまうことは非常に問題だ、という判断を最高裁がしたということだと思うし、判断は正しいと思う」という指摘をWeb記事で見ました。仮に多数とは異なる印象を与える裁判官がいたとしても、「裁判官は皆こうだ」とは考えないでしょう。もし市民がそう考えるとしたら、それは市民の側が人間の多様性を理解できていないからにほかなりません。裁判官に対して持つ一定の枠に縛られてしまい、多様な裁判官がいるはずだということを認識できていないか、そこに価値を見出さないということです。

裁判官は裁判外では学術的な発言以外は一切表現行為をするなということであれば、SNSを駆使して表現するべきものを持っている人間にとってはとてつもない苦痛を伴います。よって、その苦痛から解放されるためには表現するべきものを心に持たないという自衛本能が働くことでしょう。つまり、政治を含めて世間の出来事に関心を持たなくなるのです。思想的な内省も、自らの哲学に基づく価値基準も持たない裁判官が育成されていきます。これが裁判所の求める裁判官の中立性ということでしょうか。最高裁が統制しやすくなるのは確かでしょうが、こうして裁判官から市民的自由を奪うことは国際水準から大幅に後退し、民主主義国家として世界から認知されない恐れがあります。そして裁判官自身の市民的自由すら保障されないのですから、裁判の当事者の自由が保障されるという信頼は遠のくと考えるのが合理的だと思います。そして裁判所が政治部門から独立して権力監視機能を発揮し、憲法保障機能を果たせるのか疑問に思えます。

最高裁は、国民の信頼を得ようと岡口裁判官を懲戒したのでしょうが、逆に国民の信頼を失っているように思います。また、こんな理不尽な強制があり、私生活まで統制されるような息苦しい職場はまっぴらごめんだと敬遠する若者も増えてくる気がします。今後、裁判官に任官を希望する修習生は、自らの出世だけを考えて最高裁にひたすら従うヒラメ候補か、こうした司法を放置しておくわけにはいかない、中から変えていこうという高い志を持つ者かいずれかでしょう。もちろん、後者の裁判官を精一杯応援します。岡口裁判官にも理不尽に屈することなく裁判官としてさらに発信し続けてほしいと心から願っています。

2018年10月 2日 (火)

第278回 沖縄と幸福追求権

正直、ほっとしました。沖縄県知事選挙です。8万票ほどの差をつけて玉城デニーさんが当選しました。辺野古新基地建設を強行している政府は自民、公明両党が幹部を送り込み、党を上げてなりふり構わず佐喜真候補を支援していました。組織票では圧倒的に不利でしたし、デマ情報も飛び交い、辺野古問題を争点にしないようにする相手の戦術も功を奏しているとも言われていたので本当に心配していました。しかし、結果は、復帰後の知事選では過去最多票を得ての勝利でした。無党派層の7割が玉城氏に投票しました。辺野古新基地反対、安倍政権にノーを突きつけた県民の誇りと意地を見せてくれました。

普天間基地が世界一危険な基地だから辺野古に移転するのだと政治家がよく正当化します。しかし、嘉手納基地周辺では普天間の30倍もの事故が起きています。その嘉手納を放置しているのですから、本気で県民のために基地の危険性を除去する気があるとは思えません。米兵事件も沖縄全域で起きています。本土復帰後だけでも2017年までに約6千件起きています。年間130件にも上る米兵事件の犠牲を沖縄は強いられているのです。

基地問題だけでなく、自立経済の確立が沖縄の急務であることは確かです。県民の暮らしの厳しい現実は様々な指標からも見て取れます。大学進学率は39%で全国最低(全国では55%)、高校進学率も全国最低、社員の43.1%は非正規社員(全国は38.2%)、離職率も高く、3年目には高卒の約6割、大卒では4割強が離職し転職先を探している状況です。観光業が脚光を浴びていますが、年収100万円以下の低賃金に1万8千人がもがきながら日々を過ごしています。その上待機児童の割合も全国で最悪です。

沖縄はこうした現実をも乗り越えていかなければなりません。新たに生まれ変わるための困難も多々待ち受けていることでしょう。ですが、沖縄は可能性に満ちています。かつての基地依存経済は、基地返還後の跡地利用による商業拠点化、観光地化などにより大きく変貌しようとしています。太平洋のビジネス拠点、東アジアの物流拠点、高齢化社会を見据えての移住者用リゾート、エコツーリズム、医療ツーリズムなどの新しい観光拠点となっていく可能性を秘めています。

ところが、こうした沖縄の発展も沖縄が自分たちで決めることができません。米軍基地問題、最近の宮古島、石垣島などの自衛隊ミサイル基地問題は、沖縄の民意を無視して、「本土の民意」によって負担を押しつけられています。今回の知事選挙によっても沖縄の民意が明確に示されたのですが、国はその民意を尊重しようとする気配を全くみせません。「沖縄のことは沖縄で決める」という当たり前の地方自治の本旨が沖縄ではなかなか実現しません。産経新聞は社説で、「米軍基地を国内のどこに置くかという判断は、国の専権事項」だとし、それに従うのが民主主義の基本だという観点から玉城氏に「防衛の最前線である沖縄の知事である自覚をもってほしい」と述べています。地方自治の本旨や憲法95条の精神など全く無視して、国民の多数が決めたことに地方が従うのが民主主義と言わんばかりです。

ここには、ヤマト(本土)の人間の幸福追求権のためには、沖縄の幸福追求権は無視してもかまわないという発想が見て取れます。その発想は、国民の幸福追求権のためには集団的自衛権行使も必要だという2014年閣議決定、そして自衛権行使を認めるのも幸福追求権のためだという政府の見解にも共通するものがあります。安保の負担は沖縄だけに押しつけてその利益は全国で享受する。それが本土の国民にとっての幸福追求権なのでしょうか。

そもそも幸福追求権(憲法13条)を根拠に自衛権を説明することは正しいのでしょうか。 木村草太教授は、憲法13条後段に基づき、個別的自衛権を行使する自衛隊を合憲とします。同条は、「国民の生命、自由、幸福追求の権利」が「国政の上で最大限尊重される」と定めているところ、「この『文言を素直』に読む限り、日本政府は、犯罪者やテロリストからはもちろん、外国からの武力攻撃があった場合も、国民の『生命』や『自由』を保護する義務を負っている。外国の武力攻撃を排除するには、外国に対する実力行使すなわち武力行使が必要になる場合もあろう。」とされ、「『憲法13条で、憲法9条の例外が認められる』という解釈は、憲法の文言の『素直』な理解であり、帰結も『自然』である。また、多くの『国民の理解』もある。」(2016年7月2日 現代ビジネス「いまさら聞けない『憲法9条と自衛隊』~本当に『憲法改正』は必要なのか?」より)と結論づけています。

この説明は、戦力不保持規定をもたない国の、軍事力の実質的根拠の説明としては説得的かもしれません。しかし、悲惨な戦争を経験した日本国民は、自らの生命・自由・幸福追求、ひとことでいえば自らの個人としての尊厳を確保するために、あえて、9条を日本国憲法のなかに規定しました。外国からの武力攻撃を排除するための武力行使を13条で根拠づけることを9条の存在自体が否定したのです。仮に国に国民の幸福追求権を実現する義務があるとしても、それは軍事力以外の方法によることを9条は国家に義務づけていると解すべきなのです。

そもそも13条は本来的には、国家に対して、国民の幸福追求権を侵害することを禁じている自由権規定であり、社会権規定のように国家に幸福追求権を実現する作為を義務づけているものではないはずです。仮に国民の幸福追求のために国家はどんな行動をとることも許されるというのであれば、国民の幸福追求のために、海外での軍事行動も許されることになってしまいます。自存自衛のための戦争すら国民の幸福追求のためとして肯定されることになることでしょう。日本を取り巻く安全保障環境の変化によって、国民の幸福追求のために必要だからという理由で、集団的自衛権行使容認の閣議決定や法律制定が行われました。13条を根拠に自衛権を基礎づけるとそこには何の歯止めもかけられません。そして、国民の幸福追求のためだという理由で人々の人権を制限することも可能になります。13条は政府にとっては、国民の自由を制限するときにまことに都合のいい規定にもなってしまうのです。同じ理屈で、本土の幸福追求権が沖縄の幸福追求権を侵害してしまうのです。

国家に国民の幸福追求を支援する責任があるとしても、あくまでも憲法9条の枠内でそれを実現することを憲法は要求しているのです。13条があることは戦力を持つことの決定的な理由にはなりません。それと同じく、外交防衛が国の専権事項だからといって、本土が決めたことに沖縄という地域が無条件で従わなければならない理由もありません。地方自治の本旨(住民自治・団体自治)という憲法上の歯止めがあるはずなのです。

今回の知事選では、米軍統治下の沖縄で米兵を父に持つ母子家庭で育った玉城氏が、多様性の尊重を訴えました。独自の子どもの貧困対策も実体験に基づくもので説得力がありました。これまで歴代の沖縄知事は本土からの無知、偏見、不条理と闘ってきました。玉城知事には多様性への無知、偏見からくる攻撃もあることでしょう。負けないでほしいと思います。多様性を認め、一人ひとりの個性に応じた幸福追求権を保障することこそが憲法価値の実現につながります。本土の一市民として玉城知事の多様性尊重の姿勢を支持、支援し続けていきたいと思っています。

2018年9月 3日 (月)

第277回 変化

1995年に伊藤塾を立ち上げ、最初の雑感で私が期待する法律家について書きました。今でも、その考えは変わっていません。ですが、そこに最近はもう一つ付け加えるべきだと思っています。それは変化に対応する力を持った法律家です。何を今さらと思われるかもしれませんが、変わらぬ社会などないからです。

私が弁護士になったころ、法学部生ならどこの大学でも一度は司法試験を考えたものです。中央大学、早稲田大学からの合格者が多く、慶應義塾大学は経済学部は有名でしたが、法学部は正直司法試験合格者の数では今一つの状況でした。それが現在、司法試験合格者数では慶應義塾大学法科大学院も慶應義塾大学も他の私大を圧倒しています。

慶應義塾大学は法科大学院が議論され始めたころに、どこの大学よりも先に私を学内のシンポジウムに呼んで話を聴いてくれました。受験指導をしている私を敵視することもなく、法科大学院がどうあるべきかを謙虚に真剣に考えるためにしっかりと受験の現状を知ろうとしてくれました。憲法の小林節先生などは憲法9条の考え方に違いがあるにも関わらず、私を大学院の演習の講師として8年間も呼んでくださっただけでなく、法学部法律学科1年生全員が必修となっている憲法の授業の貴重な1回を使って、毎年私に「法曹への道」という講義をさせてくださいました。受験指導を色眼鏡で見て実態も知らずに批判ばかりする大学教授が多い中で、慶應義塾大学の先生方の対応は異色でした。

司法試験の制度が変わる、大学も変化する。よいものは取り入れる。伝統を重視しながらも変化に対応してきた慶應義塾大学は、法曹養成の世界では圧倒的な実績を出すことに成功したのです。変化に対応できたよい例だと思います。大学も企業も変化に対応できたところは成功しています。法律実務家の世界でも同様です。弁護士の仕事の仕方も変わりました。多くの論文や判例を覚えていて豊富な知識がある人が評価される時代から、ネットなどを活用して必要な情報を迅速に収集し、それをいかに効果的に活用することができるかが求められる時代になりました。

さらに、人工知能の時代になればより一層、柔軟な思考によって変化に対応して仕事の仕方を変えていけるかが求められるようになるでしょう。一度決めたら変えられない人や会社、組織、職業などは、どんどん淘汰されていくに違いありません。国も同じです。

沖縄県知事選が注目されていますが、辺野古新基地建設問題は依然として大きな課題です。本土と沖縄の間に刺さっているトゲのようなものです。1960年代後半の米軍海兵隊新基地建設構想が今蘇り、日本国民の税金で米国の軍事要塞が建設されようとしています。米軍駐留経費の約75%を日本が負担しているといわれますが、冷戦を前提にした日米安保体制が永久に変わらないという前提があるようです。辺野古では軟弱な海底地盤や危険な活断層も見つかりこれまでの計画では進められないことがわかっても、基地建設を強行しようとしています。時代も変わり、日本を取り巻く安全保障環境も変わり、自然環境への対応も変わっているにもかかわらずです。人々の価値観、近隣諸国との関係性も変わるのですから、いつまでも過去に囚われていては未来がないと思うのですが、変われないようです。

私は中学時代に2年間ほどドイツで生活をしました。当時の西ドイツにいましたが、ベルリンにも行ったことがあります。高い堅牢な壁によって分断されており、自分が生きている間にはこの壁はなくならないだろう、ドイツ統一もまったく見えないし、東西冷戦などけっして解決しないと思えました。ところが1989年12月ベルリンの壁は崩壊しました。自分にとってはあり得ない変化でした。あれだけ変わることがないと思っていたものが大きく変化した経験は私の中では貴重な教訓になっています。変わらぬものなどない。人間同士と同じく国同士の緊張関係も変化するものだと確信したのです。近隣諸国との関係を従来の価値観に囚われていつまでも変わらないものと思いこむ愚かさを実感したのです。

冷戦の終結によって仮想敵国であったソ連が崩壊したのですから、当然に自衛隊の任務も米国の軍隊も変化し縮減するだろうと思っていました。そうしたらまた新しい敵を想定してさらに増殖し始めたのです。こういう変化の仕方もあるのかと感心しました。組織を維持することが目的であればそれは正しいことなのでしょう。しかし、軍事組織も手段にすぎません。組織防衛に走りその存続が目的となってしまったのでは本末転倒です。

そういえば、来年度予算概算要求で防衛費が5兆3000億円にのぼり過去最大だそうです。安倍政権になって増え続けていますが、GDP比2%つまり11兆円まで増やそうというのですからまだまだ足りないのかもしれません。電磁波による健康被害も懸念される地上イージスや最新戦闘機など巨額な武器購入経費が膨らんでいるようです。立派な武器を持っていれば安心という時代遅れの発想に驚きます。感覚としては大艦巨砲主義に陥って敗北した過去から何も学んでいないように思えます。軍事の専門家だけでなく政治家もソフトパワーへの移行という発想の変化についていけないのかもしれません。

他方で教育へまわす予算はOECD参加国中で最低といわれます。地上イージス2基2352億円あれば月3万円の給付型奨学金が65万人分まかなえます。このまま教育への投資を怠っているとますます優秀な研究者が海外へ流出し、国民・市民の基礎学力が低下し、高価な武器を使いこなすことができる自衛官がいなくなってしまうことに気づかないのでしょうか。外国人留学生や研修生を手厚くフォローし、在留外国人の子どもたちへの日本語教育を充実させ、日本のよき理解者を増やすことが、一番の安全保障のはずですが、まったく逆へ向かっているようです。

変化に対応できずに絶滅していった恐竜や、時代に対応できずに淘汰されてしまった大企業は数えきれないほどあります。大きさや力の強さが生き残りを決めるのではありません。変化に対応できるか否かなのです。国家も同様です。本当の愛国心とは何かを考えさせられます。公務員を目指す塾生も、法曹を目指す塾生も、自分の中の価値基準をしっかりと持ちつつ、時代に対応して変化できる柔軟性を併せ持つことを目指してください。期待しています。

2018年8月 1日 (水)

第276回 存在価値

自民党の杉田水脈議員が月刊誌に寄稿した内容が話題になりました。「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。」という部分が主に批判されたようです。この発言に対して、自民党の二階俊博幹事長は記者会見で「人それぞれ政治的立場、いろんな人生観、考えがある」と述べ、問題視しない考えを示したそうです。本人も党のこうした考えを自民党の懐の深さとツイッターで評価しています。

杉田氏の発言の是非については、憲法を学んでいる塾生の皆さんにはあえて言うまでもないことでしょう。憲法14条の法の下の平等も問題になりますが、それ以上に13条の個人の尊重、多様性の承認の観点から問題がある発言です。ちなみに、多様性について、杉田氏は「多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません」と述べています。一瞬なるほどと思ってしまう人もいるかもしれませんが、これに対しては、同性婚との共通点と相違点を指摘すればすぐに批判することができます。法的思考の基本ですね。

ですが、二階幹事長の発言はどうでしょうか。多様性を否定する発言を許容することが政党の懐の深さなのでしょうか。多様性を否定する発言を、多様性を根拠に肯定することができるのか。この疑問はいろいろなところで同様の疑問を生みます。文化多元主義を否定するような文化も1つの文化として尊重するのか、価値相対主義を否定する考えも相対主義の観点から許すのか、絶対的な正義などなく正義は多様であるから、ナチスの正義も肯定するのかなど、同じような問題です。

ニヒリストではない相対主義者にとって相対主義は絶対的なものです。したがって、相対主義を否定する言動に対しては批判的になります。それは自分が正しいと主張するのではなく、絶対的な価値を他者に強制することがおかしいと批判しているのです。法律は「べき論」(sollen)、主張の世界です。日本国憲法の下の政党は、憲法価値を実現するために政策を実現するべきです。国会議員は憲法99条で憲法尊重擁護義務を負っているからです。よって、自民党も憲法13条が保障する多様性を確保する方向で政策を実現していかなければなりません。今回は「いろんな人生観がある」といって逃げるのではなく、党としての立場を明確にするべきでした。

そういえば、2007年第一次安倍内閣の柳澤伯夫厚生労働大臣が「女性は子どもを産む機械」という趣旨の発言をしたことを思い出します。男女平等ランキング世界114位の国の政権与党の体質が現れているようです。いくら女性の活躍を謳ってもこれでは説得力がありません。LGBTの皆さんを生産性で見たり、女性を子供を産む機械に例えたりする発想はどこからくるのでしょうか。この問題を差別や多様性とは別の「存在価値」という視点で見ると問題のもう一つの本質が理解できます。

世の中には経済的な価値、つまり貨幣価値と交換するときにどれほどの価値があるかという物差しがあります。資本主義経済の中で生きる私たちにとってこうした交換価値はとても重要な意味を持ちます。どれだけ役に立つかという視点と考えることもできます。

しかし、世の中には交換価値では測れない「存在自体の価値」もあるのではないでしょうか。たとえば、命はそこに存在するだけで価値があるというようなことです。人の命は何かの役に立つから価値があるのではなく、代替性のない一回性のものとして存在するだけで価値があるのです。自分の命、他者の命がそこに存在すること自体に価値があることを認めようという考えが憲法の基本だと理解しています。

豊かな人も貧しい人も、健康な人もハンディキャップのある人も、人種も宗教も年齢も性別も一切関係なく、そこに個性を持った一人の個人として存在する限り、かけがえのない価値があるのです。凶悪犯も問題行動を起こす子どもも含めて、誰をも個として尊重する。これが憲法13条の個人の尊重です。

法律家や行政官としていい仕事をして、相応の対価を得ることは重要なことです。ですが、それと同時に私たちの世界には、存在するだけで価値があるものもあるのです。そこでは生産性とか効率性という評価基準が妥当しません。その存在価値は経済的価値に交換できません。こうした価値についてもっと私たちは意識をするべきではないのかと思うのです。

ところで、皆さんには「ふるさと」はありますか。8月には故郷に帰省する方もいることでしょう。沖縄慰霊の日(6月23日)に中学3年生の相良倫子さんが「生きる」という詩を朗読し感動を呼びました。「私はこの瞬間を生きている」と自分の言葉で命と時間への想いを込めて語りかけるだけで、どれだけ心に響くものかを実証してくれたような気がします。沖縄の皆さんたち、とくに戦争を経験してきたおじい、おばあにとっては、こうした若い命の存在、そして沖縄というふるさとの存在自体が尊い意味を持っているようです。

きれいな空気、陽光、大地、湧水、降雨、その地域固有の自然環境、地域を支える歴史、文化、人間同士のつながりの総体を「ふるさと」と呼ぶとすると、これらは代替できないものであり、経済的な交換価値はないけれど、その地域に住む人々にとって高い存在価値を持つものといえます。その地域に長年住み慣れた人にとっては、自分という存在自体を支えているものであり、自分自身の一部となっている。自分と切り離されがたく、固く結びついていて、その人固有の人格と一体的なものとなっているのです。ふるさとを愛する人にとっては、自分自身を支えて自分の人格の核心を作り上げているものであり、「ふるさと」を奪われることは自分自身の一部を奪われるほどの喪失感を覚えることになるのです。

人間は環境の外に環境と対峙して存在しているのではなく、自然、社会、歴史、人間関係の網の目の中で相互に密接に作用しながら生きている。環境は私達の外にあるものではなく、私達と環境は不可分一体です。つまり、その地域固有の自然、歴史、文化、人々のつながりは、そこに生きる人たちの人格と密接に結びついていて、自分のアイデンティティー(自己同一性)そのものといえます。「ふるさと」という自然、歴史、文化、人々のつながりを含む環境は、決して奪われてはならない人格的権利であり、法的保護利益です。憲法13条が国に要請しているのは、こうした代替不可能な「ふるさと」を持つ個人としての尊重だと考えます。

こうした「ふるさと」を汚染し、人々からかけがえのない固有の環境を奪う原発は、「ふるさと」を回復できる技術(除染技術等)が開発されない限り、稼働することは許されません。どんなに金銭賠償・補償をしても回復できないものを奪う危険が残る以上は、原発の存在、稼働を認めるべきでないと考えます。「ふるさと」のように、失って再び取り戻すことができないものを失ってしまうようなリスクは極力避けるべきです。

愛国心とか郷土を愛せという人たちが、差別発言を容認したり、原発を推進したりすることは矛盾している気がしてなりません。よほど交換価値が重要なのでしょう。天皇制も何かの役に立つから必要だと考えているのではないかと心配になります。

一度失ったら取り戻すことができないという点では「ふるさと」も憲法9条も同じです。最近は、憲法9条が存在すること自体に価値があるように思えてきました。夏は戦争を振り返ることが多い季節です。様々なことの存在自体の価値についても思いを巡らせてみてください。

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2018年7月 1日 (日)

第275回 多様性その2

サッカーワールドカップの結果が気になって勉強が手につかなかったという人もいたと思います。結果はどうあれ、こうした本気の勝負は私たちに様々な話題を提供してくれます。日本チームの活躍に対して前評判との違いから手のひら返しという表現も使われました。他人の評価は本当にあてにならないものです。

プロフェッショナルとは、他人の評価などにふりまわされず、自分の仕事をすることだけに集中できる人たちであることを教えてくれました。予選リーグ最後のポーランド戦で、西野監督率いる日本チームは0-1で負けていたにもかかわらず、最後の10分を時間稼ぎのボール回しに終始しました。勝ち点等で並んでいたセネガルにフェアプレーポイントで勝り決勝トーナメントに進出できそうだったので、そのまま無理に攻め込んで危険を招くことを避けたのです。選手の体力温存という目的もあったかもしれません。

この戦い方については賛否両論あったようですが、私はここで「優先順位付け」と「ゴールからの発想」の重要性を再認識しました。あの場面でチームにとって重要なことは、観客を喜ばせることでもなく、力を出し切ったという自己満足でもなく、ベスト16のトーナメントに進むことでした。会場のブーイングも含めて、たとえ見ている人が不満であってもそうした周りの目を気にすることなく、そこでの目的を明確にしてそのために最善の選択をすることがプロには求められます。様々な不確定要素を考慮に入れた上での瞬時の決断で真価が問われるのです。

しかも、ベスト16に進むことは、それ自体が目的なのではなく、その先を見据えたときに必要な過程にすぎないという全体観もチーム全体で共有できていたのだと思います。従来から日本サッカー界は将来のワールドカップ日本開催、日本優勝を明確なゴールとして見据えてその準備を進めてきました。2050年優勝、2030年ベスト4という中間目標も設定しているそうです。そのためには何としてもベスト16に入り、トーナメントを数多く経験しなければならない。世界の強豪チームが本気で戦い、しのぎを削る厳しい戦いの中でしか得られないものがあるそうです。そこでの失敗も含めた経験を次に活かして目的を達成するという壮大な計画があるのです。ベルギーは2009年には世界ランク66位でしたが今は3位にいます。人は実現不可能な夢を思い描くことはありません。

2050年優勝というゴールからの発想、そして一歩先を考えることは、勝負の世界、プロの世界では常識なのでしょう。それを淡々と実践することができるのは、世界で多様な経験を積んできた選手の身体にその重要性が刻み込まれているからかもしれません。

私も45年以上前、ドイツにいるときに、「落ちているボールを見つけたとき、日本人は拾って投げるけど、ドイツ人は必ず蹴る」と言われるほどサッカーが日常生活の一部でした。ベッケンバウアーやミュラーに憧れるドイツの少年達とサッカーをしながら同じルールの下でもこんなに闘い方が違うものかと感心したものです。思えばそこで多様性を学んだような気もします。

ルカク選手をはじめとしてベルギー選手の半数は外国にルーツを持つそうです。まさに多様性がチームを強くします。言語、文化、慣習などが同じ方がチームとしての一体性が増して強くなるような気がしますが、むしろ逆です。多様な個性がぶつかり合いながら、それぞれの強みを発揮して、明確な1つの目標に向かうことが世界水準の強いチームづくりには欠かせません。日本人選手も海外で活躍し多様性を経験してきた選手がずいぶんと増えました。

多様性は日本の社会全体にとっても大きなメリットをもたらします。そのことが「個人の尊重」を規定する憲法13条によって70年以上も前に先取りされています。多様性(diversity)はスポーツでも企業でも国家でも同じように必要な要素です。強靱な組織作りの前提なのです。「個人」を否定し「天皇を戴く国家」として同じ方向を向いた同質的な社会をめざそうとする2012年自民党憲法改正草案は、とても日本の未来を考えたものとはいえません。もういい加減取り下げてほしいものです。

多様性を実感すること、これはどこで活躍する人にとっても重要なことだと考えます。法律家も行政官も日本国内の水準で満足することなく、世界を視野に入れて活躍できる人材になってほしいと思っています。多様な経験から得た知性は本物になります。日本の司法試験、公務員試験など過程にすぎない。その先での様々な経験を目指して一歩先を見据えながら、まずは目の前の目標を達成すること。そのために優先順位を明確にして、周りの目など気にせず、今やるべきことに集中してください。必ず世界水準の人間に成長できます。

2018年6月 1日 (金)

第274回 手続的正義

国家公務員試験、司法試験は終わり、これから司法書士試験、予備試験論文、行政書士試験が行われていきます。各種試験において実力者が合格するのであれば、試験の公正な手続きなどどうでもいいと思う人はいないでしょう。誰が合格すべき実力者かわからないからこそ試験という適正な手続きが必要となるからです。

最近、いつまで「モリカケ」(森友・加計学園)問題で騒いでいるんだ、という意見を聞くことがあります。確かに1年以上前から、取り上げられてきましたから、いらつく気持ちも分からないではありません。しかし、この問題は国民主権や民主主義とは何か、さらに言えば「デュー・プロセス」(適正手続き)の理解と深くかかわり、極めて重要だと考えます。

公文書の扱い方は国家のあり方そのものです。公文書の扱い方が、民主国家、文明国家と言えるのかどうか、ということの重要な試金石となります。国家のありようそのものの問題であって、どんな政策を実現するのか、という以前の問題です。国家のあり方、意思決定の仕方の枠組みがきちんとできて初めて、その中でどういう政策を実現するのかを問題にすることができるからです。

 物事を意思決定するための手続きは、そこで何を決めるのか、という問題よりも先に確立しておかなければならない問題です。なぜなら、そこで決めること、例えば政策などは、それが正しいか誤っているかはその時点で判断できないからです。何が正しいのかは歴史が後で評価すべきことなのであり、もし、その時点で絶対的、客観的に正しいということが分かるのであれば、民主主義などの面倒な手続きはいりません。その「正しい」ことに従えばいいだけです。

民主主義はその時点において、何が客観的に正しいことなのか分からないからこそ、そこでさまざまな情報に基づき、議論をしてとりあえず物事を前に進めるための手段です。私たち人間は情報や雰囲気に流され、その時々で正しい判断ができないことがあります。だから少数意見も配慮した十分な議論を経たうえで決定する民主主義の手続きが必要になるのです。後にその判断が誤っていたとわかったときには、その原因を明らかにして修正します。こうしたダイナミックなプロセスが民主主義であり、そのためには適正な手続きと、後世のための検討資料を正確に残しておくことが不可欠です。その民主主義の基盤や手続きをないがしろにした上で重要な案件や政策を進めていくというのは本末転倒です。

では、「民主主義の手続き」とは何でしょうか。 まず憲法の下では国民が主権者です。国政の最終決定権者は国民であるということです。政治家や官僚ではありません。よって、国民が必要十分な情報に基づいて、意思決定することができる仕組みが欠かせません。

もちろん、国民の代表者たる政治家が一時的には政策決定します。しかし、その一時的な意思決定が正しかったかどうか、後に国民が吟味して検証し、間違っていたら是正させる、あるいは議員を交代させることによって国民の意思に従わせるというプロセスが民主主義です。したがって選挙の過程で、正しい情報が国民に知らされることが主権者国民にとっては決定的に重要です。選挙は正しい情報を主権者が得ることで初めて意味を持ちます。

ところが、選挙の際に判断に必要な重要情報が出てこなかった、改ざん、捏造、隠蔽されていたとなると、国民が国政の最終決定権者として、選挙権を正しく行使できません。言葉を換えれば、政治家や官僚が政治のイニシアティブを握る、主権者になっているのと同じことです。選挙で判断するために正確な情報が提供されることは民主主義の大前提なのです。

現在の日本はこうした民主主義の前提が危うくなっているように思えます。 「モリカケ」問題の根底には、だれが国政の最終権利者なのかについての考え方の違いがあるのではないでしょうか。「モリカケ問題をいつまでやっているのか」という人たちは、政治の意思決定は政治家や官僚が下すものであって、国民はそれに従えばいい、という価値観があるように思われます。要するに「愚民」として国民を見ているのです。一般大衆である国民の声に従って政策を決めていくと、まともな行政はできない。だから政治家や官僚がよかれと思うことに国民を従わせることが、この国の正しい姿であると考えているのではないでしょうか。まさに「由らしむべし、知らしむべからず」です。

国民のためにいい政治をやっている、特区を作って経済発展させてやるので、それは必要なことなのだ。文句を言わず黙ってついてこい、ということなのでしょう。権力者目線でものを見ると、そういうことになります。

もちろん、国民が判断し、国民の声に従って判断しても、それが常に正しいわけではありません。そこで、間違いを次に正し、よりよいものにしていくのが国民主権、民主国家の筈ですが、今回のやり方はその否定です。そんなまどろっこしいことはやってられない、政治家や官僚が自分たちの正しいと思うことを実行し、国民はそれに従っていればいい、という考えが前提になっているように思えるのです。

しかし、本来、国民が主権者の民主国家であれば、そうはならないはずです。あくまで国民・市民の声を吸い上げて政策として実現していくのが国民主権国家、民主国家のありようです。その結果の判断が、一時的に間違っていれば、後で正せばいいのです。その場合、何が、どのように、なぜ間違ったのか、その政策決定の過程を記録に残しておくことは次の政策判断のためには不可欠です。

仮に政治家や官僚が国政の最終決定権者というのであれば、自分たちが意思決定できればそれで十分なので、国民に情報を提供する必要は全くありません。国民に示さない情報はそもそも、公文書として作る必要もないし、保管し、開示する必要もありません。自分たちの政策決定に影響がなければ、それで構わないことになります。

自分たちの意思決定に影響を与えるものは「公文書改ざん」として問題にするかもしれませんが、既定路線や結論として決まっていることであれば、むしろ推進することこそが重要なのであって、それと関係ないことは重要な事柄ではないし、書き換えることが問題とも思いません。文書に記録しようが改ざんしようが問題じゃないのです。なぜなら自分たちの意思決定に影響を与えないからです。そんなものは些末な情報だ、ということになります。そうであれば、公文書を「改ざんしている」という意識すらないでしょう。

今日、政府で起こっている記録のぞんざいな扱い方を見ると、国民に判断してもらおうという意識はないと思われます。本来の民主国家であれば、記録に残し、後で国民の判断材料にしてもらおう、という考えが生まれますが、国民を判断権者と見ていないから公文書の扱いがぞんざいになるのです。

逆に国民を決定権者として尊重するのであれば、意思決定に影響する全ての情報は国民のものである、という大原則に基づいて行動することになります。情報の重要性を自分で勝手に判断せず、迷ったら記録します。国家の情報は原則、国民の情報なのです。官僚や政治家の私有物ではありません。これが国民主権国家、民主主義国家の原則です。これが理解できていれば、官僚が「これは重要な情報」「これは単なるメモ、手控え」と勝手に判断して廃棄することなどあり得ません。もちろん、その情報をその時々で公開できるかはまた別です。安保・外交などに係わる秘匿すべき情報もあるでしょう。しかし、それは後にルールに従い、公開して後世の国民の判断材料とすべきものです。

「こんな問題いつまでやっているのか」と発言する人たちも、官僚や権力者の立場に立ってモノを見ています。「正しい判断は自分たちが下すのだから、いつまで何をぐずぐず言っているのか」ということです。ですが、それは違うのです。官僚のみなさんが自分たちがよかれと思っても、それが正しかったのかどうかを最終的に判断するのはあくまで国民です。それが国民主権国家です。そう考えると、この問題はその国のありよう、だれが主権者なのか、という根本的な考えの違いが表れている問題だといえます。

米国連邦憲法の起草者の一人であるジェームズ・マディソンがこんなことをいっています。「人民が情報を持たず、情報を入手する手段を持たない人民の政府は、喜劇への序章か悲劇への序章に過ぎない。」「知識を持つ者が持たない者を永久に支配する。自らの支配者であらんとする人民は、知識が与える力で自らを武装しなければならない」。「知識」は「情報」と言い換えてよいでしょう。逆に、国民を主権者にしたくない人は、国民に情報を与えないようにします。「情報公開」というと新しい概念のように聞こえますが、既に240年も前にマディソンはこのようなことを言っているのです。

残念ながら日本では、手続きの重要性は浸透していません。刑事裁判でもそうです。例えば真犯人なら自白を強要してもいい、といった風潮があります。テレビの刑事ドラマを見るとわかります。否認していた被疑者にひどい言葉を浴びせながらも自白を引出したりすると「名刑事だ」と評価されたりします。日本では、刑事手続のプロセスの重要性が理解されていないことを示しています。

このように手続きに従うことの大切さが理解されていないことが、今回の問題、国会での議論の大前提になる「情報を開示する」「記録を残す」という根本が問われる問題を過小評価する識者や国民の声につながっている、と見ています。そして国民投票手続の公正さに大いに疑問があるにもかかわらず、改憲の中身の議論ばかりが先行してしまうのも、同じ問題だと思っています。 人権保障の歴史は手続保障の歴史であったことを思い起こすべきです。法律家や行政官は、手続的正義を実現するために存在するといっても過言ではありません。皆さんに期待しています。

2018年5月 1日 (火)

第273回 民主主義と品性

朝日新聞のある論考で、品性と品行の違いを読み考えさせられました。「人間は少しぐらい品行は悪くてもいいが、品性は良くなければいけないよ」とは日本映画の名匠小津安二郎の言葉だそうです。刑法で学ぶ、「行為は客観と主観の統合体」という言葉が思い出されます。すべての人の行動は、どのような思いで何をするかが重要なのです。

昨今、品性が卑しいのではないかと思えるような、身びいきの蔓延、権力の私物化、見苦しい言い訳、言行不一致などがこの国の中枢で起こっています。財務官僚や自衛隊、自民党政治家らによる情報隠し、不祥事、不適切発言がこんなにも繰り返されることは今までありませんでした。国会に提示される情報に嘘があったのですから、国会がまともに機能しなくなるのは当然の結末です。国会には審議すべき重要案件が多くあるのだからといって、こうした問題を些細なことと過小評価する人がいますが、民主主義の基本がわかっていないようです。

ゴタゴタする日本のことなど全く眼中にないかのように、北朝鮮と韓国のトップが握手をして両国の未来をしっかりと語りあったようです。そもそも分断国家の原因を作った日本は、本来ならば重要な役回りを演じることができたし、するべきだったのに、国民の関心を拉致問題に矮小化し、今回の南北対話においても全くの蚊帳の外で、北東アジアにおいてなんの存在感を示すこともできていません。

朝鮮半島での南北和解、統一など夢のまた夢と考えていた人もいることでしょう。ですが、歴史はどんどんと前に進みます。昔ながらの軍事力に依存してものを言わせる国づくりから、そろそろ脱却しなければなりません。いつまでも19世紀、20世紀型の強い国をめざしていると、あっという間に取り残されるようです。

南北首脳会談ではパフォーマンスばかりで具体的な核廃棄に向けてのプランが示されていないと批判する声もありますが、それはトランプ大統領の手柄に取っておくつもりなのでしょう。少なくとも対話は始まりました。言葉による解決の糸口はできたのですから、素直にその一歩前進を喜ぶべきでしょう。3歩進んで2歩下がることがあったとしても、「ゆっくり急げ」です。核兵器、生物兵器、サイバー兵器などが生まれている現代においては、紛争解決に必要なものは軍事力ではなく対話なのです。

安倍首相は「対話でない。圧力だ」と言い続けました。対話を否定するその態度は、常に自分の考えが正しいという思い込みが原因のように感じます。昨年5月3日の改憲に向けてのビデオメッセージにおいても、「『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきであると考えます」といっています。どんな問題でも議論の余地くらいはあってもいいと思うのですが、議論の余地すら認めないという言動に、いかに議論が重要で民主主義社会の根幹であるかを理解しようとしない品性が現れています。

立場の違う人々が、十分な情報に基づいてしっかりと本質的な議論をすることによって、双方とも気づいていなかったような、より高い次元での解決策や発想が見いだせるはずだという人間の知的営みへの敬意が感じられないのです。

民主主義は自分の考えとは異なる相手の話をよく聞くという態度、自分の考えが間違っているかもしれないという謙虚な姿勢が根底になければ成り立ちません。どんなに強い言葉で相手を批判したとしても、心の中ではそうした謙虚さが必要なのです。その意味では、当事者に品性が必要不可欠だと言えるのかもしれません。

公文書は私文書に比べて社会での信用性が高いから、刑法でも公文書偽造の方をより重く処罰しています。ところがその公文書が、重要な記録として必要なものなのに「そもそも作らない」、「これは公文書ではない」と言い張る、実は「あるのにない」と言い張る。挙句の果てに政治家の発言に合わせて改ざんする。こうした言動には官僚としての誇りや品性がまったく感じられません。これでは公文書への社会的信用は地に落ちます。

「自衛隊を憲法に書き込んで文民統制を働かせればいい」という主張を聞くこともあるのですが、日本は軍事力どころか通常の行政権すら民主的に統制できていないのです。現実を踏まえて、文民統制など夢物語だとしっかりと自覚するべきでしょう。

「この国民にしてこの政府」、「どんなすばらしい憲法もその国の国民以上にはなりえない」 こうした警句が指摘するように結局は国民次第ということなのかもしれません。民主主義とはすべてが国民自身に帰ってくる制度です。自分たちの品性がそのまま代表者に反映し、それが国の品格を決めてしまっているのかもしれません。自分の品性が卑しくなっていないか、常に自分自身を冷静に見ることを怠ってはいけないとつくづく思います。

2018年4月 2日 (月)

第272回 散る桜

渋谷の伊藤塾の前の桜も華やかに咲きほこり見事に散っていきました。 「散る桜、残る桜も散る桜」これは良寛和尚によるものとされていますが、受け止め方は様々のようです。特攻隊員の遺書をイメージする人もいますし、命のはかなさを感じる人もいます。どうせ散ってしまうのだから頑張って咲き続けていても無駄だと考えるのか、同じように散るのであれば、美しく咲いていたいと考えるのか、とらえ方は人それぞれです。

誰もが生まれた瞬間から死に向かって歩み続けているのですから、命の意味や長さを問うことはむなしいようにも思えます。ですが逆に、だからこそ命の質を高めるという選択も可能です。今を大切にする、一瞬一瞬を懸命に生き抜くという選択は、あえて苦難の道を選んでいるようで、最近はあまり人気がないのかもしれません。ですが私はあえてそうした生き方を選択した人を尊敬しますし、そういう生き方をする人たちから学びたいと思っています。

最近、司法試験のガイダンスで言っていることがあります。予備試験合格者がなぜ就職において圧倒的に有利で、かつ実務における評価が極めて高いかについてです。合格率4%の試験に合格しているのだから当然でしょうという人がいますが、単に勉強ができるからという理由ではないと思っています。

昔の司法試験は合格率数パーセントでした。その時代に合格した先輩たちが自分と同じように難しい試験を突破してきた予備試験合格者に親近感を抱くからだという人もいます。自分と同類と感じるということのようですが、それは難関を突破してきたというプライドを共有できるという偏狭なことではなく、賢明な常人なら避けるであろうリスクをあえて選択し、これに挑戦するある種の「変わり者」という評価を共有できることが理由だと思っています。

もっと楽な道があるのに、あえて困難な試験に挑戦し苦難の道を選択した。そのこと自体に価値があると考えているからなのです。大学の授業をしっかり聞いていればロースクールには入学できる、そして司法試験は25%ほどの合格率で合格できると言われれば、普通はあえて困難な予備試験に挑戦しようなどとは思わないでしょう。フルタイムで仕事をしていて、同僚は飲み会やゴルフで余暇を過ごしているのに、仕事が終わった後にあえて予備試験に向けての講義を聴こうなどとは普通のビジネスパーソンは考えないでしょう。

ですが、あえて、その困難な選択をしたのです。しかも、勉強を開始したからといって、100%確実に合格できる保証などありません。結果が保証されていないのに挑戦し、不安と向き合いながら勉強を続けてきたのです。これは相当な「変わり者」です。困難な試験に合格したということは、このような困難に挑戦する気概があり、不安を克服し、結果が保証されない目標に向かって最大限の努力をすることができるということの公的な証明なのです。

こうした「困難に挑戦し努力を続ける能力」は、実務家にとって決定的に重要なものです。だから予備試験合格者は高く評価されるのです。仮にロースクールに進学したとしても、あえて困難な予備試験に挑戦して勉強してきたことで精神的にも成長し評価されます。これが伊藤塾で予備試験をめざして勉強することをすすめる理由なのです。

予備試験を例にしてきましたが、このことは公務員試験でも、司法書士試験でも行政書士試験でも同じです。困難な試験にあえて挑戦する中で鍛えられ、実務の世界で活躍するために必要な強靭な心と頭を作り上げていくことができます。伊藤塾出身者が実務の現場で高く評価されている理由の1つです。

オリンピックなどのスポーツの世界では、不利な状況から逆転して勝つ人がいます。その力の源はどこにあるのでしょうか。私は圧倒的な練習にあると思っています。誰よりも練習した、だから負けるはずがないという自信です。世界の誰よりも練習してきたという事実から、自分を信じる力が生まれてくるのです。勝ちたいなら誰よりも努力すること。それだけのことです。

圧倒的な強さは圧倒的な練習からしか生まれない。皆さんは圧倒的な勉強をしていますか。時間の問題ではありません。勉強の質であり、思いの問題です。合格したい、合格して実務で活躍したいという圧倒的に強い思いとそれを実践する覚悟です。どんな試験でも最後まで諦めなかった人が合格していきます。そして、もうひとつ大切なことがあります。ワクワクする気持ちです。試練の厳しさを楽しむくらいの気持ちがある方がうまくいきます。

散る桜を見て何を思うかは人それぞれです。ですが、舞散る花びらという派手な見かけの裏ではちゃんと力強い命は続いているのです。散る桜に惑わされず、堂々とした佇まいや新緑から、明るい初夏への希望を感じとることもできます。これから試験の本番を迎える人も、新しく勉強を始める人も、皆さんには楽しみながら圧倒的な勉強をしてほしいと願っています。

2018年3月 1日 (木)

第271回 北東アジア

平昌オリンピックが終わりました。国単位でメダルを競うことはオリンピック憲章の趣旨に反するのですが、メダルの数で盛り上がる報道もありました。北朝鮮に南北対話を持ち掛けられて応じるなんて日米韓の協調を壊すものだと批判する声も聞かれ、競技外の話題にも事欠かなかったオリンピックでした。

確かに北東アジアには、いくつもの緊張の種が存在します。①冷戦時代の分断と対立が強く残る、②中国・ロシアという核兵器保有国の存在、③領土問題(北方領土、竹島、尖閣をめぐる紛争)と、④歴史問題の存在、⑤地域的安全保障の枠組みがない、等です。こうした問題を抱えながらも、日本はアジアの中の日本として一定の役割と責任を果たしていかなければなりません。

北東アジアの諸国間には、文化的にも経済的にも緊密な「永久の隣人」同士という現実があります。人間同士ならば、隣に嫌な人がいても最後は自分が引っ越しをすればいいだけですが、国同士となるとそうはいきません。どんなに嫌いでもうまくやっていくしかないのです。

戦争を繰り返してきた独仏によるエリゼ条約を紹介したことがあるかと思います。条約調印50周年の2013年に駐日独仏大使の連名で発表された声明に以下のような指摘がありました。「両国を隔てるよりも結びつける要素が多くなったのは史上初めてだ。意見や利害の違いを軍事力で解決するという方法はもはや考えられない。独仏両国民は今後もこの道を歩んでいく。対立がもたらす代償がいかに大きく、和解から得られる利点がいかに大きいかを、歴史の教訓から知ったからである。」極めて現実的な選択です。

アメリカは親米派を育てるために、日本のエリートを米国留学させました。アメリカに感謝し、親米のメンタリティを持つ日本人エリートを何十年もかけて国策として育成していったのです。それが米国にとって一番の安全保障になり、国益にかなうと考えたからで、これもまた極めて現実的な政策です。

日本ではどうでしょうか。日本が好きで日本語を学び、せっかく留学や仕事で来日したのに、ひどい仕打ちを受けて反日になって帰国する外国人が後を絶ちません。いまだにヘイトスピーチ、ヘイトクライムも横行しています。人種差別というよりも過去の植民地主義が未だ克服されていないのです。

さて、万が一にも米朝が武力衝突したならば、日韓は無傷ではいられません。アメリカは日韓に一切の被害を与えないほどに強くありませんし、自国の国益に反して日本を守ってくれるほどにやさしくもお人よしでもありません。北朝鮮との関係は対話で解決するしかないのです。冷静に現実を見極めることが重要です。「負ける戦争は絶対にしない。勝てる戦争には戦わずして勝つ。」こうした戦略論の基本が今こそ必要なときだと思います。北朝鮮の脅威を口実にして国民の不安を煽って行われる改憲発議ほど危険なものはありません。

自衛隊を明記する改憲に際して、「現状を単に明記するだけで、何も変わりません」と言われます。国旗国歌法(1999年)を作るときも同じことが言われました。それまで法的な根拠がなかった日の丸・君が代を国旗・国歌として明記するだけの法律です。しかし、それにより日本社会は大きく変わります。法律ができて数ヶ月後、ロック歌手忌野清志郎のロック調「君が代」を収録したアルバムをレコード会社が自主的判断によって発売中止にしました。大相撲で優勝した力士にNHKアナウンサーが君が代斉唱を求め、岐阜県知事は国旗国歌を尊敬しない人は日本国籍を返上すべきと発言するなど、どんどん日の丸・君が代が押しつけられる社会になりました。さらには、君が代の起立・斉唱を教員に強制する職務命令まで出されるようになります。

日の丸が国旗であり、君が代が国歌であるという「現状を明記する」法律ができることによって、国民の中に君が代を茶化すことは不適切だ、日本国民なら日の丸を尊重すべきだという風潮が広まっていったのです。単に明記しただけで、ここまで社会は変わるのです。法律で義務そのものを定めずに、社会のムードを変えることにより、義務を課したのと同じ結果を実現したのです。

自衛隊明記に際しても、「自衛官が可哀想」、「自衛官に失礼だ」、「愛国心があるのか」、「非国民!売国奴!」等様々な感情的な言葉が言論の自由という名の下で飛び交い、言葉狩り、ネットでの炎上も仕掛けられていくかもしれません。未だに植民地主義が克服されておらず、アイヌ、琉球への差別や旧植民地の人々への差別や偏見から脱することができない国民がいるような国が、それに輪をかけて多様性を認めない国になりそうです。力によって人をねじ伏せ、寛容性に欠ける社会、異論・反論を許さない社会は、決して人々に幸せをもたらしません。

せっかく日本に来てくれた外国人を排斥したり、日本人同士でいがみ合ったりすることは、憲法がめざす社会ではありません。少なくとも法律を学ぶ者として、何も変わりませんとか、自衛隊員がかわいそうといった理屈に合わない言説に惑わされたり、北朝鮮が怖いからといった不安に支配されたりしないだけの理性を保ち、知性を維持してほしいと願っています。私たちはどのような社会をめざすべきなのか、法律家や行政官である前に一市民として、そのことをしっかりと考える必要があると思います。

2018年2月 1日 (木)

第270回 仮想通貨

先月は、興味深い事件がいくつか起こりました。成人式の晴れ着を待っていたのに届かなかったという事件、仮想通貨が盗まれたという事件などは、被害者に申し訳ないものの、考える訓練としては興味深いものでした。

成人式の日に届かなければ意味がないという点は、定期行為の典型的なものです。いまさら返してもらっても意味がないといって、引き取りを拒んだら受領遅滞になるのでしょうか。大雪で届けることができなかった場合はどうでしょうか。こうしていろいろと考えてみることが法律を使いこなす訓練になります。代金支払済みの顧客に対しては、返金するそうですが、これを仮想通貨で返金すると言ってきたらどうでしょうか。

仮想通貨取引所大手「コインチェック」から約580億円分の仮想通貨「NEM(ネム)」が盗み出された事件も起こりました。仮想通貨は、2017年4月施行の資金決済法2条5項で定義されていますが、法定通貨ではないので、強制通用力はありません。よって、合意がない以上は仮想通貨での支払いについては受領を拒むことができます。

そもそも仮想通貨の法的性質は未だ明確になっていません。まず、所有権の対象ではありません。有体物(民法85条)ではないからです。では債権でしょうか。ビットコインなどの仮想通貨には発行者が存在せず、特定の者に対する債権でもありません。債権の定義である「特定人から特定人に対して…行為を請求する権利」という定義にあてはまらないのです。

法的性質を物権類似と考えるか、金銭類似と考えるかは別として、不正取得者に対して本来の保有者が不当利得や不法行為に基づく請求ができるとはいえそうです。ですが、現物返還ができるか、転得者との関係は?と考えだすと相当ややこしくなります。取引所との関係ではオフラインの合意が重要な意味を持ってくるでしょう。さらに刑事法との関係では、詐欺罪、電子計算機使用詐欺罪、横領罪、背任罪など刑法が適用されるのでしょうか。

そもそもビットコインというインターネット上の存在で、誰も管理しない点に価値があり、ブロックチェーン(分散型台帳)にはプロトコルが存在していてそのプロトコルに従って間違いなく動作することへの信頼がブロックチェーンのありようなのです、と言われても全くピンとこない人もいるのではないでしょうか。

スマートコントラクトというシステムが自動的に取引を執行する仕組みもコードという機械が理解する言語のようなものそのものが契約だという発想なのですが、何が合意内容なのかと言語にした時点でコードそのものの合意ではなくなってしまうような気もします。またオンチェーンの合意、オフチェーンの合意というものを考えると手形関係と原因関係との類似性を見て取れます。

これまでの通貨のように国家が管理し、法律によって規制された世界とは全く違う世界が生まれているようです。どうしても既存の概念にあてはめて、それとの比較を考えてしまいがちですが、その場合でも本質をとらえて共通点と相違点を見つけていく、つまり基礎基本という本質を押さえた上での分析力が必要となるのです。新しいことに挑戦するときも基礎基本が重要であると改めて思います。

それと同時に、既存概念にとらわれない自由さも必要です。人は自分が見てきたものを前提にしてしか新しいものを評価できません。この点は、昨年読んだ「お金2.0」(佐藤航陽著)でも指摘されていました。この本は「資本主義」から「価値主義」への流れを予測し、お金から解放される生き方を提唱するものでとても面白かったです。

インターネットにより知識のコモディティ化が促進され、物知りであることに価値はなくなり、情報をどのように使いこなすかが重要になってきていると指摘されていましたが、試験の世界でもまさに暗記量ではなく、法律をどう使いこなすかが問われる時代になっているのと同じです。そして、この先は「自分の価値を高めておけば何とでもなる」世界が実現しつつあるので「個人の価値」が重要だと指摘します。

何に役立つのかという有用性としての価値だけでなく、愛情、共感、信頼などの内面的価値や社会全体の持続性を高めるような社会的価値にも着目します。この点などは、食べるための職業として法律を学ぶだけでなく、人を助け、社会貢献できる職業として法律家や公務員をめざすことには大きな価値があり、それが評価される時代になるという予測で強く共感できました。伊藤塾の「合格後を考える」という理念、憲法価値を実現する法律家・公務員をめざすという視点は間違っていないようです。

塾生の皆さんには、法律の勉強を通じて内面の価値に磨きをかけ、高い志を掲げながら、自分自身の価値を高めるために真剣に勉強してほしいと思います。それがまだ見ぬ新しい時代に対応していくためにもっとも重要なことだからです。頑張りましょう。

2018年1月 1日 (月)

第269回 謹賀新年

昨年11月21日全国5000人の市民が不当な賠償金4556万円を完済しました。東京、国立駅前から続く大学通りの景観をめぐり、国立市がマンション業者に支払った3124万円を国立市から求償された上原公子元国立市長が訴訟で敗訴し、利息を含めて4556万円を個人として国立市に負担することになりました。景観保護のためにマンション建設規制を求めて上原氏を支持したのは市民であり、その政策を実現したことによって、市長が個人責任を負担するなどという不当な裁判に納得できない全国の市民がカンパを寄せて、第三者弁済により全額支払ったのです。

複数の訴訟の経緯は建築差し止めなどを含み複雑ですが、市民からの支持を得て市長になり景観保護という政策を実現したがゆえに、市長が個人として責任を負うというのは、あまりにも理不尽です。国立市がマンション業者に支払った金額全額相当分がこの業者から国立市に寄付されているため、市に実損害はありません。それにも拘わらず、住民訴訟の形で市から市長に求償する訴訟が提起されたのです。1審は国立市の請求を棄却しましたが、控訴審で上原氏は敗訴、上告するも最高裁で実質的な審理もなされずに確定しました。

元金3124万円及び利息1432万円は、市民感覚からは支払う必要のないものでした。しかし、訴訟で負けた以上は支払わざるを得ません。それをなんと国立市民のみならず全国の市民からカンパを集めて支援団体が支払ったのです。裁判で負けて、市民はここで大きなものを勝ち取りました。市民自治です。

市民感覚から納得できない、間違った判決に対して、市民が声を上げ、司法の歪みを正すために行動したのです。景観のために企業の財産権を制限することが正しいか否かについては議論があるところでしょう。しかし、自分たちの街の景観を保護したいという市民の多数の支持を得て市長になった後、そうした市民の意思を政策によって実現しようとした首長が、従来の政策を変更したことを後に司法から違法と判断されて、個人として多額の賠償を負担させられるという事態は、市民感覚からは異常です。これがまかり通るようでは市民自治を否定することにつながります。市民によって支持された政策を実現することを躊躇し委縮してしまう首長が出てきても不思議ではありません。

上原元市長に対する最高裁判決の後、政府高官は「辺野古の新基地建設を許さない」として県民とともに闘っている沖縄の翁長知事に対する億単位の損害賠償請求に言及しています。市民の声とそれに基づいて行動しようとする首長を中央が権力によって押さえつけようとすることは、地方自治、市民自治に対する侵害です。辺野古や高江で闘いの先頭に立ってきた山城博治氏を、家族にも会わせないまま5か月も勾留するものどうかと思います。どう考えても勾留要件を満たしているとは思えません。このように権力に対して闘う個人を攻撃し、運動を諦めさせるために手段を選ばないというやり口は、文明国家としてどうかと思いますが、これが権力の本質です。

こうした国のやり方に市民は負けませんでした。闘う個人を孤立させない、個人を犠牲にしてはならないという市民運動の連帯が大きな力になり、闘う個人を守り救いました。そこには私利私欲を離れた大義があるから、市民は連帯したのです。市民運動というと敬遠する人がいます。何か自分とは違う世界で、暇人もしくは物好きが自己満足のために好き勝手なことをやっているとみる人もいます。

ですが、私利私欲でそんなに多くの市民が支援するはずがありません。他者を救うために見返りのない寄付をする人も大勢いるのです。人ごとではなく自分の問題として捉え、社会のため、次の世代のために全力を尽くす人は日本にもちゃんと存在するのです。私も憲法を学び、さまざまな運動を見るようになるまでは、そんな人たちがいることに半信半疑でした。ですが、日本にも確実に、私利私欲を離れて人のために全力を尽くす人がいる。私は、そうした市民の志に勇気づけられ、力をもらってきました。

裁判では負けましたが、市民はその結果を受けて次の行動に出ることで、裁判での勝訴以上に大きなものを勝ち取りました。自分に降りかかるあらゆる事態の意味を決めるのは自分でなければなりません。結果に対して意味を与え、それを受けてその後どう生きるかを決めるのは自分です。それが自己決定権であり、自分自身の幸福追求権に他なりません。試験の結果から何を得て、そこからどう生きるかと全く同じことです。

司法試験に5回挑戦して、結果が出せなくとも、法務知識を活かして企業で活躍している方々も大勢います。結果に対してどのような意味づけをして、これまで学んできたものをどう活かしていくのかは、自分で決めるべきものなのです。なので、試験の結果を思い煩うことは無益です。そうは言っても結果を出すまでは不安で仕方がないという人もいることでしょう。

伊藤塾で学ぶ限りは勉強方法の不安は感じる必要はありません。実績が物語っているように塾の敷いた道を安心して一歩一歩進んでもらえばいいだけです。ときどき、塾のカリキュラムがこなせずに他の勉強方法が魅力的に思えて、いろいろと手を出して失敗する方がいます。ですが、数年でまた気づいて戻ってきて合格します。その迷いの過程も結果的には本人に必要なことだったのかもしれませんが、少し残念です。

勉強方法の迷いや不安は不要ですが、結果に対する不安は、実は有益です。何度も言っているように、結果が保証されないことに向かってどれだけ努力を続けることができるかが、その人の実務家としての価値を決めます。どんな分野でも実務の世界は先が不透明で誰も予測できません。予測できない未来だからこそ、自分の未来は自分で創り上げる気概が求められるのです。志を実現する過程での成長こそが価値ある成果なのであって、目先の試験の合格・不合格、裁判での勝ち負けなどは些細なことなのです。そうした大局観をもって、自分の人生を見つめ、社会の動きにも関心を持ち続けてほしいと思います。

2018年も激動の年になるでしょう。戦争だけはどんな理由があってもやってはならない。戦争を止めるために戦争を起こしたのでは本末転倒であると思っています。自らの信じることを、多くの市民が訴え続けることが本当に必要な年になるかもしれません。何が起ころうが、一歩先を考えて冷静に行動したいと思います。皆さんにとってよい年になりますように。私も頑張ります。