真の法律家・行政官を育成する 「伊藤塾」 株式会社 法学館

2019年8月 1日 (木)

第288回 プロの誇り

参議院議員通常選挙が終わりました。翌日の新聞一面の見出しは興味深いものでした。朝日、毎日、日経、産経、そして東京新聞は、皆「改憲勢力3分の2に届かず」という趣旨のものでした。それに対して読売新聞だけがそれには触れず「与党勝利 改選過半数」が一面トップの見出しでした。印象がまるで違います。安倍首相は、改憲を公約として掲げ、憲法改正を議論してほしいという国民意思が表明されたかのような発言をしていますが、各種世論調査では優先して取り組んでほしい課題について、改憲は数%にすぎず、国民の関心は社会保障、増税など日々の生活にあることは明らかに思えます。そもそも依然として一人一票が実現していない選挙ですから、その結果には何の民主的正統性もありません。

その上、投票率は48.8%だったそうです。戦後2番目に悪いのですが、若者を中心に政治離れ、選挙離れがさらに加速したように思えます。長い歴史の中でやっと獲得した選挙権を放棄し、投票にいかない国民が半分もいる国は、民主主義を標榜する国の中ではちょっと見当たりません。せっかく18歳以上に選挙権が認められたのにと残念がる方もいるようですが、この結果は無理もないことかもしれません。なにしろ、主権者教育、市民教育を一切してこなかったのですから、自分が主権者たる国民で国政の主体なのだという自覚のある人などほとんどいないのではないでしょうか。

憲法前文には「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」とあるのですが、国民が「主体的に自ら行動するのだ」という自覚はほとんどないと思われます。私たちは、小さいときから学校ではルールを守れだの、校則に違反したから停学だのと、規則やルールは既に存在していてただ守るだけのものという意識を植え付けられています。自ら主体的にルールを作りそれを運用していくという経験がほとんどありません。

およそルールというものは、本来の民主主義社会では、自分たちが作り、使い、必要に応じて変えていくもののはずですが、ルールを自ら作り活用するという経験を学校でも家庭でもほとんどしてきませんでした。そんな子どもたちに18歳になったら選挙にいって責任を果たせと言っても、めんどう、うざい、訳わからないという気持ちになって当たり前です。

社会人になってからも日々の生活があり、選挙に行っても何も変わらないという無力感を覚えてしまうと、投票するモチベーションがなくなります。日頃から政治に関心を持ち、自分の意見を主張する人を、意識高い系などと揶揄してみたり、政治的な活動を主体的に行う国民・市民を活動家とかプロ市民などといって批判する人もいます。日々の生活の中で政治的なことを話題にするのはやめて、意見の分かれる問題については触れない方が無難だという姿勢は、テレビ、学校などを通じて国民の中に浸透させられています。

日本国民は、国民・市民として行動する統治の主体ではなく、政治家や官僚、裁判官などの為政者による統治の客体に貶められているのですが、そのような状況にそれなりに満足している人も多いようです。名君によって支配されながらも日々の生活を守ってもらって感謝している民草、臣民の感覚でしょうか。私は昔からそれを「奴隷の幸せ」と呼んでいます。主体的な自由などなくても保護してもらって、そこそこの生活ができれば幸せであり、その現状を変えようとする意欲もなく、飼い慣らされていないかということです。まるでミュージカルの『キャッツ』の世界ですが、私も国民・市民としての誇りを意識してしまうものですから、飼い慣らされた猫はいやだなあと思ってしまいます。

ですが、これはもちろん個人の自由であり、何を幸せと感じるかは個人の選択の問題です。先日、中国人の知り合いから「プライバシーや表現の自由、選挙権などなくても共産党一党独裁によって豊かな生活ができるのだからなんの問題もない。日本人はプライバシーだとか表現の自由が保障されていると自慢するけど、だれもそんなもの欲しがっていないんじゃないか。だってこんなに監視カメラもあり、言いたいことも言えない、いや言いたいことなんてもともと無いのかもしれないが。その証拠に、多くの日本人は選挙権も行使しないし、誰も文句を言わない。香港の市民のようにおかしいと声をあげて権力と闘う者もいない。民主主義なんてまやかしだよ。」と言われてしまったのです。

とても厳しい指摘ですが、なかなか反論が難しかったのも事実です。民主主義は自律した市民を前提にしています。政治的な意見を持つだけの余裕のある市民を前提にしているといってもいいかもしれません。目の前の生活で手一杯で政治的な問題などに関心を持つ余裕のない人もいることでしょう。それでもそれらの声を上げられない人達の声を代表者は代弁しなければなりません。声なき声を反映することは代表という概念の自己矛盾ですが、そこを乗り越えなければ日本の民主主義は完全に消滅してしまうでしょう。それでも名君を育てるなり、すばらしい為政者に任せっきりの政治でいいのかもしれませんが、結局当てが外れたとか、任せても意味がないなどといって、多くの者は政治に対し諦めていくのでしょうか。

ただ、そのような社会によって国民・市民が分断され、格差がますます広がっていくと、社会全体の管理コストも相当あがると思われます。市民の不満が鬱積し、犯罪、暴動、テロなどが横行する社会は、富裕層の人達にとっても自分たちを自己防衛するために多大なコストをかけなければならず、安心して街を歩けない社会となってしまうのは、けっして望ましいことではないはずです。自分の幸せを第一に考えることは仕方がないとしても、それでも自分たちが安全で自由な社会で過ごせるという自分の幸せに直結する価値が害されるおそれがあるのであれば、他人事ではなく自分事として声をあげる責任が、それぞれの職域のプロにはあるように思います。

今回の選挙では、性的マイノリティの方や、重度障害者の方が議員になりました。国会自体が多様性を具現化する場になる貴重な一歩だと思います。それでも国会が数の力で動いていることは否定できません。当選後露骨に数集めに奔走する政党もあるようです。こうしたときに、少数者の権利を守るべく仕事をするのが裁判所です。政治部門によって拾い上げることができなかった少数者の権利をすくい上げ、人権保障の最後の砦としての役割を期待されています。

その裁判所が、最近、政府に忖度しすぎではないかと批判されることがあります。全国で提訴している安保法制違憲訴訟でも、あくまでも新安保法制法の制定によって現実的に具体的に苦しんでいる原告らの救済を求めているのですが、政治的な問題には裁判所は口を出さない方がよいという司法消極主義の発想から、憲法判断に立ち入らないで結論を出してしまう裁判所が出てきそうです。

もちろん安全保障政策に関する国民の意思は多様です。その国民意思を統合して統一的な国家意思形成を行うことが国会には期待されており、具体的な安全保障政策の実現や外交交渉の内容などは政治部門の判断に委ねられているといえます。ですがそうだとしても、その際に内閣、国会が最低限遵守しなければならない大きな枠組みは憲法によって規定されているのですから、この枠組みを逸脱する立法か否かの判断は、司法において可能であり、むしろこれこそが司法に期待されている本来的な役割のはずです。

これまで特定秘密保護法、新安保法制法、組織的犯罪処罰法など十分な議論と検討が必要なはずの法律が、数の力によって押し切られるように成立してしまいました。昨今の官僚、政治家の不祥事、不適切な発言、公文書の廃棄、隠蔽、改ざんをあげるまでもなく、議会制民主主義の根幹が揺らいでいます。そして前述したような選挙の状況です。これまでにないほどに立憲主義、平和主義、民主主義といった憲法価値が危機に直面しているのではないか。こうした時だからこそ、果たさなければならない司法の役割、裁判官の使命があるはずだと思っています。

アメリカ、フランス、ドイツにおける各違憲審査制を概観してみると、違憲審査権の行使を躊躇することをせず、むしろ民主主義とも整合するものであり、人権保障と憲法保障に積極的であるがゆえに国民からの信頼を得ていることがわかります。そして、それぞれの国の歴史を踏まえて、立憲民主主義、法の支配・法治主義という憲法原理を維持するべく重要な役割を果たしています。どの国も過去において暗い歴史を持ち、司法もそれと無縁ではありませんでした。アメリカ先住民や黒人差別に対してアメリカの裁判所が無力だった時期があること、フランスのアンシャンレジームにおける裁判所が王権と結託して人々の権利侵害に加担したこと、ドイツの裁判所がナチスに加担しヒトラーを擁護したことなどです。ですが、今日においてはそうした過去を克服し、政治部門から独立した裁判所としてあるべき姿を確立し、権力分立が実質的に機能するようにその職責を果たしています。

日本においても、大日本帝国憲法の下の裁判所は、司法省の監督下にあり真の独立はなく、行政裁判や違憲審査権も認められていませんでした。このように民事刑事裁判に限定された役割しか認められなかった戦前とは異なり、日本国憲法の下では司法権の独立が認められ違憲審査権が規定されているのです。その裁判所が、戦前レベルの判断しかしようとしない国家機関であってよいはずがありません。

去る6月13日に前橋地裁における安保法制違憲訴訟の証人として、宮﨑礼壹元内閣法制局長官が、集団的自衛権の行使は憲法違反だと毅然とした態度で法廷で断言されました。まさに国家権力の中枢で憲法価値を堅持してきた法務官僚としての誇りが感じられる証言でした。私は裁判官にも同じように、法律家としての誇り・プライドを判決で見せてほしいのです。

政治家、官僚、法律家がそれぞれの職責を果たすこと、そして国民・市民も自らの自由を守るために「不断の努力」をおしまないこと(憲法12条前段)が、今ほど求められているときはないように思います。皆さんには法律家、行政官としての誇りとプライドをもった志あるプロを目指してほしいと願っています。

2019年7月 1日 (月)

第287回 無罪の推定

私たちは、裁判という制度を真実発見のためのものとして考えてしまいがちです。ですが、民事裁判は紛争解決が目的ですし、刑事裁判も国家による刑罰権の発動を許してよいかどうかを判断するための手続きです。どんな裁判であっても人間が行う以上は、真実に到達できないこともあります。ところが刑事事件において、有罪とするには証拠上疑問が残るときでも警察・検察などの捜査機関は被告人を処罰しようとやっきになることがあります。職務熱心のあまりの思い込みもあるでしょうし、組織としてのメンツもあるかもしれません。ときに証拠の隠蔽、ねつ造を行うこともあります。それは例外的な事象と思いたいですが、実際にいくつかの裁判で明らかになっています。

警察・検察や裁判所が社会の秩序を維持し、正義を実現するために重要な役割を果たしていることはいうまでもありません。しかし、同時におそろしい権力としての側面もあわせ持っていることを忘れてはなりません。裁判所もけっして正義の味方とか人権保障の最後の砦といったプラスの側面だけでなく、冤罪を生み出しかねない極めて危険な国家権力でもあるのです。

旧刑訴法時代に発生した横浜事件では1943年に、治安維持法違反容疑の名目で中央公論社、朝日新聞社、岩波書店等の関係者約60人がでっち上げで逮捕されたうえ、竹刀等で殴られるなどの拷問を受けたあげく、4人が獄死しました。当時、自白は証拠の王とされ、強制・拷問を伴う自白偏重の取調べが虚偽の自白を生み、後の裁判で無罪を主張してもかえって重く処罰されました。そのことが冤罪の温床となっていたのです。

このような苦い経験にもとづいて、日本国憲法は被疑者・被告人のために、刑事手続上の人権を詳細に定めています。すなわち、33条以降で、逮捕や捜索・押収に令状主義を徹底し、弁護人依頼権を保障し、公平で迅速な公開裁判や黙秘権、自白法則、補強法則を定めるとともに、31条でより一般的に、公権力を手続的に拘束し、人権を手続的に保障すべく、適正手続条項を定めました。

適正手続を根幹にすえたこのような憲法のもとで、無実の人を処罰しないことは、刑事裁判に求められる最低限度の要請です。ところが、憲法が施行されて70年余り経つにもかかわらず、冤罪事件はなくなりません。そしてその冤罪を晴らすための再審請求が極めて狭き門になってしまいました。

「疑わしきは被告人の利益に」という言葉があります。無罪の推定ともいいますが、刑事訴訟の基本原則です。憲法に規定があるわけではありませんが、憲法13条前段の個人の尊重や31条の適正手続条項から導かれます。極論すれば、9人の凶悪犯が無罪となっても1人の無実の者を処罰してはならないという原則です。仮に、凶悪犯として起訴された10人のうち9人までは死刑確実な真犯人ですが、1人だけ無実の人が紛れ込んでしまったとします。ところが、誰がその1人かわかりません。そのときに裁判所としてはどのような判決を出すべきでしょうか。

教室事例ですが考えてみます。全員有罪にすれば社会は安泰かもしれません。しかし、無実の1人が犠牲になります。逆に全員無罪とすればその1人は救えるかもしれませんが、社会に凶悪犯人が戻ってきてしまいます。社会の秩序を維持するために1人を犠牲にするという考えもありえますが、憲法はそうした考えを選択しませんでした。全員無罪釈放となります。これが無罪の推定です。その被告人が犯罪を犯したとすることに合理的な疑いがあれば有罪としないことにしました。犯罪を犯したと裁判官が確信できなければ国家は刑罰権を行使してはならないとしたのです。

これは社会が一定の不利益を受けることがあったとしても無実の者を処罰してはならないということを意味します。そこまで誰をも個人として尊重するということです。もちろん、「疑わしきは罰する」という選択もありえます。しかし、それでは自分や大切な人が虚偽の密告やでっち上げられた証拠により処罰されてしまう危険がある。そんな社会はいやだ、すくなくとも無実であれば処罰されることはないと信頼できる社会の方が、私たちが幸せを感じられるはずだと考えたのです。

それでも裁判は人間が行いますから、間違いを起こすこともあります。そのときのために再審手続きを用意しました。これは間違った裁判を正すという趣旨のものでも、真実発見のためのものでもありません。なぜなら被告人に有利な再審しか許されていないからです。もし真実発見を重視するのであれば、間違った無罪判決の確定に対しても検察官からの再審請求が許されてもよさそうです。しかし、それは認められていません(刑事訴訟法435条)。

民事裁判とは異なり、刑事裁判は国家による最大の人権侵害である刑罰権の発動を許すかどうかを問題にしますから、被告人の人権という観点から考えなければいけないのです。憲法39条は「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。」と規定します。これは事後法の禁止と二重処罰の禁止(一事不再理効)について規定したものです。

事後法の禁止(実行のときに適法であった行為の処罰の禁止)は刑法の基本原則である罪刑法定主義の一内容として、明治憲法に規定はなかったものの、従来からマグナカルタ以来の刑事法の基本原則として理解されていました。しかし、二重の危険の禁止(同一の犯罪について二度裁判を受けない)は英米法の概念(double jeopardy)であり、アメリカ合衆国憲法修正第5条にならって導入されたものですが、憲法制定当時からあまり理解されていなかったようです。その結果、日本では無罪判決に対する検察官上訴も判決確定前だから許されるという解釈が一般になってしまっています。

しかし、そもそもこの二重の危険の禁止は、一度国家権力によって有罪にされる危険にさらされた被告人は、再びそのような危険にはさらされないことを人権として保障したものです。刑事裁判制度の一内容としてではなく、人権として保障しているのです。そのため憲法39条という人権条項の中に位置づけられています。この点を考えると英米の国々のように検察官上訴は禁止するべきだと考えます。そしてさらにこの規定を再審請求においても適用するべきだと考えています。

先月40年前の大崎事件の再審請求が最高裁で棄却されました。請求人の原口アヤ子さんは事件当初から一貫して否認をし続け一度も自白していません。10年服役した刑務所でもやっていないからといって、仮釈放されるために勧められた反省文を書くことも拒否し続けたそうです。捜査員に誘導された知的障がい者の供述や検察官による証拠隠し、事故死の可能性を指摘する鑑定書もあり、有罪という結論を維持するには相当疑問が残ります。

原口さんは1995年4月に第一次再審を申し立てています。私が塾を立ち上げた年です。2002年3月の決定から始まって、これまで三度の再審請求に対して地裁、高裁、最高裁と3回ずつ決定が出ていますから合計9回の再審裁判が行われているのです。そのうち3回は再審を認める判断がなされました。つまり原口さんの犯罪とするには疑いがあるということです。事実上、冤罪であることが認められたにもかかわらず、検察官の不服申し立てによりそれが取り消されました。

刑が確定するまでを入れれば原口さんはこれまで12回も裁判を受けなければなりませんでした。一体何度、有罪の危険にさらせば気が済むのでしょうか。無罪の推定、二重処罰の禁止という刑事訴訟法の基本原則、憲法原則からいっても、相当に大きな問題といえます。再審は判決が確定した後の問題だから、通常の刑事裁判の原則が適用されないと考えることはできません。国家権力による人権侵害の危険がある場面であり、個人の人権保障を重視するべき場面であることは同じだからです。

原口さんは92歳です。40年前の冤罪をまだ晴らせていません。国家権力とくに司法の恐ろしさを思い知る事件です。たまたまわが身に降りかからなくてよかったと自らの幸運に感謝するだけでよいのでしょうか。もちろん、法的安定性という要請もあります。ですが、一人の個人の尊厳を犠牲にしてまでも守るべき法的安定性などあるはずもありません。

今回の決定を出した最高裁第一小法廷は5人の裁判官から構成されています。元東京高裁長官、前東京高裁長官、元大阪高検検事長といった司法官僚3人の他、2人の弁護士がいますが、木澤弁護士は元加計学園監事でしたし、山口弁護士は任命の数か月前に弁護士登録したばかりの東大名誉教授ですが官邸の意向で任命されました。最高裁裁判官の人事も含めて、法律や権力は何のためにあるのか、改めて考えさせられます。

今回の最高裁決定を知ったとき、ご本人のみならず20年以上もこの冤罪事件を闘ってきた弁護士の方々の落胆はいかばかりだったでしょうか。明日の法律家講座で講演してくれた鴨志田弁護士の「ここで諦めるわけにはいかない」という言葉が私にとっては唯一の救いです。

【関連リンク】明日の法律家講座バックナンバー 東京校 第264回「大崎事件から見える刑事司法の問題点~憲法の理想と現実のギャップ~」

2019/7/13実施明日の法律家講座は、冤罪を阻止・根絶するために法曹が果たすべき役割・責任について考えます。明日の法律家講座 東京校第285回「冤罪の阻止・根絶と法曹の責任」

2019年6月 3日 (月)

第286回 公益

旧優生保護法の下で不妊手術を強制された原告らが国家賠償を求めた訴訟で、仙台地裁は5月28日に、この法律は幸福追求権などを規定した憲法13条に違反し無効と判断したのですが、国賠請求については20年の除斥期間経過を理由に請求棄却しました。全国で提訴されている同種事件の最初の判決です。

子どもを産み育てることを自己決定する権利(リプロダクティブ権)は憲法13条で保障されているところ、強制不妊手術はこの権利を一方的に奪うものだという原告らの主張に対して、被告国は、国が賠償責任を負うことはないので違憲かどうかは主要な論点ではなく認否する必要はないと、憲法判断に向き合おうとしませんでした。この点について裁判所が原告の主張を認めて、憲法判断に踏み込んだ点では評価できるのですが、除斥期間の壁に司法による救済を阻まれた原告の落胆は大きいのではないかと推察します。

そもそもこの旧優生保護法とはどんなものだったのでしょうか。優生政策というとナチスを思い起こします。ヒトラーは「我が闘争」の中で次のように述べています。「民族主義国家は、人種の純粋保持に努めなければならない。…ただ健康な者だけが子どもを生むべきで、自分に病気や欠陥があるにもかかわらず子どもをつくるのはただの恥辱であり、これを諦めることこそが栄誉である。…身体的にも精神的にも不健康で、価値なき者は、その苦悩を自分の子どもの身体に伝えてはならない。」

こうした方針の下で、1933年7月には強制断種法(遺伝病子孫予防法)が制定され、精神、身体に関わる8つの疾患と重度アルコール依存症を法定遺伝病とし、患者への強制断種を認め約40万人が犠牲になりました。ヒトラー政権の優生政策の原点になります。その後、「人には生来の差があること」が学校、看護学校、病院、役所で周知徹底され、重度の心身障害者や「反社会的分子」(ロマ、労働忌避者、同性愛者、常習犯罪者など)への介護・福祉は公の幸福と利益に反するものと教え込まれることになります。

そして、1935年10月には結婚健康法制定という美しい名称の法律の下で、精神障害を罹患し、民族共同体の観点から結婚が望まれない者の結婚が禁じられます。それが1939年8月の安楽死殺害政策へと展開していき、最終的には不治の患者、遺伝病患者、心身障害者など国の戦争遂行に支障をきたすとみなした者を組織的に抹殺することになり、精神科医の協力のもとドイツ国内だけでも21万6000人が犠牲になりました。ここで培われた殺人技術がホロコーストへ引き継がれるのですが、まさに戦争は差別とともにやってくるのです。

第二次世界大戦中、ドイツと同盟国だった日本にも国民優生法という法律はあったのですが、戦時下では「産めよ増やせよ」という人口増加政策がとられ、優生手術はそれほど多くなかったようです。それが、戦地からの引き揚げ者による爆発的な人口増加や食糧危機、住宅難などの社会問題から過剰人口抑制策に転換します。憲法制定後の国会において、母体の生命健康の保護とともに不良な子孫の出生防止による文化国家建設に寄与することを立法目的として掲げた優生保護法案が提出されます。その後超党派の議員立法として成立しますが、その立法過程では、強制不妊手術は、「社会生活をいたします上に、甚だしく不適応な者とか、或いは生きていくことが第三者から見ても極めて悲惨な状況を呈する者」に対して行うもので社会公共の立場から公益のためになされるものと強調されます。一見すると自己決定権よりもパターナリスティックな配慮を重視しただけとも思えますが、そうではないようです。国家再建のために民族逆淘汰(劣悪な者が増えると国民全体の質が低下するので劣等者の増加を防ぐこと)こそが公益として捉えられていたのです。

旧優生保護法には当時の国民の多数意思が反映していたといえます。こうして国民の意思は民主政の過程を通じて政治部門によって国政に反映することになっていますが、そこで配慮されなかった少数者の人権を保障する観点から、裁判所が一種の政策形成機能を果たすものが憲法81条の違憲審査権です。国家賠償請求訴訟の中で、ある政策の違憲性が明確にされることによって、国民の多数意思によっては救済されなかった少数者の人権が回復するのです。

成年被後見人は2013年3月14日の東京地裁違憲判決を契機に法改正されるまで選挙権が否定されていました。選挙権の行使にも一定の能力が必要だということが理由とされていたようです。しかし、政治的判断能力の有無を国家が判断することは許されるべきではありません。

憲法では自己決定権という人権の重要性を学びます。子供を産むかどうかも個人の人格的生存に関わる重要な私的事項といえますから、憲法が保障する自己決定権の一内容です。では、こうした権利行使がおぼつかないような自律的判断能力に欠けるとされた弱者はどうすればよいのでしょうか。自己決定権は自己決定能力を前提とするから自己決定能力のない者に自己決定権は認められず、社会や国が本人のためにそれを判断するということになるのでしょうか。それを公益という名の下に許してよいのでしょうか。

こうした困難な問題もありますが、少なくとも本人の意思を無視して不妊手術を強制することは違憲違法です。今回の仙台地裁の判決も違憲であることは認めましたが、国賠請求そのものは除斥期間を理由に棄却しました。

そもそも国家賠償は公務員の不法行為に関しては、その雇い主である国民全体が負担することが公平だということで税金から賠償金が支払われるものです。国が賠償金を支払うことによって国民も、自らが主権者として運営している国がこんな違法行為をしたのだと認識するとともに、被害を受けた少数者の視点から主権者として国家のあるべき姿を改めることができます。

権利関係を速やかに確定するための除斥期間経過を理由に損害賠償を否定することは、時効と違い理不尽な思いが残ります。改正前の民法を勉強してきた人ならば、時効と除斥期間の違いは基本的知識として理解しているはずです。援用不要で中断・停止、遡及効もなく、権利の上に眠っているわけでなくても権利行使が否定されてしまいます。だからこそ、これまでも不法行為に関しては権利救済の観点から、例外的に時効の停止規定を類推したり、起算点を再考したりする工夫によって理不尽な結果を避ける解釈がとられてきました。そうした経緯もあって、判例で除斥期間とされてきた民法724条後段の20年の期間制限を今回の民法改正で消滅時効に変更したのです。

もちろん、法的安定性と具体的妥当性の調整は困難な問題ですし、事案によって事情も異なることは十分に承知しています。それでも今回は原告らを救済するために除斥期間についての解釈を展開する余地があったと思います。そもそも除斥期間の制度は、相手方の保護、取引関係者の法的地位の安定、その他公益上の必要から一定期間の経過によって法律関係を確定させるために、権利の存続期間を画一的に定めるものですが、今回は相手方は国であり、違憲の不法行為をしたと認定している以上は、これらの趣旨はあてはまりません。損害賠償を否定することが公益に適うとも思えません。

この判決の前日には布川事件で冤罪を生み出す捜査をした警察、検察による証拠のねつ造、隠蔽、偽証などの違法行為に関して国家賠償が認められました。50年も前の違法捜査に関する国賠請求です。判決は「除斥期間」の起点は違法行為があった時点ではなく、「再審による無罪判決が確定した時」であるとして原告を救済しました。次のように理由を述べています。  「このような場合に除斥期間の進行を認めることは、再審による無罪判決の確定までに長時間を要した冤罪の被害者にとって著しく酷であるし、また、国や公共団体としても、上記損害の性質からみて、違法行為の時から相当の期間が経過した後に損害賠償の請求を受けることを予期すべきであると考えられるからである。」

結局は裁判所が原告の被害をどこまで甚大なものと認識し、国民全体で負担することが公平と考えるかにかかっているようです。法律を違憲として憲法秩序を回復する憲法保障と、当事者の救済をはかる私権保障のどちらも裁判所の重要な機能なのですから、裁判官には正しくその権力を行使してほしいと思います。そして今の日本社会に必要な公益とは何かをしっかりと意識して職権を行使してほしいと願っています。

2019年5月 1日 (水)

第285回 法曹養成制度

「口述復活、予備試験廃止を=司法試験改革で対案―国民など」という見出しで「国民民主党と衆院会派「社会保障を立て直す国民会議」は17日、政府の法曹養成制度改革関連法案への対案を衆院に共同提出した。司法試験で口述試験を復活させるほか、受験資格を得るための予備試験を廃止することが柱。立憲民主党など他の野党に協力を呼び掛けている。」という記事が時事通信から配信されました。

これを見た人の中には、「大変だ予備試験が廃止されるかもしれない」と心配になった方もいるかもしれません。時事通信としたことがとんでもない誤報です。予備試験をめざしている塾生の皆さんは安心してください。国民民主党の対案は、司法試験の受験資格を撤廃するところに主眼があります。法科大学院(LS)卒業資格も不要にし、誰でも何度でも受験できる制度にするので、必然的に受験資格を得るための予備試験は廃止することになるというものです。つまり試験を司法試験一本にしようというのです。そしてその司法試験では口述試験を復活させるという案です。また、今回の政府案においても法曹コースという法学部生のための新ルートを創設しようというもので、予備試験廃止などは予定されていません。

先月、国民民主党から声が掛かり、23日に行われた衆議院文部科学委員会に参考人として出席して意見を述べてきました。私の他に、一橋大学法科大学院の山本和彦教授、三澤英嗣弁護士、早稲田大学法科大学院の須網隆夫教授の3名もそれぞれ意見を述べ、4人で3時間ほど各会派の議員からの質問に答えました。

政府案は、法学部生に限って学部を3年で終えてLSに入学し2年目のLS在学中に司法試験を受験できるとする法曹コースを創設しようとするものです。これにより法学部生は選択肢が増えることになりますが、他学部生や社会人は蚊帳の外です。一方で国民民主党案は、司法試験受験資格を撤廃し誰でも司法試験を受験でき、試験の内容と合格後の司法修習を充実させようというものです。LSには法曹養成以外の多様な役割を担わせることを想定しています。私は国民案に賛成という意見を述べてきました。

これまで私は、法曹養成においては多様性、開放性、公平性が重要と考え、38年間携わってきました。多様な人材、特に他学部生、社会人が法曹になれることが重要と考え、法科大学院ができる20年ほど前から他学部生、社会人が法曹をめざせる教育システムを構築してきました。

2001年に発表された司法制度改革審議会意見書に「司法試験における競争の激化により、学生が受験予備校に大幅に依存する傾向が著しくなり、『ダブルスクール化』、『大学離れ』と言われる状況を招いており、法曹となるべき者の資質の確保に重大な影響を及ぼすに至っている」との記述があります。つまり、法科大学院制度は、大学の生き残り策として生まれたものでした。大学が司法試験予備校、塾から学生を取り戻すことが目的であったのですが、それはうまくいきませんでした。

当時、盛んにパターン化された答案ばかりだと司法試験合格者の資質が問題視されました。そのパターン化の原因は私にあるのですが、今回もご一緒した先生方に当時はそうした答案ばかりで法曹の質に問題があったのだと指摘を受けました。ですが、そのような答案を書いた法曹の質が低いという客観的な証拠は何一つ見つかっていません。当時、私の講義を聴いてパターン化された答案とやらを書いた合格者が20年後の今、どれほど質の悪い法律家になっているのかを証明してもらいたいものです。

たかが試験なのですから、パターン化した答案であろうが、何だろうがさっさと合格してしまい、合格後に現場で必要な知識と経験を身につけていけばよいだけです。重要なことは合格後を考えること、志をもって法曹を目指すことだと考えています。そもそも試験において有能な法曹としての能力があるかどうかなど見極められると考えるのは大きな勘違いでしょう。試験など最低限の知識があるかどうかを見定められればそれで十分なのです。

こういうことを言うと、だから、LSにおけるプロセスによる教育が不可欠なのだと言われます。しかし、それは司法試験合格後に行えばよいことです。試験合格前にプロセスによる教育といって試験と関係ないことを学習させようと強制すること自体が不自然で無理なことです。司法試験に合格するために多額の学費と時間を使って法科大学院に入るのですから、試験の合格に意識が向くのは当然のことであり、よほど余裕のある者しか、試験の不安に打ち勝って、試験と無関係な授業を真剣に受ける気持ちなどになれません。合格してからプロセスによる教育をすればよいのです。合格後の司法研修所、実務におけるOJTもプロセスによる教育ですから、これらを充実させればよいと考えます。法科大学院、司法試験、司法修習に関する縦割り行政の弊害を放置したまま、そのしわ寄せをプロセスによる教育の名の下に受験生に負担させるのはおかしなことです。

受験回数の制限がない試験制度の下で、学生が若い時期を受験勉強のために浪費した、だから受験回数を制限してあげるのだといいます。よけいなお世話です。受験回数制限など不合理なパターナリズムの極みです。自分の人生は自分で決める。憲法で保障された自己決定権です。多様な人材が自分の意思で、年齢、学歴、受験回数などに関係なく、法曹をめざせる。いつでも学習したいときに自由に学び、挑戦できる、そんな制度のどこが不合理なのでしょうか。

何よりも実は、こうした誰でも挑戦できる仕組みが、これまでこの国の「法の支配」を支えてきました。司法試験に本気で取組み、合格はしなかったものの、公務員、他の士業、民間企業、NPO、NGO、家庭、国際社会で活躍している人材が多数います。

かつて年間5万人いた司法試験志願者のうち大多数が法曹にならなかったとしても、実はこの国の法制度を社会において支えているのは彼ら・彼女らであり、十分にその学びを生かして社会に貢献しています。法曹三者のみがこの国の法制度を支えていると考えることは傲慢であり、司法試験不合格を人生の落伍者のようにレッテル貼りをする上から目線の発想はやめるべきです。また、目的をもって学んでいる時間を合格しなかったからといって、人生の浪費と評価する価値観を私は持ち合わせていません。

ところで、司法試験の一発勝負の弊害ということもよく言われます。司法試験が試験である以上、それは当然のことのはずです。オリンピック選考試合と同じで、そこまでに十分に練習する。つまり勉強をして合格する。そのプロセスがあって合格するのです。もちろん運が悪くて落ちることはあります。それはどの世界でも同じです。受験生は、折れそうになる気持ちと闘いながら、必死に努力を続けています。その厳しい勉強のプロセスがあっての合格です。それを一発勝負などということは本当に失礼千万。試験の現場を知らない者の戯言としか思えません。

誰もが最もいい時期に、それぞれの打ち込みたいものが見つかる。それを見つけたときに誰でも挑戦できる制度が教育制度として優れていると考えています。一人ひとりの能力を引き出すことが教育の本質であり、この点はどのような教育においても同じだと思います。これから試験に臨む皆さんには、それがどんな試験であっても真正面から向き合い、ベストを尽くしてきてほしいと心から願っています。真剣に努力し、その過程で得たものは、これからの皆さんのキャリアにとって、かけがえのないものになることは間違いありません。

2019年4月 1日 (月)

第284回 憲法1条と99条

憲法1条と99条は実質的には日本国憲法の最初と最後の条文です。さて、この2つの共通点はなんでしょうか。それは、共に天皇が登場することです。

1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」、99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と規定します。

この雑感を皆さんが読んでいるころには新元号が発表されているはずです。新元号は4月1日閣議決定され、現天皇の署名・押印を付した政令によって公布されます。この政令の公布は内閣の助言と承認のもとで行う国事行為(7条1号、3条)であり、天皇の意思が介在する余地はありません。天皇が時を支配するという趣旨で元号を定めてきた伝統を重視する保守派の中には、天皇の即位後に新天皇によって公布されるべきだという考えもあるようですが、それは現憲法では無理なことでしょう。

天皇による統治を強めるために明治時代に1人の天皇に1つの元号とする「一世一元」制が始まりましたが、新憲法とともに廃止され単なる慣習になっていたものが、1979年の元号法により「一世一元」が復活しました。元々は暦と合わせて皇帝が人々の時間を支配する中国の仕組みを導入したものですし、645年の「大化」以来、幕末までは厄払いの意味合いの改元も100回ほどあったというのですから、あまり一世一元にこだわることもないのにと思いますが、「天皇の元号」という意識を通じて天皇制を日本国民の中に日本人としてのアイデンティティとして浸透させたいのでしょうか。元号が単なる時間の区切りの意味を超えて排他的ナショナリズムに利用されないことを祈るばかりです。

祈りといえば、現天皇は2016年8月の「おことば」で天皇の務めとして、「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ること」と「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」の2つをあげています。それに続けて「日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。」と述べていますが、前者の祈り、つまり宮中祭祀は象徴としての行為としてよいものなのでしょうか。

これは内閣の助言と承認を必要とする象徴としての行為ではなく、あくまでも個人的な行為に過ぎないと言わざるを得ません。言うまでもなく宗教行為ですから私的なものであり、公費ではなく内廷費でまかなうべき性質の行為です。そうでなければ政教分離原則に違反してしまいます。秋篠宮が53歳の誕生日の際に、天皇の代替わりに行われる皇室行事のうち大嘗祭の費用について国費でまかなうことへ疑問を呈しましたが、真っ当な発言でした。

では、沖縄、サイパンなどの激戦地への慰霊の旅や終戦記念日に「深い反省」と発言することなどはどうでしょうか。戦争を二度と繰り返さないという平和への強い思いが伺われ、リベラルな言論人もこれらを許容するようになりました。安倍政権があまりにも憲法無視を続けるために、天皇の護憲発言が期待されるようになったからなのかもしれません。しかし他方でこれは天皇の政治利用ではないかと批判する人もいます。

この国の主権者は国民です。昭和の時代の戦争責任を明確にすることも、戦争を二度と繰り返さないことも主権者たる国民が主体的に行うべきことであり、天皇の言動を利用して解決するべきものではありません。その意味では、現天皇の護憲発言をリベラルな人々が持ち上げるのは筋が違うのかもしれません。ですが、憲法は99条で天皇に憲法尊重擁護義務を負わせています。国家機関としての天皇に、単に憲法を尊重するだけではなく、擁護する義務を課しているのです。

したがって、現天皇が即位後の1989年8月の記者会見で「国民と共に憲法を守ることに努めていきたい」と述べ、その後も憲法遵守を表明しているのは当然のことになります。ということは、天皇を尊重する保守派の方々ほど、天皇が尊重し擁護する憲法9条を大切にしなければならないのです。これは困ったことだということで、2012年自民党憲法改正草案では憲法尊重擁護義務者から天皇を削除しました。憲法を超越した存在として天皇を位置づけたいようです。ですがこれでは明治憲法よりも立憲主義が後退してしまいます。

そもそも天皇制自体が人権、婚姻の自由、法の下の平等の例外であり、世襲という貴い血を認めることは卑しい血を認めることにつながり、知らず知らずのうちに国民・市民の社会的差別意識を生み出していないか、皇位における性差別が国民レベルにおける性差別感情の温存に影響していないか、君が代、日の丸というシンボルとの結びつきの影響など議論すべき論点は多くあります。タブーなき議論が活発に行われてこそ、その「地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」といえます。

天皇の祈りや宗教儀式に、多くの国民は寛容かもしれません。しかし、信教の自由、政教分離は少数者の人権保障がその趣旨だったことを忘れてはなりません。今後、改元に続いて天皇の代替わりの儀式が行われていく中で、少数者への配慮、国民が主権者であること、言論の自由の保障等の憲法価値がメディアなどでも強く意識されることを望んでいます。

2019年3月 1日 (金)

第283回 沖縄の民意

2月24日に行われた沖縄県民投票では辺野古の新基地建設のための埋め立てへの反対が多数となりました。投票率は52.48%でその7割を超える43万人が反対、賛成は11万票で反対が大きく上回りました。私は、ここに沖縄県民の民意が再度明確に現れたと考えるのですが、新聞各紙によってこの県民投票の評価は分かれました。

25日朝刊の見出しでは、「辺野古「反対」72%」(朝日新聞)、「辺野古反対7割超」(毎日・東京新聞)と大きく報じたものと、一面で小さく「辺野古埋め立て反対71%」(読売新聞)としただけのものに分かれました。産経新聞は、「海自観艦式韓国招待せず」を一面トップに位置づけその横に「辺野古反対7割超」と伝えています。記事の中では、あえて「『反対』が全有権者の過半数には達しないことが確実となった」と報じています。読売新聞は日本一の発行部数を誇るそうですが、同日の社説でも取り上げることもなく、記事の中では、投票率が52%だったことを指摘して、「県民の参加は広がりを欠き、影響は限定的」と評価して、自民党県連幹部の「県民の総意と呼べない」との発言を引用しています。そういえば読売新聞は、3.11原発事故の後に東京の代々木公園で数万人が集まった脱原発集会が開かれたときも、社の方針に反するからといって一面では一切報道しませんでした。

このように新聞各紙によって報道姿勢が異なります。ジャーナリズムは権力を監視し批判することがその使命であることを自覚しているか否かの違いなのかもしれませんが、ますます国民・市民のメディアリテラシーが問われる時代になっているのだと実感します。

今回の県民投票の結果を過小評価したい人は、有権者総数の37.65%に過ぎない県民しか反対していないのだからこれは民意とは言えないと言いたいようです。ですが、2017年衆議院総選挙では、全有権者に占める絶対得票率で考えると、自民党は小選挙区で25.0%、比例代表では17.5%しか獲得していません。このときの選挙結果は国民の民意を反映していないと主張するのでしょうか。

また、最低投票率の定めのない憲法改正国民投票において、仮に投票率40%、賛成51%という結果になり有権者のわずか2割ほどが賛成しただけであったとしてもきっと有効というに違いありません。私は憲法改正国民投票においては最低投票率か絶対得票率の定めが必要と考えていますが、今回の県民投票においては投票率も50%を超え、有権者の4分の1を超える反対の意思表示があったのですから、沖縄県民の民意は明らかだと思います。

沖縄県民の民意といいましたが、もちろん辺野古新基地建設に賛成の県民もいます。ですが、ここで重要なことは有権者団としての沖縄県民の総意は反対が賛成を上回っているということです。「37.6%の民意」と表現して今回の結果は県民の意思ではないと言いたいのかもしれませんが、ここで問題なのは、賛成11万に対して反対43万と圧倒的に反対が多かったという事実なのです。この事実を前にこれは沖縄県民の民意ではないとは到底いえないでしょう。

沖縄での米軍機の事故は普天間基地の周辺だけで起こっているわけではありません。1972年の本土復帰以降の普天間基地離陸米軍機の墜落事故17件の内14件は普天間基地のある宜野湾市以外で起きています。辺野古新基地建設後もオスプレイの訓練は沖縄全土で続きますし、沖縄に米軍基地があることによる危険性は何も変わらないのです。

ちなみに復帰以降の米軍機事故は基地別でいえば嘉手納基地が508件であり、普天間基地の17件に比べて事故件数は圧倒的に嘉手納基地の方が多く危険です。辺野古新基地建設で県民の危険や負担が減少すると思っているのは本土の人間くらいでしょう。

今回は自民党支持層の中でも賛成40%に対して反対48%と反対が上回り、「政府は県民投票の結果を尊重する必要ない」とする21.8%に対して「尊重すべきだ」は74.8%で、賛成反対を問わず県民投票の結果を尊重するべきと考える人が圧倒的なのは興味深いことです。支持政党を超えて沖縄の方々が問題の本質を理解している証です。

今回の結果を沖縄の民意ではないという人達は、おそらく沖縄県民の圧倒的多数が反対しても、それは日本国民の総意ではないと言い出すと予想されます。国防・外交問題は国の専権事項であるから沖縄県のような地方自治体は口を出さず黙って従えということでしょう。国の政策は、国民の多数が支持しているとされる政府与党によって決められますから、沖縄県民がいくら反対しても少数派であり勝ち目はありません。

沖縄県という特定の地域の住民が反対している政策であっても国策だからという名目で沖縄に押しつけ負担を強制することはできるのでしょうか。憲法は多数決を基本とする民主主義を採用し、国政は徹頭徹尾、国会における多数意思で決定することにしています(憲法56条2項)。しかし、他方で多数によっても侵してはならない個人の人権を保障しています。憲法を学ぶと、多数から少数を守るために憲法が存在することを理解することができます。

国防・外交問題が国の専権事項だからというだけでは、国が地元住民の声や人権を無視する正当な理由にはなりません。国防・外交問題が国の専権事項だというのは1つの解釈にすぎませんが、仮にそうだとしても民主主義という基本原理、地方自治の本旨は憲法事項なのですから、明らかにこちらの要請の方が優先することになります。繰り返しますが、国の専権事項だからといって、住民の意思を無視していいわけではありません。住民の意思を尊重して国の政策としての国防・外交を実現しろというのが、地方自治をあえて憲法で保障した日本国憲法の要請です。

憲法は92条で地方自治の本旨、つまり住民自治と団体自治を保障し、95条ではある地域の住民の権利のみを制限することになるような法律制定は地域住民の同意がないとできないとしています。その趣旨は、いくら多数派の代表である国会であっても、一地方に不利益な法律を押しつけてはいけないというものです。法律ですら、そのような押しつけは許されないのですから、単なる政策が一地方の住民意思を無視して押しつけられて良いわけがありません。

憲法は、安全保障政策であろうが、外交政策であろうが、金融政策であろうが、特定の地域の住民の意思を無視してその地域に国の政策を押しつけることを許してはいません。それが明治憲法と異なって、地方自治を憲法であえて保障した意義です。

そして日本国憲法が想定する民主主義は、こうして地方の住民の意思を尊重して、その同意を得ながら進められるべきものなのです。およそ一般的に民主主義は少数者の意見を尊重して十分な討論を経て、最後は多数決で決めるプロセスをいいます。しかし、特に一地方に不利益を及ぼすような政策は、仮に少数意見となるようなその地域の声を十分に聞いたとしても、その地域住民の意思を無視しては強制できないという制限が付いた多数決が要請されているのです。

辺野古新基地建設については、沖縄県民の声を十分に聞いて実質的な対話がなされたとは到底いえないまま強行されています。この時点でアウトですが、仮に十分に意見を聞いたとしても国レベルの多数決によって不利益を押しつけることはできないのが、92条と95条を持つ憲法の下での民主主義なのです。

ある小学校のクラスで、みんなでいじめの対象となる子を多数決で決めていじめることなど許されないことは子どもでもわかります。仮にこんな事をするのであれば、みんなが順番にいじめられ役にならなければおかしいでしょう。本土が受け入れないからという政治的理由でいつまでも理不尽な負担を沖縄に押しつけ続けるのは、まともな感性を持った人のやることではないと思っています。これから法律家・行政官をめざす皆さんには知性とともに感性を豊かにし、志を推し進める熱い心も鍛えていってほしいと願っています。

2019年2月 1日 (金)

第282回 個性の多様性

昨年以降、『ボヘミアン・ラプソディー』という映画が大ヒットしているようです。私も若かりし頃、深夜放送から流れてきたこの曲を聴いたときの衝撃を今でも鮮明に覚えています。フレディ・マーキュリーの歌声と斬新な曲想が耳から離れませんでした。一人一票裁判では不当な判決を「ガリレオ判決!」と叫んでいますが奇抜さでは負けています。インド系両親、タンザニアにあるザンジバル島生まれ、イギリス式教育、大学で芸術とデザイン専攻、これだけでも多様性を地でいっているような生き様ですが、そこにバイセクシャルも加わります。それらすべてが彼の個性であり、彼の魅力の源泉であることを否定する人はいないでしょう。

人はさまざまな要素によってその個性を作ります。年齢、外観、容姿、人種、民族、国籍、宗教、既婚未婚、職業、学歴、地位、趣味、能力、障がい、性的指向、世界観、人生観、思想・信条、死生観、経験、その他。この「その他」にはさらに多くの要素が含まれます。つまり、人の個性は無限の要素からできあがっているのです。

私たちは、ときどき、そんな多様な人間をある要素だけみて、カテゴライズしたり、その他の無限の要素に思いが至らず決めつけをしたりしてしまうことがあります。それを差別とか偏見と呼ぶのだと思っています。もういい年の大人なんだから、弁護士だから、裁判官だから、検察官だから、公務員だから、こんな学歴だから、などといって自分自身を枠に当てはめてしまうのみならず、他人をも枠にはめようとする人もいます。そうしたものの見方自体ももちろんその人の個性のひとつですが、私はあまり好きではありません。

男性だから、女性だから、LGBTだからという要素が人の評価要素になること自体がなくなれば良いのになとも思います。最近もLGBT議員が当選などとニュースになります。もちろん、政治の世界で性的多様性が実現することは極めて重要なことだと考えています。昨年末に発表された世界経済フォーラムによる男女平等ランキングでは149ヶ国中、日本は110位でG7の中でダントツ最下位です。中でも国会議員数は130位ですから目を覆いたくなるばかりです。男女すらこの状況なのですから、市民社会における性的多様性など夢のまた夢かとも思いたくなります。

LGBTにQ(Queer)を追加することも最近では目にするようになりました。一風変わったとか奇妙なというような意味ですが、普通じゃないというニュアンスがあるような言葉です。ですが、性において普通とは何なのでしょうか。L(レズビアン・女性の同性愛者)G(ゲイ・男性の同性愛者)B(バイセクシャル・両性愛者)は性的指向のことであり、T(トランスジェンダー・身体の性と心の性の不一致)という性自認の問題とは性質が違います。これらを並べて、Qを追加したとしても、”普通ではない”とされる性の個性を一定のカテゴリで整理したものといえます。

ここで前提とされている”普通の性”とは何なのでしょうか。「女の身体に生まれて、自分を女と自認して、男を好きになる人」、または「男の身体に生まれて、自分を男と自認して、女を好きになる人」の2つを想定しているようです。ですが、自分の身体的特徴、性自認、性的指向という3つの要素だけでも、男、女、どちらでもない、どちらでもいい、わからないなど様々な傾向があります。その掛け合わせですから、相当なバリエーションがあります。

身体は男だけれども自分を女性と自認したうえで女性が好きなレズビアンもいるわけです。さらに表現する性(Gender Expression)の多様性を含めると本当に多様です。表現する性とは、仕草や服装、言葉遣いなどです。見た目の「男らしさ」、「女らしさ」ともいえるもので、そもそもこの「らしさ」は社会によって異なります。男性の身体で男性と自認し女性が好きだけれども、仕草や言葉遣いは女性的という人もいます。整理すると以下のようになります。

・性的指向(Sexual Orientation) 好きになる性であり恋愛感情や性欲が向かう先
・性自認(Gender Identity) 主観的に自分をどう自認するかの性
・性表現(Gender Expression) 表現する性
・身体の性的特徴(Sex Characteristics) 身体の特徴としての生物学的な性

そしてそれぞれが男、女と2分できるものでなく、無限のグラデーションがあります。Sexual Orientation, Gender Identity, Gender Expression, Sex Characteristics, これらをまとめて、SOGIESC(ソジエスク)と呼びます。これはLGBTQのように人をカテゴライズして分類する類型ではなく、誰もが持つ性の多様な要素に着目したもので、すべての人の個性を表現する言葉と言えます。私は早くLGBTQよりもSOGIESCが広まればよいなと思っています。

ニュースでLGBTQの政治家や法律家という形で取り上げられることがなくなる社会を目指すのが憲法13条前段の個人の尊重です。どんな属性や要素を持っていても、誰もがそこに命を持って存在するだけで価値がある。この「存在価値」を認めようとすることが人権の本質であり、個人の尊重だと考えています。それは人をカテゴリで括って評価することをやめようという考え方につながります。

統計問題でも厚労省の官僚はとか、日本の役人の質が下がったとかいう決めつけ、改憲派、護憲派というレッテル貼り、徴用工問題やレーダー照射事件を受けて韓国、韓国人へのラベリングなどは、もうやめたらどうでしょうか。抽象的な概念での決めつけは、問題の本質を見誤る危険があります。

法律家や公務員は問題の本質を見極め、適切な対処をしていく仕事です。皆さんには誰もが持つ個性の多様性を踏まえて、一人ひとりの幸福追求をサポートする法律家や行政官をめざしてほしいと願っています。

2019年1月 1日 (火)

第281回 謹賀新年

一昨年の雑感268号で自衛隊明記の改憲について、「一人でも多くの国民が、「災害救助で頑張っている自衛隊がかわいそう」などという感情論に流されないでほしい、ここに指摘したことが杞憂に終わることを心底願っている」と書きました。その気持ちは今でも変わりません。それどころかますます危機感を強く持っています。新年早々、物騒な話はやめてほしいという塾生もいることかと思います。政治と宗教の話は遠慮するという日本の風土が、自立した市民となることを遠ざけてきたと考えているものですから、不興を買うのを承知であえて、正月からこんな話題で書いています。

おさらいです。まず「自衛隊明記」の改憲によって何も変わらないというウソはいけません。たとえば、9条に関する改憲案について、自民党内で検討されている有力なものは、9条はそのままにした上で、次のような9条の2を追加するというものです。

第9条の2 (第1項)前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。 (第2項)自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。

この9条の2の1項は前段と後段に分かれますが、「前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず」という前段部分は、「後法は前法を破る」という法原則によって、形式的には残される9条が上書きされ空文化することになります。自衛隊の存在は合憲となりますが、それと同時に「国及び国民の安全を保つため」という名目で戦力の保持も交戦権も「必要な自衛の措置」として認められることになります。仮に「必要最小限の自衛の措置」とされたとしても必要最小限という文言は気休めに過ぎず、歯止めにはなりません。フルスペックの集団的自衛権行使も核兵器保持も必要最小限の自衛の措置として認められることになります。

1項後段の「そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。」という部分は、まさに自衛隊の保持を明記する規定となります。これにより自衛隊が憲法上の組織に格上げされることになりますが、国会、内閣、裁判所などに並ぶ憲法上の組織となることで、これまでとは桁外れの独立性と権威が自衛隊に与えられることになります。この規定を根拠に自衛隊の活動範囲が広げられ、防衛費がさらに増加し、軍需産業を育成して武器輸出も促進され、自衛官の募集が強化され、教育現場では国防意識も浸透させられ、大学等に学問や技術の協力を要請していく等、高度国防国家をめざして、社会のすみずみまでが軍国主義化していく危険があります。

そして、「内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊」と規定されることから、総理大臣による文民統制が及ぶようにみえますが、逆にこの規定は総理大臣が自由に自衛隊を動かす根拠規定にもなり、あたかも戦前の統帥権が復活したかのようで極めて危険です。2項において「国会の承認その他の統制に服する。」と規定されますが、これは国会以外の統制でもよいとする根拠になります。政治家の方が好戦的であるといわれる今日、文民統制は幻想だと考えておいた方がよいと思われます。

一方で、自民党内の議論では、「歴代政府の九条解釈を維持したまま、内閣統制下の自衛隊であることを明記する」案も提案されていました。すなわち、

第9条の2 前条の範囲内で、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つため、法律の定めるところにより、行政各部の一つとして、自衛隊を保持する。 とするものです。

確かに、「前条の範囲内」とすることで9条が上書きされ削除されるのを避けられているように思えます。しかし、先に述べたように、自衛隊を憲法に明記することによる様々な弊害は、そのまま残ることになります。そして、そもそも、自衛隊を明記したとしても、違憲の疑いは払拭されません。自衛隊がなぜ違憲の存在と指摘され得るのかというと、自衛隊の現実の装備や活動などが戦力不保持、交戦権否認という禁止規範(9条2項)に抵触し得るためです。これを違憲と指摘されないようにするには、大前提となる禁止規範を変更するしかありません。つまり、法的規範としての意味そのものの9条2項を変更し、戦力保持を許すか、例外を認めるしかないのです。よって「何も変わりません」とすることと、「自衛隊の違憲の疑いをなくす」とすることは両立しないのです。にもかかわらず、「自衛隊明記」の改憲によって何も変わらないといって国民を欺すようなことは許されません。

これまで日本の政策はかなりの部分がアーミテージ・ナイ報告というアメリカのシンクタンクの提言のとおりに進んできました。原発推進などのエネルギー政策はもちろん、「武器輸出三原則」の緩和、集団的自衛権行使などの防衛政策も基本的にはこれに従っています。昨年10月に4回目のレポートが発表されました。そこでは米軍との一体化をより強固なものにするために合同機動部隊や合同作戦司令部の創設、武器の共同開発を求め、自衛隊が米軍の一部として相応の軍事的役割を担うことや自衛隊基地、民間施設を米軍が軍事使用できるように要求しています。 自衛隊は専守防衛を踏み越えて敵基地攻撃もできる強力な打撃力を持つようになりました。護衛艦「いずも」の空母化、長距離巡航ミサイル保有、戦闘機など米国製武器の大量購入など自衛隊がどんどん変質していっています。そうした中での自衛隊明記の改憲です。ぜひ皆さんの健全な想像力を発揮してほしいと思います。

ある雑誌の取材で、私の強みを聞かれ「きれいごとをまともに言い続けられる単純さ」と答えました。塾生の皆さんに「やればできる!必ずできる!」と激励するのもそうですし、憲法価値を語り続けるのもその一環です。「そんなのはうまくいかない」と斜に構える人が多い中で、「平和や自由っていいよね」と言い続け、「憲法9条なんか今時お花畑」と小馬鹿にされても、非軍事中立という理想を説き続ける。そういうピエロのような存在がいてもいいと思っています。きれいごとを真正面から言い続けるのは、相当エネルギーのいることですが、発言し続けることに意味があると思っています。

今年は、5月に元号が変わります。元号には賛否両論ありますが、これまで用いられてきた「平成」は、国の内外、天地とも平和が達成されるという意味だそうです。平成の30年間、日本はそれなりの平和を維持してきました。あくまでも「それなりの」平和でしかありませんが、それでも日本国憲法の存在が大きかったと思います。平成が終わっても日本国憲法の核心を終わらせてはなりません。わたしたち一人ひとりが自分の頭で改憲について考え、さらにまわりを巻き込むべき時期に来ていると思います。

2018年12月 3日 (月)

第280回 先例主義

裁判とは、原告、被告双方の言い分を聞いて、その食い違う争点に対して裁判所が憲法、法律に基づいて判断するものです。ところが、これまでの一人一票実現訴訟において、裁判所は私たちが提起した争点に対してまったく応答してきませんでした。

私たちの主張は、この問題について、憲法14条1項で規定されている法の下の平等違反を訴えるものではなく、前文第1文前段、1条、56条2項が要求する主権者による多数決という統治論に基礎を置くものです。主権者国民の44.8%という少数が国会議員の過半数を選出することになるような選挙区割りは、国民が主権者であることを前提とする憲法の下では許されないと主張しているのです。それは昭和51年4月14日最高裁大法廷判決とはまったく異なる理論構成による違憲無効の主張です。

しかし、そのことをこれまで最高裁判事が全く理解していなかったことが昨年9月27日の大法廷弁論で明らかになりました。このとき久保利英明弁護士が「我々は憲法14条に基づく人権論ではなく統治論に基づき憲法違反を主張している」と述べたことに対して、寺田逸郎最高裁長官から「代理人らは、本件選挙が、憲法14条等の法の下の平等に違反しているから違憲、と主張しているのではないのですか?」と質問されたのです。このように最高裁弁論の場で、最高裁判事から代理人に質問がなされること自体、前代未聞のことだそうです。そして、その質問内容から、我々の主張を長官をはじめ全く理解していなかったことがわかり、率直にいって大きな衝撃でした。そこで11月28日に行われた最高裁弁論(昨年10月22日施行衆議院議員総選挙に関する選挙無効裁判)においては、我々はあくまでも統治論を主張しているのであり、それが採用できないのであれば、その理由をしっかりと述べてほしいと訴えてきました。

これまでのような憲法14条1項の法の下の平等論では、不合理な差別は許されないが、合理的区別は許されるという相対的平等の考え方から、結局、合憲性判断は合理性の有無という抽象的かつあいまいな判断に委ねられてしまいます。ですが、主権者国民による多数決で国政運営しなければならないという統治論からの人口比例選挙の要請であれば、主権者による多数決が機能しているか否かを判断すればよいだけであり、判断基準は極めて単純かつ明確なものとなります。そしてこの要請による人口比例選挙を歪める必要性があるのであれば、それを国民が納得できるように説明する責任は被告にあるのですから、裁判所はそれが被告によって証明されたか否かの判断をすればいいだけなのです。

こうした判断枠組みは極めて単純明快なものと思われるのですが、私たちがこうした主張をしていたことをなぜこれまで裁判所に理解してもらえなかったのでしょうか。それは裁判所の先例主義に1つの原因であるように思えてなりません。優秀な最高裁調査官も含めて、あくまで先例の枠の中で判断しようとする姿勢に原因があるのではないでしょうか。 もちろん、法的安定性や継続性も重要な価値であり考慮すべき要素ですが、私たちは、決して思い付きでこうした統治論を主張しているのではありません。9年にわたる裁判において確信をもって一貫して主張し続けているのです。

先例に縛られて過去の判例の枠組みの中でしか判断しないのであれば、法律学の進歩はありません。どんな学問分野でも同様ですが、従来の枠にとらわれない柔軟な発想の中からしかその学問の進歩は生まれません。自然科学の世界では実験を繰り返して仮説を検証するのですが、法学のような社会科学の世界では、建設的な対話、議論・討論を通じてよりよいものに近付けていくのだと思います。対話を通じた不断の努力によってこそ社会は進歩していくものだと確信しています。そして、意味のある対話、議論・討論をするためには、お互いがその主張の根拠・理由を示さなければなりません。

国会においても、移民政策の是非について全く建設的な議論もなされないままにこの国のかたちが変わろうとしています。保守と言われている人達の手によってこうした横暴な国政運営がなされようとしていることに驚きますが、個人の尊重を否定する改憲案を提示している自民党ですから、その点では一貫しているのかもしれません。しかし、議論・対話も無しに単なる安い労働力という道具として外国人を扱うような法律を強行採決して成立させてしまうことは、いつか必ず大きなしっぺ返しを食らうことでしょう。

さて、裁判所が、私たちの統治論の主張に対して何らの応答もしないというのでは、理由を付けて裁判がなされたことにはなりません。民訴法253条1項3号で判決書に記載を義務付けられているところの「理由」は、これが求められている趣旨から考えれば、判決の結論を導くための理由です。 従って、裁判官が、本件選挙は憲法に違反していないとの結論を採るのであれば、私たちが「統治論に反して憲法違反である」と主張しているのですから、「統治論に反していない」ことの理由を、結論を導くための理由として判決書に記載することが義務付けられているはずです。「憲法14条1項違反ではない」ことの理由を述べるだけでは、本件選挙が憲法に違反していないことの理由を記載したことにはなりません。 通常の事件は最高裁で判断がなされると、さらに争う道は再審しかありません。ですが、幸か不幸かこの一票裁判は違憲の選挙が行われる度に繰り返すことができます。そこで最高裁の判断に対して次の裁判で反論したり、さらに理論を深めたものを主張することができるのです。

最高裁大法廷の代理人の座席は、15人の裁判官の方に向けて作られています。通常の裁判所の法廷は原告、被告が向き合う形で代理人席が配置されていることと比べて特徴的です。これは最高裁を、御白洲に座ってお上の沙汰を受ける評定所とするためではなく、代理人が裁判官と対話するためにこのような座席配置がなされているのだと思っています。

今後も対話を否定し、過去の先例に従うだけの裁判が続くのであれば、近い将来、裁判は人工知能(AI)にとって代わられるでしょう。過去の膨大なデータから先例に従って結論を導き出すことは人工知能が最も得意とすることだからです。先例主義を打破した新たな創造の中からしか、司法の未来も生まれないと考えます。

昨年の総選挙は、国会においていわゆるモリカケ問題などで政府を追及しようとする衆参両院の各4分の1以上の国会議員による臨時国会の召集要求(憲法53条)を98日間もの長きにわたり無視し、その後ようやく開かれた国会の冒頭で行われた衆議院解散後の選挙です。憲法の規定に則って行政監視機能を発揮しようとした少数会派の国会議員が要求した国会すら開かれず、このような憲法無視のあげくに行われた選挙という特異なものでした。

またこの選挙で、自民党は、自衛隊の明記、緊急事態条項、参院選の合区解消、教育無償化・充実強化の4項目で改憲を目指すことを選挙公約として初めて掲げました。本件選挙の結果を受けて、現国会議員が憲法改正を発議することにでもなれば、その正統性が、これまでの法律制定のとき以上に問われることになります。国民の多数によって正統性を与えられていない国会議員による発議によって、国のかたちが変えられてしまうことは、国民にとってはこの上ない悲劇です。

もし最高裁が、自らその存在意義を否定するような消極的な姿勢によって、政治部門の判断を追認してしまうような判決を出すとしたら、政治的な問題に巻き込まれたくないという最高裁の意図とは全く別の結末を迎えるおそれがあります。最高裁であっても、政治部門の意向を忖度する極めて政治的な機関であるとの印象を国民に与えてしまい、かえって国民からの信頼を失ってしまうことにつながると思われるからです。今回の選挙に至る経緯のように憲法無視の政治運営が続く中で、最高裁を含むあらゆる権力が政権与党に忖度し、その意向に異論を唱えることができないようであれば、この国はとても立憲民主主義国家とはいえないでしょう。

最高裁は平成30年10月17日岡口基一裁判官に対する懲戒処分決定において、「裁判の公正,中立は,裁判ないしは裁判所に対する国民の信頼の基礎を成すものであり,裁判官は,公正,中立な審判者として裁判を行うことを職責とする者である。」と判示しています。私はこの決定には全く反対なのですが(第279回雑感)、仮に裁判官は私生活上の行状においても国民の信頼を得ることが必要だというのであれば、裁判内容によって国民の信頼を得ることはさらに必要かつ重要なことであるはずです。

最高裁判所は最高の裁判をするところでなければならないと国民は考えているはずです。是非その期待に応えて最高裁への信頼を確保してもらいたいと思っています。そして、皆さんには先例主義にとらわれず、自由な発想で未来創造的な仕事をする法律家、行政官になってもらいたいと願っています。

2018年11月 1日 (木)

第279回 裁判官の独立

憲法では司法権の独立に関して、外部からの独立だけでなく、司法内部における個々の裁判官の独立も重要なことを学びます。「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定する憲法76条3項が実効性を持つためには、裁判官が司法行政の統制からも自由であることが必要となります。報酬、任地、昇進などにより統制されるようでは、裁判官が自らの良心に従って独立して裁判などできないからです。もちろん、ここの統制には懲戒処分も含まれます。不当な処分を恐れて裁判官が萎縮するようでは、裁判官の独立、司法権の独立そして司法への国民の信頼は失われてしまうからです。司法権という権力の正統性の根拠は国民の信頼にあります。裁判結果が正しいかどうか誰にもわからないからこそ、公正な裁判がなされるはずだという信頼が裁判所の存立基盤なのです。

2018年10月17日、最高裁大法廷は東京高裁判事岡口基一裁判官に対する分限裁判において全員一致で驚くべき決定をしました。1つのツイッターでのつぶやきを根拠に戒告という懲戒処分を言い渡しました。しかも、非公開で、適切な事前告知もなく、不服申し立て機会も保障されない、適正とは到底いえない手続きでの制裁処分でした。企業内の不当な処分であれば裁判所での救済の可能性がありますが、裁判所による不当な処分ではどうしようもありません。以下が東京高裁長官による懲戒申立て理由です。

被申立人(岡口裁判官)は、裁判官であることを他者から認識できる状態で、ツイッターのアカウントを利用し、平成30年5月17日頃、東京高等裁判所で控訴審判決がされた犬の返還請求に関する民事訴訟についてのインターネット記事及びそのURLを引用しながら、「公園に放置されていた犬を保護し育てていたら、3か月くらい経って、もとの飼い主が名乗り出てきて、「返して下さい」」。「え? あなた?この犬を捨てたんでしょ? 3か月も放置しておきながら・・」、「裁判の結果は・・」との投稿をインターネット上に公開して、上記訴訟において犬の所有権が認められた当事者(もとの飼い主)の感情を傷付けたものである。 被申立人の上記行為は、裁判所法49条所定の懲戒事由に該当し、懲戒に付するのが相当であるので、本申立てをする。

「公園…返して下さい」までが事実経過と原告の主張、「え?…放置しておきながら・・」が被告の反論、改行して「裁判の結果は・・」とツイッターでつぶやいたものです。これを裁判官の「品位を辱める行状」と断じて戒告という制裁をしました。ここには表現の自由、裁判官の市民的自由、適正手続き、司法権の独立など指摘し批判するべき憲法論点が満載です。その中でも特に、この懲戒申し立ての真の理由が、ツイッターをやめるように東京高裁長官から言われた岡口裁判官がそれを拒否したことにあると思われる点に問題の深刻さを感じます。

最高裁に提出された東京高裁事務局長の報告書があります。そこには、東京高裁の長官と事務局長が岡口裁判官を呼び出し、2人からツイートを続けるということであれば、それを前提にして分限裁判を検討せざるを得ない趣旨のことを繰り返し迫られた様子が記載されています。つまりツイートをやめるように言われたのにやめなかったから懲戒申し立てがなされたことがよくわかります。裁判所幹部が権力を笠に着て表現行為の事前抑制をしているのです。表現の自由の侵害であると同時に、こうした強制を世間ではパワハラといいます。職務上の優位性を利用して義務のないことを強制しているからです。これだけ世間ではパワハラが問題になっているのに、エリート裁判官が強要罪まがいのことをしてしまうとは、裁判所がいかに世の中の感覚とずれているかを露呈してしまったようです。

裁判官を官僚的に統制しようとしたけれど、それに屈することなくツイッターで発信を続ける岡口裁判官のような存在を許したくないということなのでしょう。どうも最高裁の守ろうとしているものは、司法に対する信頼ではなく、司法官僚制度そのもの、官僚的統制のように思えます。裁判官全体に、「余計な発言をするな」と恫喝し、その萎縮効果を狙ったのだと思われます。しかし、うるさくて目障りな裁判官を排除することによって司法への信頼を獲得できるとは到底思えません。

裁判官にも市民的自由があります。もちろん、職業柄それが制限されることはあるとしても、表現の自由に関しては特に必要最小限の規制でなければなりません。懲戒処分決定の中で、最高裁は「裁判を受ける権利を保障された私人である上記原告の訴訟提起行為を一方的に不当とする認識ないし評価を示すことで、当該原告の感情を傷つけるものであり、裁判官に対する国民の信頼を損ね、また裁判の公正を疑わせるものであるといわざるを得ない。」としています。前記のツイートがどうしてこのような評価になるのか、明確な根拠も書かれておらずさっぱりわからないのですが、説得力がないことだけは確かです。

懲戒申立て理由にもとの飼い主の感情を傷付けたことも挙がっていました。公開されている判例を紹介された当事者が感情を害することはあることですが、それが懲戒の理由になるというのは解せません。表現行為はときに誰かに不快感を与えてしまうことがあります。私のこれまでの雑感でも読んで不快と感じた人がこれまで何人もいるはずです。裁判官だから他者の感情をいささかも逆なでするような発言は、仕事を離れてもしてはならないとしたら事実上、一切の対外的な発言はできなくなります。もともと表現の自由はある程度の寛容を必要とします。今回の懲戒とは無関係ですが、岡口裁判官のこれまでのツイッターでの表現が不快だという人もいます。自分の好まない表現行為であってもある程度認め合う寛容性のない社会においては表現の自由は死滅します。裁判官は一切の対外的発言を控えて息をひそめて暮らし、とにかく裁判だけに専念しろということでしょうか。

裁判では人間の営みを問題にします。人間生活の多様性を理解できない人に裁判官は務まりません。裁判官も直接、間接の多様な経験を経て、人間について学びを深めていくのです。裁判所外の事象にも積極的な関心を持ち、広い視野と洞察力で理解し、高い見識を備える努力を続け、一市民として社会で生活する中で苦労し、悩みながら生きることによって、人間力を高め、当事者、国民の納得する裁判が可能となるのだと思います。裁判官は判決内容の説得力で評価されるべきだし、多様な裁判官がいていいと思っています。私生活など人それぞれですし、ものの見方も多様でいいはずです。裁判官の私生活上のあるべき姿など最高裁の官僚裁判官に決められるはずもありません。

「裁判官はみなこういうものだと思われてしまうことは非常に問題だ、という判断を最高裁がしたということだと思うし、判断は正しいと思う」という指摘をWeb記事で見ました。仮に多数とは異なる印象を与える裁判官がいたとしても、「裁判官は皆こうだ」とは考えないでしょう。もし市民がそう考えるとしたら、それは市民の側が人間の多様性を理解できていないからにほかなりません。裁判官に対して持つ一定の枠に縛られてしまい、多様な裁判官がいるはずだということを認識できていないか、そこに価値を見出さないということです。

裁判官は裁判外では学術的な発言以外は一切表現行為をするなということであれば、SNSを駆使して表現するべきものを持っている人間にとってはとてつもない苦痛を伴います。よって、その苦痛から解放されるためには表現するべきものを心に持たないという自衛本能が働くことでしょう。つまり、政治を含めて世間の出来事に関心を持たなくなるのです。思想的な内省も、自らの哲学に基づく価値基準も持たない裁判官が育成されていきます。これが裁判所の求める裁判官の中立性ということでしょうか。最高裁が統制しやすくなるのは確かでしょうが、こうして裁判官から市民的自由を奪うことは国際水準から大幅に後退し、民主主義国家として世界から認知されない恐れがあります。そして裁判官自身の市民的自由すら保障されないのですから、裁判の当事者の自由が保障されるという信頼は遠のくと考えるのが合理的だと思います。そして裁判所が政治部門から独立して権力監視機能を発揮し、憲法保障機能を果たせるのか疑問に思えます。

最高裁は、国民の信頼を得ようと岡口裁判官を懲戒したのでしょうが、逆に国民の信頼を失っているように思います。また、こんな理不尽な強制があり、私生活まで統制されるような息苦しい職場はまっぴらごめんだと敬遠する若者も増えてくる気がします。今後、裁判官に任官を希望する修習生は、自らの出世だけを考えて最高裁にひたすら従うヒラメ候補か、こうした司法を放置しておくわけにはいかない、中から変えていこうという高い志を持つ者かいずれかでしょう。もちろん、後者の裁判官を精一杯応援します。岡口裁判官にも理不尽に屈することなく裁判官としてさらに発信し続けてほしいと心から願っています。

2018年10月 2日 (火)

第278回 沖縄と幸福追求権

正直、ほっとしました。沖縄県知事選挙です。8万票ほどの差をつけて玉城デニーさんが当選しました。辺野古新基地建設を強行している政府は自民、公明両党が幹部を送り込み、党を上げてなりふり構わず佐喜真候補を支援していました。組織票では圧倒的に不利でしたし、デマ情報も飛び交い、辺野古問題を争点にしないようにする相手の戦術も功を奏しているとも言われていたので本当に心配していました。しかし、結果は、復帰後の知事選では過去最多票を得ての勝利でした。無党派層の7割が玉城氏に投票しました。辺野古新基地反対、安倍政権にノーを突きつけた県民の誇りと意地を見せてくれました。

普天間基地が世界一危険な基地だから辺野古に移転するのだと政治家がよく正当化します。しかし、嘉手納基地周辺では普天間の30倍もの事故が起きています。その嘉手納を放置しているのですから、本気で県民のために基地の危険性を除去する気があるとは思えません。米兵事件も沖縄全域で起きています。本土復帰後だけでも2017年までに約6千件起きています。年間130件にも上る米兵事件の犠牲を沖縄は強いられているのです。

基地問題だけでなく、自立経済の確立が沖縄の急務であることは確かです。県民の暮らしの厳しい現実は様々な指標からも見て取れます。大学進学率は39%で全国最低(全国では55%)、高校進学率も全国最低、社員の43.1%は非正規社員(全国は38.2%)、離職率も高く、3年目には高卒の約6割、大卒では4割強が離職し転職先を探している状況です。観光業が脚光を浴びていますが、年収100万円以下の低賃金に1万8千人がもがきながら日々を過ごしています。その上待機児童の割合も全国で最悪です。

沖縄はこうした現実をも乗り越えていかなければなりません。新たに生まれ変わるための困難も多々待ち受けていることでしょう。ですが、沖縄は可能性に満ちています。かつての基地依存経済は、基地返還後の跡地利用による商業拠点化、観光地化などにより大きく変貌しようとしています。太平洋のビジネス拠点、東アジアの物流拠点、高齢化社会を見据えての移住者用リゾート、エコツーリズム、医療ツーリズムなどの新しい観光拠点となっていく可能性を秘めています。

ところが、こうした沖縄の発展も沖縄が自分たちで決めることができません。米軍基地問題、最近の宮古島、石垣島などの自衛隊ミサイル基地問題は、沖縄の民意を無視して、「本土の民意」によって負担を押しつけられています。今回の知事選挙によっても沖縄の民意が明確に示されたのですが、国はその民意を尊重しようとする気配を全くみせません。「沖縄のことは沖縄で決める」という当たり前の地方自治の本旨が沖縄ではなかなか実現しません。産経新聞は社説で、「米軍基地を国内のどこに置くかという判断は、国の専権事項」だとし、それに従うのが民主主義の基本だという観点から玉城氏に「防衛の最前線である沖縄の知事である自覚をもってほしい」と述べています。地方自治の本旨や憲法95条の精神など全く無視して、国民の多数が決めたことに地方が従うのが民主主義と言わんばかりです。

ここには、ヤマト(本土)の人間の幸福追求権のためには、沖縄の幸福追求権は無視してもかまわないという発想が見て取れます。その発想は、国民の幸福追求権のためには集団的自衛権行使も必要だという2014年閣議決定、そして自衛権行使を認めるのも幸福追求権のためだという政府の見解にも共通するものがあります。安保の負担は沖縄だけに押しつけてその利益は全国で享受する。それが本土の国民にとっての幸福追求権なのでしょうか。

そもそも幸福追求権(憲法13条)を根拠に自衛権を説明することは正しいのでしょうか。 木村草太教授は、憲法13条後段に基づき、個別的自衛権を行使する自衛隊を合憲とします。同条は、「国民の生命、自由、幸福追求の権利」が「国政の上で最大限尊重される」と定めているところ、「この『文言を素直』に読む限り、日本政府は、犯罪者やテロリストからはもちろん、外国からの武力攻撃があった場合も、国民の『生命』や『自由』を保護する義務を負っている。外国の武力攻撃を排除するには、外国に対する実力行使すなわち武力行使が必要になる場合もあろう。」とされ、「『憲法13条で、憲法9条の例外が認められる』という解釈は、憲法の文言の『素直』な理解であり、帰結も『自然』である。また、多くの『国民の理解』もある。」(2016年7月2日 現代ビジネス「いまさら聞けない『憲法9条と自衛隊』~本当に『憲法改正』は必要なのか?」より)と結論づけています。

この説明は、戦力不保持規定をもたない国の、軍事力の実質的根拠の説明としては説得的かもしれません。しかし、悲惨な戦争を経験した日本国民は、自らの生命・自由・幸福追求、ひとことでいえば自らの個人としての尊厳を確保するために、あえて、9条を日本国憲法のなかに規定しました。外国からの武力攻撃を排除するための武力行使を13条で根拠づけることを9条の存在自体が否定したのです。仮に国に国民の幸福追求権を実現する義務があるとしても、それは軍事力以外の方法によることを9条は国家に義務づけていると解すべきなのです。

そもそも13条は本来的には、国家に対して、国民の幸福追求権を侵害することを禁じている自由権規定であり、社会権規定のように国家に幸福追求権を実現する作為を義務づけているものではないはずです。仮に国民の幸福追求のために国家はどんな行動をとることも許されるというのであれば、国民の幸福追求のために、海外での軍事行動も許されることになってしまいます。自存自衛のための戦争すら国民の幸福追求のためとして肯定されることになることでしょう。日本を取り巻く安全保障環境の変化によって、国民の幸福追求のために必要だからという理由で、集団的自衛権行使容認の閣議決定や法律制定が行われました。13条を根拠に自衛権を基礎づけるとそこには何の歯止めもかけられません。そして、国民の幸福追求のためだという理由で人々の人権を制限することも可能になります。13条は政府にとっては、国民の自由を制限するときにまことに都合のいい規定にもなってしまうのです。同じ理屈で、本土の幸福追求権が沖縄の幸福追求権を侵害してしまうのです。

国家に国民の幸福追求を支援する責任があるとしても、あくまでも憲法9条の枠内でそれを実現することを憲法は要求しているのです。13条があることは戦力を持つことの決定的な理由にはなりません。それと同じく、外交防衛が国の専権事項だからといって、本土が決めたことに沖縄という地域が無条件で従わなければならない理由もありません。地方自治の本旨(住民自治・団体自治)という憲法上の歯止めがあるはずなのです。

今回の知事選では、米軍統治下の沖縄で米兵を父に持つ母子家庭で育った玉城氏が、多様性の尊重を訴えました。独自の子どもの貧困対策も実体験に基づくもので説得力がありました。これまで歴代の沖縄知事は本土からの無知、偏見、不条理と闘ってきました。玉城知事には多様性への無知、偏見からくる攻撃もあることでしょう。負けないでほしいと思います。多様性を認め、一人ひとりの個性に応じた幸福追求権を保障することこそが憲法価値の実現につながります。本土の一市民として玉城知事の多様性尊重の姿勢を支持、支援し続けていきたいと思っています。

2018年9月 3日 (月)

第277回 変化

1995年に伊藤塾を立ち上げ、最初の雑感で私が期待する法律家について書きました。今でも、その考えは変わっていません。ですが、そこに最近はもう一つ付け加えるべきだと思っています。それは変化に対応する力を持った法律家です。何を今さらと思われるかもしれませんが、変わらぬ社会などないからです。

私が弁護士になったころ、法学部生ならどこの大学でも一度は司法試験を考えたものです。中央大学、早稲田大学からの合格者が多く、慶應義塾大学は経済学部は有名でしたが、法学部は正直司法試験合格者の数では今一つの状況でした。それが現在、司法試験合格者数では慶應義塾大学法科大学院も慶應義塾大学も他の私大を圧倒しています。

慶應義塾大学は法科大学院が議論され始めたころに、どこの大学よりも先に私を学内のシンポジウムに呼んで話を聴いてくれました。受験指導をしている私を敵視することもなく、法科大学院がどうあるべきかを謙虚に真剣に考えるためにしっかりと受験の現状を知ろうとしてくれました。憲法の小林節先生などは憲法9条の考え方に違いがあるにも関わらず、私を大学院の演習の講師として8年間も呼んでくださっただけでなく、法学部法律学科1年生全員が必修となっている憲法の授業の貴重な1回を使って、毎年私に「法曹への道」という講義をさせてくださいました。受験指導を色眼鏡で見て実態も知らずに批判ばかりする大学教授が多い中で、慶應義塾大学の先生方の対応は異色でした。

司法試験の制度が変わる、大学も変化する。よいものは取り入れる。伝統を重視しながらも変化に対応してきた慶應義塾大学は、法曹養成の世界では圧倒的な実績を出すことに成功したのです。変化に対応できたよい例だと思います。大学も企業も変化に対応できたところは成功しています。法律実務家の世界でも同様です。弁護士の仕事の仕方も変わりました。多くの論文や判例を覚えていて豊富な知識がある人が評価される時代から、ネットなどを活用して必要な情報を迅速に収集し、それをいかに効果的に活用することができるかが求められる時代になりました。

さらに、人工知能の時代になればより一層、柔軟な思考によって変化に対応して仕事の仕方を変えていけるかが求められるようになるでしょう。一度決めたら変えられない人や会社、組織、職業などは、どんどん淘汰されていくに違いありません。国も同じです。

沖縄県知事選が注目されていますが、辺野古新基地建設問題は依然として大きな課題です。本土と沖縄の間に刺さっているトゲのようなものです。1960年代後半の米軍海兵隊新基地建設構想が今蘇り、日本国民の税金で米国の軍事要塞が建設されようとしています。米軍駐留経費の約75%を日本が負担しているといわれますが、冷戦を前提にした日米安保体制が永久に変わらないという前提があるようです。辺野古では軟弱な海底地盤や危険な活断層も見つかりこれまでの計画では進められないことがわかっても、基地建設を強行しようとしています。時代も変わり、日本を取り巻く安全保障環境も変わり、自然環境への対応も変わっているにもかかわらずです。人々の価値観、近隣諸国との関係性も変わるのですから、いつまでも過去に囚われていては未来がないと思うのですが、変われないようです。

私は中学時代に2年間ほどドイツで生活をしました。当時の西ドイツにいましたが、ベルリンにも行ったことがあります。高い堅牢な壁によって分断されており、自分が生きている間にはこの壁はなくならないだろう、ドイツ統一もまったく見えないし、東西冷戦などけっして解決しないと思えました。ところが1989年12月ベルリンの壁は崩壊しました。自分にとってはあり得ない変化でした。あれだけ変わることがないと思っていたものが大きく変化した経験は私の中では貴重な教訓になっています。変わらぬものなどない。人間同士と同じく国同士の緊張関係も変化するものだと確信したのです。近隣諸国との関係を従来の価値観に囚われていつまでも変わらないものと思いこむ愚かさを実感したのです。

冷戦の終結によって仮想敵国であったソ連が崩壊したのですから、当然に自衛隊の任務も米国の軍隊も変化し縮減するだろうと思っていました。そうしたらまた新しい敵を想定してさらに増殖し始めたのです。こういう変化の仕方もあるのかと感心しました。組織を維持することが目的であればそれは正しいことなのでしょう。しかし、軍事組織も手段にすぎません。組織防衛に走りその存続が目的となってしまったのでは本末転倒です。

そういえば、来年度予算概算要求で防衛費が5兆3000億円にのぼり過去最大だそうです。安倍政権になって増え続けていますが、GDP比2%つまり11兆円まで増やそうというのですからまだまだ足りないのかもしれません。電磁波による健康被害も懸念される地上イージスや最新戦闘機など巨額な武器購入経費が膨らんでいるようです。立派な武器を持っていれば安心という時代遅れの発想に驚きます。感覚としては大艦巨砲主義に陥って敗北した過去から何も学んでいないように思えます。軍事の専門家だけでなく政治家もソフトパワーへの移行という発想の変化についていけないのかもしれません。

他方で教育へまわす予算はOECD参加国中で最低といわれます。地上イージス2基2352億円あれば月3万円の給付型奨学金が65万人分まかなえます。このまま教育への投資を怠っているとますます優秀な研究者が海外へ流出し、国民・市民の基礎学力が低下し、高価な武器を使いこなすことができる自衛官がいなくなってしまうことに気づかないのでしょうか。外国人留学生や研修生を手厚くフォローし、在留外国人の子どもたちへの日本語教育を充実させ、日本のよき理解者を増やすことが、一番の安全保障のはずですが、まったく逆へ向かっているようです。

変化に対応できずに絶滅していった恐竜や、時代に対応できずに淘汰されてしまった大企業は数えきれないほどあります。大きさや力の強さが生き残りを決めるのではありません。変化に対応できるか否かなのです。国家も同様です。本当の愛国心とは何かを考えさせられます。公務員を目指す塾生も、法曹を目指す塾生も、自分の中の価値基準をしっかりと持ちつつ、時代に対応して変化できる柔軟性を併せ持つことを目指してください。期待しています。

2018年8月 1日 (水)

第276回 存在価値

自民党の杉田水脈議員が月刊誌に寄稿した内容が話題になりました。「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。」という部分が主に批判されたようです。この発言に対して、自民党の二階俊博幹事長は記者会見で「人それぞれ政治的立場、いろんな人生観、考えがある」と述べ、問題視しない考えを示したそうです。本人も党のこうした考えを自民党の懐の深さとツイッターで評価しています。

杉田氏の発言の是非については、憲法を学んでいる塾生の皆さんにはあえて言うまでもないことでしょう。憲法14条の法の下の平等も問題になりますが、それ以上に13条の個人の尊重、多様性の承認の観点から問題がある発言です。ちなみに、多様性について、杉田氏は「多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません」と述べています。一瞬なるほどと思ってしまう人もいるかもしれませんが、これに対しては、同性婚との共通点と相違点を指摘すればすぐに批判することができます。法的思考の基本ですね。

ですが、二階幹事長の発言はどうでしょうか。多様性を否定する発言を許容することが政党の懐の深さなのでしょうか。多様性を否定する発言を、多様性を根拠に肯定することができるのか。この疑問はいろいろなところで同様の疑問を生みます。文化多元主義を否定するような文化も1つの文化として尊重するのか、価値相対主義を否定する考えも相対主義の観点から許すのか、絶対的な正義などなく正義は多様であるから、ナチスの正義も肯定するのかなど、同じような問題です。

ニヒリストではない相対主義者にとって相対主義は絶対的なものです。したがって、相対主義を否定する言動に対しては批判的になります。それは自分が正しいと主張するのではなく、絶対的な価値を他者に強制することがおかしいと批判しているのです。法律は「べき論」(sollen)、主張の世界です。日本国憲法の下の政党は、憲法価値を実現するために政策を実現するべきです。国会議員は憲法99条で憲法尊重擁護義務を負っているからです。よって、自民党も憲法13条が保障する多様性を確保する方向で政策を実現していかなければなりません。今回は「いろんな人生観がある」といって逃げるのではなく、党としての立場を明確にするべきでした。

そういえば、2007年第一次安倍内閣の柳澤伯夫厚生労働大臣が「女性は子どもを産む機械」という趣旨の発言をしたことを思い出します。男女平等ランキング世界114位の国の政権与党の体質が現れているようです。いくら女性の活躍を謳ってもこれでは説得力がありません。LGBTの皆さんを生産性で見たり、女性を子供を産む機械に例えたりする発想はどこからくるのでしょうか。この問題を差別や多様性とは別の「存在価値」という視点で見ると問題のもう一つの本質が理解できます。

世の中には経済的な価値、つまり貨幣価値と交換するときにどれほどの価値があるかという物差しがあります。資本主義経済の中で生きる私たちにとってこうした交換価値はとても重要な意味を持ちます。どれだけ役に立つかという視点と考えることもできます。

しかし、世の中には交換価値では測れない「存在自体の価値」もあるのではないでしょうか。たとえば、命はそこに存在するだけで価値があるというようなことです。人の命は何かの役に立つから価値があるのではなく、代替性のない一回性のものとして存在するだけで価値があるのです。自分の命、他者の命がそこに存在すること自体に価値があることを認めようという考えが憲法の基本だと理解しています。

豊かな人も貧しい人も、健康な人もハンディキャップのある人も、人種も宗教も年齢も性別も一切関係なく、そこに個性を持った一人の個人として存在する限り、かけがえのない価値があるのです。凶悪犯も問題行動を起こす子どもも含めて、誰をも個として尊重する。これが憲法13条の個人の尊重です。

法律家や行政官としていい仕事をして、相応の対価を得ることは重要なことです。ですが、それと同時に私たちの世界には、存在するだけで価値があるものもあるのです。そこでは生産性とか効率性という評価基準が妥当しません。その存在価値は経済的価値に交換できません。こうした価値についてもっと私たちは意識をするべきではないのかと思うのです。

ところで、皆さんには「ふるさと」はありますか。8月には故郷に帰省する方もいることでしょう。沖縄慰霊の日(6月23日)に中学3年生の相良倫子さんが「生きる」という詩を朗読し感動を呼びました。「私はこの瞬間を生きている」と自分の言葉で命と時間への想いを込めて語りかけるだけで、どれだけ心に響くものかを実証してくれたような気がします。沖縄の皆さんたち、とくに戦争を経験してきたおじい、おばあにとっては、こうした若い命の存在、そして沖縄というふるさとの存在自体が尊い意味を持っているようです。

きれいな空気、陽光、大地、湧水、降雨、その地域固有の自然環境、地域を支える歴史、文化、人間同士のつながりの総体を「ふるさと」と呼ぶとすると、これらは代替できないものであり、経済的な交換価値はないけれど、その地域に住む人々にとって高い存在価値を持つものといえます。その地域に長年住み慣れた人にとっては、自分という存在自体を支えているものであり、自分自身の一部となっている。自分と切り離されがたく、固く結びついていて、その人固有の人格と一体的なものとなっているのです。ふるさとを愛する人にとっては、自分自身を支えて自分の人格の核心を作り上げているものであり、「ふるさと」を奪われることは自分自身の一部を奪われるほどの喪失感を覚えることになるのです。

人間は環境の外に環境と対峙して存在しているのではなく、自然、社会、歴史、人間関係の網の目の中で相互に密接に作用しながら生きている。環境は私達の外にあるものではなく、私達と環境は不可分一体です。つまり、その地域固有の自然、歴史、文化、人々のつながりは、そこに生きる人たちの人格と密接に結びついていて、自分のアイデンティティー(自己同一性)そのものといえます。「ふるさと」という自然、歴史、文化、人々のつながりを含む環境は、決して奪われてはならない人格的権利であり、法的保護利益です。憲法13条が国に要請しているのは、こうした代替不可能な「ふるさと」を持つ個人としての尊重だと考えます。

こうした「ふるさと」を汚染し、人々からかけがえのない固有の環境を奪う原発は、「ふるさと」を回復できる技術(除染技術等)が開発されない限り、稼働することは許されません。どんなに金銭賠償・補償をしても回復できないものを奪う危険が残る以上は、原発の存在、稼働を認めるべきでないと考えます。「ふるさと」のように、失って再び取り戻すことができないものを失ってしまうようなリスクは極力避けるべきです。

愛国心とか郷土を愛せという人たちが、差別発言を容認したり、原発を推進したりすることは矛盾している気がしてなりません。よほど交換価値が重要なのでしょう。天皇制も何かの役に立つから必要だと考えているのではないかと心配になります。

一度失ったら取り戻すことができないという点では「ふるさと」も憲法9条も同じです。最近は、憲法9条が存在すること自体に価値があるように思えてきました。夏は戦争を振り返ることが多い季節です。様々なことの存在自体の価値についても思いを巡らせてみてください。

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2018年7月 1日 (日)

第275回 多様性その2

サッカーワールドカップの結果が気になって勉強が手につかなかったという人もいたと思います。結果はどうあれ、こうした本気の勝負は私たちに様々な話題を提供してくれます。日本チームの活躍に対して前評判との違いから手のひら返しという表現も使われました。他人の評価は本当にあてにならないものです。

プロフェッショナルとは、他人の評価などにふりまわされず、自分の仕事をすることだけに集中できる人たちであることを教えてくれました。予選リーグ最後のポーランド戦で、西野監督率いる日本チームは0-1で負けていたにもかかわらず、最後の10分を時間稼ぎのボール回しに終始しました。勝ち点等で並んでいたセネガルにフェアプレーポイントで勝り決勝トーナメントに進出できそうだったので、そのまま無理に攻め込んで危険を招くことを避けたのです。選手の体力温存という目的もあったかもしれません。

この戦い方については賛否両論あったようですが、私はここで「優先順位付け」と「ゴールからの発想」の重要性を再認識しました。あの場面でチームにとって重要なことは、観客を喜ばせることでもなく、力を出し切ったという自己満足でもなく、ベスト16のトーナメントに進むことでした。会場のブーイングも含めて、たとえ見ている人が不満であってもそうした周りの目を気にすることなく、そこでの目的を明確にしてそのために最善の選択をすることがプロには求められます。様々な不確定要素を考慮に入れた上での瞬時の決断で真価が問われるのです。

しかも、ベスト16に進むことは、それ自体が目的なのではなく、その先を見据えたときに必要な過程にすぎないという全体観もチーム全体で共有できていたのだと思います。従来から日本サッカー界は将来のワールドカップ日本開催、日本優勝を明確なゴールとして見据えてその準備を進めてきました。2050年優勝、2030年ベスト4という中間目標も設定しているそうです。そのためには何としてもベスト16に入り、トーナメントを数多く経験しなければならない。世界の強豪チームが本気で戦い、しのぎを削る厳しい戦いの中でしか得られないものがあるそうです。そこでの失敗も含めた経験を次に活かして目的を達成するという壮大な計画があるのです。ベルギーは2009年には世界ランク66位でしたが今は3位にいます。人は実現不可能な夢を思い描くことはありません。

2050年優勝というゴールからの発想、そして一歩先を考えることは、勝負の世界、プロの世界では常識なのでしょう。それを淡々と実践することができるのは、世界で多様な経験を積んできた選手の身体にその重要性が刻み込まれているからかもしれません。

私も45年以上前、ドイツにいるときに、「落ちているボールを見つけたとき、日本人は拾って投げるけど、ドイツ人は必ず蹴る」と言われるほどサッカーが日常生活の一部でした。ベッケンバウアーやミュラーに憧れるドイツの少年達とサッカーをしながら同じルールの下でもこんなに闘い方が違うものかと感心したものです。思えばそこで多様性を学んだような気もします。

ルカク選手をはじめとしてベルギー選手の半数は外国にルーツを持つそうです。まさに多様性がチームを強くします。言語、文化、慣習などが同じ方がチームとしての一体性が増して強くなるような気がしますが、むしろ逆です。多様な個性がぶつかり合いながら、それぞれの強みを発揮して、明確な1つの目標に向かうことが世界水準の強いチームづくりには欠かせません。日本人選手も海外で活躍し多様性を経験してきた選手がずいぶんと増えました。

多様性は日本の社会全体にとっても大きなメリットをもたらします。そのことが「個人の尊重」を規定する憲法13条によって70年以上も前に先取りされています。多様性(diversity)はスポーツでも企業でも国家でも同じように必要な要素です。強靱な組織作りの前提なのです。「個人」を否定し「天皇を戴く国家」として同じ方向を向いた同質的な社会をめざそうとする2012年自民党憲法改正草案は、とても日本の未来を考えたものとはいえません。もういい加減取り下げてほしいものです。

多様性を実感すること、これはどこで活躍する人にとっても重要なことだと考えます。法律家も行政官も日本国内の水準で満足することなく、世界を視野に入れて活躍できる人材になってほしいと思っています。多様な経験から得た知性は本物になります。日本の司法試験、公務員試験など過程にすぎない。その先での様々な経験を目指して一歩先を見据えながら、まずは目の前の目標を達成すること。そのために優先順位を明確にして、周りの目など気にせず、今やるべきことに集中してください。必ず世界水準の人間に成長できます。

2018年6月 1日 (金)

第274回 手続的正義

国家公務員試験、司法試験は終わり、これから司法書士試験、予備試験論文、行政書士試験が行われていきます。各種試験において実力者が合格するのであれば、試験の公正な手続きなどどうでもいいと思う人はいないでしょう。誰が合格すべき実力者かわからないからこそ試験という適正な手続きが必要となるからです。

最近、いつまで「モリカケ」(森友・加計学園)問題で騒いでいるんだ、という意見を聞くことがあります。確かに1年以上前から、取り上げられてきましたから、いらつく気持ちも分からないではありません。しかし、この問題は国民主権や民主主義とは何か、さらに言えば「デュー・プロセス」(適正手続き)の理解と深くかかわり、極めて重要だと考えます。

公文書の扱い方は国家のあり方そのものです。公文書の扱い方が、民主国家、文明国家と言えるのかどうか、ということの重要な試金石となります。国家のありようそのものの問題であって、どんな政策を実現するのか、という以前の問題です。国家のあり方、意思決定の仕方の枠組みがきちんとできて初めて、その中でどういう政策を実現するのかを問題にすることができるからです。

 物事を意思決定するための手続きは、そこで何を決めるのか、という問題よりも先に確立しておかなければならない問題です。なぜなら、そこで決めること、例えば政策などは、それが正しいか誤っているかはその時点で判断できないからです。何が正しいのかは歴史が後で評価すべきことなのであり、もし、その時点で絶対的、客観的に正しいということが分かるのであれば、民主主義などの面倒な手続きはいりません。その「正しい」ことに従えばいいだけです。

民主主義はその時点において、何が客観的に正しいことなのか分からないからこそ、そこでさまざまな情報に基づき、議論をしてとりあえず物事を前に進めるための手段です。私たち人間は情報や雰囲気に流され、その時々で正しい判断ができないことがあります。だから少数意見も配慮した十分な議論を経たうえで決定する民主主義の手続きが必要になるのです。後にその判断が誤っていたとわかったときには、その原因を明らかにして修正します。こうしたダイナミックなプロセスが民主主義であり、そのためには適正な手続きと、後世のための検討資料を正確に残しておくことが不可欠です。その民主主義の基盤や手続きをないがしろにした上で重要な案件や政策を進めていくというのは本末転倒です。

では、「民主主義の手続き」とは何でしょうか。 まず憲法の下では国民が主権者です。国政の最終決定権者は国民であるということです。政治家や官僚ではありません。よって、国民が必要十分な情報に基づいて、意思決定することができる仕組みが欠かせません。

もちろん、国民の代表者たる政治家が一時的には政策決定します。しかし、その一時的な意思決定が正しかったかどうか、後に国民が吟味して検証し、間違っていたら是正させる、あるいは議員を交代させることによって国民の意思に従わせるというプロセスが民主主義です。したがって選挙の過程で、正しい情報が国民に知らされることが主権者国民にとっては決定的に重要です。選挙は正しい情報を主権者が得ることで初めて意味を持ちます。

ところが、選挙の際に判断に必要な重要情報が出てこなかった、改ざん、捏造、隠蔽されていたとなると、国民が国政の最終決定権者として、選挙権を正しく行使できません。言葉を換えれば、政治家や官僚が政治のイニシアティブを握る、主権者になっているのと同じことです。選挙で判断するために正確な情報が提供されることは民主主義の大前提なのです。

現在の日本はこうした民主主義の前提が危うくなっているように思えます。 「モリカケ」問題の根底には、だれが国政の最終権利者なのかについての考え方の違いがあるのではないでしょうか。「モリカケ問題をいつまでやっているのか」という人たちは、政治の意思決定は政治家や官僚が下すものであって、国民はそれに従えばいい、という価値観があるように思われます。要するに「愚民」として国民を見ているのです。一般大衆である国民の声に従って政策を決めていくと、まともな行政はできない。だから政治家や官僚がよかれと思うことに国民を従わせることが、この国の正しい姿であると考えているのではないでしょうか。まさに「由らしむべし、知らしむべからず」です。

国民のためにいい政治をやっている、特区を作って経済発展させてやるので、それは必要なことなのだ。文句を言わず黙ってついてこい、ということなのでしょう。権力者目線でものを見ると、そういうことになります。

もちろん、国民が判断し、国民の声に従って判断しても、それが常に正しいわけではありません。そこで、間違いを次に正し、よりよいものにしていくのが国民主権、民主国家の筈ですが、今回のやり方はその否定です。そんなまどろっこしいことはやってられない、政治家や官僚が自分たちの正しいと思うことを実行し、国民はそれに従っていればいい、という考えが前提になっているように思えるのです。

しかし、本来、国民が主権者の民主国家であれば、そうはならないはずです。あくまで国民・市民の声を吸い上げて政策として実現していくのが国民主権国家、民主国家のありようです。その結果の判断が、一時的に間違っていれば、後で正せばいいのです。その場合、何が、どのように、なぜ間違ったのか、その政策決定の過程を記録に残しておくことは次の政策判断のためには不可欠です。

仮に政治家や官僚が国政の最終決定権者というのであれば、自分たちが意思決定できればそれで十分なので、国民に情報を提供する必要は全くありません。国民に示さない情報はそもそも、公文書として作る必要もないし、保管し、開示する必要もありません。自分たちの政策決定に影響がなければ、それで構わないことになります。

自分たちの意思決定に影響を与えるものは「公文書改ざん」として問題にするかもしれませんが、既定路線や結論として決まっていることであれば、むしろ推進することこそが重要なのであって、それと関係ないことは重要な事柄ではないし、書き換えることが問題とも思いません。文書に記録しようが改ざんしようが問題じゃないのです。なぜなら自分たちの意思決定に影響を与えないからです。そんなものは些末な情報だ、ということになります。そうであれば、公文書を「改ざんしている」という意識すらないでしょう。

今日、政府で起こっている記録のぞんざいな扱い方を見ると、国民に判断してもらおうという意識はないと思われます。本来の民主国家であれば、記録に残し、後で国民の判断材料にしてもらおう、という考えが生まれますが、国民を判断権者と見ていないから公文書の扱いがぞんざいになるのです。

逆に国民を決定権者として尊重するのであれば、意思決定に影響する全ての情報は国民のものである、という大原則に基づいて行動することになります。情報の重要性を自分で勝手に判断せず、迷ったら記録します。国家の情報は原則、国民の情報なのです。官僚や政治家の私有物ではありません。これが国民主権国家、民主主義国家の原則です。これが理解できていれば、官僚が「これは重要な情報」「これは単なるメモ、手控え」と勝手に判断して廃棄することなどあり得ません。もちろん、その情報をその時々で公開できるかはまた別です。安保・外交などに係わる秘匿すべき情報もあるでしょう。しかし、それは後にルールに従い、公開して後世の国民の判断材料とすべきものです。

「こんな問題いつまでやっているのか」と発言する人たちも、官僚や権力者の立場に立ってモノを見ています。「正しい判断は自分たちが下すのだから、いつまで何をぐずぐず言っているのか」ということです。ですが、それは違うのです。官僚のみなさんが自分たちがよかれと思っても、それが正しかったのかどうかを最終的に判断するのはあくまで国民です。それが国民主権国家です。そう考えると、この問題はその国のありよう、だれが主権者なのか、という根本的な考えの違いが表れている問題だといえます。

米国連邦憲法の起草者の一人であるジェームズ・マディソンがこんなことをいっています。「人民が情報を持たず、情報を入手する手段を持たない人民の政府は、喜劇への序章か悲劇への序章に過ぎない。」「知識を持つ者が持たない者を永久に支配する。自らの支配者であらんとする人民は、知識が与える力で自らを武装しなければならない」。「知識」は「情報」と言い換えてよいでしょう。逆に、国民を主権者にしたくない人は、国民に情報を与えないようにします。「情報公開」というと新しい概念のように聞こえますが、既に240年も前にマディソンはこのようなことを言っているのです。

残念ながら日本では、手続きの重要性は浸透していません。刑事裁判でもそうです。例えば真犯人なら自白を強要してもいい、といった風潮があります。テレビの刑事ドラマを見るとわかります。否認していた被疑者にひどい言葉を浴びせながらも自白を引出したりすると「名刑事だ」と評価されたりします。日本では、刑事手続のプロセスの重要性が理解されていないことを示しています。

このように手続きに従うことの大切さが理解されていないことが、今回の問題、国会での議論の大前提になる「情報を開示する」「記録を残す」という根本が問われる問題を過小評価する識者や国民の声につながっている、と見ています。そして国民投票手続の公正さに大いに疑問があるにもかかわらず、改憲の中身の議論ばかりが先行してしまうのも、同じ問題だと思っています。 人権保障の歴史は手続保障の歴史であったことを思い起こすべきです。法律家や行政官は、手続的正義を実現するために存在するといっても過言ではありません。皆さんに期待しています。

2018年5月 1日 (火)

第273回 民主主義と品性

朝日新聞のある論考で、品性と品行の違いを読み考えさせられました。「人間は少しぐらい品行は悪くてもいいが、品性は良くなければいけないよ」とは日本映画の名匠小津安二郎の言葉だそうです。刑法で学ぶ、「行為は客観と主観の統合体」という言葉が思い出されます。すべての人の行動は、どのような思いで何をするかが重要なのです。

昨今、品性が卑しいのではないかと思えるような、身びいきの蔓延、権力の私物化、見苦しい言い訳、言行不一致などがこの国の中枢で起こっています。財務官僚や自衛隊、自民党政治家らによる情報隠し、不祥事、不適切発言がこんなにも繰り返されることは今までありませんでした。国会に提示される情報に嘘があったのですから、国会がまともに機能しなくなるのは当然の結末です。国会には審議すべき重要案件が多くあるのだからといって、こうした問題を些細なことと過小評価する人がいますが、民主主義の基本がわかっていないようです。

ゴタゴタする日本のことなど全く眼中にないかのように、北朝鮮と韓国のトップが握手をして両国の未来をしっかりと語りあったようです。そもそも分断国家の原因を作った日本は、本来ならば重要な役回りを演じることができたし、するべきだったのに、国民の関心を拉致問題に矮小化し、今回の南北対話においても全くの蚊帳の外で、北東アジアにおいてなんの存在感を示すこともできていません。

朝鮮半島での南北和解、統一など夢のまた夢と考えていた人もいることでしょう。ですが、歴史はどんどんと前に進みます。昔ながらの軍事力に依存してものを言わせる国づくりから、そろそろ脱却しなければなりません。いつまでも19世紀、20世紀型の強い国をめざしていると、あっという間に取り残されるようです。

南北首脳会談ではパフォーマンスばかりで具体的な核廃棄に向けてのプランが示されていないと批判する声もありますが、それはトランプ大統領の手柄に取っておくつもりなのでしょう。少なくとも対話は始まりました。言葉による解決の糸口はできたのですから、素直にその一歩前進を喜ぶべきでしょう。3歩進んで2歩下がることがあったとしても、「ゆっくり急げ」です。核兵器、生物兵器、サイバー兵器などが生まれている現代においては、紛争解決に必要なものは軍事力ではなく対話なのです。

安倍首相は「対話でない。圧力だ」と言い続けました。対話を否定するその態度は、常に自分の考えが正しいという思い込みが原因のように感じます。昨年5月3日の改憲に向けてのビデオメッセージにおいても、「『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきであると考えます」といっています。どんな問題でも議論の余地くらいはあってもいいと思うのですが、議論の余地すら認めないという言動に、いかに議論が重要で民主主義社会の根幹であるかを理解しようとしない品性が現れています。

立場の違う人々が、十分な情報に基づいてしっかりと本質的な議論をすることによって、双方とも気づいていなかったような、より高い次元での解決策や発想が見いだせるはずだという人間の知的営みへの敬意が感じられないのです。

民主主義は自分の考えとは異なる相手の話をよく聞くという態度、自分の考えが間違っているかもしれないという謙虚な姿勢が根底になければ成り立ちません。どんなに強い言葉で相手を批判したとしても、心の中ではそうした謙虚さが必要なのです。その意味では、当事者に品性が必要不可欠だと言えるのかもしれません。

公文書は私文書に比べて社会での信用性が高いから、刑法でも公文書偽造の方をより重く処罰しています。ところがその公文書が、重要な記録として必要なものなのに「そもそも作らない」、「これは公文書ではない」と言い張る、実は「あるのにない」と言い張る。挙句の果てに政治家の発言に合わせて改ざんする。こうした言動には官僚としての誇りや品性がまったく感じられません。これでは公文書への社会的信用は地に落ちます。

「自衛隊を憲法に書き込んで文民統制を働かせればいい」という主張を聞くこともあるのですが、日本は軍事力どころか通常の行政権すら民主的に統制できていないのです。現実を踏まえて、文民統制など夢物語だとしっかりと自覚するべきでしょう。

「この国民にしてこの政府」、「どんなすばらしい憲法もその国の国民以上にはなりえない」 こうした警句が指摘するように結局は国民次第ということなのかもしれません。民主主義とはすべてが国民自身に帰ってくる制度です。自分たちの品性がそのまま代表者に反映し、それが国の品格を決めてしまっているのかもしれません。自分の品性が卑しくなっていないか、常に自分自身を冷静に見ることを怠ってはいけないとつくづく思います。

2018年4月 2日 (月)

第272回 散る桜

渋谷の伊藤塾の前の桜も華やかに咲きほこり見事に散っていきました。 「散る桜、残る桜も散る桜」これは良寛和尚によるものとされていますが、受け止め方は様々のようです。特攻隊員の遺書をイメージする人もいますし、命のはかなさを感じる人もいます。どうせ散ってしまうのだから頑張って咲き続けていても無駄だと考えるのか、同じように散るのであれば、美しく咲いていたいと考えるのか、とらえ方は人それぞれです。

誰もが生まれた瞬間から死に向かって歩み続けているのですから、命の意味や長さを問うことはむなしいようにも思えます。ですが逆に、だからこそ命の質を高めるという選択も可能です。今を大切にする、一瞬一瞬を懸命に生き抜くという選択は、あえて苦難の道を選んでいるようで、最近はあまり人気がないのかもしれません。ですが私はあえてそうした生き方を選択した人を尊敬しますし、そういう生き方をする人たちから学びたいと思っています。

最近、司法試験のガイダンスで言っていることがあります。予備試験合格者がなぜ就職において圧倒的に有利で、かつ実務における評価が極めて高いかについてです。合格率4%の試験に合格しているのだから当然でしょうという人がいますが、単に勉強ができるからという理由ではないと思っています。

昔の司法試験は合格率数パーセントでした。その時代に合格した先輩たちが自分と同じように難しい試験を突破してきた予備試験合格者に親近感を抱くからだという人もいます。自分と同類と感じるということのようですが、それは難関を突破してきたというプライドを共有できるという偏狭なことではなく、賢明な常人なら避けるであろうリスクをあえて選択し、これに挑戦するある種の「変わり者」という評価を共有できることが理由だと思っています。

もっと楽な道があるのに、あえて困難な試験に挑戦し苦難の道を選択した。そのこと自体に価値があると考えているからなのです。大学の授業をしっかり聞いていればロースクールには入学できる、そして司法試験は25%ほどの合格率で合格できると言われれば、普通はあえて困難な予備試験に挑戦しようなどとは思わないでしょう。フルタイムで仕事をしていて、同僚は飲み会やゴルフで余暇を過ごしているのに、仕事が終わった後にあえて予備試験に向けての講義を聴こうなどとは普通のビジネスパーソンは考えないでしょう。

ですが、あえて、その困難な選択をしたのです。しかも、勉強を開始したからといって、100%確実に合格できる保証などありません。結果が保証されていないのに挑戦し、不安と向き合いながら勉強を続けてきたのです。これは相当な「変わり者」です。困難な試験に合格したということは、このような困難に挑戦する気概があり、不安を克服し、結果が保証されない目標に向かって最大限の努力をすることができるということの公的な証明なのです。

こうした「困難に挑戦し努力を続ける能力」は、実務家にとって決定的に重要なものです。だから予備試験合格者は高く評価されるのです。仮にロースクールに進学したとしても、あえて困難な予備試験に挑戦して勉強してきたことで精神的にも成長し評価されます。これが伊藤塾で予備試験をめざして勉強することをすすめる理由なのです。

予備試験を例にしてきましたが、このことは公務員試験でも、司法書士試験でも行政書士試験でも同じです。困難な試験にあえて挑戦する中で鍛えられ、実務の世界で活躍するために必要な強靭な心と頭を作り上げていくことができます。伊藤塾出身者が実務の現場で高く評価されている理由の1つです。

オリンピックなどのスポーツの世界では、不利な状況から逆転して勝つ人がいます。その力の源はどこにあるのでしょうか。私は圧倒的な練習にあると思っています。誰よりも練習した、だから負けるはずがないという自信です。世界の誰よりも練習してきたという事実から、自分を信じる力が生まれてくるのです。勝ちたいなら誰よりも努力すること。それだけのことです。

圧倒的な強さは圧倒的な練習からしか生まれない。皆さんは圧倒的な勉強をしていますか。時間の問題ではありません。勉強の質であり、思いの問題です。合格したい、合格して実務で活躍したいという圧倒的に強い思いとそれを実践する覚悟です。どんな試験でも最後まで諦めなかった人が合格していきます。そして、もうひとつ大切なことがあります。ワクワクする気持ちです。試練の厳しさを楽しむくらいの気持ちがある方がうまくいきます。

散る桜を見て何を思うかは人それぞれです。ですが、舞散る花びらという派手な見かけの裏ではちゃんと力強い命は続いているのです。散る桜に惑わされず、堂々とした佇まいや新緑から、明るい初夏への希望を感じとることもできます。これから試験の本番を迎える人も、新しく勉強を始める人も、皆さんには楽しみながら圧倒的な勉強をしてほしいと願っています。

2018年3月 1日 (木)

第271回 北東アジア

平昌オリンピックが終わりました。国単位でメダルを競うことはオリンピック憲章の趣旨に反するのですが、メダルの数で盛り上がる報道もありました。北朝鮮に南北対話を持ち掛けられて応じるなんて日米韓の協調を壊すものだと批判する声も聞かれ、競技外の話題にも事欠かなかったオリンピックでした。

確かに北東アジアには、いくつもの緊張の種が存在します。①冷戦時代の分断と対立が強く残る、②中国・ロシアという核兵器保有国の存在、③領土問題(北方領土、竹島、尖閣をめぐる紛争)と、④歴史問題の存在、⑤地域的安全保障の枠組みがない、等です。こうした問題を抱えながらも、日本はアジアの中の日本として一定の役割と責任を果たしていかなければなりません。

北東アジアの諸国間には、文化的にも経済的にも緊密な「永久の隣人」同士という現実があります。人間同士ならば、隣に嫌な人がいても最後は自分が引っ越しをすればいいだけですが、国同士となるとそうはいきません。どんなに嫌いでもうまくやっていくしかないのです。

戦争を繰り返してきた独仏によるエリゼ条約を紹介したことがあるかと思います。条約調印50周年の2013年に駐日独仏大使の連名で発表された声明に以下のような指摘がありました。「両国を隔てるよりも結びつける要素が多くなったのは史上初めてだ。意見や利害の違いを軍事力で解決するという方法はもはや考えられない。独仏両国民は今後もこの道を歩んでいく。対立がもたらす代償がいかに大きく、和解から得られる利点がいかに大きいかを、歴史の教訓から知ったからである。」極めて現実的な選択です。

アメリカは親米派を育てるために、日本のエリートを米国留学させました。アメリカに感謝し、親米のメンタリティを持つ日本人エリートを何十年もかけて国策として育成していったのです。それが米国にとって一番の安全保障になり、国益にかなうと考えたからで、これもまた極めて現実的な政策です。

日本ではどうでしょうか。日本が好きで日本語を学び、せっかく留学や仕事で来日したのに、ひどい仕打ちを受けて反日になって帰国する外国人が後を絶ちません。いまだにヘイトスピーチ、ヘイトクライムも横行しています。人種差別というよりも過去の植民地主義が未だ克服されていないのです。

さて、万が一にも米朝が武力衝突したならば、日韓は無傷ではいられません。アメリカは日韓に一切の被害を与えないほどに強くありませんし、自国の国益に反して日本を守ってくれるほどにやさしくもお人よしでもありません。北朝鮮との関係は対話で解決するしかないのです。冷静に現実を見極めることが重要です。「負ける戦争は絶対にしない。勝てる戦争には戦わずして勝つ。」こうした戦略論の基本が今こそ必要なときだと思います。北朝鮮の脅威を口実にして国民の不安を煽って行われる改憲発議ほど危険なものはありません。

自衛隊を明記する改憲に際して、「現状を単に明記するだけで、何も変わりません」と言われます。国旗国歌法(1999年)を作るときも同じことが言われました。それまで法的な根拠がなかった日の丸・君が代を国旗・国歌として明記するだけの法律です。しかし、それにより日本社会は大きく変わります。法律ができて数ヶ月後、ロック歌手忌野清志郎のロック調「君が代」を収録したアルバムをレコード会社が自主的判断によって発売中止にしました。大相撲で優勝した力士にNHKアナウンサーが君が代斉唱を求め、岐阜県知事は国旗国歌を尊敬しない人は日本国籍を返上すべきと発言するなど、どんどん日の丸・君が代が押しつけられる社会になりました。さらには、君が代の起立・斉唱を教員に強制する職務命令まで出されるようになります。

日の丸が国旗であり、君が代が国歌であるという「現状を明記する」法律ができることによって、国民の中に君が代を茶化すことは不適切だ、日本国民なら日の丸を尊重すべきだという風潮が広まっていったのです。単に明記しただけで、ここまで社会は変わるのです。法律で義務そのものを定めずに、社会のムードを変えることにより、義務を課したのと同じ結果を実現したのです。

自衛隊明記に際しても、「自衛官が可哀想」、「自衛官に失礼だ」、「愛国心があるのか」、「非国民!売国奴!」等様々な感情的な言葉が言論の自由という名の下で飛び交い、言葉狩り、ネットでの炎上も仕掛けられていくかもしれません。未だに植民地主義が克服されておらず、アイヌ、琉球への差別や旧植民地の人々への差別や偏見から脱することができない国民がいるような国が、それに輪をかけて多様性を認めない国になりそうです。力によって人をねじ伏せ、寛容性に欠ける社会、異論・反論を許さない社会は、決して人々に幸せをもたらしません。

せっかく日本に来てくれた外国人を排斥したり、日本人同士でいがみ合ったりすることは、憲法がめざす社会ではありません。少なくとも法律を学ぶ者として、何も変わりませんとか、自衛隊員がかわいそうといった理屈に合わない言説に惑わされたり、北朝鮮が怖いからといった不安に支配されたりしないだけの理性を保ち、知性を維持してほしいと願っています。私たちはどのような社会をめざすべきなのか、法律家や行政官である前に一市民として、そのことをしっかりと考える必要があると思います。

2018年2月 1日 (木)

第270回 仮想通貨

先月は、興味深い事件がいくつか起こりました。成人式の晴れ着を待っていたのに届かなかったという事件、仮想通貨が盗まれたという事件などは、被害者に申し訳ないものの、考える訓練としては興味深いものでした。

成人式の日に届かなければ意味がないという点は、定期行為の典型的なものです。いまさら返してもらっても意味がないといって、引き取りを拒んだら受領遅滞になるのでしょうか。大雪で届けることができなかった場合はどうでしょうか。こうしていろいろと考えてみることが法律を使いこなす訓練になります。代金支払済みの顧客に対しては、返金するそうですが、これを仮想通貨で返金すると言ってきたらどうでしょうか。

仮想通貨取引所大手「コインチェック」から約580億円分の仮想通貨「NEM(ネム)」が盗み出された事件も起こりました。仮想通貨は、2017年4月施行の資金決済法2条5項で定義されていますが、法定通貨ではないので、強制通用力はありません。よって、合意がない以上は仮想通貨での支払いについては受領を拒むことができます。

そもそも仮想通貨の法的性質は未だ明確になっていません。まず、所有権の対象ではありません。有体物(民法85条)ではないからです。では債権でしょうか。ビットコインなどの仮想通貨には発行者が存在せず、特定の者に対する債権でもありません。債権の定義である「特定人から特定人に対して…行為を請求する権利」という定義にあてはまらないのです。

法的性質を物権類似と考えるか、金銭類似と考えるかは別として、不正取得者に対して本来の保有者が不当利得や不法行為に基づく請求ができるとはいえそうです。ですが、現物返還ができるか、転得者との関係は?と考えだすと相当ややこしくなります。取引所との関係ではオフラインの合意が重要な意味を持ってくるでしょう。さらに刑事法との関係では、詐欺罪、電子計算機使用詐欺罪、横領罪、背任罪など刑法が適用されるのでしょうか。

そもそもビットコインというインターネット上の存在で、誰も管理しない点に価値があり、ブロックチェーン(分散型台帳)にはプロトコルが存在していてそのプロトコルに従って間違いなく動作することへの信頼がブロックチェーンのありようなのです、と言われても全くピンとこない人もいるのではないでしょうか。

スマートコントラクトというシステムが自動的に取引を執行する仕組みもコードという機械が理解する言語のようなものそのものが契約だという発想なのですが、何が合意内容なのかと言語にした時点でコードそのものの合意ではなくなってしまうような気もします。またオンチェーンの合意、オフチェーンの合意というものを考えると手形関係と原因関係との類似性を見て取れます。

これまでの通貨のように国家が管理し、法律によって規制された世界とは全く違う世界が生まれているようです。どうしても既存の概念にあてはめて、それとの比較を考えてしまいがちですが、その場合でも本質をとらえて共通点と相違点を見つけていく、つまり基礎基本という本質を押さえた上での分析力が必要となるのです。新しいことに挑戦するときも基礎基本が重要であると改めて思います。

それと同時に、既存概念にとらわれない自由さも必要です。人は自分が見てきたものを前提にしてしか新しいものを評価できません。この点は、昨年読んだ「お金2.0」(佐藤航陽著)でも指摘されていました。この本は「資本主義」から「価値主義」への流れを予測し、お金から解放される生き方を提唱するものでとても面白かったです。

インターネットにより知識のコモディティ化が促進され、物知りであることに価値はなくなり、情報をどのように使いこなすかが重要になってきていると指摘されていましたが、試験の世界でもまさに暗記量ではなく、法律をどう使いこなすかが問われる時代になっているのと同じです。そして、この先は「自分の価値を高めておけば何とでもなる」世界が実現しつつあるので「個人の価値」が重要だと指摘します。

何に役立つのかという有用性としての価値だけでなく、愛情、共感、信頼などの内面的価値や社会全体の持続性を高めるような社会的価値にも着目します。この点などは、食べるための職業として法律を学ぶだけでなく、人を助け、社会貢献できる職業として法律家や公務員をめざすことには大きな価値があり、それが評価される時代になるという予測で強く共感できました。伊藤塾の「合格後を考える」という理念、憲法価値を実現する法律家・公務員をめざすという視点は間違っていないようです。

塾生の皆さんには、法律の勉強を通じて内面の価値に磨きをかけ、高い志を掲げながら、自分自身の価値を高めるために真剣に勉強してほしいと思います。それがまだ見ぬ新しい時代に対応していくためにもっとも重要なことだからです。頑張りましょう。

2018年1月 1日 (月)

第269回 謹賀新年

昨年11月21日全国5000人の市民が不当な賠償金4556万円を完済しました。東京、国立駅前から続く大学通りの景観をめぐり、国立市がマンション業者に支払った3124万円を国立市から求償された上原公子元国立市長が訴訟で敗訴し、利息を含めて4556万円を個人として国立市に負担することになりました。景観保護のためにマンション建設規制を求めて上原氏を支持したのは市民であり、その政策を実現したことによって、市長が個人責任を負担するなどという不当な裁判に納得できない全国の市民がカンパを寄せて、第三者弁済により全額支払ったのです。

複数の訴訟の経緯は建築差し止めなどを含み複雑ですが、市民からの支持を得て市長になり景観保護という政策を実現したがゆえに、市長が個人として責任を負うというのは、あまりにも理不尽です。国立市がマンション業者に支払った金額全額相当分がこの業者から国立市に寄付されているため、市に実損害はありません。それにも拘わらず、住民訴訟の形で市から市長に求償する訴訟が提起されたのです。1審は国立市の請求を棄却しましたが、控訴審で上原氏は敗訴、上告するも最高裁で実質的な審理もなされずに確定しました。

元金3124万円及び利息1432万円は、市民感覚からは支払う必要のないものでした。しかし、訴訟で負けた以上は支払わざるを得ません。それをなんと国立市民のみならず全国の市民からカンパを集めて支援団体が支払ったのです。裁判で負けて、市民はここで大きなものを勝ち取りました。市民自治です。

市民感覚から納得できない、間違った判決に対して、市民が声を上げ、司法の歪みを正すために行動したのです。景観のために企業の財産権を制限することが正しいか否かについては議論があるところでしょう。しかし、自分たちの街の景観を保護したいという市民の多数の支持を得て市長になった後、そうした市民の意思を政策によって実現しようとした首長が、従来の政策を変更したことを後に司法から違法と判断されて、個人として多額の賠償を負担させられるという事態は、市民感覚からは異常です。これがまかり通るようでは市民自治を否定することにつながります。市民によって支持された政策を実現することを躊躇し委縮してしまう首長が出てきても不思議ではありません。

上原元市長に対する最高裁判決の後、政府高官は「辺野古の新基地建設を許さない」として県民とともに闘っている沖縄の翁長知事に対する億単位の損害賠償請求に言及しています。市民の声とそれに基づいて行動しようとする首長を中央が権力によって押さえつけようとすることは、地方自治、市民自治に対する侵害です。辺野古や高江で闘いの先頭に立ってきた山城博治氏を、家族にも会わせないまま5か月も勾留するものどうかと思います。どう考えても勾留要件を満たしているとは思えません。このように権力に対して闘う個人を攻撃し、運動を諦めさせるために手段を選ばないというやり口は、文明国家としてどうかと思いますが、これが権力の本質です。

こうした国のやり方に市民は負けませんでした。闘う個人を孤立させない、個人を犠牲にしてはならないという市民運動の連帯が大きな力になり、闘う個人を守り救いました。そこには私利私欲を離れた大義があるから、市民は連帯したのです。市民運動というと敬遠する人がいます。何か自分とは違う世界で、暇人もしくは物好きが自己満足のために好き勝手なことをやっているとみる人もいます。

ですが、私利私欲でそんなに多くの市民が支援するはずがありません。他者を救うために見返りのない寄付をする人も大勢いるのです。人ごとではなく自分の問題として捉え、社会のため、次の世代のために全力を尽くす人は日本にもちゃんと存在するのです。私も憲法を学び、さまざまな運動を見るようになるまでは、そんな人たちがいることに半信半疑でした。ですが、日本にも確実に、私利私欲を離れて人のために全力を尽くす人がいる。私は、そうした市民の志に勇気づけられ、力をもらってきました。

裁判では負けましたが、市民はその結果を受けて次の行動に出ることで、裁判での勝訴以上に大きなものを勝ち取りました。自分に降りかかるあらゆる事態の意味を決めるのは自分でなければなりません。結果に対して意味を与え、それを受けてその後どう生きるかを決めるのは自分です。それが自己決定権であり、自分自身の幸福追求権に他なりません。試験の結果から何を得て、そこからどう生きるかと全く同じことです。

司法試験に5回挑戦して、結果が出せなくとも、法務知識を活かして企業で活躍している方々も大勢います。結果に対してどのような意味づけをして、これまで学んできたものをどう活かしていくのかは、自分で決めるべきものなのです。なので、試験の結果を思い煩うことは無益です。そうは言っても結果を出すまでは不安で仕方がないという人もいることでしょう。

伊藤塾で学ぶ限りは勉強方法の不安は感じる必要はありません。実績が物語っているように塾の敷いた道を安心して一歩一歩進んでもらえばいいだけです。ときどき、塾のカリキュラムがこなせずに他の勉強方法が魅力的に思えて、いろいろと手を出して失敗する方がいます。ですが、数年でまた気づいて戻ってきて合格します。その迷いの過程も結果的には本人に必要なことだったのかもしれませんが、少し残念です。

勉強方法の迷いや不安は不要ですが、結果に対する不安は、実は有益です。何度も言っているように、結果が保証されないことに向かってどれだけ努力を続けることができるかが、その人の実務家としての価値を決めます。どんな分野でも実務の世界は先が不透明で誰も予測できません。予測できない未来だからこそ、自分の未来は自分で創り上げる気概が求められるのです。志を実現する過程での成長こそが価値ある成果なのであって、目先の試験の合格・不合格、裁判での勝ち負けなどは些細なことなのです。そうした大局観をもって、自分の人生を見つめ、社会の動きにも関心を持ち続けてほしいと思います。

2018年も激動の年になるでしょう。戦争だけはどんな理由があってもやってはならない。戦争を止めるために戦争を起こしたのでは本末転倒であると思っています。自らの信じることを、多くの市民が訴え続けることが本当に必要な年になるかもしれません。何が起ころうが、一歩先を考えて冷静に行動したいと思います。皆さんにとってよい年になりますように。私も頑張ります。

2017年12月 1日 (金)

第268回 自衛隊の憲法明記

自民党は先の総選挙で自衛隊の明記、教育無償化・充実強化、緊急事態対応、参議院の合区解消の4項目の憲法改正を公約に掲げました。具体的な改憲項目を選挙公約に入れたのは初めてですが、どれも重大な問題であり、十分な国民的議論が必要なものばかりです。

自衛隊の明記は、「違憲の疑いを無くすだけで今と何も変わりません。」ということなら、あまり深い議論は不要と思う人もいるかもしれません。自民党憲法改正推進本部では、具体的な条文案を議論しています。戦争の放棄(9条1項)、戦力の不保持・交戦権の否認(同2項)の条文はそのままにし、そのあとに「前条の規定は、我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織として自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない」という新条項を挿入する案です。

一見、現状を追認するだけのように見えるこの規定には、いくつもの問題点を指摘できます。まず、形式として現在の9条1項、2項に3項を書き加えるという方法をとらずに、9条の2という新たな条文を追加する方法をとっています。これは、「9条には、一切手を付けていません。安心してください。何も変わりませんから。」と言いやすくするためと思われます。ですが、以下に述べるとおり、この国の形が根本から変わってしまいます。

第1に、9条2項は削除されたのも同然となります。自衛隊が戦力にあたろうが、交戦権を行使しようが、この条文によって、「我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織」であると言いさえすれば、9条2項による歯止めは一切なくなります。つまり、「後法が前法を廃す」の原則により、9条2項がこの新たな9条の2によって書き換えられ空文化するのです。ちなみに「「我が国を防衛するための必要最小限度」という評価概念は何の歯止めにもなりません。どこの国でも、軍隊は防衛のため必要最小限度なのであり、いったん憲法に定められれば、普通の軍隊を持つのと変わりなく、まさに戦力の保持を認めることになります。現行憲法では、集団的自衛権は認められていませんが、新条項の下では、我が国の防衛に必要ということで、無限定の集団的自衛権の行使も認められます。これにより自衛隊という名称の「軍隊」を持つことになります。

第2に、初めての国民投票によって承認された国家機関が自衛隊ということになり、極めて強い民主的正統性が与えられることになります。これまで主権者たる国民が行ってきた選挙による間接的な意思表示ではなく、国民投票による国民の直接の意思で認められた組織が、警察でも消防でもなく、自衛隊となるのです。この民意を根拠に、自衛隊の活動範囲が広がり、防衛費が増加し、軍需産業が育成され、武器輸出が推進されることでしょう。自衛官募集が強化され、国防意識の教育現場での強制が可能となり、学問・技術の協力要請等が強まります。まさに戦前のような高度国防国家へと突き進むことになりそうです。

小中高の教室で制服を着た自衛官が国防や安全保障の授業をしたり、Jアラートが鳴ったときの避難訓練を自衛官が指導したりするようにもなるでしょう。国民の直接の意思によって承認された憲法上の組織なのだからという理由で、こうした事態を誰も批判することができなくなる怖れがあります。批判する人を非国民呼ばわりする風潮も生まれるかもしれません。

自衛隊明記の改憲が、外国にどう受け止められるかも考えておく必要があります(負の宣言的効果)。すなわち、自衛隊明記により、日本は憲法改正して「軍隊」を持ったと認識されます。そのことが、中国や韓国などの近隣アジア諸国、イスラム諸国からどう見られるのでしょうか。私には、「平和国家」というブランドを簡単に放棄していいとも、国民にそのような覚悟があるとも思えません。

第3に、これまで「国防」は憲法上の概念ではありませんでした。ですから、人権制限をする根拠として正面から主張できませんでした。それが「国防」が憲法に明記されることによって、新たな「人権制約の根拠」が生まれることになります。思想良心の自由、表現の自由、学問、信教、ありとあらゆる人権が「国防」を理由に制限されることになります。「国防」の名目で自由が抑圧される国へ変質し、国柄が大きく変わります。もちろん徴兵制も可能になります。憲法18条の「意に反する苦役」も「国防」という憲法上の要請によって制限可能となるからです。

このように新条項は、自衛隊という名の「軍隊」を持てるようにするものであり、9条の実質的な全面廃止です。私達の人権や安全にどれだけの影響があるのか、自衛官の命がどれだけ危険に曝されることになるのか。私たちは、自衛隊が憲法に明記された「後」について、想像力を十分に働かせる必要があります。一人でも多くの国民が、「災害救助で頑張っている自衛隊がかわいそう」などという感情論に流されないでほしいと思っています。そして、ここに指摘したことが杞憂に終わることを心底願っています。

2017年11月 1日 (水)

第267回 多様性

先月は、雨のせいで天然パーマの髪がクルクルになってしまいました。これが私の自然の姿です。誰にでも、その人のありのままの姿があります。内面はもちろん、外形も含めて多様性があるのが個人です。無限の要素から成り立つ個性を尊重し、それを伸ばすことが、教育の本質だと思っているのですが、先日、信じられない報道に接しました。

大阪府立高校の女性生徒が生まれつき茶色い髪を黒く染めるよう強制されたことで提訴したというものです。生徒の母親は入学時、髪が生まれつき茶色いことを学校側に説明し黒染めを強要しないよう求めたのですが、教師は、染色や脱色を禁じる「生徒心得」を理由に、黒く染めるよう指導したそうです。なんと「生来的に金髪の外国人留学生でも、規則では黒染めをさせることになる」とも述べたそうです。生徒は黒染めに応じていたのですが、2年のときには黒染めが不十分だとして授業への出席を禁じられ、修学旅行への参加も認められず、現在も不登校が続いているなど、大きな損害も被っているようです。

別の女子生徒は、中学1年生のころ、保護者やクラスメイトの前で、担任の先生から教室の前に呼び出され、髪色の注意を受けたそうです。母親が娘はクォーターで生まれつきの髪色だと説明したにも関わらず、担任は『どこの血が入っていようが、なに人であろうが関係ない。これは市の決まり。普通は黒髪で生まれてくる。髪を染めてもらわなければ学校に来ては困る』と言われたそうです。「普通は黒髪で生まれてくる」、なんと恐ろしいことを平気で言ってしまう教師でしょうか。

報道によると高校生の頭髪をめぐっては、色を染めたりパーマをかけたりしていないか見分けるための「地毛証明書」を、東京都立高校の多くが一部の生徒に提出させていることが明らかになっています。論文試験にそのまま出題されそうな事案で驚きです。

規則が何のためにあるのか、平等が何を意味するのかを全く理解していない教師がどれだけ現場にいるのでしょうか。こうした教育の現場を放置したまま、先生方が「憲法守れ」だの、「人権擁護」などと声を上げても生徒達はきっとしらけるだけでしょう。この漫画的状況を理解できない教育現場に未来はありません。そういえば、ドイツから帰国した後に中学で肩掛け鞄のかけ方を指導・強制されたことを思いだしました。

社会は多様性に満ちています。だからこそ社会は発展するし、そうした多様性を認め合える中でそれぞれの個人が自分らしさを発揮して各自の幸福を追求していく過程を憲法は人権として保障します。あるグループに属し同質的であることを強制し、それから外れたものを排除する。そんな青年期を送った子供たちが自分と異なる他者と共存する知恵を鍛えられるとは到底思えません。先の総選挙では小池代表の「排除」発言が話題になりましたが、異質なものを排除する教育をしてきている国なのですから、驚くに値しません。

こうした戦後教育の成果が、NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査にも現れています。2013年の調査では、税金を納めることを憲法上の「権利」と認識している人が47%もいるのです。権利と義務の区別もつかない国民が半数とは驚きですが、目上の人に従うことを憲法によって権利とされていると思う人も8%もいるのです。自らの権利を自覚することも教えられず、何も考えずに教師に従順に従う、国に従う、そうした素直で物わかりのいい国民を作り上げることに成功したと言って間違いないでしょう。思っていることを世間に発表することを権利だと認識できている人は、36%しかいません。

憲法改正について「ナチスの手口に学んだらどうかね」と言っていた麻生太郎副総理が、今回の総選挙での自民党大勝は「北朝鮮のおかげ」と発言したそうです。本当に正直な方なのだと思います。日本の危機が高まったわけでは全くないにも拘わらず、Jアラートで不安を煽り、国難選挙と言ってのけ、大義なき解散・総選挙を強行した人々は、大義なき憲法改正発議・国民投票を強行することも辞さないかもしれません。

権利と義務の区別すらおぼつかない国民が半数で、個人を尊重する憲法の根本的な価値すら教育できていない国で初めて行われる憲法改正です。そこで自衛隊が憲法に明記されそうだというのですから、本当に恐ろしいことです。こうして多くの人が権力の思うままに操られ犠牲になっていく歴史を人類は繰り返してきました。自衛隊を明記するだけで何も変わりませんという言葉に安心し、災害救助で頑張っている自衛官が可哀想という感情に訴えられて、改憲に賛成する人もいることでしょう。自衛隊明記の意味を理解してその上でよしとするのなら、それは仕方がありません。ですが、国民は十分に理解するだけの時間を与えられるか疑問です。

憲法改正国民投票は発議から60日後であれば実施できます。複数の項目が同時に発議されて国民投票にかけられたら、とても十分に国民が内容を理解して投票したとは言えない結果が待っています。しかも、CM規制はないに等しく、運動広告費の制限も最低投票率の定めもありません。このままでは、異論が封じ込まれ、手続的にも極めて問題の多い中での国民投票となります。

改憲論議も多様な意見があって当然です。その多様な意見を踏まえて国民が議論に参加したり、自らの考えを深めたりすることができるような制度と手続を保障することは、民主主義の実現にとって不可欠のはずです。多様性の尊重は個人の幸せの実現とともに、社会全体の幸せのためにも必要なことと思います。

2017年10月 2日 (月)

第266回 ゆっくりいそげ

9月27日に参議院選挙無効裁判の最高裁判決がありました。合憲判決、完敗でした。最大較差が5倍だった2011年の参院選と、4.77倍だった2013年の参院選に対しては過去2回、違憲状態判決だったのですが、今回は2つの合区を含む3.08倍の選挙区割りを合憲としました。

これまで最高裁は、都道府県単位の選挙制度を見直すことを強く求めていたのですが、今回は、都道府県の単位を用いること自体は不合理ではないとして、政治部門を批判する姿勢を変更しました。また、衆議院と比べて、参議院の選挙であること自体から直ちに投票価値の平等の要請が後退してよい理由は見いだしがたいとしていた点も、何の理由もなく変更され、衆議院よりも後退している今回の選挙を合憲と判断しました。何か説得的な理由が語られていればよいのですが、何の説明もありません。

これまで5倍前後で推移していたものが3倍に格差を縮小させたのだから国会も頑張っているじゃないか、ということのようですが、理由になっていません。福井県の有権者に比べて、3分の1の政治的影響力しか持てない人が、埼玉、新潟、宮城、東京、神奈川、大阪、長野等あちこちにいるのに、これを著しい不平等ではないという最高裁の姿勢には驚きました。人格的価値において平等なはずの個人が政治的には一人前として尊重されていないのですから、憲法13条違反でもあります。

今回から島根と鳥取、徳島と高知が合区され、合区されていない地域との新たな差別も生まれたのですが、この点については、問題点の指摘すらしていません。都道府県代表という観点から見ても不十分なこの制度に対して合憲というお墨付きを与えてしまったのですから、今後の参議院制度改革のスピードが遅くなることは確実でしょう。全体的に最大限、政治部門へ配慮した判決でした。残念です。

アメリカでも、1962年のベイカー判決が出るまで、選挙制度については政治的問題(統治行為)として裁判所は判断を避けていました。それが、この判決および1964年のレイノルズ判決で一気に変わります。民主制の過程で自己回復できない問題には、司法は遠慮する必要などないということから、選挙権や平等の問題に対して裁判所が積極的に違憲判断をし、権力分立の観点から政治部門の暴走へ歯止めをかけていきます。

ですが、連邦最高裁がその存在意義を示した判決を出すまで、50年はかかっています。民主主義の実現には本当に時間と労力が必要だということです。諦めずに問題提起し続けることで司法も社会も変わると信じるしかありません。裁判所は政治部門の判断を追認するために存在するのではありません。主権者国民が政治部門に委ねた憲法の枠組みに沿った国家運営がなされているのか否かを厳格に監視するためにその存在が認められているのです。今回も最高裁には自らその存在意義を否定するような判決は避けてほしかった。ですが、思うような結果がでなかったとしても諦める必要はないと思っています。何事も諦めない限り負けはないからです。

いつの時代にもその時代に必要な司法があるはずです。これまでもそれぞれの時代における、その時代固有の司法の役割、裁判官が果たすべき役割があったのだと思います。今の時代は、政治部門が憲法を尊重し敬意を払っているとは思えない状況にあり、政治部門内での抑制・均衡が機能不全に陥っています。これまでにないほどに立憲主義、平和主義、民主主義といった憲法価値が危機に直面しているともいえるでしょう。こうした時だからこそ、果たさなければならない司法の役割、裁判官の使命があるはずです。日本の司法にも、政治部門に対して強く、気高く、聳え立っていてほしいと心から願っています。

それにしても9年間、この裁判をやってきていますが、今回のように努力が報われないとむなしく感じることもあります。ですが、結果が保証されないことに対して、どこまで頑張れるかが重要なのだと思っています。安保法制についても裁判などやって負けたらどうすると批判されることもあります。ですが、選挙という手段で闘っても確実に勝てる保証などありません。そもそも結果が保証されて確実に勝てる闘いなど、政治、裁判、ビジネス、スポーツ等どんな世界にもありません。

受験勉強も仕事も普段の生活もあらゆることは、結果など保証されていません。未来はこれから、今を積み重ねて創っていくしかないからです。あるのは今だけです。過去に捕らわれ、未来を恐れて何もしないのでは、今を生きていることになりません。何事であっても、何があっても、慌てず、焦らず、諦めず、一歩一歩、目標に向かって努力を続けていくしかないのです。 「FESTINA LENTE、ゆっくりいそげ」を改めて自分に言い聞かせています。

2017年7月 2日 (日)

第263回 沖縄

6月23日沖縄慰霊の日に合わせて、安保法制違憲訴訟の沖縄提訴に参加してきました。
那覇地裁が20箇所目の裁判所で、これで6,296人の原告、1,614人の弁護士が代理人となりました。ここでも塾生だった若手弁護士が何人も参加してくれています。
住民4人に1人が犠牲になった沖縄戦の組織的戦闘が終結して72年。沖縄にとってこの慰霊の日は特別な日です。
本土では、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などは1面で取り上げていましたが、日本一の発行部数を誇る読売新聞は、1面どころかどこにも記事を見つけられませんでした。
完全に無視です。政府広報誌に成り下がると、ここまで冷淡になれるものなのだなと妙に寒心し、戦前もこうして新聞が人々を一色に塗りつぶしていったのだろうなと納得もしました。

提訴の後、報告集会まで少し時間があったので、沖縄国際平和研究所を訪ねてきました。
6月12日、92歳の誕生日当日になくなった大田昌秀元沖縄県知事が設立されたもので、沖縄戦やホロコーストを写真と映像で学習できる展示館です。
特別に見せていただいた資料の中に興味深い写真を見つけました。戦時中に米軍が日本の上空から巻いた宣伝ビラです。「憲法上の権利を要求せよ」というタイトルのもとに様々な権利が列挙されていて大日本帝国憲法で保障された権利を自覚させようとしているのです。もう1枚は、「住民はこの戦争に対してどんな義務がありますか」と問いかけて、「皆さんは戦争に行きたかったのですか」「皆さんは勝つ見込みのない戦争をしたいのですか」「皆さんはこの戦争で何か得をすることがありますか」という具合に合理的な理性に訴えるような内容のビラです。

沖縄国際平和研究所と見せていただいた資料▲沖縄国際平和研究所と見せていただいた資料


権利・義務という言葉すら正しく理解できなかったであろう日本人に、アメリカはこうして理性に訴えかけてようとしていたのです。一億総火の玉となって玉砕も辞さない覚悟の日本臣民とはあまりにもそのメンタリティが違いすぎました。
理性や知性が通じない人を相手にしていると本当に徒労感が残ります。日本の議会政治は知性、理性で議論できる場ではなくなってしまいました。戦前に先祖返りをしたのでしょうか。国会崩壊といわざるをえないほど劣化してしまいました。
だからこそ司法という最後の理性の場に期待して、そこで闘うしかないという思いで、安保法制違憲訴訟を全国の裁判所で展開しているのです。

沖縄の訴状では次のように訴えています。
「現代の戦争は報復の連鎖である。安保法制があることにより、アメリカが自国の正義を伝播させようとする中で生じる怨嗟の渦に、巻き込まれる可能性が高まる。安保法制は、戦争による加害と被害を一気に拡大させる危険性を持つものでしかない。本土において米軍基地のない地域に暮らすと、米軍の戦争に巻き込まれるという事態をリアルに想像しづらいかもしれない。しかし、国が戦争に巻き込まれたとたん、国内の個人一人ひとりが直接加担せずとも、戦争は私たちに無関係なものではなくなってしまう。もっとも忌むべきことは、そうした想像力の欠如と無関心である。」

本土の人間の想像力の欠如ほど残酷なものはありません。 伊藤塾では毎年12月に沖縄スタディツアーを行っています。かつては「本土と沖縄には温度差がある」と言われました。しばらくして「沖縄は差別されている」という表現に変わり、今は「無視されている」と言われることがあります。読売新聞の対応を見ると残念ながら認めざるを得ません。今年も多くの塾生の参加を期待しています。

辺野古新基地建設はもちろん「唯一の選択肢」ではありませんが、多くの政治家、そして本土の人間はそう思い込みます。ちょうとパレルモ条約締結には共謀罪が必要という根拠のない思い込みと同じです。嘘も繰り返し報道されれば本当のことと思い込みます。他方で1兆円ともいわれる巨額の建設費はすべて私達の税金で賄われるということ、大切な自然が壊されていること、テロリストでもない一般人が5ヶ月も拘束され家族との面会も禁じられ精神的拷問を受けたことはあまり報道されないので知りません。

沖縄スタディツアーでは毎年、大田先生に講演をしていただいていました。
先生は、「過ぎ去った歳月の過程で、私が一日たりとも忘れることができないのは、いくつもの地獄を同時に一カ所に集めたかのような、悲惨極まる沖縄戦の生々しい体験である」と最後の編著作である「沖縄鉄血勤皇隊」に記されています。
沖縄戦では、13歳から19歳までの少年約1,800人が動員され1,550人が亡くなりました。「同じ戦場から奇しくも九死に一生を得て生き延びた私は、学友たちの死を悼み、ひたすら生きる意味について考えざるを得なかった。そして生きる意味があるとすれば、それは絶対に二度と同じ悲劇を繰り返させてはならないと固く決意し、世界の平和創出に努めること、悲惨な実態を可能な限り正確に後世に伝えねばならないこと」と想いを述べられています。
先生と2日しか誕生日が違わない私も改めて自分の生の意味を問い続けます。

2016年沖縄スタディツアーでのご講演の様子と大田先生の執務室▲2016年沖縄スタディツアーでのご講演の様子と大田先生の執務室


「勝つ方法はあきらめないこと」辺野古の海のテントの看板にあった言葉です。
すべてに通じる、私にとってとても大切な言葉です。
沖縄は日本の最先端。そして憲法の最先端です。

<関連リンク> ・伊藤塾 沖縄スタディツアー沖縄国際平和研究所 (外部リンク)

2017年6月 1日 (木)

第262回 自衛隊と憲法

憲法施行70年の5月3日に、安倍首相は自民党総裁という立場で、2020年に新しい憲法を施行するので自衛隊を憲法に明記する改憲を進めることを宣言しました。オリンピックとは何の関係もありませんが、オリンピックを共謀罪の口実にするなどの政治利用をしてきた首相ですから、その点はあまり驚きませんでした。

ただ、「自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべき」だから「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という発言には看過できないものがあると思いました。まず、戦力不保持、交戦権否認という2項を残したまま、自衛隊を明記したところで、自衛隊が戦力か否かの論議はそのまま残ります。自衛隊が違憲かもしれないという議論の余地はなくなりません。

そもそも災害救助隊としての自衛隊を違憲という人はいないでしょう。武装集団としての自衛隊違憲論には、立憲主義的な意味があります。憲法は武装集団に正面から正統性を与えていません。違憲ではないかと疑いがかけられることによって、そうした組織は、世間から後ろ指をさされないように常に身を慎むことになります。その組織が武力を行使する組織であるならばより一層、抑制的であるべきなのですから、こうした統制は必要であり、意味のあるものです。戦前のように正規の軍隊として軍拡を主張したり、国防を国家の最優先事項にしたりすることができません。

つまり、自衛隊違憲論は、軍事優先社会を構築することや反戦思想を取り締まったりすることを封じ、自由な社会の下支えをしてきたのです。こうした自衛隊に対する違憲の疑いをなくすということは、自衛隊をこうした緊張関係から解放し、国家としてより自由にこれを利用できるようにしたいということに他なりません。

仮に自衛隊違憲の余地をなくそうというのであれば、2項の例外として自衛隊を位置づけるしかありません。それでは2項が骨抜きになります。つまり「徹底した恒久平和主義」を捨て去ることを意味します。自衛のために許された戦力であり、自衛のための交戦権を行使できる武装集団となるのですから、実質的な国防軍の創設です。

しかし、発議の際に改憲をめざす政治家は、「何も変わりません。現状のままです」と言い続けることでしょう。それに国民はまんまと欺されて、自衛隊という名称の国防軍が創設されるのです。仮に、現状のままというのが真実であったとしても、ここで明記される自衛隊は、2015年安保法制以後の自衛隊ですから、海外で武力行使する、戦争する自衛隊ということになります。専守防衛に徹する自衛隊ではありません。「殺し殺される」、戦争する自衛隊を憲法で固定化してよいのかを国民がしっかりと考える必要があります。

ですが、国民の間であまり実質的な議論は期待できないかもしれません。最近は9条を変えてもいいという人が増えてきているようです。それは、北朝鮮などの脅威もさることながら、戦争体験者が減少し、戦争を知らない軍国少年が増えたからかもしれません。「重要なことは2度経験しないとわからない」(ヘーゲル)と言われます。日本は1度しか戦争で負けていません。

1度、悲惨な戦争を体験した人すら亡くなりつつあります。ましてや軍隊を統制することの失敗も経験したことがなく、悲惨な戦争を1度も体験していない国民が圧倒的多数となっているのですから、厳しい状況です。軍隊はコントロールできない、攻撃されたらどんな軍隊を持っていようが国民に多大な被害が生じるという現実を直視したことからこそ設けられた、極めて現実的な規定である9条をそう簡単に手放していいとは思えません。

私達には経験していなくても理解したり想像したりするために知性があります。知性の力によって、しっかりと想像力を発揮して、戦争はよくないことだと言える人間であり続けたいと思っています。正しい戦争もあるのだと訳知り顔で語り、平和主義を揶揄する、戦争を知らない軍国少年にはなりたくないのです。

最後に、ワシントンのホロコースト博物館に掲示されているファシズムの兆候(Early Warning Signs of Fascism)を紹介します。強力で継続的なナショナリズム、人権の軽視、団結の目的のため敵国を設定、軍事優先(軍隊の優越性)、はびこる女性蔑視、マスメディアのコントロール、安全保障強化への異常な執着、宗教と政治の一体化、企業の力の保護、抑圧される労働者、知性や芸術の軽視、刑罰強化への執着、身びいきの蔓延や腐敗(汚職)、詐欺的な選挙。

2017年5月 1日 (月)

第261回 人格的自律

皆さんはどんな自分になりたいと思って勉強していますか。勉強を始めたばかりの人は、法律家や公務員になってバリバリ働いている自分を目指したり、多くの人の助けになれるプロを目指していることと思います。今年、初めて本試験を受験する人は、試験会場であがらず、冷静に普段の力が発揮できる自分になりたいと思っているかもしれません。何度目かの受験を控えている人の中には、能力を発揮すべきときに最大の力を出し切れる人間になりたいと思っている人も多いと思います。

こうしてなりたい自分がある人は、それだけで幸せなのだと思います。お互いにそれぞれの考えるなりたい自分に向けての努力を尊敬し合い、他者のみならず、自分自身をも尊敬することができるのはすばらしいことです。

私は、初めて受けた司法試験の短答試験に落ちました。それまでも試験に失敗したり、うまくいかないこともそれなりにあったのですが、本気で精一杯やって結果が出せなかったことは、それまでなかったので本当に落ち込みました。極限まで自分を追い込んで結果を出せなかったのですから、自分の情けなさに自信を無くし、自分は法律に向いていないのだと必死に言い訳をして壊れそうな自分を守ろうとしていました。

ですが、考えてみたら完全な自分などいるわけもなく、未熟で発展途上の自分しか存在しません。周りの眼を気にして他人の評価に自分を合わせようとして苦しんでいたのですが、それは、実体のない影のようなものに怯えていただけだったのです。他人が評価したところの自分などは存在せず、今ここにいるのは、自分がその価値を決めて現実を生きるこの自分だけだったのです。自らの存在意義は自らが決めればいい、これを人格的自律というのだと理解しました。幸福追求権、つまり人格的自律権の意味がやっとわかった瞬間でした。

憲法13条で、尊重されるべき個人というのは、実は不完全な自分自身の現実の姿を自覚しながら、よりよい自分になろうと自己の完成に努めている人、そして他者の尊厳を尊重することができる個人を意味しています。きつい経験をして初めて理解した憲法13条ですが、その後の私の生き方の基本となりました。試験でもその後は、自分のめざす自己の完成と他者の幸福を意識していればいいのであって、結果を思い煩う必要など全くないことがわかって、開き直った気持ちで臨むことができました。

私は自分の命すなわち生がどんな価値を持っているのか、そんな難しいことを知る方法を持ち合わせてはいません。だからこそ、私自身が私の生に与える価値を大切にしようと思うのです。自分の価値は自分で決めると決めたのです。

一人一票の実現も戦争法や共謀罪への反対も、どんなに声を上げても、何も変わらないのではないか。強大な権力の前に一個人の力など些細なものであり、努力するだけ無駄ではないのかと気弱になることもあります。しかし、自分が考える社会の幸せ、それは、それぞれの幸せが共存できる社会ですが、それを実現するために、自分にできることを精一杯行うことで、発展途上の自分が少しでも成長できたらと思います。そのように努力し続けている自分を尊敬できるようになりたいと思って自分を奮い立たせます。

社会が変わるような大きな問題だけでなく、自分の身に降りかかる様々な出来事が、極めて偶然なものに見えても、それが自分にとってけっして無意味ではなく価値あるものなのだと、自分で意味づけを与えて生きるということです。自分に起こるすべての出来事は、毎日の小さなことであっても、すべて自分の自覚と意志に完全に任されていると認識できる自分でいたいと思うのです。 自己の完成と他者の幸福をなんとか自分の中で両立させたいと願ってきました。こうした自分の生き方にとって、平和であること、誰もが委縮せずに自由にものがいえる社会であることは不可欠なのです。北朝鮮の脅威をことさらに煽り立て、人々を不安によって支配しようとすることは、少なくとも私の幸福の追求にとっては障害になります。

一人ひとりの個人が自分の幸福を追求して懸命に生きることができるように、複数の選択肢に満たされた社会の環境整備をすることのみが国家の役割なのであり、国は特定の生き方や善い生を押し付けてはならないのです。力や恐怖によって人を支配しようとする企てに対しては、これからも声を上げ続けます。それが、憲法施行70年の今、憲法を学び続けている者の責任でもあると思っているからです。

2017年4月 1日 (土)

第260回 花見と共謀罪

渋谷・伊藤塾前の桜並木も一年で最も美しい時期を迎えます。試験直前で、花見どころではないという塾生には、叱られそうですが、世の中はお花見の季節です。中には日ごろの憂さを花見で晴らしたい人もいることでしょう。ですが、花見に行って、同僚と盛り上がってしまうときは注意が必要です。

たとえば、ソフト開発会社の社員が花見の宴席で同僚と、「こんな会社辞めて、みんなでベンチャーを立ち上げようぜ」という話で盛り上がったとします。開発中のソフトが上司に握り潰されてしまったのが不満だったのです。これを完成させて販売する会社を作ろうなどと話をしている最中に、メンバーの1人がちょっと酒を買ってくると言って席を立ち、コンビニでお金をおろしました。すると突然、私服警官が現れて全員、逮捕されてしまったのです。皆、全く訳も分からず困惑するばかりですが、容疑は窃盗と不正競争防止法違反の共謀ということでした。

実は、同僚の1人が、原発に関する勉強会に出席したことがあったのです。セキュリティーソフトを開発するエンジニアとして、会場では原発へのサイバー攻撃について質問もしました。彼はそのときから潜伏捜査をしていた覆面警官に目をつけられていました。同僚とのスマホでの会話は盗聴され、メールもラインもすべて監視されていました。もちろん、花見の予定も警察は把握していました。幸い、彼らは逮捕されただけで起訴されることはありませんでしたが、この一件の後、原発勉強会の参加者は激減しました。

政府は、現在国会審議中の共謀罪はその適用を組織的犯罪集団に限定しているから、一般市民が対象になることはないといいます。ですが、これに該当するかは、警察が決めます。そういえば、戦前の治安維持法制定の際も、一般市民は対象ではないと説明されましたが、戦争はいやだという普通の人々が、国体を否定する思想だと決めつけられて逮捕、弾圧されました。対象犯罪をテロ対策に必要な277に限定したといいます。ですが、刑法では、窃盗、横領、背任、往来危険、傷害なども含まれ、会社法、不正競争防止法の中のいくつかの犯罪も該当します。犯罪計画だけなく、準備行為が必要だといいます。ですが、誰か1人がATMからお金を引出すだけでも該当します。捜査に関しても、2016年5月の盗聴法改正によって、警察署の中で、第三者の立ち合いなしに広く一般市民を対象とした電話、メール、SNSなどの盗聴、監視が可能となりました。

これまで日本の刑事法は、実行に着手した者をその行為の法益侵害を招く危険性ゆえに処罰するのが原則で、陰謀、共謀を処罰するのはあくまでも例外でした。刑法では3つ、特別法を入れても23個だけです。それを一気に277も増やすというのです。これによって、行為の危険性ゆえに処罰するのではなく、内心の危険性によって処罰することになり、日本の刑事法体系が大きく変容してしまいます。しかも、罪刑法定主義の要請である構成要件の明確性を全く満たしません。捜査権限の濫用を招く危険が極めて高いとして、共謀罪に多くの刑事法学者や日弁連が反対するのは当然のことといえます。

政府は、テロ対策を口実にしますが、日本はすでに13ものテロ関連条約を締結していて、十分に対応できています。そもそも、アメリカなど共謀罪がある外国で、テロを防止できていません。テロ被害を避けるには、テロの標的にならないようにするか、テロの原因をなくす努力をするかしかありません。ところが、安倍政権は、イスラムを敵視する米国のために闘う安保法制法を成立させました。あえてテロの標的になる危険を招く法律を強行採決しておきながら、テロ対策のために共謀罪が必要だというのはまるでブラックジョークです。

国際組織犯罪防止条約の批准のためとも言われますが、これが理由にならないことは日弁連はじめ法律専門家が明らかにしています。このようにテロ対策に必要だとか、ましてやオリンピック開催に必要だなどという理由を挙げられると、ホルムズ海峡や赤ちゃんを抱いた母親のパネルを使って集団的自衛権が必要だと言い放った安倍総理の姿を思い出してしまいます。

自民党は、2012年の憲法改正草案で、国防軍を作り、当たり前に戦争ができる国にすることを明確なゴールとしています。今さら目的をごまかす必要はありません。戦争できる国づくりの過程で必要なのだときちんと国民に説明すればよいのです。2013年秘密保護法制定、2014年集団的自衛権行使容認の閣議決定、2015年戦争法制定、2016年盗聴法拡大、そして2017年の今年、共謀罪成立をめざすというわけです。見事に筋が通っています。

いつまでも、楽しく安心して花見ができる日本であり続けたいと思います。だから共謀罪が必要と考えるか、むしろ有害と考えるか、私たち一人ひとりにかかわる問題です。皆さんはこの日本をどのような国にしたいですか。私は、人権擁護と社会正義の実現を使命とする弁護士として、反対の声を怯むことなく上げ続けたいと思っています。

2017年3月 1日 (水)

第259回 家族と立憲主義

先月は、びっくりするような報道がいくつかありました。1つは、幼稚園児に教育勅語を暗唱させ、運動会の選手宣誓で「安倍首相頑張れ、安保法制国会通過よかったです」といわせる森友学園の話題です。用地取得に関する問題もさることながら、こうした教育を支持する親が少なからずいるということにも驚きました。

2006年、第1次安倍内閣のときに教育基本法が改正され、家庭教育の項目が新設されました。保護者が子の教育に第一義的責任を有すると規定され、国や自治体に家庭教育の支援施策を講じるように努力義務を課します。これを受けて、先月24日には家庭教育支援法案が自民党内の了承手続きを終えたようです。基本理念は道徳的なものばかりで、よい家族の形を押し付ける考えがその背景にあるように思われます。戦時中の1942年にも、家庭の教育力の低下を理由に、国が家庭教育に介入するために「戦時家庭教育指導要綱」が作成され、家族主義が強要されました。

家族を大切にとか、家庭教育を重視しようと言われると、これに反対するのはむずかしそうです。2012年の自民党憲法改正草案は、その24条1項において、「家族は,社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」と規定します。これも当然のことを規定しているようにみえます。

しかし、考えてみると社会の構成要素は個人であって家族という団体ではありません。この規定は、個人よりも団体を基礎的単位としていること、国が個人の道徳、倫理に介入しようとしていること、これが社会保障費削減の口実となることなど、問題が山積みの規定です。

特に立憲主義との関係では、個人を家族の中に埋没させて、これを否定しているという点で、致命的な欠陥を持ちます。さらに立憲主義は様々な価値観の共存のための知恵なのですが、一定のライフスタイルを強制することにつながる点でも立憲主義の根本理念に反します。家族を保護する規定は世界の憲法や人権宣言にもありますが、それらでは、家族を国が保護すべきだという規定であり、家族の中で助け合えというものとは全く意味が違います。   日本では戦前、「家」制度を国が利用して、神権的国体思想を推進しました。このあたりのことは、マガジン9というwebサイトに書いているので、是非、読んでみてください(http://www.magazine9.jp/article/juku/31888/)。子どもたちは、親孝行の名の下に家長に従属することを強制されましたが、そうした家族の中では個人が否定されます。そして、国という家(国家)の家長である天皇への忠誠心を要求されました。全国を一家一族となし、皇室を宗家となすところの大家族主義です。大日本帝国憲法の翌年に教育勅語が発布され、天皇の支配が道徳の世界にまで及んでいったのです。   立憲主義は、個人の尊重を根本的な価値とします。その個人を家族の中で否定するのですから、教育勅語や「家」の尊重が立憲主義と相いれないことは明らかです。逆に立憲主義を否定したい人たちは、あえて個人主義を利己主義と同視して攻撃します。憲法を学んだ者として、家族を大切にという言葉の持つ“負の面”を忘れてはなりません。

もうひとつ驚いた報道は、アメリカでの司法の対応の速さです。トランプ大統領がイスラム7カ国の市民などのアメリカへの入国を一時禁止した大統領命令に対し、ニューヨーク州ブルックリンの連邦地裁が大統領令の効力を一部停止したほか、ワシントン州、カリフォルニア州などの連邦地裁がこの大統領令の執行を停止しました。憲法で学ぶ厳格な権力分立が実際に機能しているところを目の当たりにして、アメリカの底力を見た気がしました。

民主的に選ばれた大統領の命令であっても、憲法の観点から司法がこれにブレーキをかけるのです。民主主義と立憲主義の緊張関係がそこに見て取れます。もちろん、連邦制など制度の違いはありますが、それでもアメリカで立憲主義が機能している様子は、法律に携わる者には輝いて見えます。

実はアメリカの司法もこうした判断を下せるようになるまで、紆余曲折を経てきています。一朝一夕で立憲主義など形になるものではありません。市民も含めて、あらゆる立場の人々がその役割を果たすことで、ようやく実現するものなのです。法律家、行政官をめざす皆さんには、あるべき司法や国の姿を実現するためにそれぞれの役割を果たしてほしいと思っています。法律を学ぶということは、そうした責任を自覚することでもあるのです。

2017年2月 2日 (木)

第258回 国境

今から45年ほど前、初めて飛行機に乗ってドイツに行ったときに、窓から下を見て驚いたことがありました。今はなきアンカレッジ経由の路線で、北海からオランダ上空を通ってドイツに入ったと思うのですが、窓から見えたヨーロッパが私の想像していたものとは違っていたのです。なんと飛行機の窓から下を見ても、国境線が見えないのです。もちろん海の中には線など引いてありませんし、陸地も森や畑が続いていているだけで、国境線は見えません。そして、何よりも国ごとに色分けがなされていないのです。

小学校のときに社会科の授業で白地図を色鉛筆で塗り分けたことがあります。地図帳や地球儀に載っている国もすべて色分けされていました。ところが、実際に見えるヨーロッパの姿は違っていました。「あっそうか、国境は人間が作ったものなんだ。」これは新鮮な驚きでした。日本にいるときには、海という自然の国境線に囲まれているものですから、国境を動かない所与の前提のように考えていました。

考えてみれば、どこの国の国境線も変化しています。そして、かつては領土を広げることが国益につながるという発想の下で、各国が競って領土を広げ、奪い取るために戦争を繰り返しました。ですが、人・物・金・情報の流通が自由になるにつれて、経済や文化の力は国土面積とは関係ないことがわかってきます。

第二次世界大戦で日本は、朝鮮半島などを失い、領土は戦前の52%になります。しかし、その後、経済規模では一時期、世界第2位まで成長しました。同様にドイツも東西の分断を受け、西ドイツの領土は戦前の42%になりましたが、その後、欧州一の経済大国になり、今やヨーロッパの欠かせないリーダーです。

フランスもロシアも国土を縮小して発展しました。国土面積と国力、国の豊かさや国民の幸せ度合とは無関係のようです。皆さんには、領土を国益の第一と考えるだけではなく、もっと多様なものさしを持ってもらいたいと思っています。複眼的な視点は法的思考力の基礎だからです

ドイツ在住中にベルリンに行きました。検問を越えて東側に入ると、すべてに精彩がなく、まるで白黒映画のような暗く重苦しい感じを今でも覚えています。街の中を走る高い壁は自分が生きている間には絶対になくならないと思いました。ところが、その強固な壁すら1989年には壊され、東西ドイツが統一されます。ここでも国の形が大きく変わったのです。国境線も国の形もそこで生活する市民の意思でいくらでも変わるのだと思い知りました。後に、「壁の向こうに仲間を作れば、壁は壁でなくなる」という言葉を聞いてなるほどと思いました。物理的な壁が問題なのではなく、私たちの心の問題だったのです。

当時のドイツでは労働力としてトルコから移民を受け入れていました。ドイツ人でもトルコ人でもいい人もいれば、いやな奴もいました。日本に帰国する際に、アテネ、カイロなどいくつかの都市を一人で寄り道しながら帰ってきたのですが、怖い思いもしたし、とても親切なアラブ人に出会ったりもしました。国や民族、宗教など本当に関係ない、要は一人ひとり、その人次第だということを子どもながら肌で感じました。そして国境なんてあまり意味ないなとも思いました。

そう、国は、既にそこにある変わらぬ存在ではなく、そこで生活している人間の意思と行動によって人為的に創り上げたものだったのです。だからこそ、国境や民族を巡ってひどいことも起こるけれども、それを修復するのも人間の力なのです。

トランプ大統領のように国境に壁を作ったり、特定の国の人々の入国を拒否したりするのも人間ですが、カナダのトルドー首相のように「多様性こそ私たちの強みです」と言って迫害とテロ、戦争から逃れてきた人々を歓迎するのも人間なのです。

もともと、海という自然の国境に囲まれ、難民の受け入れを事実上拒み続けている日本で生活していると、米国やヨーロッパ諸国の苦悩を理解しづらいことは確かです。ですが、これからはそれでは済まされない時代になろうとしています。

「ベニスに死す」などの作品を残したドイツのノーベル文学賞作家であるトーマス・マンは、「教養とは、人間は戦争してはいけないと信じること。自国のことのみを考えるのではなく、他国のことも深く理解すること」と言っています。どちらも日本国憲法の9条、前文に通じるものです。世界がこうした考えと逆行しようとしているときだからこそ、日本国憲法の先進性が際立つように思います。施行後70年たって、まだまだ世界の最先端を走っているのだと感じます。国力とは領土の大きさや軍事力などではなく、どんな理想を目指しているのかという理念の力が大きいのだと思います。

2017年1月 5日 (木)

第257回 謹賀新年

沖縄辺野古での新基地建設をめぐる訴訟において、最高裁は弁論すら開かずに国の言い分を全面的に認めました。1審からわずか3ヶ月での最高裁判決はいかにも、新基地建設を早急に進めたい国の意向に沿ったものに思えてなりません。私には、安保条約を違憲と判断した1959年3月の砂川事件1審判決に対して、米国の意向から跳躍上告をした上で、翌年の安保改定に間に合うように12月にスピード判決を下した最高裁の姿が重なって見えます。この国の司法は、いつまでたっても政治部門と米国の尻を追いかけているだけの情けない存在なのかとため息が出ます。

もう法律家の上がりの地位まで上り詰めたのだから、何も怖がらずに良心に従い、憲法と法律にのみ従って判断すればよいものを何を怖がるのでしょうか。本土や政府のために仕事をするのが自分たちの役割だと考えているのでしょうか。少数者の人権保障など教科書に書いてあるだけの絵空事であり、結局は政治的多数に従って、無難な判断をしながら任期を全うすればいい。またそうすることが、任命権を持っている政府から司法の独立を護ることにつながるのだと考えているのでしょうか。

しかし、今は多くの国民・市民が憲法を知らず、最高裁の存在意義も理解していないからいいようなものの、これから皆が憲法を学び、自立した市民としてものを考えるようになったら、こうした最高裁の態度は、国民の信頼を失い、かえって大きなダメージになってしまいます。

昨年、沖縄高江でヘリパッド建設反対運動をしている沖縄の市民に、警察官から「ぼけ、土人が」という発言がありましたが、これを「差別とは断定できない」と政府は擁護し続けました。「反対運動をしている人々からの暴言もあるではないか」とか、「言論弾圧に通じる」といって問題をすり替える人もいます。市民と権力の関係、表現の自由の意味、憲法の存在意義がまったく理解されていない証左です。

米軍基地が沖縄本土復帰前に次々と沖縄に移転され、本土からは一部地域を除いて米軍基地の存在は見えなくなりました。日米安保条約の恩恵だけ受けて、その負担を沖縄に押しつけてきた本土の人間が、新基地建設反対運動を沖縄のわがままと決めつけて批判する、その身勝手さに驚くとともに、沖縄の歴史に無知であることへの恥の気持ちを持たない知的怠惰に愕然とします。そんな中でオスプレイが墜落事故を起こしたことに抗議をした副知事に対して、米軍の沖縄責任者は「パイロットは賞賛されるべきだ。むしろ感謝するべきだ」と逆ギレしたそうです。米国では住宅街のど真ん中の基地など法律上許されません。占領軍意識丸出し、沖縄差別の元凶を見る思いです。

米国による差別、そしてそれよりも愚劣な日本政府による差別。戦争は差別や弾圧とともにやってくるといわれます。「戦争なんてまた被害妄想が始まった」と笑い飛ばす人もいます。本当にこれが私の被害妄想で終わり、数十年後に「そういえば昔、馬鹿な弁護士が無意味な声を上げていたなあ」と笑い話になることを心から願っています。

沖縄は日本の最先端です。最先端で起こっていることは、いずれ本土にもやってきます。未来の本土の姿がそこにあるという想像力を働かすことができるかどうか、法律家や行政官には法律を使いこなす力だけでなく、そうした想像力、共感力も必要です。こうした力が新しい未来を切り拓いてゆく創造力につながっていきます。

どんな分野の仕事でも最先端に関するものは、どうしても風当たりが強くなります。批判や反対の声も大きく聞こえてきます。ですが、最先端を走る少数派には風当たりが強いものだと覚悟しておいてください。今、法律を勉強することは、少数派かもしれません。でもだからこそ、未来を見据えて自分の理想とする法律家や行政官を高い志をもってめざすことには大きな意義があるのだと思います。

新安保法制違憲訴訟も全国14カ所で提訴され、今後さらに20カ所以上に増えていく予定です。原告も5000人を超え、弁護団も1000人を優に超えていきます。「合憲判決が出たらどうするんだ、どうせ負けるに決まっている」と何もしないで批判するだけの専門家も少なくありません。それぞれ考えがあってのことだとは思いますが、私はそのように始める前から負けると決めてかかるような敗北主義には与しません。結果が保証されていなくても、自分の信念に従って必死で努力を続けることなしに壁を乗り越えることなどできない。このことを私は司法試験の勉強の過程で学びました。それを今、実践しています。

明日の自分は今日の自分が創る。日本の未来は今を生きる私たち市民一人ひとりが創り上げる。その気概をもって今年一年、真剣勝負で頑張りたいと思います。今年もよろしくお願いします。

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