真の法律家・行政官を育成する 「伊藤塾」 株式会社 法学館

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2017年7月 2日 (日)

第263回 沖縄

6月23日沖縄慰霊の日に合わせて、安保法制違憲訴訟の沖縄提訴に参加してきました。
那覇地裁が20箇所目の裁判所で、これで6,296人の原告、1,614人の弁護士が代理人となりました。ここでも塾生だった若手弁護士が何人も参加してくれています。
住民4人に1人が犠牲になった沖縄戦の組織的戦闘が終結して72年。沖縄にとってこの慰霊の日は特別な日です。
本土では、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などは1面で取り上げていましたが、日本一の発行部数を誇る読売新聞は、1面どころかどこにも記事を見つけられませんでした。
完全に無視です。政府広報誌に成り下がると、ここまで冷淡になれるものなのだなと妙に寒心し、戦前もこうして新聞が人々を一色に塗りつぶしていったのだろうなと納得もしました。

提訴の後、報告集会まで少し時間があったので、沖縄国際平和研究所を訪ねてきました。
6月12日、92歳の誕生日当日になくなった大田昌秀元沖縄県知事が設立されたもので、沖縄戦やホロコーストを写真と映像で学習できる展示館です。
特別に見せていただいた資料の中に興味深い写真を見つけました。戦時中に米軍が日本の上空から巻いた宣伝ビラです。「憲法上の権利を要求せよ」というタイトルのもとに様々な権利が列挙されていて大日本帝国憲法で保障された権利を自覚させようとしているのです。もう1枚は、「住民はこの戦争に対してどんな義務がありますか」と問いかけて、「皆さんは戦争に行きたかったのですか」「皆さんは勝つ見込みのない戦争をしたいのですか」「皆さんはこの戦争で何か得をすることがありますか」という具合に合理的な理性に訴えるような内容のビラです。

沖縄国際平和研究所と見せていただいた資料▲沖縄国際平和研究所と見せていただいた資料


権利・義務という言葉すら正しく理解できなかったであろう日本人に、アメリカはこうして理性に訴えかけてようとしていたのです。一億総火の玉となって玉砕も辞さない覚悟の日本臣民とはあまりにもそのメンタリティが違いすぎました。
理性や知性が通じない人を相手にしていると本当に徒労感が残ります。日本の議会政治は知性、理性で議論できる場ではなくなってしまいました。戦前に先祖返りをしたのでしょうか。国会崩壊といわざるをえないほど劣化してしまいました。
だからこそ司法という最後の理性の場に期待して、そこで闘うしかないという思いで、安保法制違憲訴訟を全国の裁判所で展開しているのです。

沖縄の訴状では次のように訴えています。
「現代の戦争は報復の連鎖である。安保法制があることにより、アメリカが自国の正義を伝播させようとする中で生じる怨嗟の渦に、巻き込まれる可能性が高まる。安保法制は、戦争による加害と被害を一気に拡大させる危険性を持つものでしかない。本土において米軍基地のない地域に暮らすと、米軍の戦争に巻き込まれるという事態をリアルに想像しづらいかもしれない。しかし、国が戦争に巻き込まれたとたん、国内の個人一人ひとりが直接加担せずとも、戦争は私たちに無関係なものではなくなってしまう。もっとも忌むべきことは、そうした想像力の欠如と無関心である。」

本土の人間の想像力の欠如ほど残酷なものはありません。 伊藤塾では毎年12月に沖縄スタディツアーを行っています。かつては「本土と沖縄には温度差がある」と言われました。しばらくして「沖縄は差別されている」という表現に変わり、今は「無視されている」と言われることがあります。読売新聞の対応を見ると残念ながら認めざるを得ません。今年も多くの塾生の参加を期待しています。

辺野古新基地建設はもちろん「唯一の選択肢」ではありませんが、多くの政治家、そして本土の人間はそう思い込みます。ちょうとパレルモ条約締結には共謀罪が必要という根拠のない思い込みと同じです。嘘も繰り返し報道されれば本当のことと思い込みます。他方で1兆円ともいわれる巨額の建設費はすべて私達の税金で賄われるということ、大切な自然が壊されていること、テロリストでもない一般人が5ヶ月も拘束され家族との面会も禁じられ精神的拷問を受けたことはあまり報道されないので知りません。

沖縄スタディツアーでは毎年、大田先生に講演をしていただいていました。
先生は、「過ぎ去った歳月の過程で、私が一日たりとも忘れることができないのは、いくつもの地獄を同時に一カ所に集めたかのような、悲惨極まる沖縄戦の生々しい体験である」と最後の編著作である「沖縄鉄血勤皇隊」に記されています。
沖縄戦では、13歳から19歳までの少年約1,800人が動員され1,550人が亡くなりました。「同じ戦場から奇しくも九死に一生を得て生き延びた私は、学友たちの死を悼み、ひたすら生きる意味について考えざるを得なかった。そして生きる意味があるとすれば、それは絶対に二度と同じ悲劇を繰り返させてはならないと固く決意し、世界の平和創出に努めること、悲惨な実態を可能な限り正確に後世に伝えねばならないこと」と想いを述べられています。
先生と2日しか誕生日が違わない私も改めて自分の生の意味を問い続けます。

2016年沖縄スタディツアーでのご講演の様子と大田先生の執務室▲2016年沖縄スタディツアーでのご講演の様子と大田先生の執務室


「勝つ方法はあきらめないこと」辺野古の海のテントの看板にあった言葉です。
すべてに通じる、私にとってとても大切な言葉です。
沖縄は日本の最先端。そして憲法の最先端です。

<関連リンク> ・伊藤塾 沖縄スタディツアー沖縄国際平和研究所 (外部リンク)

2017年6月 1日 (木)

第262回 自衛隊と憲法

憲法施行70年の5月3日に、安倍首相は自民党総裁という立場で、2020年に新しい憲法を施行するので自衛隊を憲法に明記する改憲を進めることを宣言しました。オリンピックとは何の関係もありませんが、オリンピックを共謀罪の口実にするなどの政治利用をしてきた首相ですから、その点はあまり驚きませんでした。

ただ、「自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべき」だから「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という発言には看過できないものがあると思いました。まず、戦力不保持、交戦権否認という2項を残したまま、自衛隊を明記したところで、自衛隊が戦力か否かの論議はそのまま残ります。自衛隊が違憲かもしれないという議論の余地はなくなりません。

そもそも災害救助隊としての自衛隊を違憲という人はいないでしょう。武装集団としての自衛隊違憲論には、立憲主義的な意味があります。憲法は武装集団に正面から正統性を与えていません。違憲ではないかと疑いがかけられることによって、そうした組織は、世間から後ろ指をさされないように常に身を慎むことになります。その組織が武力を行使する組織であるならばより一層、抑制的であるべきなのですから、こうした統制は必要であり、意味のあるものです。戦前のように正規の軍隊として軍拡を主張したり、国防を国家の最優先事項にしたりすることができません。

つまり、自衛隊違憲論は、軍事優先社会を構築することや反戦思想を取り締まったりすることを封じ、自由な社会の下支えをしてきたのです。こうした自衛隊に対する違憲の疑いをなくすということは、自衛隊をこうした緊張関係から解放し、国家としてより自由にこれを利用できるようにしたいということに他なりません。

仮に自衛隊違憲の余地をなくそうというのであれば、2項の例外として自衛隊を位置づけるしかありません。それでは2項が骨抜きになります。つまり「徹底した恒久平和主義」を捨て去ることを意味します。自衛のために許された戦力であり、自衛のための交戦権を行使できる武装集団となるのですから、実質的な国防軍の創設です。

しかし、発議の際に改憲をめざす政治家は、「何も変わりません。現状のままです」と言い続けることでしょう。それに国民はまんまと欺されて、自衛隊という名称の国防軍が創設されるのです。仮に、現状のままというのが真実であったとしても、ここで明記される自衛隊は、2015年安保法制以後の自衛隊ですから、海外で武力行使する、戦争する自衛隊ということになります。専守防衛に徹する自衛隊ではありません。「殺し殺される」、戦争する自衛隊を憲法で固定化してよいのかを国民がしっかりと考える必要があります。

ですが、国民の間であまり実質的な議論は期待できないかもしれません。最近は9条を変えてもいいという人が増えてきているようです。それは、北朝鮮などの脅威もさることながら、戦争体験者が減少し、戦争を知らない軍国少年が増えたからかもしれません。「重要なことは2度経験しないとわからない」(ヘーゲル)と言われます。日本は1度しか戦争で負けていません。

1度、悲惨な戦争を体験した人すら亡くなりつつあります。ましてや軍隊を統制することの失敗も経験したことがなく、悲惨な戦争を1度も体験していない国民が圧倒的多数となっているのですから、厳しい状況です。軍隊はコントロールできない、攻撃されたらどんな軍隊を持っていようが国民に多大な被害が生じるという現実を直視したことからこそ設けられた、極めて現実的な規定である9条をそう簡単に手放していいとは思えません。

私達には経験していなくても理解したり想像したりするために知性があります。知性の力によって、しっかりと想像力を発揮して、戦争はよくないことだと言える人間であり続けたいと思っています。正しい戦争もあるのだと訳知り顔で語り、平和主義を揶揄する、戦争を知らない軍国少年にはなりたくないのです。

最後に、ワシントンのホロコースト博物館に掲示されているファシズムの兆候(Early Warning Signs of Fascism)を紹介します。強力で継続的なナショナリズム、人権の軽視、団結の目的のため敵国を設定、軍事優先(軍隊の優越性)、はびこる女性蔑視、マスメディアのコントロール、安全保障強化への異常な執着、宗教と政治の一体化、企業の力の保護、抑圧される労働者、知性や芸術の軽視、刑罰強化への執着、身びいきの蔓延や腐敗(汚職)、詐欺的な選挙。

2017年5月 1日 (月)

第261回 人格的自律

皆さんはどんな自分になりたいと思って勉強していますか。勉強を始めたばかりの人は、法律家や公務員になってバリバリ働いている自分を目指したり、多くの人の助けになれるプロを目指していることと思います。今年、初めて本試験を受験する人は、試験会場であがらず、冷静に普段の力が発揮できる自分になりたいと思っているかもしれません。何度目かの受験を控えている人の中には、能力を発揮すべきときに最大の力を出し切れる人間になりたいと思っている人も多いと思います。

こうしてなりたい自分がある人は、それだけで幸せなのだと思います。お互いにそれぞれの考えるなりたい自分に向けての努力を尊敬し合い、他者のみならず、自分自身をも尊敬することができるのはすばらしいことです。

私は、初めて受けた司法試験の短答試験に落ちました。それまでも試験に失敗したり、うまくいかないこともそれなりにあったのですが、本気で精一杯やって結果が出せなかったことは、それまでなかったので本当に落ち込みました。極限まで自分を追い込んで結果を出せなかったのですから、自分の情けなさに自信を無くし、自分は法律に向いていないのだと必死に言い訳をして壊れそうな自分を守ろうとしていました。

ですが、考えてみたら完全な自分などいるわけもなく、未熟で発展途上の自分しか存在しません。周りの眼を気にして他人の評価に自分を合わせようとして苦しんでいたのですが、それは、実体のない影のようなものに怯えていただけだったのです。他人が評価したところの自分などは存在せず、今ここにいるのは、自分がその価値を決めて現実を生きるこの自分だけだったのです。自らの存在意義は自らが決めればいい、これを人格的自律というのだと理解しました。幸福追求権、つまり人格的自律権の意味がやっとわかった瞬間でした。

憲法13条で、尊重されるべき個人というのは、実は不完全な自分自身の現実の姿を自覚しながら、よりよい自分になろうと自己の完成に努めている人、そして他者の尊厳を尊重することができる個人を意味しています。きつい経験をして初めて理解した憲法13条ですが、その後の私の生き方の基本となりました。試験でもその後は、自分のめざす自己の完成と他者の幸福を意識していればいいのであって、結果を思い煩う必要など全くないことがわかって、開き直った気持ちで臨むことができました。

私は自分の命すなわち生がどんな価値を持っているのか、そんな難しいことを知る方法を持ち合わせてはいません。だからこそ、私自身が私の生に与える価値を大切にしようと思うのです。自分の価値は自分で決めると決めたのです。

一人一票の実現も戦争法や共謀罪への反対も、どんなに声を上げても、何も変わらないのではないか。強大な権力の前に一個人の力など些細なものであり、努力するだけ無駄ではないのかと気弱になることもあります。しかし、自分が考える社会の幸せ、それは、それぞれの幸せが共存できる社会ですが、それを実現するために、自分にできることを精一杯行うことで、発展途上の自分が少しでも成長できたらと思います。そのように努力し続けている自分を尊敬できるようになりたいと思って自分を奮い立たせます。

社会が変わるような大きな問題だけでなく、自分の身に降りかかる様々な出来事が、極めて偶然なものに見えても、それが自分にとってけっして無意味ではなく価値あるものなのだと、自分で意味づけを与えて生きるということです。自分に起こるすべての出来事は、毎日の小さなことであっても、すべて自分の自覚と意志に完全に任されていると認識できる自分でいたいと思うのです。 自己の完成と他者の幸福をなんとか自分の中で両立させたいと願ってきました。こうした自分の生き方にとって、平和であること、誰もが委縮せずに自由にものがいえる社会であることは不可欠なのです。北朝鮮の脅威をことさらに煽り立て、人々を不安によって支配しようとすることは、少なくとも私の幸福の追求にとっては障害になります。

一人ひとりの個人が自分の幸福を追求して懸命に生きることができるように、複数の選択肢に満たされた社会の環境整備をすることのみが国家の役割なのであり、国は特定の生き方や善い生を押し付けてはならないのです。力や恐怖によって人を支配しようとする企てに対しては、これからも声を上げ続けます。それが、憲法施行70年の今、憲法を学び続けている者の責任でもあると思っているからです。

2017年4月 1日 (土)

第260回 花見と共謀罪

渋谷・伊藤塾前の桜並木も一年で最も美しい時期を迎えます。試験直前で、花見どころではないという塾生には、叱られそうですが、世の中はお花見の季節です。中には日ごろの憂さを花見で晴らしたい人もいることでしょう。ですが、花見に行って、同僚と盛り上がってしまうときは注意が必要です。

たとえば、ソフト開発会社の社員が花見の宴席で同僚と、「こんな会社辞めて、みんなでベンチャーを立ち上げようぜ」という話で盛り上がったとします。開発中のソフトが上司に握り潰されてしまったのが不満だったのです。これを完成させて販売する会社を作ろうなどと話をしている最中に、メンバーの1人がちょっと酒を買ってくると言って席を立ち、コンビニでお金をおろしました。すると突然、私服警官が現れて全員、逮捕されてしまったのです。皆、全く訳も分からず困惑するばかりですが、容疑は窃盗と不正競争防止法違反の共謀ということでした。

実は、同僚の1人が、原発に関する勉強会に出席したことがあったのです。セキュリティーソフトを開発するエンジニアとして、会場では原発へのサイバー攻撃について質問もしました。彼はそのときから潜伏捜査をしていた覆面警官に目をつけられていました。同僚とのスマホでの会話は盗聴され、メールもラインもすべて監視されていました。もちろん、花見の予定も警察は把握していました。幸い、彼らは逮捕されただけで起訴されることはありませんでしたが、この一件の後、原発勉強会の参加者は激減しました。

政府は、現在国会審議中の共謀罪はその適用を組織的犯罪集団に限定しているから、一般市民が対象になることはないといいます。ですが、これに該当するかは、警察が決めます。そういえば、戦前の治安維持法制定の際も、一般市民は対象ではないと説明されましたが、戦争はいやだという普通の人々が、国体を否定する思想だと決めつけられて逮捕、弾圧されました。対象犯罪をテロ対策に必要な277に限定したといいます。ですが、刑法では、窃盗、横領、背任、往来危険、傷害なども含まれ、会社法、不正競争防止法の中のいくつかの犯罪も該当します。犯罪計画だけなく、準備行為が必要だといいます。ですが、誰か1人がATMからお金を引出すだけでも該当します。捜査に関しても、2016年5月の盗聴法改正によって、警察署の中で、第三者の立ち合いなしに広く一般市民を対象とした電話、メール、SNSなどの盗聴、監視が可能となりました。

これまで日本の刑事法は、実行に着手した者をその行為の法益侵害を招く危険性ゆえに処罰するのが原則で、陰謀、共謀を処罰するのはあくまでも例外でした。刑法では3つ、特別法を入れても23個だけです。それを一気に277も増やすというのです。これによって、行為の危険性ゆえに処罰するのではなく、内心の危険性によって処罰することになり、日本の刑事法体系が大きく変容してしまいます。しかも、罪刑法定主義の要請である構成要件の明確性を全く満たしません。捜査権限の濫用を招く危険が極めて高いとして、共謀罪に多くの刑事法学者や日弁連が反対するのは当然のことといえます。

政府は、テロ対策を口実にしますが、日本はすでに13ものテロ関連条約を締結していて、十分に対応できています。そもそも、アメリカなど共謀罪がある外国で、テロを防止できていません。テロ被害を避けるには、テロの標的にならないようにするか、テロの原因をなくす努力をするかしかありません。ところが、安倍政権は、イスラムを敵視する米国のために闘う安保法制法を成立させました。あえてテロの標的になる危険を招く法律を強行採決しておきながら、テロ対策のために共謀罪が必要だというのはまるでブラックジョークです。

国際組織犯罪防止条約の批准のためとも言われますが、これが理由にならないことは日弁連はじめ法律専門家が明らかにしています。このようにテロ対策に必要だとか、ましてやオリンピック開催に必要だなどという理由を挙げられると、ホルムズ海峡や赤ちゃんを抱いた母親のパネルを使って集団的自衛権が必要だと言い放った安倍総理の姿を思い出してしまいます。

自民党は、2012年の憲法改正草案で、国防軍を作り、当たり前に戦争ができる国にすることを明確なゴールとしています。今さら目的をごまかす必要はありません。戦争できる国づくりの過程で必要なのだときちんと国民に説明すればよいのです。2013年秘密保護法制定、2014年集団的自衛権行使容認の閣議決定、2015年戦争法制定、2016年盗聴法拡大、そして2017年の今年、共謀罪成立をめざすというわけです。見事に筋が通っています。

いつまでも、楽しく安心して花見ができる日本であり続けたいと思います。だから共謀罪が必要と考えるか、むしろ有害と考えるか、私たち一人ひとりにかかわる問題です。皆さんはこの日本をどのような国にしたいですか。私は、人権擁護と社会正義の実現を使命とする弁護士として、反対の声を怯むことなく上げ続けたいと思っています。

2017年3月 1日 (水)

第259回 家族と立憲主義

先月は、びっくりするような報道がいくつかありました。1つは、幼稚園児に教育勅語を暗唱させ、運動会の選手宣誓で「安倍首相頑張れ、安保法制国会通過よかったです」といわせる森友学園の話題です。用地取得に関する問題もさることながら、こうした教育を支持する親が少なからずいるということにも驚きました。

2006年、第1次安倍内閣のときに教育基本法が改正され、家庭教育の項目が新設されました。保護者が子の教育に第一義的責任を有すると規定され、国や自治体に家庭教育の支援施策を講じるように努力義務を課します。これを受けて、先月24日には家庭教育支援法案が自民党内の了承手続きを終えたようです。基本理念は道徳的なものばかりで、よい家族の形を押し付ける考えがその背景にあるように思われます。戦時中の1942年にも、家庭の教育力の低下を理由に、国が家庭教育に介入するために「戦時家庭教育指導要綱」が作成され、家族主義が強要されました。

家族を大切にとか、家庭教育を重視しようと言われると、これに反対するのはむずかしそうです。2012年の自民党憲法改正草案は、その24条1項において、「家族は,社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」と規定します。これも当然のことを規定しているようにみえます。

しかし、考えてみると社会の構成要素は個人であって家族という団体ではありません。この規定は、個人よりも団体を基礎的単位としていること、国が個人の道徳、倫理に介入しようとしていること、これが社会保障費削減の口実となることなど、問題が山積みの規定です。

特に立憲主義との関係では、個人を家族の中に埋没させて、これを否定しているという点で、致命的な欠陥を持ちます。さらに立憲主義は様々な価値観の共存のための知恵なのですが、一定のライフスタイルを強制することにつながる点でも立憲主義の根本理念に反します。家族を保護する規定は世界の憲法や人権宣言にもありますが、それらでは、家族を国が保護すべきだという規定であり、家族の中で助け合えというものとは全く意味が違います。   日本では戦前、「家」制度を国が利用して、神権的国体思想を推進しました。このあたりのことは、マガジン9というwebサイトに書いているので、是非、読んでみてください(http://www.magazine9.jp/article/juku/31888/)。子どもたちは、親孝行の名の下に家長に従属することを強制されましたが、そうした家族の中では個人が否定されます。そして、国という家(国家)の家長である天皇への忠誠心を要求されました。全国を一家一族となし、皇室を宗家となすところの大家族主義です。大日本帝国憲法の翌年に教育勅語が発布され、天皇の支配が道徳の世界にまで及んでいったのです。   立憲主義は、個人の尊重を根本的な価値とします。その個人を家族の中で否定するのですから、教育勅語や「家」の尊重が立憲主義と相いれないことは明らかです。逆に立憲主義を否定したい人たちは、あえて個人主義を利己主義と同視して攻撃します。憲法を学んだ者として、家族を大切にという言葉の持つ“負の面”を忘れてはなりません。

もうひとつ驚いた報道は、アメリカでの司法の対応の速さです。トランプ大統領がイスラム7カ国の市民などのアメリカへの入国を一時禁止した大統領命令に対し、ニューヨーク州ブルックリンの連邦地裁が大統領令の効力を一部停止したほか、ワシントン州、カリフォルニア州などの連邦地裁がこの大統領令の執行を停止しました。憲法で学ぶ厳格な権力分立が実際に機能しているところを目の当たりにして、アメリカの底力を見た気がしました。

民主的に選ばれた大統領の命令であっても、憲法の観点から司法がこれにブレーキをかけるのです。民主主義と立憲主義の緊張関係がそこに見て取れます。もちろん、連邦制など制度の違いはありますが、それでもアメリカで立憲主義が機能している様子は、法律に携わる者には輝いて見えます。

実はアメリカの司法もこうした判断を下せるようになるまで、紆余曲折を経てきています。一朝一夕で立憲主義など形になるものではありません。市民も含めて、あらゆる立場の人々がその役割を果たすことで、ようやく実現するものなのです。法律家、行政官をめざす皆さんには、あるべき司法や国の姿を実現するためにそれぞれの役割を果たしてほしいと思っています。法律を学ぶということは、そうした責任を自覚することでもあるのです。

2017年2月 2日 (木)

第258回 国境

今から45年ほど前、初めて飛行機に乗ってドイツに行ったときに、窓から下を見て驚いたことがありました。今はなきアンカレッジ経由の路線で、北海からオランダ上空を通ってドイツに入ったと思うのですが、窓から見えたヨーロッパが私の想像していたものとは違っていたのです。なんと飛行機の窓から下を見ても、国境線が見えないのです。もちろん海の中には線など引いてありませんし、陸地も森や畑が続いていているだけで、国境線は見えません。そして、何よりも国ごとに色分けがなされていないのです。

小学校のときに社会科の授業で白地図を色鉛筆で塗り分けたことがあります。地図帳や地球儀に載っている国もすべて色分けされていました。ところが、実際に見えるヨーロッパの姿は違っていました。「あっそうか、国境は人間が作ったものなんだ。」これは新鮮な驚きでした。日本にいるときには、海という自然の国境線に囲まれているものですから、国境を動かない所与の前提のように考えていました。

考えてみれば、どこの国の国境線も変化しています。そして、かつては領土を広げることが国益につながるという発想の下で、各国が競って領土を広げ、奪い取るために戦争を繰り返しました。ですが、人・物・金・情報の流通が自由になるにつれて、経済や文化の力は国土面積とは関係ないことがわかってきます。

第二次世界大戦で日本は、朝鮮半島などを失い、領土は戦前の52%になります。しかし、その後、経済規模では一時期、世界第2位まで成長しました。同様にドイツも東西の分断を受け、西ドイツの領土は戦前の42%になりましたが、その後、欧州一の経済大国になり、今やヨーロッパの欠かせないリーダーです。

フランスもロシアも国土を縮小して発展しました。国土面積と国力、国の豊かさや国民の幸せ度合とは無関係のようです。皆さんには、領土を国益の第一と考えるだけではなく、もっと多様なものさしを持ってもらいたいと思っています。複眼的な視点は法的思考力の基礎だからです

ドイツ在住中にベルリンに行きました。検問を越えて東側に入ると、すべてに精彩がなく、まるで白黒映画のような暗く重苦しい感じを今でも覚えています。街の中を走る高い壁は自分が生きている間には絶対になくならないと思いました。ところが、その強固な壁すら1989年には壊され、東西ドイツが統一されます。ここでも国の形が大きく変わったのです。国境線も国の形もそこで生活する市民の意思でいくらでも変わるのだと思い知りました。後に、「壁の向こうに仲間を作れば、壁は壁でなくなる」という言葉を聞いてなるほどと思いました。物理的な壁が問題なのではなく、私たちの心の問題だったのです。

当時のドイツでは労働力としてトルコから移民を受け入れていました。ドイツ人でもトルコ人でもいい人もいれば、いやな奴もいました。日本に帰国する際に、アテネ、カイロなどいくつかの都市を一人で寄り道しながら帰ってきたのですが、怖い思いもしたし、とても親切なアラブ人に出会ったりもしました。国や民族、宗教など本当に関係ない、要は一人ひとり、その人次第だということを子どもながら肌で感じました。そして国境なんてあまり意味ないなとも思いました。

そう、国は、既にそこにある変わらぬ存在ではなく、そこで生活している人間の意思と行動によって人為的に創り上げたものだったのです。だからこそ、国境や民族を巡ってひどいことも起こるけれども、それを修復するのも人間の力なのです。

トランプ大統領のように国境に壁を作ったり、特定の国の人々の入国を拒否したりするのも人間ですが、カナダのトルドー首相のように「多様性こそ私たちの強みです」と言って迫害とテロ、戦争から逃れてきた人々を歓迎するのも人間なのです。

もともと、海という自然の国境に囲まれ、難民の受け入れを事実上拒み続けている日本で生活していると、米国やヨーロッパ諸国の苦悩を理解しづらいことは確かです。ですが、これからはそれでは済まされない時代になろうとしています。

「ベニスに死す」などの作品を残したドイツのノーベル文学賞作家であるトーマス・マンは、「教養とは、人間は戦争してはいけないと信じること。自国のことのみを考えるのではなく、他国のことも深く理解すること」と言っています。どちらも日本国憲法の9条、前文に通じるものです。世界がこうした考えと逆行しようとしているときだからこそ、日本国憲法の先進性が際立つように思います。施行後70年たって、まだまだ世界の最先端を走っているのだと感じます。国力とは領土の大きさや軍事力などではなく、どんな理想を目指しているのかという理念の力が大きいのだと思います。

2017年1月 5日 (木)

第257回 謹賀新年

沖縄辺野古での新基地建設をめぐる訴訟において、最高裁は弁論すら開かずに国の言い分を全面的に認めました。1審からわずか3ヶ月での最高裁判決はいかにも、新基地建設を早急に進めたい国の意向に沿ったものに思えてなりません。私には、安保条約を違憲と判断した1959年3月の砂川事件1審判決に対して、米国の意向から跳躍上告をした上で、翌年の安保改定に間に合うように12月にスピード判決を下した最高裁の姿が重なって見えます。この国の司法は、いつまでたっても政治部門と米国の尻を追いかけているだけの情けない存在なのかとため息が出ます。

もう法律家の上がりの地位まで上り詰めたのだから、何も怖がらずに良心に従い、憲法と法律にのみ従って判断すればよいものを何を怖がるのでしょうか。本土や政府のために仕事をするのが自分たちの役割だと考えているのでしょうか。少数者の人権保障など教科書に書いてあるだけの絵空事であり、結局は政治的多数に従って、無難な判断をしながら任期を全うすればいい。またそうすることが、任命権を持っている政府から司法の独立を護ることにつながるのだと考えているのでしょうか。

しかし、今は多くの国民・市民が憲法を知らず、最高裁の存在意義も理解していないからいいようなものの、これから皆が憲法を学び、自立した市民としてものを考えるようになったら、こうした最高裁の態度は、国民の信頼を失い、かえって大きなダメージになってしまいます。

昨年、沖縄高江でヘリパッド建設反対運動をしている沖縄の市民に、警察官から「ぼけ、土人が」という発言がありましたが、これを「差別とは断定できない」と政府は擁護し続けました。「反対運動をしている人々からの暴言もあるではないか」とか、「言論弾圧に通じる」といって問題をすり替える人もいます。市民と権力の関係、表現の自由の意味、憲法の存在意義がまったく理解されていない証左です。

米軍基地が沖縄本土復帰前に次々と沖縄に移転され、本土からは一部地域を除いて米軍基地の存在は見えなくなりました。日米安保条約の恩恵だけ受けて、その負担を沖縄に押しつけてきた本土の人間が、新基地建設反対運動を沖縄のわがままと決めつけて批判する、その身勝手さに驚くとともに、沖縄の歴史に無知であることへの恥の気持ちを持たない知的怠惰に愕然とします。そんな中でオスプレイが墜落事故を起こしたことに抗議をした副知事に対して、米軍の沖縄責任者は「パイロットは賞賛されるべきだ。むしろ感謝するべきだ」と逆ギレしたそうです。米国では住宅街のど真ん中の基地など法律上許されません。占領軍意識丸出し、沖縄差別の元凶を見る思いです。

米国による差別、そしてそれよりも愚劣な日本政府による差別。戦争は差別や弾圧とともにやってくるといわれます。「戦争なんてまた被害妄想が始まった」と笑い飛ばす人もいます。本当にこれが私の被害妄想で終わり、数十年後に「そういえば昔、馬鹿な弁護士が無意味な声を上げていたなあ」と笑い話になることを心から願っています。

沖縄は日本の最先端です。最先端で起こっていることは、いずれ本土にもやってきます。未来の本土の姿がそこにあるという想像力を働かすことができるかどうか、法律家や行政官には法律を使いこなす力だけでなく、そうした想像力、共感力も必要です。こうした力が新しい未来を切り拓いてゆく創造力につながっていきます。

どんな分野の仕事でも最先端に関するものは、どうしても風当たりが強くなります。批判や反対の声も大きく聞こえてきます。ですが、最先端を走る少数派には風当たりが強いものだと覚悟しておいてください。今、法律を勉強することは、少数派かもしれません。でもだからこそ、未来を見据えて自分の理想とする法律家や行政官を高い志をもってめざすことには大きな意義があるのだと思います。

新安保法制違憲訴訟も全国14カ所で提訴され、今後さらに20カ所以上に増えていく予定です。原告も5000人を超え、弁護団も1000人を優に超えていきます。「合憲判決が出たらどうするんだ、どうせ負けるに決まっている」と何もしないで批判するだけの専門家も少なくありません。それぞれ考えがあってのことだとは思いますが、私はそのように始める前から負けると決めてかかるような敗北主義には与しません。結果が保証されていなくても、自分の信念に従って必死で努力を続けることなしに壁を乗り越えることなどできない。このことを私は司法試験の勉強の過程で学びました。それを今、実践しています。

明日の自分は今日の自分が創る。日本の未来は今を生きる私たち市民一人ひとりが創り上げる。その気概をもって今年一年、真剣勝負で頑張りたいと思います。今年もよろしくお願いします。

2016年12月 2日 (金)

第256回 未来志向

恥ずかしい歴史を持つことよりも、恥ずかしい歴史を否定したり、忘れてしまうことの方がよほど恥ずかしいことです。他方で、忘却や歴史の歪曲に抗い、大義のために闘い続けることは、大変な勇気がいるし困難を伴うものです。だからこそ、それを乗り越えた国は、誇りと威信を取り戻すことができ、「国際社会で名誉ある地位を占める」ことができるのだと思います。未来志向の本当の意味を知ることができる作品が年明けに公開されます。「アイヒマンを追え!」というドイツ映画です。

ドイツでも1963年のフランクフルト・アウシュビッツ裁判が行われるまで、ホロコーストの実態は明らかにされていませんでした。映画の主人公であるフリッツ・バウアー検事長のこの裁判での活躍で、アウシュビッツでの蛮行が国民の前に明らかになり、ドイツ人一人ひとりが忌まわしい歴史に向き合うことになります。この裁判へとつながるアイヒマン逮捕の極秘作戦は長らく封印されていましたが、この映画で驚くべき実態が明らかになります。

1949年に再出発した西ドイツには、当時、政権の中枢にも、警察、検察の内部にもナチスの残党がいました。ホロコーストの事実をことさらに掘り起こし、ナチスの犯罪性を暴こうとするバウアー検事長は様々な妨害に遭います。経済復興を最優先し、ナチス時代を忘れたい人々にとっては目障りな存在だったことでしょう。

それでも、バウアー検事長は、新しいドイツが一人ひとりの尊厳を尊重する覚悟があることをこの裁判によって世界に示すべきだという強い信念の下、アイヒマン逮捕そしてフランクフルト裁判に尽力します。よりよい未来のためにこの裁判があるというのです。

日本でも未来志向という言葉が、政治家から発せられることがありますが、多くの場合には、過去にこだわることなく、水に流して前を向いて進もうという意味にしかとれません。被害者がつらい過去を忘れようとすることは十分に理解できることですが、加害者が加害の事実を忘れることを正当化するための言葉として使ってはなりません。

アメリカは、戦後の日本を属国として支配し続けるために、戦犯を公職に復帰させて利用しました。現在に至っても、日本では過去から学ぶことよりもアメリカの意向で重要な国家運営が決められています。新安保法制など第3次アーミテージレポートの内容をなぞっているだけですし、被爆国である日本が、国連で核兵器廃止条約交渉開始に反対するのもアメリカの顔色を見てのことです。

個人でも国でも主体的に生きるためには、過去としっかり向き合い、自らの手で、事実の意味を問い質し、正すところは正していかないと、本当の意味で前に進めないのだと感じます。日本の司法が憲法どおりの完全な独立を達成できていないのも、司法関係者が自らの手で軍国主義に加担した裁判官の戦争責任を問わなかったことと無関係ではないはずです。若手裁判官を中心にナチス関係者を司法から追放し、真の独立と民主化を勝ち取ったドイツとは大きく異なるところです。

司法自体が自律し民主化を達成できないのであれば、国の戦争責任の追及など今も昔もできるはずがありません。つい先日も、ドイツ連邦最高裁は、強制収容所でユダヤ人の所持金を管理していた95歳の被告人に禁錮4年の刑を言い渡しました。戦勝国による裁判で満足せず、ドイツ人自らの手で戦争犯罪を裁き続けているのです。

どこの国でも、国家や民族にとって都合の悪い歴史は、ときに書き換えられ、忘れられようとします。どの民族の歴史にも陽の部分と陰の部分があるものですが、どうしても暗い影の部分は忘れ去られがちです。失敗から何を学ぶかによって、その人の真価が問われます。国も同じだと思っています。私たちは、意識の風化、記憶の風化と闘わなければなりません。

自分が信じる未来のために、最後まで絶対に諦めない。どんな圧力があっても、大義のためにやり抜く力を持った人物が一人いるだけで国の未来は変わります。過去を忘れないと声をあげ続ける自立した市民がいることで、社会は再び過ちを犯さないで済むことができるのです。法を学んだ者には、そうして声をあげる責任があると思います。

映画の中の次の言葉に、勇気づけられました。「立派な憲法があるのはいいことだ。ただ、何を行うかが重要。」本当にそうだと思います。私も立派な憲法に負けないように行動したいと思います。憲法に命を吹き込むのは、その時代を生き抜く国民、市民なのですから。

2016年11月 1日 (火)

第255回 おまえがガンバれよ

7月10日参議院選挙の無効を求める1人1票実現訴訟の高裁判決が全国で続いています。少なくとも最高裁大法廷判決の趣旨にそった判決が出ると思っていたものですから、東京高裁での合憲判決には驚きました。裁判所の判断のところで、憲法の条文が一切出てこないものでした。正確には、46条という参議院の任期に関する条文だけ引用されていましたが、私たちは任期など争っていませんからほとんど意味のない引用です。憲法の条文解釈は全くなされてない判決でした。国会の判断を追認するだけのものであり、塾生の皆さんに条文解釈が重要だと言っている立場からはとても評価できるような代物ではありませんでした。

7年間ほどこの訴訟を続けていますが、この間、最高裁判例で積み重ねられてきた2つの解釈規範が今回の裁判ではいくつかの高裁によって無視されました。それは、①参議院議員の選挙であること自体から、直ちに投票価値の平等の要請が後退してよいと解すべき理由は見いだしがたい、②都道府県を参議院議員の選挙区の単位としなければならないという憲法上の要請はない、というもので、過去の議員定数不均衡判決の判断内容を大きく進めたものです。この訴訟の成果だと密かに自負しています。こうした議論の深化をも無視するような高裁判決が出てくるというのは、司法と政治の関係を考えるときに示唆的です。高裁判事の中には、現在の政治情勢の中で、最高裁もこうして打ち出した規範を維持できなくなっていると考える人もいるということなのかもしれません。

現実はこうして3歩進んで2歩下がるということを繰り返しながら、少しずつ前に進んでいくのだと思います。そしてたとえ、2歩下がったように見えるときでも諦めてはいけないということです。次に3歩進むときが必ずあると信じて前を向いて続けられるかが重要なのだと思っています。

夏から秋にかけて様々な試験の合格発表がありました。試験ですから当然に合否の結果がでます。いつも言っていることですが、目の前の事実にどんな意味を与えるかは自分自身です。仮に不合格であっても、その事実から何を学び、次にどう活かすかを考えることができれば、それは次の挑戦への糧になります。目の前の試験の合否を越えた、その先にある自分のゴールをしっかりと見据えて進むことができれば、到達する過程でおこる出来事はすべて自分を鍛え上げるための試練として肯定的に捉えることができます。

そしてその合格後を考えたときのゴールは単に自分の幸せだけなく、多くの人の幸せとつながっていると認識できるとさらに力が出てきます。世界の幸せの総量を増やすことに向けての努力は、単に自分の個人的な利益のための努力に比べて数倍、いや数十倍、数百倍のエネルギーを生み出すと確信しています。自分の幸せの延長線上に社会の幸せ、そして世界の人々の幸せがあるような生き方ができるのが法律家や行政官です。どんな資格であろうが法律を使って仕事をするということは、社会の幸せの総量を増やすことにつながります。
合格後をしっかりと見据えて、自分のゴールを明確に意識して、目の前の課題を一つひとつ克服していく。その繰り返しが自分を鍛え上げ、結果として合格の日の自分を作り上げることになるのだと、再確認してください。「大きな目的」をもってやり抜く力が大切です。「やればできる、必ずできる」と信じて、「最後まで絶対に諦めない」ことが改めて重要です。これは私が40年間の様々な体験の中から確信していることですが、最近出版された『GRITやり抜く力』(ダイヤモンド社)でも同趣旨のことが心理学の成果として記述されていました。ゴールが本当に自分のものになっているときには、その過程をも楽しむことができます。

楽しみながら自分の幸せと社会の幸せがつながっている生き方は一つの理想です。モンゴルで調停制度を立ち上げるJICAの法整備支援プロジェクトで活躍した岡英男弁護士の自分らしい生き方が『おまえがガンバれよ』(司法協会)という著作に紹介されています。力んで頑張ろうするのとはまた違う生き方と弁護士の仕事の多様性の見本としてとても参考になります。是非読んでみてください。合格後の姿はいろいろでいいのです。

1人1票訴訟も安保法制違憲訴訟も、制定から70年たったこの国の憲法の行方も、今、重要な岐路に立たされています。困難に立ち向かうときほど、自分がより成長できると確信して私も頑張ります。

2016年10月 4日 (火)

第254回 覚悟

先日、司法試験合格祝賀会がありました。伊藤塾開塾前の私の講義から勉強を始め、ずっと塾生でいてくれた人がいました。5年めの最後のチャンスで合格した人もいます。一度就職し働きながら合格した人も何人もいます。伊藤塾には短期合格者も多いですが、こうして「ゆっくりいそげ」を心に、自らの道を切り拓いてきた塾生が大勢います。皆さん、「やればできる必ずできる」「最後まで絶対に諦めない」を実証してくれました。

試験を問わず、不合格になったときに環境や制度のせいにする人がいます。ですが、こうした言い訳を始めると、きりがありません。何よりも不合格の本質的な原因の究明ができなくなります。そして、大抵は目新しいものや今までやったことのないものに手を出して失敗を繰り返します。たかが試験のレベルであれば、盤石な基礎・基本とそれを使いこなす徹底した(解く、書く)訓練で十分合格できます。試験種を問わず、最先端の話ばかりする人ほど、驚くほど基礎ができていません。実務で必要なものも、盤石な基礎力と書く力です。受験生は日々、基礎・基本に徹する覚悟が問われているのです。

それから、もう一つ大切なことがあります。運も実力のうちということです。こう言ってしまうと元も子もないような気がしますが、前向きに努力し続ける人には運も味方します。実務に出れば、8割方運ですから、運とどう向き合うかを今から意識しておいた方がいいと思います。

仕事でも、プライベートでも運が悪かったと思うことがあります。それで悩み、落ち込むこともあります。ですが、不運と思うような出来事や逆境も、実はその事実自体は無色透明で色はついていません。それをどう評価し、どのような意味を与えるかは自分です。スランプだとか、逆境だとかいうネガティブな評価を与えてその事実を不運とみるか、逆にちょうどよかったと思うかは自分で決めることなのです。言葉を換えれば、運の良し悪しは自分で決めるということです。

ベンチャーどころか、有名企業に就職したところで、どの部署に配属されるか、どんな上司の下で仕事をすることになるか、ある意味、すべて運です。そこで自分の身に降りかかった事実をどう受け止めて、それを前向きに活かすことができるかどうかで、その人の成長や将来が左右されます。目標を決めて思い通りに自分の人生を進めるという生き方もありますが、自分の身に降りかかった偶然をどのように活かしていくかという生き方もあるのです。

2012年に自民党憲法改正草案が発表されたとき、こんな改憲が進められたらとんでもないことになる、これは大変だと思いました。でも、これをきっかけに市民が憲法を具体的に考え、立憲主義を知るチャンスになると考えました。昨年、多くの法律家が違憲と指摘する中で新安保法制が強行採決されましたが、これも国民が立憲主義と民主主義を考えるチャンスになると思いました。先日、安保法制違憲訴訟の第1回口頭弁論が開かれましたが、そこで、私は法律家の職責を裁判所に問う弁論をしました。1人1票裁判もそうですが、国を相手に裁判をするにはそれなりの覚悟が必要です。

提訴にあたり、一部の法律専門家から「日本の司法に期待しても無駄だ。合憲判決が出てしまったらどうするんだ」と厳しい批判を受けることもありました。しかし私は、憲法秩序を破壊する政治部門に対して、司法がその存在意義を示すチャンスだととらえています。弁護士のみならず、裁判官も、国の代理人である検事も、法律家として、この国の立憲主義を護り、司法の威信を示す覚悟があるかが問われます。人の生死にかかわる安保法制を制定した政治家、それを執行する官僚、現場の指揮官、戦地に派遣される自衛官の家族、そしてこれから起きるであろう様々な事態に向き合う国民の覚悟も問われます。

人は重大な事実に直面したときに、覚悟を問われます。生き方を問われると言ってもいいでしょう。そのときにうろたえないように日々自らの心を鍛えておかねばなりません。受験生にとって試験の合否は重大な事実です。それは将来、もっと重大な事実に直面したときのために自分を鍛え上げるひとつの試練です。こうした覚悟を決めておけば、合格までの間にいろいろなことがあっても乗り越えることができます。

合格への道は人それぞれであり、自分の人生を人と比べることなどできません。一瞬一瞬が自分の人生の本番なのですから、覚悟を決めて、自分らしく堂々と前に進めばいいと思います。

2016年9月 2日 (金)

第253回 オリンピック

9月の臨時国会における憲法審査会では、憲法改正論議が進むようです。ですが、改憲勢力が各院で3分の2を占めたことにより、憲法改正の可能性が出てきたとの報道には違和感があります。国会で行うべき憲法改正の論議は、それぞれの議員や政党が自分たちの理想とする憲法をサロン談義のように言い合うことではありません。あくまでも、現行憲法のどの条文がどのような理由から不都合なのか、それをどう変えなければならないのかを具体的に論議しなければなりません。

そうした建設的な論議をするためには、参加するメンバーが最低限、近代立憲主義の意義や改正論議の作法について理解し、その点において価値を共有できなければなりません。立憲主義に関する人類の叡智に敬意を払い、知性と理性に基づいて論議することができないと、単なる価値観、世界観、歴史観のぶつかり合いになってしまい、収拾がつかなくなります。下手をすると十分な論議もなく、特定の価値観を多数決によって他者に押しつけることになってしまいます。個人的には、自民党の改憲案のように、個人の尊重を否定し、市民から言論の自由を奪うような改憲案だけは勘弁してほしいと思っています。いったん個人が否定され、言論の自由が封殺され、普通に戦争する国になってしまったら、もう元には戻りません。私たちの未来は灰色です。

こうした懸念とは全く無縁のような夏でした。戦後71年、戦争の記憶をいかに継承するかが大きな課題のはずですが、報道も街の話題も、オリンピックで持ち切りでした。安保法制に反対して盛り上がっていた昨年とは大違いです。そういえば、ヒトラーは「国民の理解力は小さいが、忘却力は大きい」と言っていましたし、オリンピックに聖火リレーを取り入れたのもヒトラーでした。

金メダルを期待された選手が、人のためではなく、自分の喜びのためにパフォーマンスを発揮することは本当に難しいようです。他人の期待はそこで勝つことですが、自分の目標はその先にあるはずです。それを見失ってしまうと、実力が発揮できません。一歩先をめざして、自分の成長をめざして、たかがオリンピックにすぎないと、その場を相対化することができるかどうかが重要な気がします。
試験でも全く同じです。それまでの努力は当然として、試験当日には、たかが試験と割り切ることができるかが、日ごろの成果を発揮できるかどうかの分かれ目になります。

スポーツも試験も結果が保証されないという点では全く同じです。いや、実は仕事も裁判も、そして人生そのものもすべて結果など保証されていない点では同じです。未来は自分が創り上げていくものだからです。過去にこだわって、自分の未来を否定したり、思い込みで決めつけたり、ましてや他人の言葉に振り回されて、自分の未来を自分で切り拓く意欲を失ってしまうほどもったいないことはありません。

合格率3%と言われて、たった3%ならやめておこうと思う人と、3%もあるのか、では挑戦してみようと思う人と、どちらが良い、悪いということはありません。ですが、裁判もどんなビジネスも勝てる確率で勝負しようと思ったら、その時点で、挑戦の意欲を失い、成功のチャンスを自ら逃すことになります。他の誰もが勝てないと思って諦めるようなことでも、やればできると自分を信じて努力を続けることが、勝利につながり、努力の過程における自分の成長につながるのです。

初めから自分の能力を決めつけて諦める人には、成長はありません。人生のテーマを結果におくのか、自分の成長におくのかで考え方は大きく違ってきます。何かの挑戦の結果は、挑戦の数だけ無数にあります。その一つひとつの結果に一喜一憂するのではなく、結果に向けての自分の人間としての成長に意味があると思える人は、結果以上に大きな成果を得ることができます。

世間や他人の評価からの思い込み、そして自分の過去から自由になることが必要です。生物学的にも私たちの細胞は毎日、新しいものに入れ替わっています。日々、過去の自分にとらわれず、新しい自分を自覚できるか、未来に向かって、自分はこうありたいと強く意欲し、本当に心地よい自分の未来の姿をしっかりと具体的に思い描けるか、毎日が新しいのです。自分の未来にとって今日が初日であることをしっかり自覚したい。オリンピック選手の活躍を見て改めて思いました。

2016年8月 3日 (水)

第252回 命の価値

自民党の改憲草案は、個人の尊重を否定しています(13条)。かけがえのない個人として尊重することを否定するということは、個人を取り替えがきく道具のように使うことを肯定し、何かの役に立たない人間の尊厳を尊重しなくてもいいという考えにつながります。

人間の尊厳という言葉は多義的ですが、私は人間の道具化の否定がその重要な内容だと思っています。人間を何かの道具として利用しない。例えば会社の利益追求のための手段として低賃金で酷使したり、医学の進歩のための人体実験に利用したり、国を守るための手段として国民の命を利用したりはしないということです。

これは1人ひとりの個人は何かの役に立つから存在する価値があるのではなく、そこに命があること自体に価値があるということを意味します。寝たきりになってしまったら価値がないのか。障害のために通常の仕事につけなければ価値がないのか。そんなことはありません。誰もがそこに命がある限り、かけがえのない個人として尊重されるだけの価値がある。個人の価値は誰かが優劣をつけて決められるものではないのです。

相模原市の障がい者施設殺傷事件をきっかけに、ヘイトクライムや優生思想が批判されています。話題にすることもつらい悲惨な事件ですが、被疑者は、生産能力のない人は国家や社会の敵であり、そうした人を抹殺することは社会的正義だとみていたようです。これを組織的に実行したのがヒトラーでした。ヒトラーは政権を取った後に、「人には生来の差があること」を学校、看護学校、病院、役所で周知徹底させます。そこでは、重度の心身障害者や「反社会的分子」(ロマ、労働忌避者、同性愛者、常習犯罪者など)への介護・福祉は公の幸福と利益に反するものとされました。その後、安楽死殺害政策が実施され、不治の患者、遺伝病患者、心身障害者など、国の戦争遂行に支障をきたすとみなした者を組織的に抹殺する作戦が実行されます。ドイツ国内だけでも21万6000人が犠牲になったと言われます。ここで培われた殺人技術がユダヤ人等の大量虐殺へと引き継がれていきました。生きるに値する命と値しない命を国家が区別したのです。

これらは異常な人間の異常な行動なのでしょうか。そうではないように思われます。1999年に石原慎太郎東京都知事は障がい者施設を訪れて、「ああいう人って人格があるのかね」「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」と発言しています。国民から絶大な人気のあった政治家です。国民はこうした発言を許し、こうした人物を評価しています。実は自分の中の本音と共鳴するところがあるからではないでしょうか。

事件後、「生きる権利は平等」「人の命は同じように大切」といった識者の言葉や「かけがえのない命」「命は重い」という命の大切さを語る言葉を多く目にしました。そのとおりと思いながらも、違和感も覚えました。圧倒的多数の国民が、死刑という国家による殺人を合法化することに共感し、安保法制に基づく武力行使という殺人は許容しています。現在、世界で頻発するテロも、特定の属性を持つ集団への憎悪が生む犯罪(ヘイトクライム)です。テロによる殺人は正義だと確信して行われます。テロを非難しつつ、テロリストを殲滅する殺人は歓迎しています。

このダブルスタンダードはいったい何なのでしょうか。守るべき命と殺してしまってもいい命があることを認めている。価値ある命と価値なき命を区別する。あとはその区別を誰がどんな基準で判断するかが問題になるだけです。

今回の事件を特異な者による不幸な出来事で終わらせてはなりません。人の命や個人の存在を、何かの役に立つか否か、何かができるか否か、国家や社会に貢献するか否か、といった効率、目的適合性、利用価値によって区別し価値序列をつけること自体を否定しなければ、本質的な問題解決になりません。犯罪ですから、犯人は責任能力さえあれば、刑事責任を問われます。ですが、犯罪の原因は犯人個人にあるだけではありません。社会政策は最良の刑事政策であると言われるとおり、貧困、格差、差別を許す風潮など社会の問題を根本から変えていかないとこうした事件を根絶することはできません。

世界から戦争がなくなることはないのだから、平和のためには武力行使という名の殺人もやむを得ないという考えは、社会の役に立たない命は尊重しなくてもよいという発想につながります。私はそうした考えに与したくありません。そうした考えにつながる改憲にも反対の声を挙げ続けます。

2016年7月 1日 (金)

第251回 選択

試験では様々な選択を迫られます。試験の最中も発表後にも選択が必要になります。人生は選択の連続です。試験での選択は気合いでなんとかする人もいますが、人生の選択はそうはいきません。憲法は幸福追求権という人権を保障しますが、これは幸福の中身は各自がそれぞれ自分で決めること、その自分が決めた幸福を追求する過程を人権として最大限保障するという意味です。

このように、憲法は自分の幸せは自分で決めることを各個人に要求しています。憲法13条の個人の尊重、幸福追求権という価値は、各個人に選択、決断を迫る厳しいものだとわかります。一人ひとりを個人として尊重するということはそういうことです。そして自分が何に幸せを感じるか、自分の幸せを実現することができる社会や国とはどのようなものかをしっかりと考える機会が選挙です。選挙権とは自分が幸せを感じられる国はどのようなものかを考える機会であり、その自分の考えを示す意思表示の場なのです。

1925年までは高額納税者の男性にしか選挙権がありませんでした。その結果として、たった5%の裕福な人たちの幸せのために政治は行われていました。男子普通選挙が始まり、貧困にあえぐ人たちも自分の幸せを実現する政治を求められるようになりました。しかし、まだ男性の幸せを実現する政治にすぎません。70年前に女性選挙権が認められて初めて、女性も自分の幸せのために選挙という形で声を上げることができるようになりました。その結果、政治においてもやっと女性の幸せを実現するための政策が実施されるようになります。選挙権を行使しないということは自分の幸せは他人に任せるということを意味します。誰かに幸せの中身を決めてもらい、人に従っていれば、なんとか生きていけるからいいやという考えを私は昔から「奴隷の幸せ」と呼んでいます。映画「風と共に去りぬ」の時代の奴隷でも主人に保護され幸せだった人もいるはずです。ですが、そこに自由はありません。

自由という価値をどれほど重視するかは人によって違います。自由は自分で選択しなければなりませんから、鬱陶しいし面倒です。その結果について、自分で引き受けなければなりませんから責任も伴います。それでも自分は自分らしくいたい、自分の思いに素直に生きていきたいという欲求は大切にしたいと思います。

民主主義の本質は多数決です。審議討論の過程では少数意見を尊重しながら最後は多数決で決断し、それに反対の人もとりあえずその決定に従うというものです。たった1票の差でも少数派は従わざるを得ない冷徹なものです。ですが、その決断が間違っていたと気づいたときには、それを正すことができる点が独裁制と違って民主主義の優れた点です。このように判断を変えることができる政策などの選択には適した方法ですが、生き方や世界観、信仰心など、その人らしさという点から変えることができない人の心の中の問題まで、多数決で決めて他人に押しつけることはできません。EUから離脱することが損か得かに関して他人の判断が正しかったということはありますが、自分が何を幸せと考えるかについて、他人の判断の方が正しいということはあり得ないからです。

今回の選挙で自民党が憲法改正を表立って争点にしていないと批判する人がいます。ですが、それは違います。自民党は4年前に憲法改正草案を発表し、個人の尊重を否定して国防軍を創る、そうした国づくりを目指すとはっきり国民に示しています。これは今の憲法とはまったく逆の方向を目指すものです。自民党はこれまで選挙では争点にしていなかった秘密保護法や戦争法を強行に成立させました。しかしこれはともに自民党改憲草案の中にあることを実現しただけです。つまり着実にこのゴールに向かって政策を進めているのです。これは国民に対して誠実な態度です。こうした国づくりを目指すことに賛成なのか反対なのか、その選択がすべての選挙では求められているのだということをしっかりと自覚することが大切です。選挙は自分にとって何が幸せなのかを改めて考えるよい機会です。こうして考えて選択をする機会を増やすことが、自立した市民として生きることにつながると思っています。

2016年6月 3日 (金)

第250回 憲法と政治

皆さんに一冊の本を紹介したいと思います。学習院大学の青井未帆教授が著した「憲法と政治」(岩波新書)です。毎日のように憲法関連の書籍に目を通しているとある種の慣れに感覚が麻痺してくることがあります。この本はそんな私の心を揺さぶり、改めて憲法と共に前に進む勇気を与えてくれました。

具体的な資料と根拠を示しながら、「政治が憲法を乗り越えんとするかのような『いま』を切り取ろうとしたもの」であり、立憲主義と民主主義を回復すべく闘っているすべての法律家、市民に第一級の資料を提供してくれます。憲法訴訟の実際をより深く理解するためにも有意義です。

先生は最後に沖縄に触れます。「筆者には日本国憲法の平和主義の『具体化』の話の中に理屈を立てて沖縄を位置づけることはできなかった」という率直な言葉の持つ意味を本土の人間のひとりとして心に刻まなければならないと思いました。伊藤塾では毎年沖縄スタディツアーを行っています。米軍関係者による事件が後を絶たず、オスプレー配備、新基地建設問題でも、本土の人間はいつも「沖縄問題」と認識してしまいます。これらは皆「日本の問題」であり、主権の問題であり、憲法問題です。

本書のタイトルは、「憲法と政治」というこれまでありそうでなかったものです。憲法で政治を縛ることが立憲主義の本質的課題であるとするならこれまでは、憲法と政治の関係を今ほど意識する必要がなかったのかもしれません。今、この憲法と政治の関係を通じて市民としての自覚が求められています。法律を学ぶ者の覚悟が問われているというべきでしょうか。憲法を学んで法律家となろうとする者には憲法を知ってしまった者の責任があるはずです。憲法の下で今を生きる市民として、私たちはどう生きたいのか、次の世代にどのような社会を残したいのか。今ほど「平和への意志」を求められているときはないように思います。

本書によって平和憲法を持つ国の市民としての強い自覚を促されました。同時に法律家としての覚悟を問われた思いでした。どのような仕事をしていても、憲法と政治に関して、日々の業務とは無縁の話題として無関心でいることはできるかもしれません。しかし、法律家として無関係ではいられないはずです。ましてや市民として無関係であろうはずがありません。政治が憲法を乗り越えようとする今に目を背けることは、法を否定しあらゆる規範を軽視する事態を放置することにつながります。これらは法律家としての自らの存在すら危うくします。

参議院選挙で、各党はこの国のあり方をどう変えようとしているのか、その本質をしっかりと見極めることが必要です。選挙権行使は、この国をどうしたいのか、どんな国で生活するのが自分にとって一番幸せなのか、それを意思表示することに他なりません。つまり自己決定権の政治への反映です。自由のために民主主義があるのであり、自由権と参政権は一体です。

広島訪問をしたオバマ大統領の演説は多くの人々に感銘を与えたようです。演説の原稿はスピーチライターが書いているはずなのですが、人の原稿を読んでいるだけという感じがしませんでした。日本の政治家とはだいぶ印象が違います。スピーチ原稿は、広島の惨状を見てもいないし、被爆者の方から直接、話を聞いてもいない段階で作っているはずです。ですが、原稿を読み上げるときに言葉の中に彼の気持ちが入り込みました。

戦争でどれだけのアメリカの若者が死んでいったのか、そのトップとしての責任、広島・長崎に原爆を落とした国の大統領としての自覚、謝罪できない立場、軍縮を実際には進めることができない葛藤、戦争をなくしたいけれども理想ばかり語ってはいられない国際社会のリーダーとしての苦悩。それらをすべて引き受けた上で、それでも「戦争自体に対する考え方を変えなければならない」という彼の戦争や核兵器に対する思いの強さ、心の強さが聞く人々の気持ちを動かしたのだと思います。

青井先生の本からも強い思いが伝わってきます。それを受け止めてどう活かすかは私たち次第です。将来、人権や平和に関わる仕事をすることはないだろうなと思っている多くの塾生にこそ、そして試験の最中である今だからこそ、読んでほしい一冊です。

2016年5月 3日 (火)

第249回 過去・現在・未来


熊本の震災に対して何ができるか。5年前の東日本大震災のときもそうでしたが、受験生として何もできないもどかしさを感じる人もいることでしょう。しかし、こういうときには普段通りに過ごすことが最も重要です。法律家、公務員として社会に貢献するという志を立てたのですから、それを実現するために全力を尽くす。そして力をつけて、被災者救援、災害対策のために尽力すればいいのです。

現場がもっとも望まない中央の権力を強化する緊急事態条項など不要なだけでなく有害であるとしっかりと理解し広めれば、それだけでも大きな意味を持ちます。火事場泥棒的な改憲の主張は5年前にもありましたが、そうした政治家の暴走を封じるのも市民の重要な役割です。

今年は憲法公布70年で69回目の憲法記念日を迎えます。昨年は戦後70年でした。来年は憲法施行70年となります。3年連続で70年の節目が続きます。この3年の間にはさらに思いもかけない事が起こるかもしれません。天災には事前の備えしかありませんが、人災は避けることができます。

社会の変化も立憲主義、民主主義の発展というよい方向なら大歓迎ですが、間違った方向への変化なら、市民として、法律家としてなんとしても阻止しなければなりません。先月、630人ほどの弁護士が代理人となり安保法制違憲東京第1次訴訟を提訴しました。憲法無視の法的クーデタが起こされたのですから、あちこちで法律実務家や憲法学者そして市民が前例のない闘いを続けています。この3年間にこの国で起こることは極めて重要です。

しかし、ここで今起こることがどんな意味を持っているかは、実は私たちが今ここで判断することはできません。私たちは未来から見たところの過去を生きているからです。過去の出来事の意味は現在を生きる者がその事実を評価して決めます。個人のレベルでも、どんなに苦しいことが起こっても、それが実は本人にとって意味のあることで、よりよく生きるためには不可欠の試練だったと10年後に気づくこともあります。逆境、スランプだと思っても、それは事実に対する今の自分の主観的な評価にすぎません。そんなものに一喜一憂する必要はないのです。一歩先を目指して今やれることを淡々とやるしかありません。

受験生にとって試験当日はとても重要な日になります。こうした重要な日が近づくと、失敗したらどうしようと様々な思いを巡らして緊張したり不安になってしまったりすることがあります。ですが、不安や恐怖は事実ではありません。自分の頭の中で想像して創り上げた産物にすぎません。

そして失敗してはならないと強く意識すると、人間はその反対のこともまた無意識のうちに意識してしまうようにできています。合格だけを強く意識すると、無意識のうちに不合格になったら大変だと考えてしまうのです。象のことを想像するなと言われると、つい頭の中で象を思い描いてしまうのと同じです。ですから、合格のことなど考えてはいけません。

皆さんのゴールは合格後にあります。その手前の合格など意識する必要は全くないのです。自分の立てた目標をクリアーするために今、懸命に努力すること。それだけで十分です。勉強も人生も自分を成長させるためにあるのですから、そのプロセスで自分が成長できればそれだけで大成功です。試験の結果は、ゲームの結果と同じように今回たまたまそういう結果だったということだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。事実にどのような意味を与えるかは現在の自分ではなく、未来の自分に任せればいいのです。何も恐れる必要はありません。何が起ころうと自分が成長できるのであれば、全く問題ありません。自分らしく堂々と今を生き抜けばいいのです。試験では目の前の問題を淡々と解けばいいだけです。

安保法制違憲訴訟は前例のない規模と質の裁判になります。私もときどき不安と恐怖に押しつぶされそうになることもあります。ですが、大切なことは今やるべきことを淡々とこなしていくことだと自分に言い聞かせて乗り切ろうと思っています。いつまでたっても楽になりません。いや、これも今の自分の評価ですね。大変なのか、楽なのかの評価自体も主観的なものですから、そんなことを今言ってみても意味のないことです。現在の自分に起こっていることの評価は未来が決めるのですから。私も70年の節目でやれることを精一杯やっていきます。

2016年4月 1日 (金)

第248回 安保法制違憲訴訟

安保法制が3月29日に施行されました。この安保法制には実に多くの市民が全国各地から反対の声をあげ、圧倒的多数の憲法学者をはじめとして元最高裁長官や元内閣法制局長官までもが憲法違反と批判しました。またこれを審議した国会運営が民主主義の実体を欠くものであったことは、国会中継で目の当たりにしたとおりです。

この安保法制に対して違憲訴訟を4月下旬には提訴しようと準備しています。全国各地での原告希望者は1000人を超え、元裁判官、元検察官も含めて600人を超える弁護士が代理人となります。この後も準備ができ次第、全国で順次提訴が続いていくことになるでしょう。

私はこの安保法制は明白に違憲であると考えています。ですが現在の政府がこれを合憲と判断して法案を提出し、国会が合憲と判断して形式的にも成立させたからには、日本における公権的解釈としては、安保法制は合憲という判断しかなされていません。そこで、たとえ下級審であっても何らかの実質的な違憲判断が出ることによって、すべての公権力が合憲と判断しているのではないことが明らかになります。ここに大きな意味があると考えています。

中にはここぞとばかりに合憲判断をする裁判官もいるかもしれません。ですが、それは国民がその判決を批判すればよいだけのことです。そうした判決を政治利用されるリスクについては、公権的な合憲判断のみが存する状態を放置してこれが既成事実化され、国民の関心が薄れていってしまうことの方がよほど大きなリスクと考えます。

私は、安保法制が違憲であり、違憲の法律の存在を認めることなどできないという怒りとともに、憲法を無視する態度、法をなんとも思わない態度を許すことができません。この国は法の支配の国であり、立憲民主主義国家であったはずです。単なる数の力で何でも自分の思うとおりに押し通そうとする政治がなんの歯止めもなくこのまま放置されることは、企業も家庭も社会もあらゆる場面で法を無視することがまかり通ることにつながります。これはあってはならないことです。

法律家は力ではなく、理性と知性を体現する法によって個人の尊厳を守り、社会秩序を維持することをその使命としているはずです。自らが違憲と判断する安保法制をそのまま放置することは、自らの職業の基盤、そしてそれは自分がこれまで歩んできた法律家としての人生をも揺るがすことにつながります。
今、一番あってはならないことは、やっても無駄だという無力感から行動しなくなること、物を言わなくなることです。これまでのすべての憲法訴訟も初めはみな前例のない無謀な闘いとみられました。私たちが判例集で見る憲法判例は勇気を持って立ち上がった先輩法律家の汗と努力の結晶に他なりません。

そもそも課題やリスクのない憲法訴訟などありません。ましてや初めから結果が保証されている事件などありえません。結果がわからないからこそ、私たちは全力でそれにぶつかり、突破口を開いていかなければならないのです。具体的事件性がなければ裁判所は判断しないと思われていますが、それはこれまでの裁判所による解釈にすぎません。司法の枠組み自体に対しても問題提起をしていかねばならないと思っています。既存の枠組みを見直し、憲法価値を実現するために新たな違憲訴訟の枠組みを創り上げていくことも重要な訴訟の意義であるはずだからです。

安保法制はまさに、日本を戦争する国に変えるものです。そのように国柄を変えることは本来、それによって加害者にも被害者にもなる主権者国民の意思でなければできないはずです。最高裁が違憲状態と宣言した正当性のない選挙で過半数の議席を得ただけの政権が、憲法を無視して日本の国柄を変えるような権力行使をすることは、まさに国民の制憲権の侵害に他なりません。憲法が蹂躙されるこうした事態を座視すれば、必ずや市民の生命、自由、財産の蹂躙を招くに違いありません。立憲主義と民主主義の回復のため、それぞれが各自の立場で声を上げることが求められているのです。

これから勉強を始める皆さんも、自分には続けられるだろうかと不安な人も多いことでしょう。これから本試験を迎える塾生の皆さん誰もが様々な不安を抱えていることと思います。ですが、法律家の仕事そのものがこのように結果が保証されないことに向かって全力で立ち向かうものなのです。ぜひ、不安に負けずに頑張ってください。今ここでの頑張りが必ず将来の糧になります。期待しています。

関連リンク>伊藤真塾長が共同代表を務める、「安保法制違憲訴訟の会」から、違憲訴訟の原告募集と、4・20 安保法制違憲訴訟 決起集会のお知らせ <4月20日(水) 18:00より、安保法制違憲訴訟 決起集会を、参議院議員会館にて開催>

2016年3月 1日 (火)

第247回 不安に克つ

予定されている安保法制の施行に先立ち、官邸から、緊急権条項を憲法の明文に加える改憲の動きが出てきています。大災害の不安、周辺諸国からの侵略の不安、テロの不安を指摘しながら、憲法に緊急権条項は必要だというのです。確かに私たちは常に不安と隣り合わせで日々を過ごしています。突然の交通事故や自然災害の被害に遭うかもしれません。不安です。こんなに必死に勉強しても必ず合格する保障などないのですから、勉強を始めること自体不安です。

しかし、「不安」は人の心理に依拠した主観的な概念であり、現実ではありません。その範囲は際限なく広がる可能性があります。為政者はいつの時代どこの国でも国民の不安を増幅させて政治目的を実現しようとします。特に軍事力や警察力という国家の暴力装置を働かせようとするときに、意図的に国民の不安を利用するのは常套手段のようです。ですが、様々な名目で権力が国民の自由に介入することや、軍備を拡大することは多くの副作用を伴いますから、国民としてはよくよく注意しなければなりません。ときに歯止めがかからなくなる危険もあります。「不安」を解消する唯一の方法は、冷静に不安の原因をよく見きわめ、どのような具体的危険があるのかを明らかにし、ひとつずつ解決していくことです。具体的な危険の存在とそれに対する法律レベルでの対処といった議論なしに、国民の自由を大きく制限する緊急権条項をめぐる改憲論議をすることは立憲主義の作法を大きく逸脱するものと言わざるを得ません。
確かに近隣諸国、特に中国や北朝鮮に対する不安を感じる人も少なくないかもしれません。ですが、対処法の本質は同じです。主観的な不安というものと客観的な危険性をきちんと区別をすることが出発点です。たとえば、中国の軍事費増大という点から中国に不安を感じる人がいます。ですが、軍事費に関して言えばアメリカの方が圧倒的に巨額です。にもかかわらず多くの日本国民はアメリカを軍事的脅威とは考えていません。とすると軍事費の増加が問題なのではないとわかります。また、日本の平和度指数は4年連続で162カ国中第8位でした。アメリカは94位で、日本はG7諸国の中ではダントツに平和度が高い国です。

こうして知性と理性で不安の原因を客観的に明らかにしながら対処法を見つけていくのです。イスラム国が怖いという不安から、イスラム教が怖いという思いに不安が拡大することがあるかもしれません。ですが、私たちはどれだけイスラム教のことを知っているでしょうか。ムスリムの友人は何人いるでしょうか。文化・歴史・時代背景などさまざまな知識を得ることで不安から解放されることができます。無知から偏見が生まれ、偏見から不安が生み出されます。

他方で、安保法制によってテロの標的になるかもしれない。戦争に巻き込まれるかもしれないという不安も同様です。その危険性がどれほど高まるのかという冷静な分析と評価なしにいたずらに不安をあおるだけでは、健全な議論はできません。

受験生として日々の不安に打ち克つ場合も同じことが言えます。模擬試験の点数が思うように伸びないからといって不安になり、勉強が手に付かなくなる人がいます。ある意味では当たり前の反応なのかもしれません。ですが、そうした不安に押しつぶされそうになったときにこそ、自分を客観的に観察する力を鍛えることができるのです。試験勉強は毎日が不安との闘いだといっても過言ではありません。絶対に合格したいと強く思えば思うほど、不安になってくるものです。だからこそ、その不安に打ち克つ訓練の場が与えられたのだと、自らの状況に感謝して乗り越えていくことが必要なのです。

いつも言っているように不安を紙に書き出して可視化します。その上で不安の原因も書き出してみます。なぜ、不安を感じるのか、その原因を3段階くらい掘り下げて書き出してみると、実はたいしたことのない理由で不安を感じていることがわかります。不安は現実ではなく、対処可能なものだと認識することができます。

法律家や公務員として仕事をするということは、常に不安と向き合うことを意味します。弁護士としてどんな裁判でも絶対勝てるということはありません。裁判官や検察官、公務員になっても絶対に正しい判断ができることなどあり得ません。常になんらかの不安がつきまといます。特に初めての案件や憲法訴訟のように人があまりやらない裁判においてはなおさらです。ですが、そもそもリスクや課題のない訴訟などあり得ないのですから、そうした場面でも不安に打ち克って挑戦する意欲と能力があるかが試されることになります。不安を克服して現場で活躍できる法律家や公務員になるために今の試練があるのだと自覚できれば不安を味方にすることができます。これもまた試験に挑戦する重要な意義です。

2016年2月 1日 (月)

第246回 怒りの矛先

人はさまざまな怒りを持ちますが、その対象や解消の仕方は人それぞれです。芸能人のスキャンダルに怒る人もいれば政治家に怒る人もいます。その後始末の仕方に納得できず怒り続ける人もいます。その怒りも特定の個人や団体に向けられることもあれば、社会一般に対して漠然とした怒りを感じるという人もいるようです。

法律家はその職種を問わず、当事者の様々な怒りに付き合わなければならないことがある仕事です。依頼者などの怒りに接したときに、その当事者からの距離の置き方が難しい。少し距離を置いて冷静でいると冷たいと思われてしまうし、逆に理不尽さへの怒りで熱くなりすぎて客観的に判断できなくなってしまっては専門家の意味がなくなります。怒りを適切にコントロールすることも法律家として必要な資質の1つです。

皆さんはどんなことに怒りを感じますか。自分が試験に落ちてしまったときに自分自身の不甲斐なさに怒りを感じるかもしれません。急に制度や合格点が変わる理不尽さに怒る人もいます。勉強を続けながらも社会の矛盾や不公平感に怒りの気持ちを持ち続け、それが勉強を続ける原動力だという人もいます。

私の場合は、責任ある立場の人の一貫性(consistency)のなさに怒りを覚えることが少なくありません。自分の過去の言動に責任を持つことは本当に難しいことです。ですが、これを大切な価値として意識するか否かは重要なことだと思っています。自分の発言の一貫性などどうでもいい、そのときをなんとか乗り切ればそれでいいと考えるような人が責任ある立場にいること自体に怒りを覚えるのです。

人間ですから完璧な人などいないし、間違いや考え違いを犯すこともあるでしょう。ですが、自分の言動が間違っていたならばそれを認識し必要ならば謝罪し、そして言動を改めるというのが筋だと思っています。専門家や責任ある立場の人が自分の言動の結果に責任を取らず、あたかも何もなかったかのごとく発言をしたりする。その結果、社会も何も学習せず進歩しない。こうした理不尽に怒りを覚えます。

怒りの矛先をどこに向けるのかによっても、その人の人間としての気高さをうかがい知ることができるときがあります。私的な怒りを持ったときでも、人によってはその怒りを特定の個人などに向けるのではなく、出来事の背景や社会に意識を向けて、その改善に向けて社会を動かすことができる人がいるのです。

先月、スキーバス事故が起こった際に愛娘を失った父親が憤りを抱えながらも、日本の労働状況や過剰な利益の追求、安全軽視などの社会問題に事故の原因を見いだし、本当の解決を求めていました。誰もができることではありません。また、2001年のニューヨーク同時多発テロの際に日本人にも多く犠牲者が出ましたが、息子を失った父親が米国によるアフガン空爆が始まったときに次のように語っています。「『敵討ちができてよかったね』と知人に言われた。でも、報復は暴力の連鎖を生むだけだ」「せがれは事件に巻き込まれたが、さらに関係のない人たちが命を失うのには耐えられない。日本は米国の腰ぎんちゃくになる必要はない。テロの背景にある貧困の解消など、ほかの手だてを考えるべきだ」「子どもを奪われることのつらさ、つまり命の重さというものは、息子を失ってからより真剣に考えるようになりました。テロリストも国家も『正義』を語る。しかし、関係のない人の生命を犠牲にするところに正義などありえない。」(島本慈子「戦争で死ぬ、ということ」岩波新書より)

今の日本はこうした犠牲者の怒りや思いをどれだけ改善に反映させられているのでしょうか。15年戦争の加害と被害の歴史から何を学んだのでしょうか。かけがえのない命が犠牲になった出来事から何も学ぼうとしない、その姿勢に強い怒りを覚えます。犠牲者の遺族などの気高い怒りを受け止めて、さらに多くの人の社会を変えていく原動力としての怒りに転換していくことができたならば、こうした怒りの連鎖は意味があると思うのです。

もちろん個人の怒りの矛先はそれぞれの関心の対象に向かうのでしょうから、人それぞれでいいとは思います。ですが、もっと社会の理不尽や政治家、政党の言動にまで怒りが向いていくと、この国の民主主義はもっと成熟していくと思います。法律家や公務員をめざす皆さんにも、社会の理不尽に対する怒りを勉強や今後の行動のエネルギーにしていただければと思っています。

2016年1月 1日 (金)

第245回 謹賀新年

「日本に、本当に地方自治や民主主義は存在しているのでしょうか。沖縄県にのみ負担を強いる今の日米安保体制は正常といえるのでしょうか。国民の皆さますべてに問いかけたいと思います。沖縄、そして日本の未来を切り開く判断をお願いします。」これは昨年12月2日代執行訴訟口頭弁論での翁長雄志沖縄県知事の意見陳述の最終部分です。

戦後70年を経たにもかかわらず、国土面積0.6%の沖縄県に73.8%の米軍基地を集中させ続け、沖縄のみならず世界の財産である自然環境・文化遺産を破壊して、耐用年数200年の軍事要塞を日本国民の税金で新たに建設しようとしています。こうして沖縄にさらなる負担を強いようとする日本政府から訴えられた知事の言葉です。これを異端者のわがままとして無視してよいものでしょうか。

沖縄で行われている、民意を無視した権力行使は自公政権の姿勢そのものを表しています。政府が少数者に生命・健康等の人格権の犠牲を強いておいて金銭で穴埋めをしようとする姿勢は原発再稼働と同様の構造です。憲法は29条3項で財産権についてのみ経済的補償を条件にその剥奪を許していますが、正当な補償さえすれば人格権をも制約できるとはしていません。また憲法95条は特定の地域のみに負担を強いるような法律は地域住民の賛成がなければ制定できないとしており、たとえ国民の多数が支持する国策であったとしても、利害関係ある住民の反対を無視して過大な負担を地域に押しつけることはできないはずです。

憲法13条は個人の私的領域に関わることは自分で決めるという自己決定権を保障しています。それは自分たちの生活地域のことは自分たちで決めるという住民自治を要請します。地域のことは自分たち住民が決める、そしてこの国の権力のあり方はこの国で生活する一人一人が決める。これが民主主義です。残念ながらこの民主主義が、憲法13条の要請するように機能しているとはいえません。先の翁長氏の発言はそれをすべての国民に自分たちの問題として考えてほしいと呼びかけています。他人事ではなく自分事として受けとめる想像力を私たちが持っているかを厳しく問いかけているのです。

そして、司法に日本の未来を切り開く判断を求めています。残念ながら現在の司法もその職責を十分に果たしているとはいえません。砂川事件最高裁判決によって事実上安保条約は合憲とされてしまい、それに基づく地位協定、各種特別法という安保法体系が日本国憲法の外にできあがってしまいました。その結果、人権と平和を最優先する憲法体系を擁護すべき司法権が、米軍優先の価値基準に対して何も言えない、実質的な治外法権、対米軍事従属国家となってしまっています。沖縄に限らず全国の基地周辺の住民の平和的生存権、人格権が侵害されているにもかかわらず、司法がその救済の役割を放棄し、多数者支配の政治部門に追従してしまう。この構造は選択的夫婦別姓を認めない現行民法の適否を国会の議論に委ねてしまおうとする司法の態度と共通するものがあります。

少数者の存在を認めることは、すべての人の幸せにつながるはずです。人はそれぞれ個性があり、皆違って当たり前であり、また違うからこそすばらしいという個人の尊重を今こそ再確認する必要があると考えます。人の個性は無限の属性の組み合わせによってできあがっています。誰もが、ある属性において多数派であっても、別の属性においては少数派なのですから、一人一人の個性の尊重は、多様な人々の共存をめざす社会では不可欠なことなのです。

少数意見や異端を認めない。それはファシズムにつながります。一つの考えしか認めない、全体を一つにまとめる力が強く働く、そんな社会はファシズムです。束ねるとか全体という意味のファッショというイタリア語が元になっているそうですが、個人を尊重し多様性を認めようとする憲法とはまったく目指す方向が逆です。「絆」の強調はときに意図しない負の効果を生むことがあります。どうも最近の日本はいろいろな面で異論を排除し、全体としてのまとまりを重視しようとしているように思えてなりません。沖縄問題のみならず報道規制も家族のあり方もそうです。今後、災害対策、テロ対策の名の下にさらにこうした傾向が進むおそれがあります。多数派ましてや政府が異端を排除しようとするとき、憲法を学んだ者はそれに抗い、声を上げなければなりません。憲法公布70年を迎える今年、本当の意味で個人が尊重されるように最善を尽くしたいと思います。今年もまた一年、真剣勝負です。

2015年12月 1日 (火)

第244回 テロと戦争

テロは憎むべき凶悪な犯罪です。どこで起ころうが、いつの時代であろうが、これは犯罪ですから、司法手続きで裁くべきものです。ところが、2001年同時多発テロの後、米国はWar on Terrorという言葉を作り、テロを武力行使すなわち戦争の対象としてしまいました。テロとの闘いは犯罪として対処するものではなく、戦争になってしまったのです。

フランスも加わる有志連合はシリア・イラクで数千回の空爆を行っている戦争中の国々です。アメリカもフランスも現在戦争中の国です。戦争というのは、たとえテロとの闘いであっても、双方の市民に多数の犠牲者が出ることを避けられません。シリアでは現在でも多数の市民に犠牲が出ています。そして双方が加害者になります。これが戦争の現実です。ですが、国民は多くの場合、空爆、自爆攻撃などによる具体的な被害に遭わなければ自分たちが戦争しているという実感を持てないものです。

日本でも1931年の満州事変から15年戦争を始めましたが、多くの国民が戦争を実感したのは、1944年から本格的に始まった日本全土への無差別戦略爆撃からだといいます。焼夷弾が降ってきて大切な人が目の前で死傷していく姿を目の当たりにして初めて戦争を実感したというのです。徴兵制や国家総動員体制の下にありながらも、市民にとって戦争というのはそれほどまでに遠い世界に感じられてしまうものなのかもしれません。

だからこそ私たちは想像力を発揮して、戦争や武力行使、テロについて具体的に考えないといけないのです。戦争など起こるはずがないと一般市民が思っているときに、思いもよらない悲劇が起こり、人は怒りと恐怖に支配されてしまいます。
私も含めておよそ人間は不完全な生き物であり、完璧な人などいない、だから憲法によって予めやってはいけないことを自己拘束として定めておくという立憲主義の考え方は、いつの時代、どこの国においても有益なはずです。

それにしても、思ってもいなかったことが自然災害だけでなく、人の手によっても起こるということを私たちはここ数年で実感しました。まさか集団的自衛権行使を容認するような政府、国会が登場するとは思ってもいませんでした。憲法改正が具体的な日程に乗ってくることも、あれだけの原発事故を経験しながら何事もなかったように再稼働を進める人々の力がこれほど強いことも、そして平和憲法を持つ日本や日本人がテロの標的になるとはまったく考えたこともありませんでした。どれもこれも外的な要因ではなく、私たちがこれらを許してしまっているのです。

今回成立した戦争法により日本もISとの闘い、つまり戦争に後方支援というかたちで参加できるようになってしまいました。これまでは他国の武力行使と一体化してしまうので認められなかった戦闘地域での弾薬の補給、そして武器の輸送などの兵站活動が法律上可能となります。

たとえ法律が成立したとしても違憲は違憲です。しかし、これを選挙などの民主政の過程を通じて是正しようとしても、1人1票が実現していない違憲選挙の下では主権者の多数が国会議員の多数にならないため容易ではありません。そこで司法による明確な違憲判断によって立憲主義を回復することがなんとしても必要と考えます。具体的な被害が市民に生じる前にこれを止めないと、感情に支配されやすい私たちは何かが起こってからでは冷静に判断できない危険があります。様々な課題があることは十分承知していますが、法律家としてこのような憲法が無視されるような事態を放置することはできません。そのような思いから全国の弁護士とともに、安保法制違憲訴訟を提起することにしました。

日本をテロの標的になるような戦争する国に変えることは、主権者国民の意思でなければできないはずです。違憲の選挙で多数の議席を得ただけの自公政権に日本の国柄を変えてしまうような権力行使の正統性はありません。戦争やテロの恐怖が現実のものとなる前にやれることはすべてやっておかないと後で私は必ず後悔します。戦争やテロなど被害妄想を語る愚かな法律家がいたと笑い話になるような未来を築くために今を生きようと思います。

2015年11月 3日 (火)

第243回 多数決と少数意見

11月1日の東京新聞に私の憲法絵本「あなたこそたからもの」の掃除当番を多数決で決めるエピソードが紹介されました。人権は多数決によっても奪えない価値であり、それを憲法に書いておくという説明まで紹介してもらいました。これまでも人権や立憲主義の重要性を教えるときにこのように多数決の危険性を指摘してきました。
ナチスのような、人類の多数決による悲劇の歴史を知っているためか、法律家や知識人の中には多数決という方法に一種のアレルギーを持ってしまう人もいるようです。ですが、残念ながら多数決の意義と少数意見の尊重の関係を十分に理解していない人もまたいるようです。
10月28日に一人一票裁判の最高裁大法廷弁論がありました。昨年12月14日の衆議院議員選挙の無効を求めて全国295のすべての選挙区で訴訟提起したものです。塾生の方にもずいぶんと協力していただきました。この弁論の際に国側の代理人(裁判官出身)が地方の少数者の声を反映させるために人口以外の要素も考慮する裁量が国会にあるという以下のような主張をしたのです。
「我が国の国民には、都市部居住者もいれば、山間部などのいわゆる過疎地域に居住する者もいる。そのような場合に、過疎地域に住む少数者の意見を国政に反映する必要はないということにはならないのであって、そのような少数者の声も国政に十分に届くような選挙区割りや議員定数の配分を定めることもまた、国会において十分に考慮されるべき事項というべきである。」

憲法を勉強した皆さんならこの主張の間違いに気づくと思いますが、憲法になじみのない方の中にはもっともだと思われる方もいるのではないでしょうか。今更いうまでもないことなのですが、国会議員は選挙区や地域の代表ではありません。どこから選出されようと全国民の代表です(憲法43条1項)。ですから、過疎地域の少数者の声を代弁するのはすべての国会議員の責務なのであって、決してその地方選出議員だけの仕事ではありません。まずここからして間違っています。また、世の中には様々な少数者がいるのであって、地域的な少数者の声だけをことさらに反映させる理由がありません。性的マイノリティーや経済的困窮者、障がい者や米軍基地を押しつけられる沖縄県民などの声を差し置いて、過疎地域の人たちの声だけを国会に反映させなければならない理由などどこにもありません。こうした少数者の意見はあらゆる場面で反映するように尊重しなければならないのです。選挙制度の設計にあたって予め特定の少数者の声だけを反映させるようにすることなどできません。
少数者の尊重という誰もが反対できない一般論を持ち出して、人口比例選挙を否定しようとするのは、理性というよりも感情に訴えかけようとするものであり全く論理的ではありません。国側が今更のようにこうした議論を持ち出してきたことに驚きました。

政治の世界では少数意見を無視する多数の横暴が横行していているように見えます。原発再稼働も安保法も国会における議席の多数にモノを言わせて強行に進めてきたものです。ですが、これらは少なくとも世論調査によると国民の多数意思ではありません。主権者の多数によって権力行使の正統性を担保するという民主主義の基本が機能していない、ゆがんだ選挙制度の結果、そもそも国民の多数意思が正しく国政に反映していないのです。

つまり、この国は少数意見を尊重するという以前に、そもそも多数決という基本ができていません。多数決でモノを決めるという基本枠組みができた上で、審議の過程で十分に少数意見を尊重し、少数者の人権を侵害してはならないという歯止めが意味を持つのです。主権者の多数による正統性付与という民主主義の基本的枠組みは、立憲主義、法の支配を実現していくための大前提です。

原告の方々は、この一人一票訴訟によって自分の生活に関わる具体的な利益を求めているのではありません。自分の利益は脇に置いて、立憲主義・民主主義という公共の利益のために身を捧げているのです。最高裁判事を含めてすべての法律家はこうした原告の切実な思いに応えなければなりません。

2015年10月 1日 (木)

第242回 個人と民主主義

安保法制が自民党・公明党による採決の強行によって成立しました。ほとんどの憲法学者のみならず、元法制局長官や元最高裁長官まで違憲といい、すべての弁護士会が立憲主義に反するという意見書や決議を出した安保法制です。地方公聴会の報告もなされず、議事手続き上も決議不存在としかいいようのない中での成立でした。私も参議院で参考人として意見を述べましたが、結論先にありきのセレモニーのような国会審議でした。米国との約束によって結論が決まっているものを消化試合のように淡々とこなしていく、そんな国会をみて、これがこの国の民主主義かと幻滅した人もいるかと思います。しかし、幻滅することばかりではありませんでした。国会の外と内とでは3点できわめて対照的だったように思います。

外では多くの人々が民主主義を訴えました。選挙はある一時点で自分たちの代表者を選ぶ仕組みであり、候補者や政党が掲げた政策のすべてを是認するものではありません。選挙で勝ったのだから数の力で何でもやっていいということになると国会は不要になります。選挙で勝った瞬間、絶対的な権力を手に入れてしまうのですから、これは専制政治です。民主主義は選挙の後であっても、個別の政策について主権者が声をあげ、その声を議員が尊重することによって実現するものです。選挙権とデモなどの表現の自由は民主主義実現のために不可欠の車の両輪です。国会の外ではまさに民主主義が実行されていました。

ところが、国会内では、選挙で勝ったのだから与党は民意を反映しているとし、外の国民の声は雑音のごとく無視されました。しかも、現在の国会は各院とも最高裁が2回も違憲状態と断じた選挙による無資格者の集まりでしかなく、なんら民主的正統性はありません。国会の外では立憲主義が叫ばれましたが、国会内では日本を取り巻く安全保障環境が変化したのだから抑止力を高めるのにこの安保法制が必要なのだという一方的な主張が繰り返されました。安保法制の合憲性については、72年政府意見書と砂川事件最高裁判決というまともな法律家ならば考えたこともないような根拠がなんの説得力もなく繰り返されただけでした。

しかも、憲法論と政策論の区別を意識して議論することもできていませんでした。どんなに優れた安保政策であっても憲法の枠内で実現しなければならないし、それが政治家の責任であり、それが立憲主義国家の最低限のルールだという、議論に必要な最低限のフレームが与野党で共有できていません。立憲主義というものに重きをおかない人々とは議論がかみ合わないのはむしろ当然でした。今回の国会での議論を通じて、立憲主義を尊重しない非立憲という立場がこの国に存在することがわかったことは収穫でした。

そして国会の外では、個人が声をあげていました。若者もビジネスパーソンもママたちも皆一人一人の個人として自分の考えや不安を訴えていました。政党や団体から動員されて組織のメンバーとして参加しているのではなく、あくまでも個人の意思によって国会前や全国各地での運動に参加した人たちばかりでした。原発など国の言うことを無批判に鵜呑みにしているだけだととんでもないことになるという体験を通じて、自分たちが主体的に行動しないといけないという自覚が市民の中に芽生えてきたのです。沖縄問題、TPP、秘密保護法そして安保を通じて黙っていてはいけないという意識が個人に育ってきたのだと思います。

それに対して、国会内は依然として組織の論理でしか動けない人たち、何かに追従することしかできない人たちばかりでした。米国に追従する総理大臣、党首に追従する議員、自民党に追従する公明党。一人一人の議員が個人としての考えをもつことができなくても議員をやっていける党議拘束という「世界の非常識」が日本ではまかり通っているのです。主体性のない国会議員と主体的に行動する市民という対比が鮮明でした。

憲法は個人の尊重を最高の価値とします。それが国会の外で、全国で具現化していました。この個人の尊重から民主主義が生まれます。今回の安保法制の成立は日本の民主主義の萌芽といえる重要な出来事であったと思います。こうしたときに法律家や行政官になる皆さんも、より主体的に生きることが求められているのです。

2015年9月 1日 (火)

第241回 マグナカルタ

ロンドンの大英図書館ではマグナカルタの特別展示をしています。最初にジョン王に対して突きつけた1215年から800年というわけです。現在でもこのマグナカルタの中のいくつかの条文はイギリス憲法として使われています。800年前の法典が生きているとは本当に驚きですが、それだけ普遍的な価値だということなのでしょう。

そもそも立憲主義、法の支配という考え方は、人間は不完全な生き物であり、間違いを犯すことがある。神と違って全能ではないのだから、その権力の濫用などの過ちを犯さないように権力を持つものを法で縛る必要があるということから生まれた考えです。ですから、人間が過ちを犯す不完全な生き物である以上は、時代を超え人種を越えて必要な考え方といえます。安倍首相が国会答弁で応えたような中世王権時代に特有のものではありません。

安保法制を巡って、これを戦争法と呼ぶことに対して安倍首相はじめこれを推進しようとする人たちにはずいぶんと抵抗感があるようです。国連憲章で戦争は違法とされているのだから、そんな違法な戦争をするための法律であるかのレッテル貼りは困るということのようです。

そもそも国連憲章で違法化されたのは一切の武力行使ですが、宣戦布告をして行う正規の戦争だけでなく、満州事変のような事実上の戦争も含めてすべての武力行使は原則違法とした点に意味があります。一切の武力行使を実質的な戦争としてこれを原則違法としたのです。ただし、国連憲章51条の自衛権行使と第7章の国連安保理による集団安全保障体制の下で行われる武力行使だけは例外的に容認しました。ですから、これらの武力行使は合法的な戦争であり、戦争という言葉は何も違法なものばかりを指す言葉ではありません。9.11以降の米国の「テロとの戦い」(War on Terror)も戦争であり、有志連合によるテロリスト相手の戦争とされたのです。

どこの国もこれは合法的で正しい戦争だ、正義の戦いだと主張します。違法な戦争だと認めて戦争する国などありません。海外での武力の行使は戦争なのです。
今回の安保法制も海外での武力行使を真正面から認めるものですから、その本質は戦争法に他なりません。いかに安倍首相及びその取り巻きが戦争法と呼ばれたくなくとも、その実質は戦争法に他ならないのですから、このレッテルを外すことはできません。

政府がいくらごまかそうとしても、国民はこうした戦争法としての安保法制の本質を見抜いてしまっているので、反対の声を上げているのです。党派性もなく、学生もお母さんたちも中年のおじさんたちも誰もかもが戦争のにおいのするこの法律はいやだと思っているのです。8月30日には国会前だけでも13万人、全国各地で数千人規模の反対集会とデモが行われました。

いまだに戦争反対の主張を平和ボケと批判する人を見かけます。日本が海外で武力行使しなければ日本の平和を維持できないと思い込んでいるようです。日本を守るためには個別的自衛権で十分なのですから、自衛隊の能力や安保条約による米国の助けを信頼できないということなのでしょう。しかし、そのことと自衛隊が地球の裏側まで行って武力行使できるようになることや、戦闘地域で多国籍軍に弾薬補給できることがどうしてつながるのか、まったく論証されていません。

よく言われるように論理の世界ではとっくに決着がついてしまっています。だからこそ人々はそれぞれの感情や感覚、感性から戦争反対を訴え主張し続けているのです。こうした主体的行動を通じて少しずつ時間をかけながら私たちは自立した市民になっていきます。800年を追いつくのは容易ではありませんが、今このときに傍観者になるわけにはいかないのです。

2015年7月31日 (金)

第240回 畏れ

試験に向けて勉強をしていると自分の力ではどうしようもないことに遭遇することがあります。どれだけやっても勉強がうまくいかない。仕事が忙しくなって勉強時間がとれなくなってしまった。試験直前に大切な人を亡くしてしまう。事情は人それぞれですが、もうどうしようもないなと諦めてしまいたくなることが必ずあるものです。人の人生に不条理や理不尽は容赦なく襲ってきます。

70年前の夏、この国は悲惨な戦争にやっと終止符を打つことができました。ただ、それまでは理不尽の連続でした。日本に侵略されたアジアの民衆だけでなく、徴兵された市民、学徒動員され散っていった大学生、学問の自由を侵害された研究者、弾圧された宗教者、治安維持法で投獄された自由主義者、そして容赦なく降り注ぐ焼夷弾から逃げ惑う人々などが、権力者たちが始めたどうしようもなく理不尽な戦争に翻弄され痛め続けられました。

今でも社会は理不尽なものです。憲法があるのに、政府与党は戦争法の衆議院採決を強行しました。平和の党とは名ばかりの公明党もこれに反対することはできそうもありません。沖縄では圧倒的多数の民意を無視した基地負担の押しつけと辺野古の軍事要塞建設が、本土の国民が支持してできた中央政府によって強行されています。

天災など人智の及ばない出来事による不条理は受け入れるしかありません。しかし、人間が引き起こす理不尽は、単に黙ってそれを受け入れるだけが私たちの取るべき最善の方法とは思えません。「こんな理不尽を受け入れない」と訴え続けることは必要な対処方法です。理不尽を引き起こす人間においては、多くの場合、自らが理不尽なことをやっているという意識は極めて希薄です。人間である自分の無謬性を否定できず、自分は正しいことをしていると信じて突き進むのです。

人間は誰もが間違いを犯すことがあるというある種の弱さを抱えています。その弱さを隠して大きく強く見せようとするとどこかでほころびが出てしまいます。人間の弱さや愚かさと向き合い、それを受け入れることはとても難しいことです。ですが、自分の力ではどうしようもない不条理なことがあるという、ある意味での自分の無力さ、自分の弱さを知っているから、人は謙虚になれるし、他者への尊敬の念や自然への畏れの気持ちを持つことができるのだと思います。

最近、権力の座についた人々の発言であまりにも知性や品性に欠けるものが多くて残念な気持ちになります。そうした発言に接するたびに、本当の知性や品性そして人間としての強さとは何なのだろうかと考えさせられます。

どんなに優秀な人でも人間であり、間違いを犯すことがある。人は人間である以上、不完全で弱い生き物であることを自覚している人は、強い力を持ったり権力の座についたりしても謙虚でいられます。本当にすごい人は、自分を客観視することができるため、自分の無力さを知っているし、自分よりも優れた、かなわぬ存在がいる可能性を想像できる。何よりも自分の判断が間違っている危険性を想像できるから、その判断に謙虚でいることができます。そして自分の判断にある種の畏れを感じて、常にこれでよいのだろうかと自問自答しながら、その判断に磨きをかけ、ときに間違っていたと気づいたときにはそれを改める勇気を持っているのです。

私の勝手な願いですが、塾生の皆さんには、将来どんなに強い力を持ったとしても、低きに自分の身を置いてものを考えることができるようになってほしい。奢りではなく畏れの気持ちを持つ法律家や行政官でいてほしい。そしてそれ以前に、人として畏れの気持ちを持ち続けることができる謙虚さを持っていてほしいと願っています。

明治初めの台湾出兵から終戦まで、日本は71年間、戦争をし続けた国でした。その日本が戦後70年間、戦争をしない国であり続けました。将来、戦後100年を迎えられるかは、今の私たちにかかっています。今、法律家や行政官になることの意味をしっかりと自覚しながら勉強を続けてほしいと思っています。

2015年7月 2日 (木)

第239回 憲法の番人

政治家による「マスコミを懲らしめる」発言にはあきれるばかりですが、政府与党は憲法学者、弁護士会のみならずあらゆる分野の学者の反対、そして国民の懸念などどこ吹く風とばかりに国会の会期を延長して強引に戦争法関連法を成立させようとしています。
「自衛の措置が何であるかを考え抜くのは憲法学者ではなく政治家だ。」という発言があったとも聞きます。そのとおりでしょう。ですが、政治家はあくまでも憲法の枠内でそれを考え抜いて実践していかなければなりません。憲法を無視して好きなように考えることは素人でもできます。それではプロの政治家とはいえません。

「権力は常に監視されなければならない。どんな権力者でも憲法に従う。」人の支配から法の支配へ近代立憲主義の確立とともに移行したはずなのに、近代国家の中で日本だけが再び人の支配へ逆行しようとしています。「安倍の支配」に誰も異を唱えることができないとは情けない限りです。
今私たちに問われているのは、どのような国に過ごしたいのか、日本をどのような国に創り上げたいのかという私たち自身の意思です。私たちが主体性をもって自らの生き方を選択することができるかが問われているといってもよいでしょう。つまり私たち自身が自立した市民になる気概があるのかが問われているのです。

私たちは日本を一体どんな国にしたいのでしょうか。
これまでの日本は法で権力がコントロールされる国を目指してきました。それをやめて、数の力にものを言わせることが民主主義だといわんばかりに、何でも力で押し通す国にしたいのでしょうか。力は権力だけではありません。国のトップがそのような考えを持つと、腕力、財力、社会的地位などの強い力を持つ者が弱い者を支配する国になってしまいます。ずいぶんと野蛮で品性のない国になりそうです。
マスコミや国民が自由にものを言って権力を批判することができる国が民主国家です。それが、政治家による圧力でメディアが萎縮してしまい、言いたいことも言えず、権力を賛美するしかない国になってしまいます。
これまで外に敵を作らず攻撃されない国を作ることがこの国にあった一番の安全保障だと考えてきた国が、わざわざ仲間の敵は自分の敵とばかりに外国に敵を作りに行く国になってしまいます。外交力を鍛えてあらゆる国との信頼関係を構築しようと努力する国から、同盟国のことだけを考えて、相手を抑止力で抑え込むために軍事力が突出した国になってしまいます。
専門家に敬意を払い、力を持つ者も謙虚さを美徳とする国から、専門家など自分に都合よく利用すればいいとばかりにその叡智を貶める国になってしまいます。これらはどう考えてみても、国家として衰退する方向と言わざるを得ないように思われます。私たちは本当にそんな国を望んでいるのでしょうか。

自民党の高村正彦副総裁は「憲法の番人は学者ではなく、最高裁だ」と発言したそうです。一人一票実現訴訟の判決では最高裁判決をまるで無視しておきながら、砂川事件判決を集団的自衛権の根拠として持ち出すとは、苦し紛れとしか思えません。ですが、その最高裁判事も国民審査で罷免されます。つまり憲法の番人は国民なのです。
具体的な事件が起こって判決が出るまでは、国民が民主制の過程を通じて立憲的な監視をします。判決が出てからは国民審査を通じてやはり国民が憲法の番人として立憲的な監視をし続けるのです。これが憲法制定権者である国民の責務です。憲法12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」と規定されています。いまほど国民の憲法制定権者としての、つまり主権者としての責任が問われているときはないと思います。自分たちがどのような国で生きていきたいのか、日本をどんな国にしたいのか、その意思を明確にして、はっきりと意思表示をする必要があると思います。
請願や署名活動は外国人でもできます。こうした意思表示は年齢、国籍、民族を問いません。この国と関わりを持つすべての市民が主体的に生きるためにできることの一つです。日弁連でも引き続き署名を集めています。法律家、公務員をめざす皆さんやご家族にもぜひ、自立した市民として、そして憲法の番人としてご協力いただければ嬉しく思います。

≫集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回と関連法律廃案を求める署名のお願い(伊藤塾ウェブサイト)

2015年6月 1日 (月)

第238回 想像力

法律家や公務員をめざす者が、勉強以外にどうしても鍛えなければならないことがあります。想像力、共感力です。憲法は1人1人が個人として尊重される社会をめざします。その中で専門知識という強い力をもって仕事をする法律家、公務員は常に具体的な人間として個人を見ることができるように、自身の想像力を鍛えて、相手の立場に立ってものを考えることができるように共感力を磨いていかなければなりません。

法律は理性の世界ですが、実は感性が重要です。講義でも具体例をイメージできるようにといつも話しています。それは、私たちの仕事が具体的な1人1人を相手にするものだからです。抽象的な市民や国民という言葉の向こうにどれだけの具体的な人間を想像できるかで、公務員の仕事ぶりもまったく変わってきます。勉強の過程で具体的に考え、当事者の立場にたって問題点を見つけることができるようになることは試験対策として不可欠ですが、それ以上に実務家になったときに必要な資質なのです。

皆さんは日本の国を描いてくださいと言われたら、どんな絵を描きますか。日本列島を描く人が多いのではないでしょうか。ですが、それは国土であって国ではありません。国は領土と国民と権力によって成り立っていますが、もっとも重要な要素は権力ですから、権力行使の形すなわち権力分立などを描くべきでしょう。ですが、多くの人にとって国と国土が一致してしまっています。西欧では国は併合・分割の歴史の繰り返しですから、そもそも固有の領土という発想がないし、国は自分たちの意思で創るものと考えています。日本では海に囲まれているためか、国境も国も所与のものと無意識のうちに想定してしまいます。

国は本来、このように抽象的な存在です。ですが、権力を行使するときには具体的な国民に強制してきます。権力という有無を言わさぬ力を行使される国民を1人1人の人間として具体的に想像できるかが重要です。安保法制(戦争法)の議論では武力行使、武器の使用という言葉がよく出てきます。武力行使とはどういうことでしょうか。具体的にイメージを持たなければ集団的自衛権の意味が正しく理解できません。他国で人を殺傷し、建物を破壊することです。

また、自衛隊法改正案では平時でも外国の武器を防護するために自衛官は武器の使用ができます。これは例えば自衛艦と米国軍艦が共同訓練をしている最中に刺激を受けた国が米艦を攻撃してきたときには、自衛官はミサイルを発射して米艦防護のために戦えるということです。米艦という武器を防護するためにミサイルという武器を使えるということです。相手から見ればどう見ても集団的自衛権です。武器の使用と武力の行使の区別などつきません。しかも現場の判断でこれができるというのです。

さらに国際社会の平和と安全という名目で、関係国の人々が殺傷され、生活が破壊されます。日本人の手によって血が流れ人が死ぬのです。人を殺すことは本来、人間にはできません。自分が人を殺したという事実は一生心の傷となり苦しみ続けることになります。米国でも戦死者以上の数の帰還兵が自殺をしています。自ら命を絶たざるを得ないほどの苦しみを味わう状況に国家が若者を追いやるのです。それが武力行使であり、武器の使用です。

当然、自衛官にも死傷者がでるようになるでしょう。安倍首相が軍事同盟は「血の同盟」と言っています。血を流すのは自衛隊ではありません。自衛官という人間です。家族があり愛する人がいる生身の人間です。こうした具体的な人間の息づかい、破壊される生活、苦悩を想像する力が今、求められているのです。

法律を学ぶことはこうした想像力、感性を磨くことに他なりません。具体的にイメージする想像力の訓練をしている私たちだからこそ、今回の安保法制(戦争法)に反対の声を上げなければならないのです。各地の弁護士会や日弁連がさかんに声を上げているのは、そうした想像力を鍛え、その力を使って毎日仕事をしているからなのです。見えないものを見る力、それが想像力です。人は誰もが自分の見たいものしか見えないものです。誰も戦争なんかしたくありませんし、テロや戦争に巻き込まれるなんて考えたくもありません。ですが、国際社会の冷徹な現実を踏まえて可能性と蓋然性を区別しながら、あえて想像力を駆使して見えないものを見るのが法律を学んだ者の責任だと考えています。

2015年5月 3日 (日)

第237回 憲法記念日

68回目の憲法記念日を迎えます。
国民の力によってこれまで憲法価値を守り続けてきたのですが、その憲法が未だかつて無かったような危機的状況におかれています。自由が抑圧され、戦争する国へと着実に進んでいるようです。全国の弁護士及び弁護士会も会長声明、意見書、決議などで繰り返し、立憲主義と恒久平和主義に反する動きを批判してきました。

昨年7月1日の閣議決定をふまえて政府は国民不在のまま、米国と日米ガイドラインという戦争協力の約束をしてしまいました。主権者国民に説明する前に米国と約束してしまう、これで安倍総理が誰のために政治をしているかがよくわかります。そして、自民、公明の与党協議という密室の中で、この国が戦争する国に変わる法律案が用意されました。

私たちは、政府の言葉にだまされないようにしなければなりません。積極的平和主義、これは積極的軍事介入主義。国際平和支援法、これは戦争支援法に他なりません。武力攻撃事態、存立危機事態、重要影響事態、国際平和共同対処事態など事態を連発します。事態とは戦争のことです。戦前も、満州“事変”と言い換えて国民の眼をごまかしました。今、同じことが起こっています。

グローバル、切れ目のない、という言葉もなんとなく耳当たりがいいので困ったものです。世界中で他国の戦争の片棒を担ぎ、切れ目なく戦争に突っ込んでいくということです。これまでは、自衛隊が武力行使できる範囲を日本周辺に限定し、平時と有事、個別的自衛権と集団的自衛権と切れ目をつけることでその活動範囲を限定してきました。それをこうした限定なしに、世界中どこでも、自衛の措置という名目で武力行使ができるようになり、戦闘地域でも弾薬補給もできるようにしてしまうのです。憲法9条の立憲的統制をまったく無にしようとしています。

これで一気に日本が戦争に巻き込まれる危険が高まります。これに対して安倍総理は、「戦争に巻き込まれる」というレッテル貼り的な議論だと批判します。ですが、レッテルは商品の中身どおり正しく貼らなければなりません。中身と違うレッテルを貼って消費者を欺くことは偽装であり許されません。「国民の安全を保障する」という偽装のレッテルにだまされることなく、「戦争関連法」という真相どおりの正しいレッテルをしっかりと貼って1人でも多くの国民に、真実を知ってもらわなければならないのです。誰も戦争などしたくありません。残念ながら人は自分の見たいものしか見えません。「戦争なんて大げさなことを言って」と、目をつぶることができればどんなに楽なことでしょう。

安倍総理は、一方で「抑止力を高めて国民の安全を保障します」といい、他方で「断じて戦争に巻き込まれることはありません。」といいます。ですが抑止力とは、いざとなれば戦争してたたきのめすぞと相手を脅すことです。もし断じて戦争しないと言ってしまったら、相手は怖くもなんともありませんから、抑止力は働きません。「軍事的抑止力を高めるので戦争に巻き込まれる危険は増えますが、日米同盟はそれほど重要なので覚悟してください」というか、または、「戦争に巻き込まれないようにするために、抑止力には頼らない安全保障政策を実現します」というか、どちらかでしょう。抑止力が崩れたときのリスクを国民に説明しないのは不誠実です。私たちはこうした言葉に惑わされないようにしっかりと憲法の力をつけなければなりません。

そもそも憲法を何のために作ったのでしょうか。前文に書いてあるとおり2つの目的のためです。第1に我が国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保するため。第2に政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする、つまり、政府に二度と戦争させないためです。この2つの目的を主権者たる国民一人ひとりが主体的に行動することで達成することにしました。私たち一人ひとりが政府を監視し、おかしいと気づいた者から声を上げることで、この2つの目的を達成しようと決意したのです。

これまで多くの市民が声を上げて闘うことで、人々の自由と平和そして暮らしが守られてきました。憲法9条はこの国の自由の下支えとして機能してきました。
自由と平和は一体なのです。過去の市民の努力で今があるのならば、今を生きる私たちには責任があります。過去の先輩達への責任と、これから生まれてくる新しい命に対する責任です。今を変えれば明日は変わります。今日私達が何をするのかで明日は変わるのです。私も身体を張って憲法の価値を守ります。それが憲法を知ってしまった者、そして法律家の使命だと信じているからです。

2015年4月 2日 (木)

第236回 桜

この時期の雑感でよく桜を話題にします。渋谷の伊藤塾の前の桜並木は本当に見事です。ベトナム人学生の支援のためにやっているベトナム料理屋(ハノイのホイさん)でも桜をモチーフにしたフォーを提供して好評を頂いています。ただ、今年は例年に比べて桜の密集度が低く、通りを覆うような桜のトンネルの印象がありません。枝をかなり剪定してしまったからです。空が見える隙間がないほどに桜が天を覆う様子は圧巻だったのですが、今年はけっこうスカスカに空が見えてしまいます。

例年の桜を知っている人の中には、ちょっと残念な気持ちの人もいるかもしれません。しかし、枝が前のままだと光合成がうまくいかず次第に枯れていってしまいます。桜も寿命がありますから、いつまでも咲き続けるわけにはいかないのですが、それでも枝を剪定して適切な空間を空けてあげることで、生き延びることができるのです。つまり生きるために切るのです。

何かを成し遂げようとするときに、欲張ってあれもこれもやろうとすると、結局何も身につかずに終わってしまうことがあります。勉強でも同様です。試験直前期になってまだやり残しているところがたくさんあるからといって、すべてをやり尽くそうと思ってもできるものではありません。結局どれも中途半端になってしまう危険があります。本当に重要なものだけに絞ってそれをしっかりとこなす。
あとはあえてやらない。勉強では余計なものに手を出さない勇気が特に必要です。

手広く事業を展開していた企業でも業績が悪化したときに、重要なものに絞り込んでそこに資源を集中させるために、不採算部門を切り捨てることがあります。
企業を存続させるためにあえてある部門を切り捨てるわけです。選択と集中はどの分野の仕事でも重要なことです。弁護士として企業再生の仕事をすることになる皆さんも多いかと思いますが、業績が悪化した企業の再生は痛みを伴い、ある意味では憎まれ役でもありますから決して楽な仕事ではありません。ただ、本当の企業再生は、赤字体質から脱却した後に、いかに収益を上げ続ける企業に変貌させるかの方がはるかに難しく重要なのです。

生き残るために切り捨てた後に、さらなる発展のために何をするかがポイントだということです。これは勉強でもいえることです。重要な基本に集中することによって、そこで本質的なことを深く理解し正確に記憶することが可能となり、自分の中に盤石な基礎ができあがります。その後、その基礎からどう自分の頭を使って考えるか、未知の問題に対していかに自分の力で答えを創り出していくかが重要なのです。余計なものに手を出さずにしっかりとした基礎固めに徹したあとは、答えを思い出したり、見つけようとしたりするのではなく、あくまでも自分の頭で基礎から考えて、答えを創り出す気概を持っておくことが重要だということです。

桜も枝を剪定してもらい、空が見えるようになったあとが重要です。自分の力で大きく成長する生命力がある木が生き残ります。そして来年、今年以上にすばらしい花を咲かせてくれることでしょう。枝があちこちで切り取られた桜を見て最初は少し寂しく思えました。ですが、大きく育つためには、一歩先を考えて若干の痛みを我慢する。そして、それを乗り越えたところで大いに頑張って成果を挙げる。今年の桜がそんな象徴のように思えてきました。

高く飛ぶためには一度、縮んで力を蓄えなければなりません。これはどの世界にも必要なことです。桜の花言葉に、「すばらしい教育」と「気高い精神」があるのですが、再度、この意味を考えることができました。何事にも新たな発見があるものです。

2015年3月 5日 (木)

第235回 難民

皆さんは難民という言葉から何を想像しますか。1951年に採択された難民条約に日本も1981年に加入しています。この条約の1条では難民を、「人種、宗教、国籍、政治的意見または特定の社会的集団に属することを理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができない者またはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まない者」と定義しています。定義の中核である「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」の認定はとても難しいものですが、適正な認定基準の確立が必要です。

第2次世界大戦後、国際的な人権保障制度を整備していく中で、この難民条約と共に、難民保護のために国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)もスイスのジュネーブを拠点に活動を開始しました。UNHCRは、故郷を追われた人々に対して食糧や水、住居、医療支援などの物的支援を行う一方で、難民に関する国際的な諸規定の批准を促進し、国際法の遵守を監督する活動も行っています。日本はUNHCRに2014年は世界第4位(約1.8億ドル)の資金援助を行っています。世界で避難を余儀なくされている人は国境を越えていない国内避難民を含めると5000万人を越えているのですから、相当な資金が必要なことは言うまでもありません。日本の人道援助はかなりの規模のものといえるでしょう。

ところが日本が難民をどれだけ受け入れているかというと、2013年においてなんと申請3260件のうち6人だけです。この数字は何を意味しているのでしょうか。難民の多くは、シリア、南スーダン、ソマリア、アフガニスタン、そしてパレスチナなどで生まれていますが、日本において難民申請の多い国はネパール、トルコ、スリランカ、ミャンマー、ベトナムなどです。しかも最近は難民の要件に当たらないことがわかっていながら日本で働きたいから難民申請をする濫用事例が急激に増えているという報道もあります。極端に低い難民認定率にも理由があるという見方もできます。

ですが、それにしても難民保護のために世界有数の資金援助をしている国が実際にはほとんど難民を受け入れていないという事実はやはり異常です。金を出すだけで人を出さないのかと言われて戦地に日本人を差しだそうとする前に、金を出すだけで人を入れないのかと言われないようにまずこの問題を改善する必要があるようです。

先日、東京大学で行われた難民移民講座終了記念セミナーにコメンテーターとして出席してきました。この講座は5年前から法学館/伊藤塾が資金援助をしています。法務省入国管理局、内閣官房、外務省国際協力局の担当者からの発表と、法務省人権擁護局長、本講座特任准教授のコメントもありました。そこで驚いたことの一つに、日本には難民移民問題を包括的に推進する司令塔となる部署がないということでした。

残念ながら日本国内にはヘイトスピーチのような排外主義的な考え方も生まれてしまっています。法務省人権擁護局が作った「ヘイトスピーチ、許さない。」というポスターなどに対して、国が特定の価値観を押しつけるなという批判が寄せられるそうです。法務官僚も憲法尊重擁護義務がありますから、憲法が要請する人権擁護を実践しているだけであるにもかかわらず、このようなピント外れの批判が起こるのです。そんな日本で難民の受け入れを進めることは国民が望まない限り進展しません。

憲法は、13条で個人の尊重を掲げ、多様性を認め合って様々な人種、国籍、宗教の人々が共生していける社会を目指しています。そしてこれは「全世界の国民が恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利」を有することを認めた、前文の「人間の安全保障」につながります。世界で活躍する日本人の安全や日本企業の活動のためにも軍事力でない国際貢献が必要なのです。こうした国際貢献を進めることが日本への信頼を増し、何よりも現実的な安全保障となります。

難民移民の問題は国内的には少子高齢化社会における成長戦略に関わります。対外的には安全保障の要でもあります。憲法は一人ひとりが個性を持って自分の幸せを実現できる社会、多様性を認め合って共生できる社会をめざします。どのような国をめざすべきなのか、私たちは憲法を学んだ者として自ら考え発信していかなければなりません。

2015年2月 2日 (月)

第234回 市民としての成熟

米国では奴隷解放のために闘ったリンカーンが暗殺された後に、人種・皮膚の色などを理由に選挙権を制約してはならないという人種差別禁止条項が合衆国憲法に追加されました(1870年・修正15条)。こうして憲法上の権利として規定されたにもかかわらず、南部諸州の抵抗から、人種差別禁止の実現は、キング牧師による公民権運動を待たなければなりませんでした。憲法で規定されてから100年近くたった1964年の公民権法によってやっと具体化することになるのです。黒人大統領が生まれた現在でも人種差別は暴動などの要因となっています。人権や平等の問題を理想に近づけるには多大な労力と時間が必要なようです。

人種差別とは別に、一票の価値においても米国はかつて驚くほどの住所差別がありました。白人が多いバーモント州議会ではなんと972倍の格差、ニューハンプシャー州議会にいたっては1081倍の最大格差があったそうです。それが、1964年に出された「米国連邦憲法は人口比例選挙を保障している」とする、たったひとつの連邦最高裁判決(レイノルズ判決)によって解決しました。議員の中には、「人口比例選挙などが実現してしまうと、カリフォルニア州はロサンゼルスとサンフランシスコに支配されてしまう」といってこの判決に反対する議員もいたそうです。ですが最高裁長官のウォーレンは「議会は人々を代表するのであって、木々や土地の面積を代表するのではない」と明快に判示しています。

人口比例選挙の原則は、人種、宗教、思想、支持政党、年齢、性別、職業、収入、健康状態などありとあらゆる点において皆、それぞれ違うけれども、人間としての存在価値は誰もが絶対的に等しいから、選挙権という政治的影響力も皆、絶対的に平等でなければならないとするものです。つまり、憲法13条の「人は皆同じ、人は皆違う」を選挙権の場面に具体化したものといえます。

お互いの違いを受け止めながら、その本質的な存在価値を認め合えるような成熟が今、世界中の市民に求められています。米国は住所による違いを乗り越えました。しかし、未だ人種や宗教、貧富の壁は残っているようです。世界でも欧州対アラブ諸国、キリスト教対イスラム教など様々な対立が深刻な問題を生み出しています。どんな場面でもそうですが、相手を一方的に悪と決めつけて攻撃するだけでは問題は解決しません。相手の立場に立って考える共感力は個人や企業の紛争解決の場面で有効なだけではありません。差異を冷静に受け止め、寛容を重んじながらお互いの共感を生み出していける人がグローバル社会の成熟した市民です。

また、紛争当事者から一歩離れた第三者の視点で解決策を模索することの重要性は法律家なら誰でも知っていることです。国際社会でも同様です。日本は憲法9条を持つ平和国家としてそうした独自の国際貢献の道を追求してきたはずなのですが、“普通の国”を目指す現政権は、こうした日本の立ち位置を大きく変えてしまいました。

“普通の国”を目指すことが市民にどれだけのリスクをもたらすかは、多くの“普通の国”がテロの標的となっている現状を見ればわかるはずです。このように国の形が大きく変わるような決断を主権者国民が自ら行うのなら、残念ですが仕方ありません。ですが国民からなんら正統性を与えられていない国会議員や政府が行うことは許しがたいことです。

法の支配が機能している国では、裁判所が憲法保障の役割を果たすことで、国家による不正義を正していくことができます。さて、日本はどうでしょうか。監視する市民の眼もまた試されています。

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