真の法律家・行政官を育成する 「伊藤塾」 株式会社 法学館

2016年9月 2日 (金)

第253回 オリンピック

9月の臨時国会における憲法審査会では、憲法改正論議が進むようです。ですが、改憲勢力が各院で3分の2を占めたことにより、憲法改正の可能性が出てきたとの報道には違和感があります。国会で行うべき憲法改正の論議は、それぞれの議員や政党が自分たちの理想とする憲法をサロン談義のように言い合うことではありません。あくまでも、現行憲法のどの条文がどのような理由から不都合なのか、それをどう変えなければならないのかを具体的に論議しなければなりません。

そうした建設的な論議をするためには、参加するメンバーが最低限、近代立憲主義の意義や改正論議の作法について理解し、その点において価値を共有できなければなりません。立憲主義に関する人類の叡智に敬意を払い、知性と理性に基づいて論議することができないと、単なる価値観、世界観、歴史観のぶつかり合いになってしまい、収拾がつかなくなります。下手をすると十分な論議もなく、特定の価値観を多数決によって他者に押しつけることになってしまいます。個人的には、自民党の改憲案のように、個人の尊重を否定し、市民から言論の自由を奪うような改憲案だけは勘弁してほしいと思っています。いったん個人が否定され、言論の自由が封殺され、普通に戦争する国になってしまったら、もう元には戻りません。私たちの未来は灰色です。

こうした懸念とは全く無縁のような夏でした。戦後71年、戦争の記憶をいかに継承するかが大きな課題のはずですが、報道も街の話題も、オリンピックで持ち切りでした。安保法制に反対して盛り上がっていた昨年とは大違いです。そういえば、ヒトラーは「国民の理解力は小さいが、忘却力は大きい」と言っていましたし、オリンピックに聖火リレーを取り入れたのもヒトラーでした。

金メダルを期待された選手が、人のためではなく、自分の喜びのためにパフォーマンスを発揮することは本当に難しいようです。他人の期待はそこで勝つことですが、自分の目標はその先にあるはずです。それを見失ってしまうと、実力が発揮できません。一歩先をめざして、自分の成長をめざして、たかがオリンピックにすぎないと、その場を相対化することができるかどうかが重要な気がします。
試験でも全く同じです。それまでの努力は当然として、試験当日には、たかが試験と割り切ることができるかが、日ごろの成果を発揮できるかどうかの分かれ目になります。

スポーツも試験も結果が保証されないという点では全く同じです。いや、実は仕事も裁判も、そして人生そのものもすべて結果など保証されていない点では同じです。未来は自分が創り上げていくものだからです。過去にこだわって、自分の未来を否定したり、思い込みで決めつけたり、ましてや他人の言葉に振り回されて、自分の未来を自分で切り拓く意欲を失ってしまうほどもったいないことはありません。

合格率3%と言われて、たった3%ならやめておこうと思う人と、3%もあるのか、では挑戦してみようと思う人と、どちらが良い、悪いということはありません。ですが、裁判もどんなビジネスも勝てる確率で勝負しようと思ったら、その時点で、挑戦の意欲を失い、成功のチャンスを自ら逃すことになります。他の誰もが勝てないと思って諦めるようなことでも、やればできると自分を信じて努力を続けることが、勝利につながり、努力の過程における自分の成長につながるのです。

初めから自分の能力を決めつけて諦める人には、成長はありません。人生のテーマを結果におくのか、自分の成長におくのかで考え方は大きく違ってきます。何かの挑戦の結果は、挑戦の数だけ無数にあります。その一つひとつの結果に一喜一憂するのではなく、結果に向けての自分の人間としての成長に意味があると思える人は、結果以上に大きな成果を得ることができます。

世間や他人の評価からの思い込み、そして自分の過去から自由になることが必要です。生物学的にも私たちの細胞は毎日、新しいものに入れ替わっています。日々、過去の自分にとらわれず、新しい自分を自覚できるか、未来に向かって、自分はこうありたいと強く意欲し、本当に心地よい自分の未来の姿をしっかりと具体的に思い描けるか、毎日が新しいのです。自分の未来にとって今日が初日であることをしっかり自覚したい。オリンピック選手の活躍を見て改めて思いました。

2016年8月 3日 (水)

第252回 命の価値

自民党の改憲草案は、個人の尊重を否定しています(13条)。かけがえのない個人として尊重することを否定するということは、個人を取り替えがきく道具のように使うことを肯定し、何かの役に立たない人間の尊厳を尊重しなくてもいいという考えにつながります。

人間の尊厳という言葉は多義的ですが、私は人間の道具化の否定がその重要な内容だと思っています。人間を何かの道具として利用しない。例えば会社の利益追求のための手段として低賃金で酷使したり、医学の進歩のための人体実験に利用したり、国を守るための手段として国民の命を利用したりはしないということです。

これは1人ひとりの個人は何かの役に立つから存在する価値があるのではなく、そこに命があること自体に価値があるということを意味します。寝たきりになってしまったら価値がないのか。障害のために通常の仕事につけなければ価値がないのか。そんなことはありません。誰もがそこに命がある限り、かけがえのない個人として尊重されるだけの価値がある。個人の価値は誰かが優劣をつけて決められるものではないのです。

相模原市の障がい者施設殺傷事件をきっかけに、ヘイトクライムや優生思想が批判されています。話題にすることもつらい悲惨な事件ですが、被疑者は、生産能力のない人は国家や社会の敵であり、そうした人を抹殺することは社会的正義だとみていたようです。これを組織的に実行したのがヒトラーでした。ヒトラーは政権を取った後に、「人には生来の差があること」を学校、看護学校、病院、役所で周知徹底させます。そこでは、重度の心身障害者や「反社会的分子」(ロマ、労働忌避者、同性愛者、常習犯罪者など)への介護・福祉は公の幸福と利益に反するものとされました。その後、安楽死殺害政策が実施され、不治の患者、遺伝病患者、心身障害者など、国の戦争遂行に支障をきたすとみなした者を組織的に抹殺する作戦が実行されます。ドイツ国内だけでも21万6000人が犠牲になったと言われます。ここで培われた殺人技術がユダヤ人等の大量虐殺へと引き継がれていきました。生きるに値する命と値しない命を国家が区別したのです。

これらは異常な人間の異常な行動なのでしょうか。そうではないように思われます。1999年に石原慎太郎東京都知事は障がい者施設を訪れて、「ああいう人って人格があるのかね」「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」と発言しています。国民から絶大な人気のあった政治家です。国民はこうした発言を許し、こうした人物を評価しています。実は自分の中の本音と共鳴するところがあるからではないでしょうか。

事件後、「生きる権利は平等」「人の命は同じように大切」といった識者の言葉や「かけがえのない命」「命は重い」という命の大切さを語る言葉を多く目にしました。そのとおりと思いながらも、違和感も覚えました。圧倒的多数の国民が、死刑という国家による殺人を合法化することに共感し、安保法制に基づく武力行使という殺人は許容しています。現在、世界で頻発するテロも、特定の属性を持つ集団への憎悪が生む犯罪(ヘイトクライム)です。テロによる殺人は正義だと確信して行われます。テロを非難しつつ、テロリストを殲滅する殺人は歓迎しています。

このダブルスタンダードはいったい何なのでしょうか。守るべき命と殺してしまってもいい命があることを認めている。価値ある命と価値なき命を区別する。あとはその区別を誰がどんな基準で判断するかが問題になるだけです。

今回の事件を特異な者による不幸な出来事で終わらせてはなりません。人の命や個人の存在を、何かの役に立つか否か、何かができるか否か、国家や社会に貢献するか否か、といった効率、目的適合性、利用価値によって区別し価値序列をつけること自体を否定しなければ、本質的な問題解決になりません。犯罪ですから、犯人は責任能力さえあれば、刑事責任を問われます。ですが、犯罪の原因は犯人個人にあるだけではありません。社会政策は最良の刑事政策であると言われるとおり、貧困、格差、差別を許す風潮など社会の問題を根本から変えていかないとこうした事件を根絶することはできません。

世界から戦争がなくなることはないのだから、平和のためには武力行使という名の殺人もやむを得ないという考えは、社会の役に立たない命は尊重しなくてもよいという発想につながります。私はそうした考えに与したくありません。そうした考えにつながる改憲にも反対の声を挙げ続けます。

2016年7月 1日 (金)

第251回 選択

試験では様々な選択を迫られます。試験の最中も発表後にも選択が必要になります。人生は選択の連続です。試験での選択は気合いでなんとかする人もいますが、人生の選択はそうはいきません。憲法は幸福追求権という人権を保障しますが、これは幸福の中身は各自がそれぞれ自分で決めること、その自分が決めた幸福を追求する過程を人権として最大限保障するという意味です。

このように、憲法は自分の幸せは自分で決めることを各個人に要求しています。憲法13条の個人の尊重、幸福追求権という価値は、各個人に選択、決断を迫る厳しいものだとわかります。一人ひとりを個人として尊重するということはそういうことです。そして自分が何に幸せを感じるか、自分の幸せを実現することができる社会や国とはどのようなものかをしっかりと考える機会が選挙です。選挙権とは自分が幸せを感じられる国はどのようなものかを考える機会であり、その自分の考えを示す意思表示の場なのです。

1925年までは高額納税者の男性にしか選挙権がありませんでした。その結果として、たった5%の裕福な人たちの幸せのために政治は行われていました。男子普通選挙が始まり、貧困にあえぐ人たちも自分の幸せを実現する政治を求められるようになりました。しかし、まだ男性の幸せを実現する政治にすぎません。70年前に女性選挙権が認められて初めて、女性も自分の幸せのために選挙という形で声を上げることができるようになりました。その結果、政治においてもやっと女性の幸せを実現するための政策が実施されるようになります。選挙権を行使しないということは自分の幸せは他人に任せるということを意味します。誰かに幸せの中身を決めてもらい、人に従っていれば、なんとか生きていけるからいいやという考えを私は昔から「奴隷の幸せ」と呼んでいます。映画「風と共に去りぬ」の時代の奴隷でも主人に保護され幸せだった人もいるはずです。ですが、そこに自由はありません。

自由という価値をどれほど重視するかは人によって違います。自由は自分で選択しなければなりませんから、鬱陶しいし面倒です。その結果について、自分で引き受けなければなりませんから責任も伴います。それでも自分は自分らしくいたい、自分の思いに素直に生きていきたいという欲求は大切にしたいと思います。

民主主義の本質は多数決です。審議討論の過程では少数意見を尊重しながら最後は多数決で決断し、それに反対の人もとりあえずその決定に従うというものです。たった1票の差でも少数派は従わざるを得ない冷徹なものです。ですが、その決断が間違っていたと気づいたときには、それを正すことができる点が独裁制と違って民主主義の優れた点です。このように判断を変えることができる政策などの選択には適した方法ですが、生き方や世界観、信仰心など、その人らしさという点から変えることができない人の心の中の問題まで、多数決で決めて他人に押しつけることはできません。EUから離脱することが損か得かに関して他人の判断が正しかったということはありますが、自分が何を幸せと考えるかについて、他人の判断の方が正しいということはあり得ないからです。

今回の選挙で自民党が憲法改正を表立って争点にしていないと批判する人がいます。ですが、それは違います。自民党は4年前に憲法改正草案を発表し、個人の尊重を否定して国防軍を創る、そうした国づくりを目指すとはっきり国民に示しています。これは今の憲法とはまったく逆の方向を目指すものです。自民党はこれまで選挙では争点にしていなかった秘密保護法や戦争法を強行に成立させました。しかしこれはともに自民党改憲草案の中にあることを実現しただけです。つまり着実にこのゴールに向かって政策を進めているのです。これは国民に対して誠実な態度です。こうした国づくりを目指すことに賛成なのか反対なのか、その選択がすべての選挙では求められているのだということをしっかりと自覚することが大切です。選挙は自分にとって何が幸せなのかを改めて考えるよい機会です。こうして考えて選択をする機会を増やすことが、自立した市民として生きることにつながると思っています。

2016年6月 3日 (金)

第250回 憲法と政治

皆さんに一冊の本を紹介したいと思います。学習院大学の青井未帆教授が著した「憲法と政治」(岩波新書)です。毎日のように憲法関連の書籍に目を通しているとある種の慣れに感覚が麻痺してくることがあります。この本はそんな私の心を揺さぶり、改めて憲法と共に前に進む勇気を与えてくれました。

具体的な資料と根拠を示しながら、「政治が憲法を乗り越えんとするかのような『いま』を切り取ろうとしたもの」であり、立憲主義と民主主義を回復すべく闘っているすべての法律家、市民に第一級の資料を提供してくれます。憲法訴訟の実際をより深く理解するためにも有意義です。

先生は最後に沖縄に触れます。「筆者には日本国憲法の平和主義の『具体化』の話の中に理屈を立てて沖縄を位置づけることはできなかった」という率直な言葉の持つ意味を本土の人間のひとりとして心に刻まなければならないと思いました。伊藤塾では毎年沖縄スタディツアーを行っています。米軍関係者による事件が後を絶たず、オスプレー配備、新基地建設問題でも、本土の人間はいつも「沖縄問題」と認識してしまいます。これらは皆「日本の問題」であり、主権の問題であり、憲法問題です。

本書のタイトルは、「憲法と政治」というこれまでありそうでなかったものです。憲法で政治を縛ることが立憲主義の本質的課題であるとするならこれまでは、憲法と政治の関係を今ほど意識する必要がなかったのかもしれません。今、この憲法と政治の関係を通じて市民としての自覚が求められています。法律を学ぶ者の覚悟が問われているというべきでしょうか。憲法を学んで法律家となろうとする者には憲法を知ってしまった者の責任があるはずです。憲法の下で今を生きる市民として、私たちはどう生きたいのか、次の世代にどのような社会を残したいのか。今ほど「平和への意志」を求められているときはないように思います。

本書によって平和憲法を持つ国の市民としての強い自覚を促されました。同時に法律家としての覚悟を問われた思いでした。どのような仕事をしていても、憲法と政治に関して、日々の業務とは無縁の話題として無関心でいることはできるかもしれません。しかし、法律家として無関係ではいられないはずです。ましてや市民として無関係であろうはずがありません。政治が憲法を乗り越えようとする今に目を背けることは、法を否定しあらゆる規範を軽視する事態を放置することにつながります。これらは法律家としての自らの存在すら危うくします。

参議院選挙で、各党はこの国のあり方をどう変えようとしているのか、その本質をしっかりと見極めることが必要です。選挙権行使は、この国をどうしたいのか、どんな国で生活するのが自分にとって一番幸せなのか、それを意思表示することに他なりません。つまり自己決定権の政治への反映です。自由のために民主主義があるのであり、自由権と参政権は一体です。

広島訪問をしたオバマ大統領の演説は多くの人々に感銘を与えたようです。演説の原稿はスピーチライターが書いているはずなのですが、人の原稿を読んでいるだけという感じがしませんでした。日本の政治家とはだいぶ印象が違います。スピーチ原稿は、広島の惨状を見てもいないし、被爆者の方から直接、話を聞いてもいない段階で作っているはずです。ですが、原稿を読み上げるときに言葉の中に彼の気持ちが入り込みました。

戦争でどれだけのアメリカの若者が死んでいったのか、そのトップとしての責任、広島・長崎に原爆を落とした国の大統領としての自覚、謝罪できない立場、軍縮を実際には進めることができない葛藤、戦争をなくしたいけれども理想ばかり語ってはいられない国際社会のリーダーとしての苦悩。それらをすべて引き受けた上で、それでも「戦争自体に対する考え方を変えなければならない」という彼の戦争や核兵器に対する思いの強さ、心の強さが聞く人々の気持ちを動かしたのだと思います。

青井先生の本からも強い思いが伝わってきます。それを受け止めてどう活かすかは私たち次第です。将来、人権や平和に関わる仕事をすることはないだろうなと思っている多くの塾生にこそ、そして試験の最中である今だからこそ、読んでほしい一冊です。

2016年5月 3日 (火)

第249回 過去・現在・未来


熊本の震災に対して何ができるか。5年前の東日本大震災のときもそうでしたが、受験生として何もできないもどかしさを感じる人もいることでしょう。しかし、こういうときには普段通りに過ごすことが最も重要です。法律家、公務員として社会に貢献するという志を立てたのですから、それを実現するために全力を尽くす。そして力をつけて、被災者救援、災害対策のために尽力すればいいのです。

現場がもっとも望まない中央の権力を強化する緊急事態条項など不要なだけでなく有害であるとしっかりと理解し広めれば、それだけでも大きな意味を持ちます。火事場泥棒的な改憲の主張は5年前にもありましたが、そうした政治家の暴走を封じるのも市民の重要な役割です。

今年は憲法公布70年で69回目の憲法記念日を迎えます。昨年は戦後70年でした。来年は憲法施行70年となります。3年連続で70年の節目が続きます。この3年の間にはさらに思いもかけない事が起こるかもしれません。天災には事前の備えしかありませんが、人災は避けることができます。

社会の変化も立憲主義、民主主義の発展というよい方向なら大歓迎ですが、間違った方向への変化なら、市民として、法律家としてなんとしても阻止しなければなりません。先月、630人ほどの弁護士が代理人となり安保法制違憲東京第1次訴訟を提訴しました。憲法無視の法的クーデタが起こされたのですから、あちこちで法律実務家や憲法学者そして市民が前例のない闘いを続けています。この3年間にこの国で起こることは極めて重要です。

しかし、ここで今起こることがどんな意味を持っているかは、実は私たちが今ここで判断することはできません。私たちは未来から見たところの過去を生きているからです。過去の出来事の意味は現在を生きる者がその事実を評価して決めます。個人のレベルでも、どんなに苦しいことが起こっても、それが実は本人にとって意味のあることで、よりよく生きるためには不可欠の試練だったと10年後に気づくこともあります。逆境、スランプだと思っても、それは事実に対する今の自分の主観的な評価にすぎません。そんなものに一喜一憂する必要はないのです。一歩先を目指して今やれることを淡々とやるしかありません。

受験生にとって試験当日はとても重要な日になります。こうした重要な日が近づくと、失敗したらどうしようと様々な思いを巡らして緊張したり不安になってしまったりすることがあります。ですが、不安や恐怖は事実ではありません。自分の頭の中で想像して創り上げた産物にすぎません。

そして失敗してはならないと強く意識すると、人間はその反対のこともまた無意識のうちに意識してしまうようにできています。合格だけを強く意識すると、無意識のうちに不合格になったら大変だと考えてしまうのです。象のことを想像するなと言われると、つい頭の中で象を思い描いてしまうのと同じです。ですから、合格のことなど考えてはいけません。

皆さんのゴールは合格後にあります。その手前の合格など意識する必要は全くないのです。自分の立てた目標をクリアーするために今、懸命に努力すること。それだけで十分です。勉強も人生も自分を成長させるためにあるのですから、そのプロセスで自分が成長できればそれだけで大成功です。試験の結果は、ゲームの結果と同じように今回たまたまそういう結果だったということだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。事実にどのような意味を与えるかは現在の自分ではなく、未来の自分に任せればいいのです。何も恐れる必要はありません。何が起ころうと自分が成長できるのであれば、全く問題ありません。自分らしく堂々と今を生き抜けばいいのです。試験では目の前の問題を淡々と解けばいいだけです。

安保法制違憲訴訟は前例のない規模と質の裁判になります。私もときどき不安と恐怖に押しつぶされそうになることもあります。ですが、大切なことは今やるべきことを淡々とこなしていくことだと自分に言い聞かせて乗り切ろうと思っています。いつまでたっても楽になりません。いや、これも今の自分の評価ですね。大変なのか、楽なのかの評価自体も主観的なものですから、そんなことを今言ってみても意味のないことです。現在の自分に起こっていることの評価は未来が決めるのですから。私も70年の節目でやれることを精一杯やっていきます。

2016年4月 1日 (金)

第248回 安保法制違憲訴訟

安保法制が3月29日に施行されました。この安保法制には実に多くの市民が全国各地から反対の声をあげ、圧倒的多数の憲法学者をはじめとして元最高裁長官や元内閣法制局長官までもが憲法違反と批判しました。またこれを審議した国会運営が民主主義の実体を欠くものであったことは、国会中継で目の当たりにしたとおりです。

この安保法制に対して違憲訴訟を4月下旬には提訴しようと準備しています。全国各地での原告希望者は1000人を超え、元裁判官、元検察官も含めて600人を超える弁護士が代理人となります。この後も準備ができ次第、全国で順次提訴が続いていくことになるでしょう。

私はこの安保法制は明白に違憲であると考えています。ですが現在の政府がこれを合憲と判断して法案を提出し、国会が合憲と判断して形式的にも成立させたからには、日本における公権的解釈としては、安保法制は合憲という判断しかなされていません。そこで、たとえ下級審であっても何らかの実質的な違憲判断が出ることによって、すべての公権力が合憲と判断しているのではないことが明らかになります。ここに大きな意味があると考えています。

中にはここぞとばかりに合憲判断をする裁判官もいるかもしれません。ですが、それは国民がその判決を批判すればよいだけのことです。そうした判決を政治利用されるリスクについては、公権的な合憲判断のみが存する状態を放置してこれが既成事実化され、国民の関心が薄れていってしまうことの方がよほど大きなリスクと考えます。

私は、安保法制が違憲であり、違憲の法律の存在を認めることなどできないという怒りとともに、憲法を無視する態度、法をなんとも思わない態度を許すことができません。この国は法の支配の国であり、立憲民主主義国家であったはずです。単なる数の力で何でも自分の思うとおりに押し通そうとする政治がなんの歯止めもなくこのまま放置されることは、企業も家庭も社会もあらゆる場面で法を無視することがまかり通ることにつながります。これはあってはならないことです。

法律家は力ではなく、理性と知性を体現する法によって個人の尊厳を守り、社会秩序を維持することをその使命としているはずです。自らが違憲と判断する安保法制をそのまま放置することは、自らの職業の基盤、そしてそれは自分がこれまで歩んできた法律家としての人生をも揺るがすことにつながります。
今、一番あってはならないことは、やっても無駄だという無力感から行動しなくなること、物を言わなくなることです。これまでのすべての憲法訴訟も初めはみな前例のない無謀な闘いとみられました。私たちが判例集で見る憲法判例は勇気を持って立ち上がった先輩法律家の汗と努力の結晶に他なりません。

そもそも課題やリスクのない憲法訴訟などありません。ましてや初めから結果が保証されている事件などありえません。結果がわからないからこそ、私たちは全力でそれにぶつかり、突破口を開いていかなければならないのです。具体的事件性がなければ裁判所は判断しないと思われていますが、それはこれまでの裁判所による解釈にすぎません。司法の枠組み自体に対しても問題提起をしていかねばならないと思っています。既存の枠組みを見直し、憲法価値を実現するために新たな違憲訴訟の枠組みを創り上げていくことも重要な訴訟の意義であるはずだからです。

安保法制はまさに、日本を戦争する国に変えるものです。そのように国柄を変えることは本来、それによって加害者にも被害者にもなる主権者国民の意思でなければできないはずです。最高裁が違憲状態と宣言した正当性のない選挙で過半数の議席を得ただけの政権が、憲法を無視して日本の国柄を変えるような権力行使をすることは、まさに国民の制憲権の侵害に他なりません。憲法が蹂躙されるこうした事態を座視すれば、必ずや市民の生命、自由、財産の蹂躙を招くに違いありません。立憲主義と民主主義の回復のため、それぞれが各自の立場で声を上げることが求められているのです。

これから勉強を始める皆さんも、自分には続けられるだろうかと不安な人も多いことでしょう。これから本試験を迎える塾生の皆さん誰もが様々な不安を抱えていることと思います。ですが、法律家の仕事そのものがこのように結果が保証されないことに向かって全力で立ち向かうものなのです。ぜひ、不安に負けずに頑張ってください。今ここでの頑張りが必ず将来の糧になります。期待しています。

関連リンク>伊藤真塾長が共同代表を務める、「安保法制違憲訴訟の会」から、違憲訴訟の原告募集と、4・20 安保法制違憲訴訟 決起集会のお知らせ <4月20日(水) 18:00より、安保法制違憲訴訟 決起集会を、参議院議員会館にて開催>

2016年3月 1日 (火)

第247回 不安に克つ

予定されている安保法制の施行に先立ち、官邸から、緊急権条項を憲法の明文に加える改憲の動きが出てきています。大災害の不安、周辺諸国からの侵略の不安、テロの不安を指摘しながら、憲法に緊急権条項は必要だというのです。確かに私たちは常に不安と隣り合わせで日々を過ごしています。突然の交通事故や自然災害の被害に遭うかもしれません。不安です。こんなに必死に勉強しても必ず合格する保障などないのですから、勉強を始めること自体不安です。

しかし、「不安」は人の心理に依拠した主観的な概念であり、現実ではありません。その範囲は際限なく広がる可能性があります。為政者はいつの時代どこの国でも国民の不安を増幅させて政治目的を実現しようとします。特に軍事力や警察力という国家の暴力装置を働かせようとするときに、意図的に国民の不安を利用するのは常套手段のようです。ですが、様々な名目で権力が国民の自由に介入することや、軍備を拡大することは多くの副作用を伴いますから、国民としてはよくよく注意しなければなりません。ときに歯止めがかからなくなる危険もあります。「不安」を解消する唯一の方法は、冷静に不安の原因をよく見きわめ、どのような具体的危険があるのかを明らかにし、ひとつずつ解決していくことです。具体的な危険の存在とそれに対する法律レベルでの対処といった議論なしに、国民の自由を大きく制限する緊急権条項をめぐる改憲論議をすることは立憲主義の作法を大きく逸脱するものと言わざるを得ません。
確かに近隣諸国、特に中国や北朝鮮に対する不安を感じる人も少なくないかもしれません。ですが、対処法の本質は同じです。主観的な不安というものと客観的な危険性をきちんと区別をすることが出発点です。たとえば、中国の軍事費増大という点から中国に不安を感じる人がいます。ですが、軍事費に関して言えばアメリカの方が圧倒的に巨額です。にもかかわらず多くの日本国民はアメリカを軍事的脅威とは考えていません。とすると軍事費の増加が問題なのではないとわかります。また、日本の平和度指数は4年連続で162カ国中第8位でした。アメリカは94位で、日本はG7諸国の中ではダントツに平和度が高い国です。

こうして知性と理性で不安の原因を客観的に明らかにしながら対処法を見つけていくのです。イスラム国が怖いという不安から、イスラム教が怖いという思いに不安が拡大することがあるかもしれません。ですが、私たちはどれだけイスラム教のことを知っているでしょうか。ムスリムの友人は何人いるでしょうか。文化・歴史・時代背景などさまざまな知識を得ることで不安から解放されることができます。無知から偏見が生まれ、偏見から不安が生み出されます。

他方で、安保法制によってテロの標的になるかもしれない。戦争に巻き込まれるかもしれないという不安も同様です。その危険性がどれほど高まるのかという冷静な分析と評価なしにいたずらに不安をあおるだけでは、健全な議論はできません。

受験生として日々の不安に打ち克つ場合も同じことが言えます。模擬試験の点数が思うように伸びないからといって不安になり、勉強が手に付かなくなる人がいます。ある意味では当たり前の反応なのかもしれません。ですが、そうした不安に押しつぶされそうになったときにこそ、自分を客観的に観察する力を鍛えることができるのです。試験勉強は毎日が不安との闘いだといっても過言ではありません。絶対に合格したいと強く思えば思うほど、不安になってくるものです。だからこそ、その不安に打ち克つ訓練の場が与えられたのだと、自らの状況に感謝して乗り越えていくことが必要なのです。

いつも言っているように不安を紙に書き出して可視化します。その上で不安の原因も書き出してみます。なぜ、不安を感じるのか、その原因を3段階くらい掘り下げて書き出してみると、実はたいしたことのない理由で不安を感じていることがわかります。不安は現実ではなく、対処可能なものだと認識することができます。

法律家や公務員として仕事をするということは、常に不安と向き合うことを意味します。弁護士としてどんな裁判でも絶対勝てるということはありません。裁判官や検察官、公務員になっても絶対に正しい判断ができることなどあり得ません。常になんらかの不安がつきまといます。特に初めての案件や憲法訴訟のように人があまりやらない裁判においてはなおさらです。ですが、そもそもリスクや課題のない訴訟などあり得ないのですから、そうした場面でも不安に打ち克って挑戦する意欲と能力があるかが試されることになります。不安を克服して現場で活躍できる法律家や公務員になるために今の試練があるのだと自覚できれば不安を味方にすることができます。これもまた試験に挑戦する重要な意義です。

2016年2月 1日 (月)

第246回 怒りの矛先

人はさまざまな怒りを持ちますが、その対象や解消の仕方は人それぞれです。芸能人のスキャンダルに怒る人もいれば政治家に怒る人もいます。その後始末の仕方に納得できず怒り続ける人もいます。その怒りも特定の個人や団体に向けられることもあれば、社会一般に対して漠然とした怒りを感じるという人もいるようです。

法律家はその職種を問わず、当事者の様々な怒りに付き合わなければならないことがある仕事です。依頼者などの怒りに接したときに、その当事者からの距離の置き方が難しい。少し距離を置いて冷静でいると冷たいと思われてしまうし、逆に理不尽さへの怒りで熱くなりすぎて客観的に判断できなくなってしまっては専門家の意味がなくなります。怒りを適切にコントロールすることも法律家として必要な資質の1つです。

皆さんはどんなことに怒りを感じますか。自分が試験に落ちてしまったときに自分自身の不甲斐なさに怒りを感じるかもしれません。急に制度や合格点が変わる理不尽さに怒る人もいます。勉強を続けながらも社会の矛盾や不公平感に怒りの気持ちを持ち続け、それが勉強を続ける原動力だという人もいます。

私の場合は、責任ある立場の人の一貫性(consistency)のなさに怒りを覚えることが少なくありません。自分の過去の言動に責任を持つことは本当に難しいことです。ですが、これを大切な価値として意識するか否かは重要なことだと思っています。自分の発言の一貫性などどうでもいい、そのときをなんとか乗り切ればそれでいいと考えるような人が責任ある立場にいること自体に怒りを覚えるのです。

人間ですから完璧な人などいないし、間違いや考え違いを犯すこともあるでしょう。ですが、自分の言動が間違っていたならばそれを認識し必要ならば謝罪し、そして言動を改めるというのが筋だと思っています。専門家や責任ある立場の人が自分の言動の結果に責任を取らず、あたかも何もなかったかのごとく発言をしたりする。その結果、社会も何も学習せず進歩しない。こうした理不尽に怒りを覚えます。

怒りの矛先をどこに向けるのかによっても、その人の人間としての気高さをうかがい知ることができるときがあります。私的な怒りを持ったときでも、人によってはその怒りを特定の個人などに向けるのではなく、出来事の背景や社会に意識を向けて、その改善に向けて社会を動かすことができる人がいるのです。

先月、スキーバス事故が起こった際に愛娘を失った父親が憤りを抱えながらも、日本の労働状況や過剰な利益の追求、安全軽視などの社会問題に事故の原因を見いだし、本当の解決を求めていました。誰もができることではありません。また、2001年のニューヨーク同時多発テロの際に日本人にも多く犠牲者が出ましたが、息子を失った父親が米国によるアフガン空爆が始まったときに次のように語っています。「『敵討ちができてよかったね』と知人に言われた。でも、報復は暴力の連鎖を生むだけだ」「せがれは事件に巻き込まれたが、さらに関係のない人たちが命を失うのには耐えられない。日本は米国の腰ぎんちゃくになる必要はない。テロの背景にある貧困の解消など、ほかの手だてを考えるべきだ」「子どもを奪われることのつらさ、つまり命の重さというものは、息子を失ってからより真剣に考えるようになりました。テロリストも国家も『正義』を語る。しかし、関係のない人の生命を犠牲にするところに正義などありえない。」(島本慈子「戦争で死ぬ、ということ」岩波新書より)

今の日本はこうした犠牲者の怒りや思いをどれだけ改善に反映させられているのでしょうか。15年戦争の加害と被害の歴史から何を学んだのでしょうか。かけがえのない命が犠牲になった出来事から何も学ぼうとしない、その姿勢に強い怒りを覚えます。犠牲者の遺族などの気高い怒りを受け止めて、さらに多くの人の社会を変えていく原動力としての怒りに転換していくことができたならば、こうした怒りの連鎖は意味があると思うのです。

もちろん個人の怒りの矛先はそれぞれの関心の対象に向かうのでしょうから、人それぞれでいいとは思います。ですが、もっと社会の理不尽や政治家、政党の言動にまで怒りが向いていくと、この国の民主主義はもっと成熟していくと思います。法律家や公務員をめざす皆さんにも、社会の理不尽に対する怒りを勉強や今後の行動のエネルギーにしていただければと思っています。

2016年1月 1日 (金)

第245回 謹賀新年

「日本に、本当に地方自治や民主主義は存在しているのでしょうか。沖縄県にのみ負担を強いる今の日米安保体制は正常といえるのでしょうか。国民の皆さますべてに問いかけたいと思います。沖縄、そして日本の未来を切り開く判断をお願いします。」これは昨年12月2日代執行訴訟口頭弁論での翁長雄志沖縄県知事の意見陳述の最終部分です。

戦後70年を経たにもかかわらず、国土面積0.6%の沖縄県に73.8%の米軍基地を集中させ続け、沖縄のみならず世界の財産である自然環境・文化遺産を破壊して、耐用年数200年の軍事要塞を日本国民の税金で新たに建設しようとしています。こうして沖縄にさらなる負担を強いようとする日本政府から訴えられた知事の言葉です。これを異端者のわがままとして無視してよいものでしょうか。

沖縄で行われている、民意を無視した権力行使は自公政権の姿勢そのものを表しています。政府が少数者に生命・健康等の人格権の犠牲を強いておいて金銭で穴埋めをしようとする姿勢は原発再稼働と同様の構造です。憲法は29条3項で財産権についてのみ経済的補償を条件にその剥奪を許していますが、正当な補償さえすれば人格権をも制約できるとはしていません。また憲法95条は特定の地域のみに負担を強いるような法律は地域住民の賛成がなければ制定できないとしており、たとえ国民の多数が支持する国策であったとしても、利害関係ある住民の反対を無視して過大な負担を地域に押しつけることはできないはずです。

憲法13条は個人の私的領域に関わることは自分で決めるという自己決定権を保障しています。それは自分たちの生活地域のことは自分たちで決めるという住民自治を要請します。地域のことは自分たち住民が決める、そしてこの国の権力のあり方はこの国で生活する一人一人が決める。これが民主主義です。残念ながらこの民主主義が、憲法13条の要請するように機能しているとはいえません。先の翁長氏の発言はそれをすべての国民に自分たちの問題として考えてほしいと呼びかけています。他人事ではなく自分事として受けとめる想像力を私たちが持っているかを厳しく問いかけているのです。

そして、司法に日本の未来を切り開く判断を求めています。残念ながら現在の司法もその職責を十分に果たしているとはいえません。砂川事件最高裁判決によって事実上安保条約は合憲とされてしまい、それに基づく地位協定、各種特別法という安保法体系が日本国憲法の外にできあがってしまいました。その結果、人権と平和を最優先する憲法体系を擁護すべき司法権が、米軍優先の価値基準に対して何も言えない、実質的な治外法権、対米軍事従属国家となってしまっています。沖縄に限らず全国の基地周辺の住民の平和的生存権、人格権が侵害されているにもかかわらず、司法がその救済の役割を放棄し、多数者支配の政治部門に追従してしまう。この構造は選択的夫婦別姓を認めない現行民法の適否を国会の議論に委ねてしまおうとする司法の態度と共通するものがあります。

少数者の存在を認めることは、すべての人の幸せにつながるはずです。人はそれぞれ個性があり、皆違って当たり前であり、また違うからこそすばらしいという個人の尊重を今こそ再確認する必要があると考えます。人の個性は無限の属性の組み合わせによってできあがっています。誰もが、ある属性において多数派であっても、別の属性においては少数派なのですから、一人一人の個性の尊重は、多様な人々の共存をめざす社会では不可欠なことなのです。

少数意見や異端を認めない。それはファシズムにつながります。一つの考えしか認めない、全体を一つにまとめる力が強く働く、そんな社会はファシズムです。束ねるとか全体という意味のファッショというイタリア語が元になっているそうですが、個人を尊重し多様性を認めようとする憲法とはまったく目指す方向が逆です。「絆」の強調はときに意図しない負の効果を生むことがあります。どうも最近の日本はいろいろな面で異論を排除し、全体としてのまとまりを重視しようとしているように思えてなりません。沖縄問題のみならず報道規制も家族のあり方もそうです。今後、災害対策、テロ対策の名の下にさらにこうした傾向が進むおそれがあります。多数派ましてや政府が異端を排除しようとするとき、憲法を学んだ者はそれに抗い、声を上げなければなりません。憲法公布70年を迎える今年、本当の意味で個人が尊重されるように最善を尽くしたいと思います。今年もまた一年、真剣勝負です。

2015年12月 1日 (火)

第244回 テロと戦争

テロは憎むべき凶悪な犯罪です。どこで起ころうが、いつの時代であろうが、これは犯罪ですから、司法手続きで裁くべきものです。ところが、2001年同時多発テロの後、米国はWar on Terrorという言葉を作り、テロを武力行使すなわち戦争の対象としてしまいました。テロとの闘いは犯罪として対処するものではなく、戦争になってしまったのです。

フランスも加わる有志連合はシリア・イラクで数千回の空爆を行っている戦争中の国々です。アメリカもフランスも現在戦争中の国です。戦争というのは、たとえテロとの闘いであっても、双方の市民に多数の犠牲者が出ることを避けられません。シリアでは現在でも多数の市民に犠牲が出ています。そして双方が加害者になります。これが戦争の現実です。ですが、国民は多くの場合、空爆、自爆攻撃などによる具体的な被害に遭わなければ自分たちが戦争しているという実感を持てないものです。

日本でも1931年の満州事変から15年戦争を始めましたが、多くの国民が戦争を実感したのは、1944年から本格的に始まった日本全土への無差別戦略爆撃からだといいます。焼夷弾が降ってきて大切な人が目の前で死傷していく姿を目の当たりにして初めて戦争を実感したというのです。徴兵制や国家総動員体制の下にありながらも、市民にとって戦争というのはそれほどまでに遠い世界に感じられてしまうものなのかもしれません。

だからこそ私たちは想像力を発揮して、戦争や武力行使、テロについて具体的に考えないといけないのです。戦争など起こるはずがないと一般市民が思っているときに、思いもよらない悲劇が起こり、人は怒りと恐怖に支配されてしまいます。
私も含めておよそ人間は不完全な生き物であり、完璧な人などいない、だから憲法によって予めやってはいけないことを自己拘束として定めておくという立憲主義の考え方は、いつの時代、どこの国においても有益なはずです。

それにしても、思ってもいなかったことが自然災害だけでなく、人の手によっても起こるということを私たちはここ数年で実感しました。まさか集団的自衛権行使を容認するような政府、国会が登場するとは思ってもいませんでした。憲法改正が具体的な日程に乗ってくることも、あれだけの原発事故を経験しながら何事もなかったように再稼働を進める人々の力がこれほど強いことも、そして平和憲法を持つ日本や日本人がテロの標的になるとはまったく考えたこともありませんでした。どれもこれも外的な要因ではなく、私たちがこれらを許してしまっているのです。

今回成立した戦争法により日本もISとの闘い、つまり戦争に後方支援というかたちで参加できるようになってしまいました。これまでは他国の武力行使と一体化してしまうので認められなかった戦闘地域での弾薬の補給、そして武器の輸送などの兵站活動が法律上可能となります。

たとえ法律が成立したとしても違憲は違憲です。しかし、これを選挙などの民主政の過程を通じて是正しようとしても、1人1票が実現していない違憲選挙の下では主権者の多数が国会議員の多数にならないため容易ではありません。そこで司法による明確な違憲判断によって立憲主義を回復することがなんとしても必要と考えます。具体的な被害が市民に生じる前にこれを止めないと、感情に支配されやすい私たちは何かが起こってからでは冷静に判断できない危険があります。様々な課題があることは十分承知していますが、法律家としてこのような憲法が無視されるような事態を放置することはできません。そのような思いから全国の弁護士とともに、安保法制違憲訴訟を提起することにしました。

日本をテロの標的になるような戦争する国に変えることは、主権者国民の意思でなければできないはずです。違憲の選挙で多数の議席を得ただけの自公政権に日本の国柄を変えてしまうような権力行使の正統性はありません。戦争やテロの恐怖が現実のものとなる前にやれることはすべてやっておかないと後で私は必ず後悔します。戦争やテロなど被害妄想を語る愚かな法律家がいたと笑い話になるような未来を築くために今を生きようと思います。

2015年11月 3日 (火)

第243回 多数決と少数意見

11月1日の東京新聞に私の憲法絵本「あなたこそたからもの」の掃除当番を多数決で決めるエピソードが紹介されました。人権は多数決によっても奪えない価値であり、それを憲法に書いておくという説明まで紹介してもらいました。これまでも人権や立憲主義の重要性を教えるときにこのように多数決の危険性を指摘してきました。
ナチスのような、人類の多数決による悲劇の歴史を知っているためか、法律家や知識人の中には多数決という方法に一種のアレルギーを持ってしまう人もいるようです。ですが、残念ながら多数決の意義と少数意見の尊重の関係を十分に理解していない人もまたいるようです。
10月28日に一人一票裁判の最高裁大法廷弁論がありました。昨年12月14日の衆議院議員選挙の無効を求めて全国295のすべての選挙区で訴訟提起したものです。塾生の方にもずいぶんと協力していただきました。この弁論の際に国側の代理人(裁判官出身)が地方の少数者の声を反映させるために人口以外の要素も考慮する裁量が国会にあるという以下のような主張をしたのです。
「我が国の国民には、都市部居住者もいれば、山間部などのいわゆる過疎地域に居住する者もいる。そのような場合に、過疎地域に住む少数者の意見を国政に反映する必要はないということにはならないのであって、そのような少数者の声も国政に十分に届くような選挙区割りや議員定数の配分を定めることもまた、国会において十分に考慮されるべき事項というべきである。」

憲法を勉強した皆さんならこの主張の間違いに気づくと思いますが、憲法になじみのない方の中にはもっともだと思われる方もいるのではないでしょうか。今更いうまでもないことなのですが、国会議員は選挙区や地域の代表ではありません。どこから選出されようと全国民の代表です(憲法43条1項)。ですから、過疎地域の少数者の声を代弁するのはすべての国会議員の責務なのであって、決してその地方選出議員だけの仕事ではありません。まずここからして間違っています。また、世の中には様々な少数者がいるのであって、地域的な少数者の声だけをことさらに反映させる理由がありません。性的マイノリティーや経済的困窮者、障がい者や米軍基地を押しつけられる沖縄県民などの声を差し置いて、過疎地域の人たちの声だけを国会に反映させなければならない理由などどこにもありません。こうした少数者の意見はあらゆる場面で反映するように尊重しなければならないのです。選挙制度の設計にあたって予め特定の少数者の声だけを反映させるようにすることなどできません。
少数者の尊重という誰もが反対できない一般論を持ち出して、人口比例選挙を否定しようとするのは、理性というよりも感情に訴えかけようとするものであり全く論理的ではありません。国側が今更のようにこうした議論を持ち出してきたことに驚きました。

政治の世界では少数意見を無視する多数の横暴が横行していているように見えます。原発再稼働も安保法も国会における議席の多数にモノを言わせて強行に進めてきたものです。ですが、これらは少なくとも世論調査によると国民の多数意思ではありません。主権者の多数によって権力行使の正統性を担保するという民主主義の基本が機能していない、ゆがんだ選挙制度の結果、そもそも国民の多数意思が正しく国政に反映していないのです。

つまり、この国は少数意見を尊重するという以前に、そもそも多数決という基本ができていません。多数決でモノを決めるという基本枠組みができた上で、審議の過程で十分に少数意見を尊重し、少数者の人権を侵害してはならないという歯止めが意味を持つのです。主権者の多数による正統性付与という民主主義の基本的枠組みは、立憲主義、法の支配を実現していくための大前提です。

原告の方々は、この一人一票訴訟によって自分の生活に関わる具体的な利益を求めているのではありません。自分の利益は脇に置いて、立憲主義・民主主義という公共の利益のために身を捧げているのです。最高裁判事を含めてすべての法律家はこうした原告の切実な思いに応えなければなりません。

2015年10月 1日 (木)

第242回 個人と民主主義

安保法制が自民党・公明党による採決の強行によって成立しました。ほとんどの憲法学者のみならず、元法制局長官や元最高裁長官まで違憲といい、すべての弁護士会が立憲主義に反するという意見書や決議を出した安保法制です。地方公聴会の報告もなされず、議事手続き上も決議不存在としかいいようのない中での成立でした。私も参議院で参考人として意見を述べましたが、結論先にありきのセレモニーのような国会審議でした。米国との約束によって結論が決まっているものを消化試合のように淡々とこなしていく、そんな国会をみて、これがこの国の民主主義かと幻滅した人もいるかと思います。しかし、幻滅することばかりではありませんでした。国会の外と内とでは3点できわめて対照的だったように思います。

外では多くの人々が民主主義を訴えました。選挙はある一時点で自分たちの代表者を選ぶ仕組みであり、候補者や政党が掲げた政策のすべてを是認するものではありません。選挙で勝ったのだから数の力で何でもやっていいということになると国会は不要になります。選挙で勝った瞬間、絶対的な権力を手に入れてしまうのですから、これは専制政治です。民主主義は選挙の後であっても、個別の政策について主権者が声をあげ、その声を議員が尊重することによって実現するものです。選挙権とデモなどの表現の自由は民主主義実現のために不可欠の車の両輪です。国会の外ではまさに民主主義が実行されていました。

ところが、国会内では、選挙で勝ったのだから与党は民意を反映しているとし、外の国民の声は雑音のごとく無視されました。しかも、現在の国会は各院とも最高裁が2回も違憲状態と断じた選挙による無資格者の集まりでしかなく、なんら民主的正統性はありません。国会の外では立憲主義が叫ばれましたが、国会内では日本を取り巻く安全保障環境が変化したのだから抑止力を高めるのにこの安保法制が必要なのだという一方的な主張が繰り返されました。安保法制の合憲性については、72年政府意見書と砂川事件最高裁判決というまともな法律家ならば考えたこともないような根拠がなんの説得力もなく繰り返されただけでした。

しかも、憲法論と政策論の区別を意識して議論することもできていませんでした。どんなに優れた安保政策であっても憲法の枠内で実現しなければならないし、それが政治家の責任であり、それが立憲主義国家の最低限のルールだという、議論に必要な最低限のフレームが与野党で共有できていません。立憲主義というものに重きをおかない人々とは議論がかみ合わないのはむしろ当然でした。今回の国会での議論を通じて、立憲主義を尊重しない非立憲という立場がこの国に存在することがわかったことは収穫でした。

そして国会の外では、個人が声をあげていました。若者もビジネスパーソンもママたちも皆一人一人の個人として自分の考えや不安を訴えていました。政党や団体から動員されて組織のメンバーとして参加しているのではなく、あくまでも個人の意思によって国会前や全国各地での運動に参加した人たちばかりでした。原発など国の言うことを無批判に鵜呑みにしているだけだととんでもないことになるという体験を通じて、自分たちが主体的に行動しないといけないという自覚が市民の中に芽生えてきたのです。沖縄問題、TPP、秘密保護法そして安保を通じて黙っていてはいけないという意識が個人に育ってきたのだと思います。

それに対して、国会内は依然として組織の論理でしか動けない人たち、何かに追従することしかできない人たちばかりでした。米国に追従する総理大臣、党首に追従する議員、自民党に追従する公明党。一人一人の議員が個人としての考えをもつことができなくても議員をやっていける党議拘束という「世界の非常識」が日本ではまかり通っているのです。主体性のない国会議員と主体的に行動する市民という対比が鮮明でした。

憲法は個人の尊重を最高の価値とします。それが国会の外で、全国で具現化していました。この個人の尊重から民主主義が生まれます。今回の安保法制の成立は日本の民主主義の萌芽といえる重要な出来事であったと思います。こうしたときに法律家や行政官になる皆さんも、より主体的に生きることが求められているのです。

2015年9月 1日 (火)

第241回 マグナカルタ

ロンドンの大英図書館ではマグナカルタの特別展示をしています。最初にジョン王に対して突きつけた1215年から800年というわけです。現在でもこのマグナカルタの中のいくつかの条文はイギリス憲法として使われています。800年前の法典が生きているとは本当に驚きですが、それだけ普遍的な価値だということなのでしょう。

そもそも立憲主義、法の支配という考え方は、人間は不完全な生き物であり、間違いを犯すことがある。神と違って全能ではないのだから、その権力の濫用などの過ちを犯さないように権力を持つものを法で縛る必要があるということから生まれた考えです。ですから、人間が過ちを犯す不完全な生き物である以上は、時代を超え人種を越えて必要な考え方といえます。安倍首相が国会答弁で応えたような中世王権時代に特有のものではありません。

安保法制を巡って、これを戦争法と呼ぶことに対して安倍首相はじめこれを推進しようとする人たちにはずいぶんと抵抗感があるようです。国連憲章で戦争は違法とされているのだから、そんな違法な戦争をするための法律であるかのレッテル貼りは困るということのようです。

そもそも国連憲章で違法化されたのは一切の武力行使ですが、宣戦布告をして行う正規の戦争だけでなく、満州事変のような事実上の戦争も含めてすべての武力行使は原則違法とした点に意味があります。一切の武力行使を実質的な戦争としてこれを原則違法としたのです。ただし、国連憲章51条の自衛権行使と第7章の国連安保理による集団安全保障体制の下で行われる武力行使だけは例外的に容認しました。ですから、これらの武力行使は合法的な戦争であり、戦争という言葉は何も違法なものばかりを指す言葉ではありません。9.11以降の米国の「テロとの戦い」(War on Terror)も戦争であり、有志連合によるテロリスト相手の戦争とされたのです。

どこの国もこれは合法的で正しい戦争だ、正義の戦いだと主張します。違法な戦争だと認めて戦争する国などありません。海外での武力の行使は戦争なのです。
今回の安保法制も海外での武力行使を真正面から認めるものですから、その本質は戦争法に他なりません。いかに安倍首相及びその取り巻きが戦争法と呼ばれたくなくとも、その実質は戦争法に他ならないのですから、このレッテルを外すことはできません。

政府がいくらごまかそうとしても、国民はこうした戦争法としての安保法制の本質を見抜いてしまっているので、反対の声を上げているのです。党派性もなく、学生もお母さんたちも中年のおじさんたちも誰もかもが戦争のにおいのするこの法律はいやだと思っているのです。8月30日には国会前だけでも13万人、全国各地で数千人規模の反対集会とデモが行われました。

いまだに戦争反対の主張を平和ボケと批判する人を見かけます。日本が海外で武力行使しなければ日本の平和を維持できないと思い込んでいるようです。日本を守るためには個別的自衛権で十分なのですから、自衛隊の能力や安保条約による米国の助けを信頼できないということなのでしょう。しかし、そのことと自衛隊が地球の裏側まで行って武力行使できるようになることや、戦闘地域で多国籍軍に弾薬補給できることがどうしてつながるのか、まったく論証されていません。

よく言われるように論理の世界ではとっくに決着がついてしまっています。だからこそ人々はそれぞれの感情や感覚、感性から戦争反対を訴え主張し続けているのです。こうした主体的行動を通じて少しずつ時間をかけながら私たちは自立した市民になっていきます。800年を追いつくのは容易ではありませんが、今このときに傍観者になるわけにはいかないのです。

2015年7月31日 (金)

第240回 畏れ

試験に向けて勉強をしていると自分の力ではどうしようもないことに遭遇することがあります。どれだけやっても勉強がうまくいかない。仕事が忙しくなって勉強時間がとれなくなってしまった。試験直前に大切な人を亡くしてしまう。事情は人それぞれですが、もうどうしようもないなと諦めてしまいたくなることが必ずあるものです。人の人生に不条理や理不尽は容赦なく襲ってきます。

70年前の夏、この国は悲惨な戦争にやっと終止符を打つことができました。ただ、それまでは理不尽の連続でした。日本に侵略されたアジアの民衆だけでなく、徴兵された市民、学徒動員され散っていった大学生、学問の自由を侵害された研究者、弾圧された宗教者、治安維持法で投獄された自由主義者、そして容赦なく降り注ぐ焼夷弾から逃げ惑う人々などが、権力者たちが始めたどうしようもなく理不尽な戦争に翻弄され痛め続けられました。

今でも社会は理不尽なものです。憲法があるのに、政府与党は戦争法の衆議院採決を強行しました。平和の党とは名ばかりの公明党もこれに反対することはできそうもありません。沖縄では圧倒的多数の民意を無視した基地負担の押しつけと辺野古の軍事要塞建設が、本土の国民が支持してできた中央政府によって強行されています。

天災など人智の及ばない出来事による不条理は受け入れるしかありません。しかし、人間が引き起こす理不尽は、単に黙ってそれを受け入れるだけが私たちの取るべき最善の方法とは思えません。「こんな理不尽を受け入れない」と訴え続けることは必要な対処方法です。理不尽を引き起こす人間においては、多くの場合、自らが理不尽なことをやっているという意識は極めて希薄です。人間である自分の無謬性を否定できず、自分は正しいことをしていると信じて突き進むのです。

人間は誰もが間違いを犯すことがあるというある種の弱さを抱えています。その弱さを隠して大きく強く見せようとするとどこかでほころびが出てしまいます。人間の弱さや愚かさと向き合い、それを受け入れることはとても難しいことです。ですが、自分の力ではどうしようもない不条理なことがあるという、ある意味での自分の無力さ、自分の弱さを知っているから、人は謙虚になれるし、他者への尊敬の念や自然への畏れの気持ちを持つことができるのだと思います。

最近、権力の座についた人々の発言であまりにも知性や品性に欠けるものが多くて残念な気持ちになります。そうした発言に接するたびに、本当の知性や品性そして人間としての強さとは何なのだろうかと考えさせられます。

どんなに優秀な人でも人間であり、間違いを犯すことがある。人は人間である以上、不完全で弱い生き物であることを自覚している人は、強い力を持ったり権力の座についたりしても謙虚でいられます。本当にすごい人は、自分を客観視することができるため、自分の無力さを知っているし、自分よりも優れた、かなわぬ存在がいる可能性を想像できる。何よりも自分の判断が間違っている危険性を想像できるから、その判断に謙虚でいることができます。そして自分の判断にある種の畏れを感じて、常にこれでよいのだろうかと自問自答しながら、その判断に磨きをかけ、ときに間違っていたと気づいたときにはそれを改める勇気を持っているのです。

私の勝手な願いですが、塾生の皆さんには、将来どんなに強い力を持ったとしても、低きに自分の身を置いてものを考えることができるようになってほしい。奢りではなく畏れの気持ちを持つ法律家や行政官でいてほしい。そしてそれ以前に、人として畏れの気持ちを持ち続けることができる謙虚さを持っていてほしいと願っています。

明治初めの台湾出兵から終戦まで、日本は71年間、戦争をし続けた国でした。その日本が戦後70年間、戦争をしない国であり続けました。将来、戦後100年を迎えられるかは、今の私たちにかかっています。今、法律家や行政官になることの意味をしっかりと自覚しながら勉強を続けてほしいと思っています。

2015年7月 2日 (木)

第239回 憲法の番人

政治家による「マスコミを懲らしめる」発言にはあきれるばかりですが、政府与党は憲法学者、弁護士会のみならずあらゆる分野の学者の反対、そして国民の懸念などどこ吹く風とばかりに国会の会期を延長して強引に戦争法関連法を成立させようとしています。
「自衛の措置が何であるかを考え抜くのは憲法学者ではなく政治家だ。」という発言があったとも聞きます。そのとおりでしょう。ですが、政治家はあくまでも憲法の枠内でそれを考え抜いて実践していかなければなりません。憲法を無視して好きなように考えることは素人でもできます。それではプロの政治家とはいえません。

「権力は常に監視されなければならない。どんな権力者でも憲法に従う。」人の支配から法の支配へ近代立憲主義の確立とともに移行したはずなのに、近代国家の中で日本だけが再び人の支配へ逆行しようとしています。「安倍の支配」に誰も異を唱えることができないとは情けない限りです。
今私たちに問われているのは、どのような国に過ごしたいのか、日本をどのような国に創り上げたいのかという私たち自身の意思です。私たちが主体性をもって自らの生き方を選択することができるかが問われているといってもよいでしょう。つまり私たち自身が自立した市民になる気概があるのかが問われているのです。

私たちは日本を一体どんな国にしたいのでしょうか。
これまでの日本は法で権力がコントロールされる国を目指してきました。それをやめて、数の力にものを言わせることが民主主義だといわんばかりに、何でも力で押し通す国にしたいのでしょうか。力は権力だけではありません。国のトップがそのような考えを持つと、腕力、財力、社会的地位などの強い力を持つ者が弱い者を支配する国になってしまいます。ずいぶんと野蛮で品性のない国になりそうです。
マスコミや国民が自由にものを言って権力を批判することができる国が民主国家です。それが、政治家による圧力でメディアが萎縮してしまい、言いたいことも言えず、権力を賛美するしかない国になってしまいます。
これまで外に敵を作らず攻撃されない国を作ることがこの国にあった一番の安全保障だと考えてきた国が、わざわざ仲間の敵は自分の敵とばかりに外国に敵を作りに行く国になってしまいます。外交力を鍛えてあらゆる国との信頼関係を構築しようと努力する国から、同盟国のことだけを考えて、相手を抑止力で抑え込むために軍事力が突出した国になってしまいます。
専門家に敬意を払い、力を持つ者も謙虚さを美徳とする国から、専門家など自分に都合よく利用すればいいとばかりにその叡智を貶める国になってしまいます。これらはどう考えてみても、国家として衰退する方向と言わざるを得ないように思われます。私たちは本当にそんな国を望んでいるのでしょうか。

自民党の高村正彦副総裁は「憲法の番人は学者ではなく、最高裁だ」と発言したそうです。一人一票実現訴訟の判決では最高裁判決をまるで無視しておきながら、砂川事件判決を集団的自衛権の根拠として持ち出すとは、苦し紛れとしか思えません。ですが、その最高裁判事も国民審査で罷免されます。つまり憲法の番人は国民なのです。
具体的な事件が起こって判決が出るまでは、国民が民主制の過程を通じて立憲的な監視をします。判決が出てからは国民審査を通じてやはり国民が憲法の番人として立憲的な監視をし続けるのです。これが憲法制定権者である国民の責務です。憲法12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」と規定されています。いまほど国民の憲法制定権者としての、つまり主権者としての責任が問われているときはないと思います。自分たちがどのような国で生きていきたいのか、日本をどんな国にしたいのか、その意思を明確にして、はっきりと意思表示をする必要があると思います。
請願や署名活動は外国人でもできます。こうした意思表示は年齢、国籍、民族を問いません。この国と関わりを持つすべての市民が主体的に生きるためにできることの一つです。日弁連でも引き続き署名を集めています。法律家、公務員をめざす皆さんやご家族にもぜひ、自立した市民として、そして憲法の番人としてご協力いただければ嬉しく思います。

≫集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回と関連法律廃案を求める署名のお願い(伊藤塾ウェブサイト)

2015年6月 1日 (月)

第238回 想像力

法律家や公務員をめざす者が、勉強以外にどうしても鍛えなければならないことがあります。想像力、共感力です。憲法は1人1人が個人として尊重される社会をめざします。その中で専門知識という強い力をもって仕事をする法律家、公務員は常に具体的な人間として個人を見ることができるように、自身の想像力を鍛えて、相手の立場に立ってものを考えることができるように共感力を磨いていかなければなりません。

法律は理性の世界ですが、実は感性が重要です。講義でも具体例をイメージできるようにといつも話しています。それは、私たちの仕事が具体的な1人1人を相手にするものだからです。抽象的な市民や国民という言葉の向こうにどれだけの具体的な人間を想像できるかで、公務員の仕事ぶりもまったく変わってきます。勉強の過程で具体的に考え、当事者の立場にたって問題点を見つけることができるようになることは試験対策として不可欠ですが、それ以上に実務家になったときに必要な資質なのです。

皆さんは日本の国を描いてくださいと言われたら、どんな絵を描きますか。日本列島を描く人が多いのではないでしょうか。ですが、それは国土であって国ではありません。国は領土と国民と権力によって成り立っていますが、もっとも重要な要素は権力ですから、権力行使の形すなわち権力分立などを描くべきでしょう。ですが、多くの人にとって国と国土が一致してしまっています。西欧では国は併合・分割の歴史の繰り返しですから、そもそも固有の領土という発想がないし、国は自分たちの意思で創るものと考えています。日本では海に囲まれているためか、国境も国も所与のものと無意識のうちに想定してしまいます。

国は本来、このように抽象的な存在です。ですが、権力を行使するときには具体的な国民に強制してきます。権力という有無を言わさぬ力を行使される国民を1人1人の人間として具体的に想像できるかが重要です。安保法制(戦争法)の議論では武力行使、武器の使用という言葉がよく出てきます。武力行使とはどういうことでしょうか。具体的にイメージを持たなければ集団的自衛権の意味が正しく理解できません。他国で人を殺傷し、建物を破壊することです。

また、自衛隊法改正案では平時でも外国の武器を防護するために自衛官は武器の使用ができます。これは例えば自衛艦と米国軍艦が共同訓練をしている最中に刺激を受けた国が米艦を攻撃してきたときには、自衛官はミサイルを発射して米艦防護のために戦えるということです。米艦という武器を防護するためにミサイルという武器を使えるということです。相手から見ればどう見ても集団的自衛権です。武器の使用と武力の行使の区別などつきません。しかも現場の判断でこれができるというのです。

さらに国際社会の平和と安全という名目で、関係国の人々が殺傷され、生活が破壊されます。日本人の手によって血が流れ人が死ぬのです。人を殺すことは本来、人間にはできません。自分が人を殺したという事実は一生心の傷となり苦しみ続けることになります。米国でも戦死者以上の数の帰還兵が自殺をしています。自ら命を絶たざるを得ないほどの苦しみを味わう状況に国家が若者を追いやるのです。それが武力行使であり、武器の使用です。

当然、自衛官にも死傷者がでるようになるでしょう。安倍首相が軍事同盟は「血の同盟」と言っています。血を流すのは自衛隊ではありません。自衛官という人間です。家族があり愛する人がいる生身の人間です。こうした具体的な人間の息づかい、破壊される生活、苦悩を想像する力が今、求められているのです。

法律を学ぶことはこうした想像力、感性を磨くことに他なりません。具体的にイメージする想像力の訓練をしている私たちだからこそ、今回の安保法制(戦争法)に反対の声を上げなければならないのです。各地の弁護士会や日弁連がさかんに声を上げているのは、そうした想像力を鍛え、その力を使って毎日仕事をしているからなのです。見えないものを見る力、それが想像力です。人は誰もが自分の見たいものしか見えないものです。誰も戦争なんかしたくありませんし、テロや戦争に巻き込まれるなんて考えたくもありません。ですが、国際社会の冷徹な現実を踏まえて可能性と蓋然性を区別しながら、あえて想像力を駆使して見えないものを見るのが法律を学んだ者の責任だと考えています。

2015年5月 3日 (日)

第237回 憲法記念日

68回目の憲法記念日を迎えます。
国民の力によってこれまで憲法価値を守り続けてきたのですが、その憲法が未だかつて無かったような危機的状況におかれています。自由が抑圧され、戦争する国へと着実に進んでいるようです。全国の弁護士及び弁護士会も会長声明、意見書、決議などで繰り返し、立憲主義と恒久平和主義に反する動きを批判してきました。

昨年7月1日の閣議決定をふまえて政府は国民不在のまま、米国と日米ガイドラインという戦争協力の約束をしてしまいました。主権者国民に説明する前に米国と約束してしまう、これで安倍総理が誰のために政治をしているかがよくわかります。そして、自民、公明の与党協議という密室の中で、この国が戦争する国に変わる法律案が用意されました。

私たちは、政府の言葉にだまされないようにしなければなりません。積極的平和主義、これは積極的軍事介入主義。国際平和支援法、これは戦争支援法に他なりません。武力攻撃事態、存立危機事態、重要影響事態、国際平和共同対処事態など事態を連発します。事態とは戦争のことです。戦前も、満州“事変”と言い換えて国民の眼をごまかしました。今、同じことが起こっています。

グローバル、切れ目のない、という言葉もなんとなく耳当たりがいいので困ったものです。世界中で他国の戦争の片棒を担ぎ、切れ目なく戦争に突っ込んでいくということです。これまでは、自衛隊が武力行使できる範囲を日本周辺に限定し、平時と有事、個別的自衛権と集団的自衛権と切れ目をつけることでその活動範囲を限定してきました。それをこうした限定なしに、世界中どこでも、自衛の措置という名目で武力行使ができるようになり、戦闘地域でも弾薬補給もできるようにしてしまうのです。憲法9条の立憲的統制をまったく無にしようとしています。

これで一気に日本が戦争に巻き込まれる危険が高まります。これに対して安倍総理は、「戦争に巻き込まれる」というレッテル貼り的な議論だと批判します。ですが、レッテルは商品の中身どおり正しく貼らなければなりません。中身と違うレッテルを貼って消費者を欺くことは偽装であり許されません。「国民の安全を保障する」という偽装のレッテルにだまされることなく、「戦争関連法」という真相どおりの正しいレッテルをしっかりと貼って1人でも多くの国民に、真実を知ってもらわなければならないのです。誰も戦争などしたくありません。残念ながら人は自分の見たいものしか見えません。「戦争なんて大げさなことを言って」と、目をつぶることができればどんなに楽なことでしょう。

安倍総理は、一方で「抑止力を高めて国民の安全を保障します」といい、他方で「断じて戦争に巻き込まれることはありません。」といいます。ですが抑止力とは、いざとなれば戦争してたたきのめすぞと相手を脅すことです。もし断じて戦争しないと言ってしまったら、相手は怖くもなんともありませんから、抑止力は働きません。「軍事的抑止力を高めるので戦争に巻き込まれる危険は増えますが、日米同盟はそれほど重要なので覚悟してください」というか、または、「戦争に巻き込まれないようにするために、抑止力には頼らない安全保障政策を実現します」というか、どちらかでしょう。抑止力が崩れたときのリスクを国民に説明しないのは不誠実です。私たちはこうした言葉に惑わされないようにしっかりと憲法の力をつけなければなりません。

そもそも憲法を何のために作ったのでしょうか。前文に書いてあるとおり2つの目的のためです。第1に我が国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保するため。第2に政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする、つまり、政府に二度と戦争させないためです。この2つの目的を主権者たる国民一人ひとりが主体的に行動することで達成することにしました。私たち一人ひとりが政府を監視し、おかしいと気づいた者から声を上げることで、この2つの目的を達成しようと決意したのです。

これまで多くの市民が声を上げて闘うことで、人々の自由と平和そして暮らしが守られてきました。憲法9条はこの国の自由の下支えとして機能してきました。
自由と平和は一体なのです。過去の市民の努力で今があるのならば、今を生きる私たちには責任があります。過去の先輩達への責任と、これから生まれてくる新しい命に対する責任です。今を変えれば明日は変わります。今日私達が何をするのかで明日は変わるのです。私も身体を張って憲法の価値を守ります。それが憲法を知ってしまった者、そして法律家の使命だと信じているからです。

2015年4月 2日 (木)

第236回 桜

この時期の雑感でよく桜を話題にします。渋谷の伊藤塾の前の桜並木は本当に見事です。ベトナム人学生の支援のためにやっているベトナム料理屋(ハノイのホイさん)でも桜をモチーフにしたフォーを提供して好評を頂いています。ただ、今年は例年に比べて桜の密集度が低く、通りを覆うような桜のトンネルの印象がありません。枝をかなり剪定してしまったからです。空が見える隙間がないほどに桜が天を覆う様子は圧巻だったのですが、今年はけっこうスカスカに空が見えてしまいます。

例年の桜を知っている人の中には、ちょっと残念な気持ちの人もいるかもしれません。しかし、枝が前のままだと光合成がうまくいかず次第に枯れていってしまいます。桜も寿命がありますから、いつまでも咲き続けるわけにはいかないのですが、それでも枝を剪定して適切な空間を空けてあげることで、生き延びることができるのです。つまり生きるために切るのです。

何かを成し遂げようとするときに、欲張ってあれもこれもやろうとすると、結局何も身につかずに終わってしまうことがあります。勉強でも同様です。試験直前期になってまだやり残しているところがたくさんあるからといって、すべてをやり尽くそうと思ってもできるものではありません。結局どれも中途半端になってしまう危険があります。本当に重要なものだけに絞ってそれをしっかりとこなす。
あとはあえてやらない。勉強では余計なものに手を出さない勇気が特に必要です。

手広く事業を展開していた企業でも業績が悪化したときに、重要なものに絞り込んでそこに資源を集中させるために、不採算部門を切り捨てることがあります。
企業を存続させるためにあえてある部門を切り捨てるわけです。選択と集中はどの分野の仕事でも重要なことです。弁護士として企業再生の仕事をすることになる皆さんも多いかと思いますが、業績が悪化した企業の再生は痛みを伴い、ある意味では憎まれ役でもありますから決して楽な仕事ではありません。ただ、本当の企業再生は、赤字体質から脱却した後に、いかに収益を上げ続ける企業に変貌させるかの方がはるかに難しく重要なのです。

生き残るために切り捨てた後に、さらなる発展のために何をするかがポイントだということです。これは勉強でもいえることです。重要な基本に集中することによって、そこで本質的なことを深く理解し正確に記憶することが可能となり、自分の中に盤石な基礎ができあがります。その後、その基礎からどう自分の頭を使って考えるか、未知の問題に対していかに自分の力で答えを創り出していくかが重要なのです。余計なものに手を出さずにしっかりとした基礎固めに徹したあとは、答えを思い出したり、見つけようとしたりするのではなく、あくまでも自分の頭で基礎から考えて、答えを創り出す気概を持っておくことが重要だということです。

桜も枝を剪定してもらい、空が見えるようになったあとが重要です。自分の力で大きく成長する生命力がある木が生き残ります。そして来年、今年以上にすばらしい花を咲かせてくれることでしょう。枝があちこちで切り取られた桜を見て最初は少し寂しく思えました。ですが、大きく育つためには、一歩先を考えて若干の痛みを我慢する。そして、それを乗り越えたところで大いに頑張って成果を挙げる。今年の桜がそんな象徴のように思えてきました。

高く飛ぶためには一度、縮んで力を蓄えなければなりません。これはどの世界にも必要なことです。桜の花言葉に、「すばらしい教育」と「気高い精神」があるのですが、再度、この意味を考えることができました。何事にも新たな発見があるものです。

2015年3月 5日 (木)

第235回 難民

皆さんは難民という言葉から何を想像しますか。1951年に採択された難民条約に日本も1981年に加入しています。この条約の1条では難民を、「人種、宗教、国籍、政治的意見または特定の社会的集団に属することを理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができない者またはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まない者」と定義しています。定義の中核である「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」の認定はとても難しいものですが、適正な認定基準の確立が必要です。

第2次世界大戦後、国際的な人権保障制度を整備していく中で、この難民条約と共に、難民保護のために国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)もスイスのジュネーブを拠点に活動を開始しました。UNHCRは、故郷を追われた人々に対して食糧や水、住居、医療支援などの物的支援を行う一方で、難民に関する国際的な諸規定の批准を促進し、国際法の遵守を監督する活動も行っています。日本はUNHCRに2014年は世界第4位(約1.8億ドル)の資金援助を行っています。世界で避難を余儀なくされている人は国境を越えていない国内避難民を含めると5000万人を越えているのですから、相当な資金が必要なことは言うまでもありません。日本の人道援助はかなりの規模のものといえるでしょう。

ところが日本が難民をどれだけ受け入れているかというと、2013年においてなんと申請3260件のうち6人だけです。この数字は何を意味しているのでしょうか。難民の多くは、シリア、南スーダン、ソマリア、アフガニスタン、そしてパレスチナなどで生まれていますが、日本において難民申請の多い国はネパール、トルコ、スリランカ、ミャンマー、ベトナムなどです。しかも最近は難民の要件に当たらないことがわかっていながら日本で働きたいから難民申請をする濫用事例が急激に増えているという報道もあります。極端に低い難民認定率にも理由があるという見方もできます。

ですが、それにしても難民保護のために世界有数の資金援助をしている国が実際にはほとんど難民を受け入れていないという事実はやはり異常です。金を出すだけで人を出さないのかと言われて戦地に日本人を差しだそうとする前に、金を出すだけで人を入れないのかと言われないようにまずこの問題を改善する必要があるようです。

先日、東京大学で行われた難民移民講座終了記念セミナーにコメンテーターとして出席してきました。この講座は5年前から法学館/伊藤塾が資金援助をしています。法務省入国管理局、内閣官房、外務省国際協力局の担当者からの発表と、法務省人権擁護局長、本講座特任准教授のコメントもありました。そこで驚いたことの一つに、日本には難民移民問題を包括的に推進する司令塔となる部署がないということでした。

残念ながら日本国内にはヘイトスピーチのような排外主義的な考え方も生まれてしまっています。法務省人権擁護局が作った「ヘイトスピーチ、許さない。」というポスターなどに対して、国が特定の価値観を押しつけるなという批判が寄せられるそうです。法務官僚も憲法尊重擁護義務がありますから、憲法が要請する人権擁護を実践しているだけであるにもかかわらず、このようなピント外れの批判が起こるのです。そんな日本で難民の受け入れを進めることは国民が望まない限り進展しません。

憲法は、13条で個人の尊重を掲げ、多様性を認め合って様々な人種、国籍、宗教の人々が共生していける社会を目指しています。そしてこれは「全世界の国民が恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利」を有することを認めた、前文の「人間の安全保障」につながります。世界で活躍する日本人の安全や日本企業の活動のためにも軍事力でない国際貢献が必要なのです。こうした国際貢献を進めることが日本への信頼を増し、何よりも現実的な安全保障となります。

難民移民の問題は国内的には少子高齢化社会における成長戦略に関わります。対外的には安全保障の要でもあります。憲法は一人ひとりが個性を持って自分の幸せを実現できる社会、多様性を認め合って共生できる社会をめざします。どのような国をめざすべきなのか、私たちは憲法を学んだ者として自ら考え発信していかなければなりません。

2015年2月 2日 (月)

第234回 市民としての成熟

米国では奴隷解放のために闘ったリンカーンが暗殺された後に、人種・皮膚の色などを理由に選挙権を制約してはならないという人種差別禁止条項が合衆国憲法に追加されました(1870年・修正15条)。こうして憲法上の権利として規定されたにもかかわらず、南部諸州の抵抗から、人種差別禁止の実現は、キング牧師による公民権運動を待たなければなりませんでした。憲法で規定されてから100年近くたった1964年の公民権法によってやっと具体化することになるのです。黒人大統領が生まれた現在でも人種差別は暴動などの要因となっています。人権や平等の問題を理想に近づけるには多大な労力と時間が必要なようです。

人種差別とは別に、一票の価値においても米国はかつて驚くほどの住所差別がありました。白人が多いバーモント州議会ではなんと972倍の格差、ニューハンプシャー州議会にいたっては1081倍の最大格差があったそうです。それが、1964年に出された「米国連邦憲法は人口比例選挙を保障している」とする、たったひとつの連邦最高裁判決(レイノルズ判決)によって解決しました。議員の中には、「人口比例選挙などが実現してしまうと、カリフォルニア州はロサンゼルスとサンフランシスコに支配されてしまう」といってこの判決に反対する議員もいたそうです。ですが最高裁長官のウォーレンは「議会は人々を代表するのであって、木々や土地の面積を代表するのではない」と明快に判示しています。

人口比例選挙の原則は、人種、宗教、思想、支持政党、年齢、性別、職業、収入、健康状態などありとあらゆる点において皆、それぞれ違うけれども、人間としての存在価値は誰もが絶対的に等しいから、選挙権という政治的影響力も皆、絶対的に平等でなければならないとするものです。つまり、憲法13条の「人は皆同じ、人は皆違う」を選挙権の場面に具体化したものといえます。

お互いの違いを受け止めながら、その本質的な存在価値を認め合えるような成熟が今、世界中の市民に求められています。米国は住所による違いを乗り越えました。しかし、未だ人種や宗教、貧富の壁は残っているようです。世界でも欧州対アラブ諸国、キリスト教対イスラム教など様々な対立が深刻な問題を生み出しています。どんな場面でもそうですが、相手を一方的に悪と決めつけて攻撃するだけでは問題は解決しません。相手の立場に立って考える共感力は個人や企業の紛争解決の場面で有効なだけではありません。差異を冷静に受け止め、寛容を重んじながらお互いの共感を生み出していける人がグローバル社会の成熟した市民です。

また、紛争当事者から一歩離れた第三者の視点で解決策を模索することの重要性は法律家なら誰でも知っていることです。国際社会でも同様です。日本は憲法9条を持つ平和国家としてそうした独自の国際貢献の道を追求してきたはずなのですが、“普通の国”を目指す現政権は、こうした日本の立ち位置を大きく変えてしまいました。

“普通の国”を目指すことが市民にどれだけのリスクをもたらすかは、多くの“普通の国”がテロの標的となっている現状を見ればわかるはずです。このように国の形が大きく変わるような決断を主権者国民が自ら行うのなら、残念ですが仕方ありません。ですが国民からなんら正統性を与えられていない国会議員や政府が行うことは許しがたいことです。

法の支配が機能している国では、裁判所が憲法保障の役割を果たすことで、国家による不正義を正していくことができます。さて、日本はどうでしょうか。監視する市民の眼もまた試されています。

2015年1月 1日 (木)

第233回 謹賀新年

昨年12月13日に恒例の沖縄スタディツアーに出かけました。機内のクラシックチャンネルを聴き始めたらモーツァルトのレクイエム(死者のためのミサ曲)が流れてきました。この鎮魂曲を聴きながら、明日の総選挙で日本の民主主義と憲法が葬り去られるのだろうかと暗い気持ちになってしまいました。

元防衛官僚の柳澤協二氏が名護市長選挙前に名護市で辺野古基地反対派候補応援のシンポジウムを開催しました。小泉、安倍、福田、麻生の各政権の側で安全保障政策を進めてきた方です。「ここで行動しなければ、一生悔いを残すことになる」という思いに突き動かされたそうです。

石破幹事長が基地受け入れと引き替えに500億円の補助金を約束していたような状況での基地反対のシンポジウムです。「こうした『大物』に無名の私が対抗しても『無駄な抵抗』にすぎないかもしれない。だが、そうであるからこそ、自分にできることはしておかなければならない。」と『虚像の抑止力』(共著・旬報社)の中で述べています。官僚として自分がやってきた仕事の意味を問い直し、自分の人生と真摯に向き合い、自分の人格を問い直すという重い言葉も残しています。

柳澤さんとは国民安保法制懇で7.1閣議決定を批判する立場から共に議論をさせていただいていますが、氏の言動からはいつも官僚として生きることの覚悟を感じます。自分の信念に忠実に、真摯に仕事と向き合い、立場が変わっても、誰が相手でも言うべき時にはきちんと自分の責任で発言する。裁判官、検察官という司法官僚も行政官僚もその覚悟は同じです。

私たちは憲法の学習で、多数の国民のために少数者の人権が侵害されることはあってはならないことを学びます。沖縄の海兵隊が抑止力として機能しないことは多くの日米の軍事専門家の指摘するところです。ところが、日本法でも米国法でも許されないような危険な基地が日本国内に存在し続けています。普天間基地の危険除去のための移設・返還と辺野古の軍事要塞建設は全く別問題であるにもかかわらず、政府は移設なければ返還なしと恫喝します。理不尽の極みです。

1959年の砂川判決において最高裁は、米軍がいつでもどこでも傍若無人に振る舞うことを許してしまう安保条約を合憲と判断しました。田中耕太郎裁判長が駐日大使と訴訟進行に関して密談をしていたことが明らかになっている茶番のような裁判です。これにより戦後70年たった今でも日本は米軍に占領され続けているのです。司法の責任は極めて重大です。ここまで民意が無視され、憲法がないがしろにされ、日本政府の米国に対する隷従による人権侵害が放置されている根本原因は司法にあると再認識させられ絶望的になります。

機内で聴いたレクイエムの次に流れたのがベートーベンの第9合唱付きの第4楽章でした。歓喜の歌として知られていますが、彼の人生は苦しいものでした。その中で彼が望んだことは、自分と同じく不幸な一人の人間が、あらゆる障害にもかかわらず、人間という名に値する一個の人間となるために全力を尽くしたことを知って慰めを感じてほしいということだったそうです。こんな手紙の言葉も残っています。「無限の精神を持っている私たち有限の人間はひたすら悩んだり喜んだりするために生まれていますが、ほとんどこういえるでしょう。…最も優れた人々は苦悩を突き抜けて歓喜を獲得する(Durch Leiden Freude)」

この一年苦悩の年となりそうです。ですが、そこで闘ってこそ人間として生まれた歓喜があるのだと信じて、今年もまた一年、真剣勝負で頑張ります。悩みを突き抜けて歓喜に到れ!

2014年12月 1日 (月)

第232回 目に見えないもの

昨年の参議院選挙に関する判決がありました。予想されたような違憲状態判決でしたが、今回は5名の補足意見が「投票価値の不均衡の是正は、議会制民主主義の根幹に関わり、国権の最高機関としての国会の活動の正統性を支える基本的な条件に関わるきわめて重要な問題であるから……国民全体のために優先して取り組むべき喫緊の課題」と指摘しました。さらに4人の裁判官が違憲違法とし、中でも内閣法制局長官であった山本庸幸判事は違憲無効判決を書きました。これまでも反対意見で無効を主張した最高裁判事は何人もいますが、投票価値の平等が唯一かつ絶対の基準であり、1.0となるのが原則だと明言しつつ無効というのは初めてのことであり画期的なことです。

人口比例原則を認める判事はまだ少数派ですが、確実に山は動き続けています。「衆参の違いはない」、「都道府県は憲法上の要請ではない」というかつては少数派だった考えが今は多数派になっているのと同じように、人口比例原則が今後多数派になると信じています。次の衆議院選挙は、衆参ともに2回の違憲状態判決が続いたにも関わらず抜本的な是正をせずに選挙をするのですから、違憲違法判決は避けられないでしょう。国会による司法軽視の態度にさすがに最高裁も我慢の限界かと思います。

この訴訟を通じて、私はこの国を人口比例原則が機能する民主主義国家にしたいと考えています。主権者は国会議員ではなく国民なのですから、国民の多数が国会議員の多数を選べるような制度でなければとても民主主義国家とはいえません。この問題を通じて、国会議員は選挙区や都道府県の代表ではなく、全国民の代表なのだという憲法上当然のこと(43条1項)が国民の間に共有されるようになると信じています。

民主主義も立憲主義も目に見えない価値です。法律家は具体的に目に見える当事者の不利益や困難を救済するために仕事をします。ですが、ときに目に見えないものを大切にすることがあります。当事者も自分が本当は何を望んでいるのか気づいていないときがあるからです。

企業の新商品開発においても、顧客にすら見えていない欲求に応えることができればその商品は大ヒット間違いなしです。「人は見せてもらうまで何がほしいかわからないものだ」というスティーブ・ジョブズの言葉は、iPodやスマホを見て初めてこれだと思った人には実感できるのではないでしょうか。どんな世界であっても、人の心の奥底が見える人が一流であり、達人なのです。気配りによって相手の真に望んでいるものを見つけることができる。目に見えないものを見ることができる。そんな本当のプロを目指したいものです。

私たちはこの国で真の民主主義も立憲主義もこれまで経験したことがありません。まだ見たことのない世界です。ですが、こうした目に見えない価値のために闘うことには意味があると思っています。当事者である個人や会社が本当に必要としていることを見つけてそれを実現するのと同じように、国家や市民社会が真に必要としていることを見つけてそれを実現するための努力を惜しまないことも法律家の仕事だと考えるからです。

こうして他者や社会という自分の外にある「目に見えないもの」を追い求めることも重要ですが、自分の中の「目に見えないもの」を意識して自分の内側にある大切なものに向かっていくこともまた重要なことです。合格という目に見える結果を追い求める過程の中でも、自分の幸せという目に見えない価値も意識しつつ努力を続けることが必要なのだと思います。それが結果的に社会の幸せの総量を増やすという目に見えない価値の実現にもつながることだからです。

2014年11月 3日 (月)

第231回 不条理

世の中は多くの不条理に満ちています。
閣議決定による憲法解釈の変更がなされ、国会承認もなしに日米防衛協力ガイドラインが策定されようとしています。
これにより地球規模の日米軍事同盟関係が強固に構築されていく。憲法による弱者の保護など絵空事のような社会保障政策。個人の尊重とはほど遠いヘイトクライム、ネットによる名誉毀損やいやがらせ。しっかりした避難計画すらない中での原発再稼働。火山の噴火による突然の命の断絶。愛する人との一方的な別れ。
そもそも私たち人間は、生まれ落ちた瞬間から死に向かって生き続けているという不条理が人生だと言ってしまえばそれまでですが、それにしても不条理が多い。

天災や個人に降りかかる不条理は受け入れるしかないとしても、人災ともいえる不条理に立ち向かうという気概は必要だと考えています。
人が生み出した不条理を許さない。
これを正義感という人もいるでしょう。義憤といえるかもしれません。

司法の世界にいると、不条理なことに多く遭遇するものですから、これをうまく受け流す術を身につけるようになります。
えん罪で苦しめられている人を目の当たりにする。薬害訴訟、公害訴訟、戦後賠償訴訟、基地問題訴訟など国を相手にする訴訟で負け続ける。行政訴訟、特に税務訴訟もかつてはまず勝てないと言われていました。こうした事件では制度の不備や担当裁判官の無理解などにどうしようもない不条理を感じることがあります。
これをうまく受け流すことができるようにならないと仕事そのものが苦しくて続けられなくなる恐れがあります。そこで防衛本能のように、不条理に対する感性を意識的に鈍磨させることがあるのです。

幸か不幸か、法律家は依頼人や当事者から見れば第三者であり、事件も本来は他人ごとです。当事者になってしまってはいけない。あくまでも冷静で客観的に仕事をこなすことが求められていることも確かです。
ですが、不条理に対する割り切りに慣れてしまって、不条理に対する憤りを忘れてしまってはいけないと思うのです。

1人1票裁判でも納得できない判決が続きます。本当に許せない不条理を感じるのですが、それはこの訴訟が依頼者の利益を守るための通常の訴訟とは違って、憲法自体がないがしろにされているという憤りが根底にあるからです。
憲法が要求する正当な選挙で選ばれていない「国会議員」(無資格者)が毎日毎日、この一瞬においても権力を行使しているという、憲法の下ではあってはならない不条理がまかり通ってしまっていることへの憤りです。

この不条理に対して、日本の裁判所には無理なことだと不条理に鈍感になってやり過ごす方が代理人としては賢いかもしれません。
しかし、この5年間諦めずに続けてきた結果、いわゆる1票の格差が一気に縮まり、「衆参の違いはない」、「都道府県は憲法上の要請ではない」と最高裁が判断するようになりました。
動かないと思っていた山が動いたのです。

今後、人口比例原則に則った最高裁判決を出させることは可能なのでしょうか。

民主主義が実現していく過程はそう簡単ではありません。長い時間がかかります。

しかし、人間が作った制度を人間が正そうとしているだけですから、私は可能だと考えています。火山の噴火予知のように自然が相手なのではありません。
人間相手である以上、不条理は正せるはずです。人間の手で作った不条理は人間の手で正すしかありません。

不条理に対する義憤、不条理を正したいという思いはときに強い力になります。

憲法に則って統治されることが当たり前の社会になり、すべての人々が尊厳を持って生きることができる社会はけっして不可能ではありません。

勉強していると時々、本当にこれでいいのだろうか、自分が合格することなどあるのだろうか、と不安になる時期が必ずあります。
試験に合格することなど、まだまだ自分の力で乗り越えられます。合格するはずの自分が不合格になったとしても、その不条理は自分で克服できるはずです。
何があろうと最後まで絶対に諦めないことが重要です。私も最後までやり通します。

2014年10月 3日 (金)

第230回 一流

各種試験の合格発表が続きました。伊藤塾では新たな門出を祝って試験種ごとに趣向を凝らした合格祝賀会を行っています。来賓のお話を伺うのですが、一流の方のスピーチは心を打つものばかりです。私はこうして塾生の皆さんが一流の方々に接する場を設けることも本物の法律家、行政官を育成する伊藤塾の役割だと考えています。

さて何をもって一流というのでしょうか。ビッグネームの方もいらっしゃいますが、最高裁判事、法務大臣、日弁連会長、検事総長、国連大使というような肩書きではないような気がします。早くから起業や独立開業で成功している方もいますから年齢でもなさそうです。メディアに注目されてはいないけれど、復興支援など本当に求められる仕事を黙々とこなしている弁護士もいますから、社会の注目度でもない。一流の定義は難しいです。

それでも、私は一流の人に憧れています。イタリアの友人ですが、模型職人として一流です。ねじ一本、バネ一つも妥協せずに自分で作ります。彼が完成させた機関車は細密な芸術品といっても過言ではありません。ストイックな探究心、妥協を許さない厳しさなど、学ぶことが多いのです。

分野を問わず一流の人を見ていて思いました。一流であるためには、まず謙虚であること、そして周りの評価など気にせずに自分の中の信念に忠実であること。
つまり人の目ではない自分自身の価値基準を持っているということです。これが揺るぎない自信と実績につながっているように思います。そして「やせ我慢」ができることが重要と思うのです。目標を達成するためにはときに何かを諦めることも必要です。時間は限られていますから優先順位をつけて、あるものを切り捨てなければなりません。何食わぬ顔をして大切なものの一部を捨てる勇気が必要なのです。当然痛みもあるでしょう。その心の傷も含めてすべての経験が一流を作り上げるのだと思います。

私たちはつい周りの目を気にしてしまいます。試験に落ちたらどうしようなどと思ってしまいます。しかし、合格も不合格も一流になるための試練であり、意味のあることです。本物になって現場で活躍してやるという信念さえあれば、あらゆる事実を受け入れられるはずです。たとえ不合格になっても、これは一流になるための試練だと受け入れ、やせ我慢をして先に進む勇気が自分をさらに磨いてくれるのです。何が起ころうと周りの目を気にする必要などないし、自分の内なる価値基準を大切にして精進すればいいだけです。

2012年8月に第3次アーミテージ・ナイ レポートが発表されました。元国務副長官と元国務次官補による日米同盟に関する報告書です。そこには、日本は今後世界の中で一流国であり続けたいのか、あるいは二流国に甘んじるのかと日本に迫り、武器輸出禁止原則の緩和、集団的自衛権行使容認の必要性に言及しています。これを気にする政治家、官僚がいるようです。

1991年湾岸戦争のときも日本が130億ドルも負担しておきながら、クウェートから感謝されなかったことがトラウマのようになっていて、日本も人的貢献、軍事的貢献が必要なのだと考える人がいます。ですが、感謝されたいから「いい国」になろうとするのはどうなのでしょうか。周りからの評価を気にしている時点でもう一流ではないような気がします。

私たちが自分の中の価値基準に従って堂々と生き抜くことが一流の条件だとするのなら、国のレベルであっても同様ではないでしょうか。自国の価値を大切にすればいいのであって、何も外国の目を気にしてまねをする必要などまったくない。
これまで日本は世界最高の武器を作ることができたけれどあえてしてこなかった。
「人殺しの道具で金儲けなどしない」というやせ我慢ができていたのだと思います。集団的自衛権を行使しろと言われても、憲法9条を持つ平和国家のプライドがあるからできないと堂々と断ることができる国の方が、誇りと自信に満ちた一流の国だと思うのです。

近隣諸国を含めたどんな国に対しても謙虚で、周りの目など気にせず自国の憲法価値に忠実、そして、ときにやせ我慢のできる国。私なりの一流の国の定義です。
皆さんにはそんな国の一流の法律家、行政官になってほしいと心から願っています。

2014年9月 3日 (水)

第229回 歴史に学ぶ

先日、気が置けない友人たちと松本に一泊温泉旅行に行ってきました。
少し時間に余裕があったので、松本市歴史の里という松本市立博物館の分館を皆で見学することができました。松本は夏の風物詩となっているサイトウキネンフェスティバルをはじめとして、様々なイベントが頻繁に実施される文化都市として有名ですが、一風変わった博物館がいくつもあります。
今回は司法博物館を見学してきました。明治憲法時代の裁判所が城跡から移築されたものです。日本で唯一、完全な形で残っているものだそうです。裁判官と検察官が並んで高い法壇の上から被告人と弁護人を見下ろすその構造は、まさに糾問主義そのものです。組織としての司法権の独立などなかった当時の様子もよくわかります。他にも少年刑務所独居房や製糸工場なども移築されていて、多くのことを学ぶことができました。

 
そこに、木下尚江(きのしたなおえ)の生家も移築されていました。
明治・大正・昭和にかけて民主主義と非暴力を掲げて活躍した弁護士、社会活動家です。普通選挙運動を松本で始め、日露戦争批判、足尾銅山など公害問題に関わるのみならず、朝鮮人、アイヌ民族、新平民、公娼問題などで人権救済に大きな力を発揮しました。明治憲法の下で、投獄されながらも「一人一人が大事にされる世の中にしなくてはいけない」「どんな理由があろうとも、戦争はいけないことです」と声を上げ続けたのです。憲法には天皇から恩恵として与えられた臣民の権利しか規定されず、天皇の戦争権限が明記されている明治憲法の下で、こうした声を上げることがどれほどの困難を伴い、勇気と信念を必要としたことか想像もできません。

それでも、人は自分の信念に基づいて発言し行動することができるのです。
日本国憲法の人権や民主主義はけっして戦後、アメリカから押しつけられたものではないことがよくわかります。多くの自由民権運動家や木下尚江、布施辰治を初めとする気骨ある法律家たちの意思が具現化したものともいえるのです。私たちはその延長線上で法律を学んでいます。先人たちの意思を引き継ぐ責任があるともいえます。もちろん、次の世代への責任もあります。歴史の中で生きる人間は誰もが前の世代と次の世代への責任を担っているのだとつくづく思います。

日本国憲法がない時代から個人の尊重、人権、平和を主張してきた先人がいたということは、憲法という形が重要なのではなく、憲法の背後にあるこうした考え方が重要なのだということを意味しています。憲法解釈がどのように変えられようと、明文改憲がなされようと、憲法が理想とする理念を実現するために努力し続けることが重要なのだと改めて認識させられました。

過去を受けて、今をいかに生きるかを考えるためには、負の遺産にしっかりと向き合うことも重要です。ドイツのニュルンベルク・フュルト地方裁判所では、ナチス戦犯を裁いたニュルンベルク裁判の600号法廷がそのまま残され、記念資料館が併設されていて多くのことが学べます。ミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所も同様に立派な記念館になっており、同じ過ちを二度と繰り返さないためにドイツ人はじめ多くの学生が訪れて学習しています。こうした国家の負の歴史を学ぶことはけっして国を卑しめるものではなく、過去を直視する勇気と誇りを持つきっかけになるものです。そしてそれは未来につながります。

試験も同様です。
合否はもちろん重要なことですが、もっと大切なことは学んだことを自分の人生の中で生かし、世の中の幸せの総量を増やすために努力することです。
法律を学んだことの意味は試験の合否だけで計れるような薄っぺらいものではありません。
合格発表に一喜一憂するのではなく、事実に真摯に向き合い、試験を通じて自分がやりたかったこと、めざしたかったことは何かを考えるきっかけにすることができれば、合否は自分の人生の未来にとって等価値となります。

頑張りましょう。

2014年8月 4日 (月)

第228回 主体的に生きる

安倍首相は最高裁が違憲状態だと断言した選挙によって選ばれた国会議員から選出されているのですから、なんら民主的正統性がありません。
つまり首相としての法的な資格がありません。
医師の国家試験に合格していない人が医者をやっているのと同じです。無資格者です。医者ならば偽医者といわれる立場なのですから、偽首相です。バカ首相とか暴走首相というような呼び方は失礼にあたるかもしれませんが、首相であることを認めた上での呼称であり単に能力を批判しているだけです。
しかし、能力以前にそもそも、法的な資格がありません。正当な選挙による主権者の代表から選ばれたとはいえないただの人です。
偽首相が組閣した内閣での閣議決定はその内容以前に違憲であり無効です。
これが事の本質ですが、この本質を誰も真正面から見ようとしません。
まるで私たちには主権者としての自覚がないかのようです。

憲法は国民を主権者としました。
国民が主権者として行動するために憲法を作ったのです。
その行動の目的も憲法前文に明確に規定しています。憲法前文第1項には「日本国民は、…この憲法を確定する。」とあります。この憲法は日本国民が制定したものだと宣言しているわけです。では何のために憲法を作ったのか。
「わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保」するため、つまり政治権力を憲法で縛って人権を保障するためです。これは英米仏独などの近代立憲主義国家に共通の目的です。

日本国憲法はもうひとつの目的を明示しました。
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意」するために憲法を作ったというのです。つまり政府に戦争させないために憲法を作ったのです。これは徹底した恒久平和主義を採る日本国憲法の大きな特長です。
そして、自由を確保し、政府に戦争をさせないために、「主権が国民に存する」としたのです。つまり政府に人権を保障させ、戦争をさせないという目的を達成するために、国民が主体となって行動すると宣言しているのです。

国民主権とは私たちが憲法を学び使いこなして、主体的に行動することを意味します。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」とあるのですから、どこに住んでいても1人1票が保障されているような正当な選挙でなければ正しく行動できません。
最高裁によって違憲状態と断じられた選挙が正当な選挙であるはずがありません。
私たちは、無資格者に権力を行使させてはいけない。これを許すことは主権者としての地位を放棄することになるからです。

憲法はきわめて単純なメッセージを私たちに投げかけています。
そろそろあらゆることを人任せにするのではなく、自分で考えて自分で行動する覚悟を決めたらどうですかと。そしておかしいことにはおかしいと声をあげろと。
つまり、主体的に生きる覚悟を決めろということです。憲法12条には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」とあります。自由は誰かから与えられるものではなく、私たち自身が保持する努力を続けなければ、簡単に失われてしまうものなのだということです。

自分の生活に関係ある目先のこと以外を面倒だといって関心を持たないでいることは、単なる知的怠惰というだけでなく、為政者にとって都合のいい、利用しやすい臣民になることを意味しています。
一見目先の自分の目的とは無関係に見えることであっても、実は自分の生活や人生に大きな影響を与えるのが政治です。

受験生にとって合格とは無関係に見える事柄であっても、その先の人生にとってきわめて有意義なことがあります。
「有効な無駄」です。
合格はもちろん重要なことです。ですが、私たちが仕事をし、生きていく日本の社会がどうなっていくのかということに関心を持たなくては、社会に貢献する法律家、行政官になれるはずがありません。
主体的に生きるために行動することも人生の重要な一部であり、主権者の責任であることを忘れないでください。

2014年7月 2日 (水)

第227回 再び集団的自衛権

とうとう安倍政権は、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をしてしまいそうです。
この雑感が発表されるころには、首相の自信に満ちた記者会見も行われてしまっているのでしょう。また、公明党幹部の、解釈変更に何の問題もないかのような開き直ったコメントも発表されているのでしょう。はじめから結論ありきで、自公政権による茶番劇を見せられているかのようです。私たちは、自民党の憲法無視の体質、公明党の平和の党を名乗る欺瞞を決して忘れてはならないと思います。

2012年4月に自民党は憲法改正草案を発表しました。そこには国防軍の創設が規定されていました。もちろん集団的自衛権容認が前提となっている正規軍です。また、第一次安倍内閣のときには、教育基本法を改正して愛国心教育を行えるようにし、防衛庁を防衛省に格上げし、憲法改正国民投票法を強硬採決で成立させています。その経緯を見れば、第二次安倍内閣が何をゴールとしてめざすのかは容易に想定できることでした。

安倍内閣はマイナンバー制度を創設して国民のプライバシーを政府が管理する基盤を作り、秘密保護法によって国民に与える情報を国が統制できる仕組みを作り、安全保障政策の決定に現役の自衛官が重要な役割を果たす仕組みも作り上げました。憲法の明文改正を容易にするためにまずは96条の改正要件を緩和する改憲から手をつけようとしましたが、国民の反対にあって断念したあとは、正規の手続きを踏むことなく、憲法を骨抜きにしていく解釈変更の道へと舵を切ります。

まともな法律家ならば考えもしない、砂川事件を集団的自衛権の行使の根拠として持ち出して揺さぶりをかけ、また、民主的正統性のまったくない私的懇談会の報告を尊重しながら、公明党を巻き込んで憲法解釈変更を強行しました。

今回の閣議決定において、我が国の自衛権の発動要件を、これまでの「我が国に対する武力攻撃が発生した」場合に限らず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合をも加えました。この「明白な危険」の有無は時々の政権が判断するのですから、実は何の歯止めにもなっていません。
結局、どんなに言葉で取り繕おうが、日本が武力攻撃を受けていないにもかかわらず、海外で武力行使することを認めることになるのです。これまでの憲法解釈では絶対に認められなかったことが、密室での与党協議そして閣議決定だけで容認されてしまうのです。

これでは憲法が何のために存在するのかわかりません。何の歯止めとしても機能しない憲法9条はその存在意義を失います。つまり憲法の破壊です。もちろん、閣議決定だけでは現実に集団的自衛権の行使が可能となるわけではありません。自衛隊法などの個別法の改正が必要となります。その際の国会での論戦でどの政党が何を主張し、どの議員がどのような発言をするのかを国民はしっかりと監視しておかなければなりません。

自民公明両党の中にも良識ある議員がいますから、法案には反対するかもしれません。党議拘束をかけられても反対する気骨のある議員もいるかもしれません。国民はこれからも声を上げ続け、しっかりと監視していく。これが主権者としての責任だと思います。
法律家を目指す前にまず国民としての責任を果たす必要があるはずです。次の選挙において選挙権を行使できる人が大半だと思います。
憲法を知ってしまった者としての真価が問われます。

2014年6月 4日 (水)

第226回 価値基準

経済的自由よりも精神的自由や人格的生存に不可欠な人権を優先する。国民の生命・健康に関する危険を防止するために加えられる消極目的規制については、社会・経済政策の一環としてとられる積極目的規制よりも、厳格に審査されなければならない。こうした考えは憲法を少しでも勉強したことのある人間なら当然の部類に属することです。憲法には価値の序列があり、個人の尊重に直結する人格権が経済的自由に優先することもまた、理解しやすいことです。

2014年5月22日福井地裁で、大飯原発運転差し止めが認められました。原発の稼働は法的には電気を生み出す手段である経済活動の自由に属し、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきだとしたうえで、事故によりこの根源的な権利がきわめて広範に奪われる事態を招く可能性がある原発の再稼働の可否は、その具体的危険性の有無によって判断されるべきとしました。

被告(関西電力)は原発稼働が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いという問題を並べて論じるような議論をすることも法的には許されないとします。これもまた権利の性質に着目してその価値序列を判断したものです。

法律家として行政官として仕事をするときに、こうした価値序列を自分の中に持つことがいかに重要かを示しています。これまでの司法は、未知の問題に対して自らの頭で考えて自らの価値観で意思決定しその結果に対して責任をとる。そしてその結論を事実と論理と言葉で説得する、という法律家がやらなければならないことに真正面から向き合ってきませんでした。専門技術的性質が強く政策的判断が求められる問題には内容的に踏み込むのではなく、手続の適否だけを判断するべきだという理屈が司法の役割放棄の言い訳としてまかり通っていたようにも思います。

しかし、そもそも司法部門が政治部門とは別に存在する意義は、政治部門とは別の観点から判断することが必要だからです。政治部門の判断を追認するだけの司法であれば、その存在価値はありません。今回の判決は司法の役割を明確に示したものといえます。政策的判断は政治部門に任せるが、国民の生命・健康に関わるような問題は政策的な判断とは一線を画して判断されるべきものだからです。いくら電力が重要だからといって国民の命を犠牲にしてコストを重視する政策が許されるわけもありません。

それでも電力が重要だという人がいます。それは経済全体、国全体のことを考えてというのでしょう。一理あります。ですが、ここで問題になるのは具体的な人間の生存です。抽象的な国家や社会、ましてや企業の存在ではないのです。結局は具体的な人間を重視するか国家を重視するかという根本的な価値基準に行き着きます。
そしてその価値序列を定めているのが憲法なのです。もし国民がこの序列を国家優先、企業優先にしたいのであれば、国民の手で憲法13条の個人の尊重を廃棄すればよいだけです。あくまでも主権者国民の意思でそうした根本の価値基準は決められるべきだからです。

5月15日には安保法制懇の報告書が発表されました。座長代理の北岡伸一氏は月刊誌の「憲法に固執して国家の安全を忘れるな」という論文において,「いかにして憲法を守るかというところから出発すること自体が誤りである。」と言い切っています。
憲法の枠と価値基準の中で仕事をするのが国だという根本がわかっていないのです。
憲法よりも政策論、個人よりも国を重視する思想が一貫している報告書です。憲法無視の態度で、戦争という国民の生命というもっとも重要な人権に関わる問題を単なる政策論だけで押し切ってしまうことは立憲主義国家としては間違っています。

法律を学ぶということは自分の中にしっかりした価値基準を創り上げるということに他なりません。それは自分自身の生き方においても大きな意味を持つものだと考えています。

2014年5月 3日 (土)

第225回 集団的自衛権

憲法は国民から政治家への命令書のようなものです。
よって、政治家はどのような思想信条を持っていようと、この憲法を尊重し擁護しなければなりません。
それが憲法99条です。今、憲法を学んだ者として、また、一主権者としてどうしても言っておかなければならないことがあります。
集団的自衛権の行使を認めるような憲法解釈の変更についてです。

集団的自衛権とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利です。
つまり、自国を守るための武力行使ではなく、他国を守るための武力行使を認めるということです。
自衛権というよりもその本質は他衛、他国防衛にあります。
この本質はどんなに限定的な行使といったとしても変わりません。
日本ではなく米国を守るために海外で自衛隊が武力攻撃をする、つまり戦争に巻き込まれることを認めることになります。
 
政府はなぜ今、これを認めることに固執するのでしょうか。
中国や北朝鮮の脅威はすべて日本を守るということですから、個別的自衛権の問題です。集団的自衛権は関係ありません。
どうやら日米同盟を強固にしたいその一心のようです。この問題を熱心に推し進めている識者の北岡伸一さんは、新聞のインタビューで本音を語っています。
「今あるのは(日本が)見捨てられる危機だ。米国を何とか引きとめなくてはいけないのに、米軍が襲われても助けるのは嫌だという都合のいいことはできない。」つまり、米国に見捨てられないようにするために集団的自衛権を行使できるようにしたいというのです。

そして北岡氏は「憲法上の縛りを軽視しているのでは。」という記者の質問に次のようにも答えています。

「憲法は最高規範ではなく、上に道徳や自然法がある。憲法だけでは何もできず、重要なのは具体的な行政法。その意味で憲法学は不要だという議論もある。(憲法などを)重視しすぎてやるべきことが達成できなくては困る」と。これまたすごい発言です。

また、安倍首相も国会で憲法について質問されて「憲法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が絶対権力をもっていた時代の主流的な考え方であって…」と立憲主義を過去のものとしています。
立憲主義を理解していない首相が、憲法学などいらないという参謀とともに権力を行使しているのですから本当に恐ろしいことです。

現在、全国の弁護士会や日弁連でもこの動きに反対しています。
官僚の中でも歴代内閣法制局長官は反対し、憲法学者はもちろんさまざまな分野の学者もこぞってこれに反対しています。私は以下の理由から反対です。

(1)立憲主義の意義を失わせる。
憲法によって縛られる側の都合でどうとでも解釈できるとしてしまうと、憲法のみならず、法への信頼も失わせることになる(盗人が刑法の解釈を変更して空き巣くらいはOKとするようなもの)。

(2)日本の敵が一気に増え、国民生活に大きな影響が及ぶ。
集団的自衛権は同盟国の敵が自国の敵となる。これにより、日本のこれまでの友好国が一気に敵になってしまい、国民と企業が武力攻撃・テロの標的になる危険が増す。また、米国はあくまでも米国の国益に従って行動するのであるから依存しすぎるのは危険。

(3)近隣諸国との緊張を高め、軍拡を助長する。
安全保障のジレンマといわれるように、近隣諸国の軍拡の口実を日本が与えることになる。近隣との緊張関係の高まりが日本の集団的自衛権行使容認によって収束するとは考えられない。

(4)外交上のカードを失い、より困難に直面する。
これまで憲法9条を盾に集団的自衛権行使の要請を断ることができたのに、行使容認後は「助けにいけるのだがあえていかない」と断ることになる。これは信頼関係をかえって壊す。もしくは、無条件に同盟国からの要請に応じ他国の戦争に巻き込まれることになる。

(5)平和国家という「ジャパンブランド」の放棄。
海外で武力行使しないことは、平和国家としての日本のブランドを世界に広める上で重要な役割を果たしてきた。集団的自衛権行使を認め、普通に戦争ができる国となることは、日本のブランド価値を下げ、国力を削ぎ、国益にも反すると思われる。

2014年4月 2日 (水)

第224回 試練の意味

この時期になると、新しく法律家、行政官を目指す皆さんで塾が賑わいます。多くの塾生を祝福するかのように渋谷の伊藤塾前の桜並木は満開です。桜の花言葉にあるように「気高い精神」をもった真のリーダーを「すばらしい教育」によって育成したいという思いで塾を創ってもう19年目になります。塾を立ち上げた頃に生まれた皆さんたちに利用していただけるなんて、本当に感謝の気持ちで一杯です。

人は、多くの人に助けられながら、自分の意思で生き続けています。きっと何かの意味があってこの世に生を受けているはずなのですが、なかなかその意味が見つかりません。桜だって毎年、綺麗な花を咲かせますが、その意味など桜自体は考えたこともないでしょう。単に命をつなぐための営みが、人間の眼をこれほどに楽しませ、花の散り際がこれまた美しいと、そこに精神の気高さまでも感じ取られてしまうことなど、思いもしなかったことでしょう。ある出来事に意味を与えるのは、当事者よりもまわりなのかもしれません。

皆さんの人生にどれほどの意味があり、どれほどの価値があるのか、その存在自体は絶対的な価値ですが、その価値にどれほどの意味づけを与えるかはまわりの人々の思いなのかもしれません。私は誰のどんな人生であってもそこに意味を見いだすことができると考えています。まわりの人々がそこから何かを得て、自分の人生に投影し、自分の生き方をよりよくするために何かを学ぶことができたならば、その学びのきっかけを与えてくれたその人の人生には大きな意味があると考えるからです。

袴田巌さんは48年間、獄中で死刑の恐怖と闘い続けてきました。この不安、恐怖は想像を絶するものがあります。権力の理不尽という現実と向き合わなければならない人生、しかもこれからもさらに過酷な人生が待っているかもしれません。
最後まで絶対に諦めないで支え続ける弁護士の仕事は本当に尊いものです。そして、袴田さんの人生の意味に思いをはせるときに、法律家、行政官をめざす私たちが何を感じ、どう行動するかはとても重要なことのように思われます。

皆さんの人生には、皆さんを必要とする何かがありますし、皆さんを必要とする誰かが必ずいるはずです。ちょうど、皆さん自身の人生がここまで進むために、家族、友人、恩師などさまざまな人との出会いがあったように、皆さん自身と出会えることを待っている人が必ずいるのです。

今の時点では、将来、法律家、行政官になって何ができるかまだわからないかもしれません。ですが、皆さんがこの塾で自分を鍛えて力をつけ、それぞれの夢を実現することが、将来、誰かの希望につながるのです。人は自分だけのために生きているのではありません。皆さんの助けを待っている誰かは必ずいます。そしてそのときのために頑張るだけの価値のある試練です。

もうすぐ本試験を迎える塾生も大勢います。試験を数ヶ月後に控え、不安だという人がほとんどでしょう。ですが、いつも言っているように、不安は自分が頭の中で作り上げた幻想にすぎません。人は自分で勝手に不安という幻想を作り上げ、その不安に苦しみこれと闘い、克服して強くなっていきます。

自分で不安を作り、それに怯えているのですから、おかしな話です。そもそも不安を感じるような環境に自らをおく必要などなかったにも関わらず、こうして試験に挑戦してあえて不安を感じる道を選択しました。それはたとえ自分で作り上げた不安であっても、それに打ち勝って自分の精神を強く鍛えていくことには意味があるからに他なりません。こうして心を強くする試練を経験することによって、より大きな不安や試練に耐えることができるようになっていきます。大きな不安であればあるほど、それを乗り越えたときの達成感と自分の成長には驚くほどのものがあります。

誇りと自信を持って挑戦し続けてください。最後まで応援しています。

伊藤塾ホームページ
Copyright © 伊藤塾/(株)法学館 1996 All Rights Reserved.