2021年9月 2日 (木)

第314回 失敗と成功

何かに挑戦すれば必ず結果がついてきます。オリンピック・パラリンピックなどを始めとしたスポーツ競技はもちろん、新しい仕事への挑戦、そして各種試験の合否など、私たちは様々な結果に遭遇します。そして結果には成功もあれば失敗もあります。今回は、その受け止め方について少し考えてみます。

まず、失敗の多くは純粋に自分事にすぎないということを理解しておくべきです。 各種試験には合格発表があり、試験ですから、当然に合格・不合格という結果がついてきます。合格を確信して勉強してきたとしても、予想外の結果に愕然としてしまうときもあります。私も受かる気満々だった司法試験の短答試験に不合格になったときに、その結果を受け入れるのに1週間ほどかかりました。しかし、自分に不合格という結果が生じたとしても自分を取り巻く周りの世界は何一つ変わらなかったのです。自分が本当に取るに足らない些細な存在でしかないことを思い知らされました。たとえ友人であっても彼にとってどうでもいいことですし、ましてや世界中の人々にとっては知ることすらない他人事に過ぎないのです。あまりにも当たり前のことなのですが、あくまでも不合格という結果は自分の問題であり、自分の中で処理するべき問題にすぎないのだと気づくまで時間がかかりました。どんな大きな個人的な失敗も実はたいしたことがありません。冷静に考えてみれば、あまり思い悩む必要はないということが分かるはずです。

次に、失敗や成功そのものに意味はなく、それにどんな意味を与えるかは自分次第であり、失敗や成功から何を得て次に活かすかこそが重要であることを強く意識することです。国や組織の失敗の場合には、リーダーの資質や構成員の意識によって大きく変わってきてしまうため、自分一人ではどうしようもないことがあります。しかし、個人の失敗であれば、この意識の持ち方は自分次第でいくらでも変えることができます。

私も短答式試験に不合格だったとき、その失敗から早く立ち直って先に進もうとしましたが、しばらくその気力さえ生まれませんでした。1週間ほど大学にもいかずに、当時夜警として住み込んでいたトタン屋根の小さな部屋で寝ていました。クラスの友人には合格した人もいるし、恥ずかしいし、周りから「あいつ短答で不合格だって・・・」と言われそうで、その先を自分で勝手に想像して耐えられないと思っていたのです。私は20代前半まで他人の眼を気にして、いつまでもグズグズと考えてしまうようなネガティブな人間でした。これではいけないと頭ではわかっていたのですが、何もできませんでした。

そこで失敗したときにどうすれば先に進めるかをグズグズしながらも考えていました。なぜ、動き出せないのか、その原因は今回の失敗のようにうまくいかないことがこれからもずっと続くのではないか、だからダメだと思い込んでいるところにあると気づきました。未来など誰にもわからないのに、来年もまた失敗すると勝手に想像して、その未来予測の恐怖に縛られていることがなんだかばからしくなってきました。そして、当時、夜警の仕事だけは手を抜かずに続けていたのですが、あるときビルの不具合を発見して、私の試験のことなど何も知らない雇い主に少し褒められる経験をしました。単に試験に不合格になっただけなのに、自分は何をやってもダメなのではないかと思い込んでいたところ、試験とは関係ないところでは、自分に対する評価が全く違うことを感じたのです。

つまり、失敗を一時的とみるか、勝手に永続的と思い込んでしまうかは自分次第であることが分かったのです。もうひとつ、ある点で失敗してもそれは自分の全否定である必要はないとも気づくことができました。あくまでも事実は、自分が今回の司法試験短答試験に不合格だったということだけです。にもかかわらず、それを勝手に自分の全否定であると受け止めて苦しんでいました。要するに自分が苦しんでいる原因は、不合格という事実に自分がどのような評価をして、どのような意味を与えているかにあるのだということがわかったのです。つまり自分が勝手に失敗を悪いことだと思い込み、そう決めつけていたからだと気づいたのです。当時の私にとっては大きな発見でした。

「そうか、失敗と一般にいわれる出来事をどう受け止めて、どのような意味づけを与えるかは、結局は自分次第なのだな」と思えるようになり、その後、会社の立ち上げのときのいくつかの失敗、法科大学院を作ろうとしたときの失敗、人間関係における失敗など数々の失敗を、自分を成長させるための糧として活かせるようになりました。なので、私の初めての司法試験受験で短答すら合格できなかったという失敗は、当時あんなに恥ずかしく思っていたことであるにもかかわらず、今はこうして皆さんに紹介して話題にすることもできますし、いろいろな意味で大きな財産になっています。

不合格という事実そのものは、もはや動かすことはできません。できることは、その事実にどのような意味を自分で与えて自分の成長の糧にするか、その事実から何を学ぶかだけです。できないことをグズグズと思い悩むのは時間の無駄です。自分ができることに意識を集中させた方がより楽に生きることができます。他の誰でもない自分の身に起こった失敗は自分だけの学びの素材です。それは貴重ですから、むしろ大切にするべきなのです。

もう一つ、挑戦しない人には失敗はないということです。不合格になるのだったら、こんな試験を始めなければよかったと思う人がいるかもしれません。ですが、もしこの試験に本気で挑戦していなかったら、自分の将来にとって貴重な学びの機会が得られなかったかもしれません。本で学んだり人から教わったりすることと、自分の体験から学ぶこととの間には、そこから得られた教訓の自分への浸透度合いに雲泥の差があります。このことも経験するまでわかっていませんでした。

私もそれまでは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という有名なビスマルクの言葉を真に受けて、経験を軽んじても知識を高めれば賢く生きられると思い込んでいました。恥ずかしながら若気の至りです。今ならば、ネット情報を鵜呑みにして勉強方法や生き方についてもわかっているような気になっている感じでしょうか。もし経験から学べるのであれば決して愚者ではないし、経験しようともしない、つまり行動しようともしないでわかった気になっている方がよほど愚者なのだろうというのが、何度も愚かな経験をしてきた者としての実感です。もちろん自分の経験を一般化して人に吹聴してまわることは愚かかもしれませんが(実は今回もその危険があります)、自分の経験から自己固有の教訓を導き出して次に活かすことができるようになることは重要だと思っています。

ここまで失敗を糧にする話をしてきましたが、合格していた場合、つまり首尾良く成功した場合はどうでしょうか。失敗をどう受け止めるかと同じようにこれも受け止め方次第では、自分にとって毒にも薬にもなるはずです。今回成功したから次もうまくいくはずだと慢心したり、一時的にうまくいったからといってあらゆる面において自分は優れていると思い上がったりしていたら、成長はありません。どこかで足元をすくわれるかもしれません。

楽観的であることは良いことなのですが、こうした楽観は傲慢と紙一重です。成功したときには謙虚に、「一度の成功で次が保障されているわけではないぞ、たかが試験で合格しただけ」と、その成功を一時的、限定的に捉えることは重要なことだと思っています。なぜなら、まだまだその先があるからです。単に試験に合格して満足しているようでは、そこで終わってしまいます。常に一歩先を考える、まさに「合格後を考える」という伊藤塾の基本理念の実践です。

試験の結果発表を受けて、その受け止め方は人それぞれです。だからこそ極めて貴重な自分だけの体験なのですから、そこから多くを学んで次に活かしてほしいと願っています。たゆまぬ成長のプロセスこそが重要なことなのです。