第262回 自衛隊と憲法

憲法施行70年の5月3日に、安倍首相は自民党総裁という立場で、2020年に新しい憲法を施行するので自衛隊を憲法に明記する改憲を進めることを宣言しました。オリンピックとは何の関係もありませんが、オリンピックを共謀罪の口実にするなどの政治利用をしてきた首相ですから、その点はあまり驚きませんでした。

ただ、「自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべき」だから「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という発言には看過できないものがあると思いました。まず、戦力不保持、交戦権否認という2項を残したまま、自衛隊を明記したところで、自衛隊が戦力か否かの論議はそのまま残ります。自衛隊が違憲かもしれないという議論の余地はなくなりません。

そもそも災害救助隊としての自衛隊を違憲という人はいないでしょう。武装集団としての自衛隊違憲論には、立憲主義的な意味があります。憲法は武装集団に正面から正統性を与えていません。違憲ではないかと疑いがかけられることによって、そうした組織は、世間から後ろ指をさされないように常に身を慎むことになります。その組織が武力を行使する組織であるならばより一層、抑制的であるべきなのですから、こうした統制は必要であり、意味のあるものです。戦前のように正規の軍隊として軍拡を主張したり、国防を国家の最優先事項にしたりすることができません。

つまり、自衛隊違憲論は、軍事優先社会を構築することや反戦思想を取り締まったりすることを封じ、自由な社会の下支えをしてきたのです。こうした自衛隊に対する違憲の疑いをなくすということは、自衛隊をこうした緊張関係から解放し、国家としてより自由にこれを利用できるようにしたいということに他なりません。

仮に自衛隊違憲の余地をなくそうというのであれば、2項の例外として自衛隊を位置づけるしかありません。それでは2項が骨抜きになります。つまり「徹底した恒久平和主義」を捨て去ることを意味します。自衛のために許された戦力であり、自衛のための交戦権を行使できる武装集団となるのですから、実質的な国防軍の創設です。

しかし、発議の際に改憲をめざす政治家は、「何も変わりません。現状のままです」と言い続けることでしょう。それに国民はまんまと欺されて、自衛隊という名称の国防軍が創設されるのです。仮に、現状のままというのが真実であったとしても、ここで明記される自衛隊は、2015年安保法制以後の自衛隊ですから、海外で武力行使する、戦争する自衛隊ということになります。専守防衛に徹する自衛隊ではありません。「殺し殺される」、戦争する自衛隊を憲法で固定化してよいのかを国民がしっかりと考える必要があります。

ですが、国民の間であまり実質的な議論は期待できないかもしれません。最近は9条を変えてもいいという人が増えてきているようです。それは、北朝鮮などの脅威もさることながら、戦争体験者が減少し、戦争を知らない軍国少年が増えたからかもしれません。「重要なことは2度経験しないとわからない」(ヘーゲル)と言われます。日本は1度しか戦争で負けていません。

1度、悲惨な戦争を体験した人すら亡くなりつつあります。ましてや軍隊を統制することの失敗も経験したことがなく、悲惨な戦争を1度も体験していない国民が圧倒的多数となっているのですから、厳しい状況です。軍隊はコントロールできない、攻撃されたらどんな軍隊を持っていようが国民に多大な被害が生じるという現実を直視したことからこそ設けられた、極めて現実的な規定である9条をそう簡単に手放していいとは思えません。

私達には経験していなくても理解したり想像したりするために知性があります。知性の力によって、しっかりと想像力を発揮して、戦争はよくないことだと言える人間であり続けたいと思っています。正しい戦争もあるのだと訳知り顔で語り、平和主義を揶揄する、戦争を知らない軍国少年にはなりたくないのです。

最後に、ワシントンのホロコースト博物館に掲示されているファシズムの兆候(Early Warning Signs of Fascism)を紹介します。強力で継続的なナショナリズム、人権の軽視、団結の目的のため敵国を設定、軍事優先(軍隊の優越性)、はびこる女性蔑視、マスメディアのコントロール、安全保障強化への異常な執着、宗教と政治の一体化、企業の力の保護、抑圧される労働者、知性や芸術の軽視、刑罰強化への執着、身びいきの蔓延や腐敗(汚職)、詐欺的な選挙。