第55回 さくら
みなさんは勉強していて、何もかも投げ出したくなることってありませんか。
実は、私にはあります。
私も人間です。いまだ、サイボーグ説は少数説にすぎません。
必死になって真の法律家を育成しようと努力しているのに受験テクニックしか教えていないと批判される。
よかれと思って大学の先生方の不得手な部分を補っているつもりでも、学生が大学の授業にでない元凶のようにいわれる。
こうして害悪を垂れ流し続けるように言われるのなら、いっそのこと、辞めてしまえたらどんなに楽か。
誰かに愚痴を言いたくてもいえない孤独感。
憲法の理念を熱く語った後に、新聞記事に目を落として感じる無力感。
でも、そんなときに塾の前のさくらが私を救ってくれます。
もちろん4月にならなければ芽吹きません。
今は見上げても、ビルの谷間でひっそりと寒空に枝を伸ばしているだけです。
だれも見向きもしません。
しかし、そのさくらが4月になると見事な花をつけます。
行き交う人々の心をなごませます。
そして、わずか数週間で散っていきます。
再び、誰からもかえりみられずに、一年をじっと待ちます。
なんと忍耐強いことでしょう。
さくらは何を思ってここで花をつけるのでしょうか。
私にとっては大事なさくらですが、うっとうしいだけという人もいるでしょう。
私が美しいと思おうが、儚いさくらと思おうが、それはさくら自身にとってはなんの意味もないことです。
それは、私が勝手にさくらに与えた評価であって、さくらそのものとは何の関係もありません。 さくらは冬の自分の姿の方が気に入っているかもしれません。
開塾以来、多くの塾生にさまざまな思いで見上げられながら、そんなことはお構いなしに毎年淡々と花をつけては散っていきます。
さくら自体は絶対存在なのです。
それを見て評価するまわりが、その価値を勝手に自分のものさしで判断しているだけです。
物事をどう評価するかは、その人のものの見方、生き方、世界観の投影にすぎません。
誰からもよく思われるということは、個性ある自分がなくなるということになりかねません。
とかく人と違ったことや新しいことをすると非難されるものです。勇気がいるしリスクもある。
ですが、これからの変化の時代は非難されることを歓迎するくらいでないと切り開いていけないでしょう。
嫌ってくれる人がいることはいいことなのです。
そんなことも忘れていたなんて、ほとほと自分が情けなくなります。
でも、生きていくということはこういうことなんだとさくらが教えてくれました。
さくらも同じように見えて、一本一本違った咲き方をします。
見る方は忘れていますが、美しい花をつけるまでにはそれぞれ風雪に耐えてきた長い歳月が必要だったはずです。
すべてのものはそこに存在するだけで価値がある。
もちろん、すべての人も。
さくらに絶対的価値で生きることを教えてもらいました。
私はそんなさくらが大好きです。